【楽器と声の交響】時間に関わるものはすべて音楽になるとしたら?

小説
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今回取りあげられるのは作曲家として知られるリヒャルト・ヴァーグナーの書いた『ベートーヴェンまいり』っていう小説になります。ようするにベートーヴェンを愛しているヴァーグナーが想像上でおしゃべりを交わすっていう、なかなか乙女チックな小説ですね。そのなかで特に注目したいのは、作中の第九を作曲してるベートーヴェンが「楽器」と「人間の声」を比べて語っているくだりです。前者が無限性を、後者が有限性を奏でるという話から、それらを音楽として調和させるためにはどうするかって語ってらっしゃるので、ザムザ(@dragmagic123 )がご紹介。
 
この記事で取りあげている本
 

【楽器と声の交響】時間に関わるものはすべて音楽になるとしたら?

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ベートーヴェンまいり

19世紀ドイツを代表する、作曲家で指揮者のリヒャルト・ヴァーグナーっているじゃないですか。『さまよえるオランダ人』やら『ニーベルングの指環』なんかが知られているあの人です。
ベートーヴェンの交響曲に心酔して音楽家になることを決意し、ライプチヒ大学で作曲理論を学んでからドイツやロシアで劇場指揮者をしつつ下積み時代を送っていたヴァーグナーは、1839年にパリに行きます。
パリでも下積み時代を送ったわけですが、このときに小説やら評論やらも書いてたんですよね。それで、今回取りあげるのはそのときに3編書かれた小説のひとつ、『ベートーヴェンまいり』(1840)です。
ヴァーグナーがめちゃくちゃリスペクトしていたベートーヴェンに会いに行っておしゃべりをするっていうお話なんですが、これはどうやら創作らしいですのよな。んで、ヴァーグナーが自分の人生を決めさせた理想の人と、想像上でこそあれどのような会話をしたかってのがこの小説の読みどころってわけです。
得てして、小説のなかで自分の理想の人を登場させるってやり口には、作者がその人の口を借りて言わせたいことが書かれているものですから。つまり、ベートーヴェンによって語られているのはヴァーグナーの言いたいことの可能性が大きい。いやむしろそれ以外の可能性はなし!
 

ベートーヴェンかく語りき

さてさて、当のベートーヴェンですが、御大層な長広舌をやってくれています。話題はずばり、「なぜ声楽が、器楽と同様に、偉大で厳粛な芸術の1ジャンルになってはいけないのか
ヴァーグナー自身も歌劇を作曲したい人でしたから、ずばりベートーヴェンに自分のやりたいことを投影しているわけですね。それでベートーヴェンが語るのは人間の声は最高だということでした。
人間の声と言うものは、もともと存在しているのです。それどころか、声はオーケストラのどの楽器よりも、はるかに美しい高尚な音の器官なのです。この声を、楽器と同様に独立して用いてはいけないでしょうか。そうしたらどんなに斬新な結果が得られないともかぎりますまい。すなわち人の声は、その天性が楽器の性質とはぜんぜんちがっていますが、まさにその特性がいちだんと強調され確保されて、多様きわまる結合を生みださせるのです。(『百年文庫13』,p58)
ややこしい言い方になってますが、ようするに人間の声は他のどの楽器にも増して素晴らしいものだと語っているわけです。
そしてまず楽器の話から入ります。こんな感じに。
「楽器が代表するのは、創造と自然との原始器官です。楽器で表現されるものは、けっしてはっきりと規定されたりはしません。というのは楽器が再現するのは、原始感情そのものですが、それを心のなかへ取りいれうる人間すら、おそらくまだ存在していなかったころ、最初の創造の混沌のなかから生じたそんな原始感情ですからね。」
(『百年文庫13』,p58-59)
原始感情ってものがあって、楽器が奏でるサウンドはそれを代表している。それは規定されているのではなくて、規定されることもないものであり、人間が存在する以前にまで遡って存在している、そんな原始的なものなのだ、と言います。……そんなものを代表するっていう楽器も相当のものですよね。ユニークな楽器観がおもしろい。
それから人間の声について。
「しかし人間の声という神霊になると、すっかり話がちがってきます。声は人間の心、および心がもつ完結した個人的な感覚を代表します。声の特性は、ですから制限されていますが、そのかわり規定されていて明瞭なのです。そこで、楽器と声というこの二つの要素を、あわせてごらんなさい。結合してごらんなさい。無限なもののなかへ漂いでていく激しい原始感情は、楽器によって代表され、人間の心がもつ明瞭な規定された感覚は、声によって代表されていますが、その原始感情と声の感覚とを向きあわせてごらんなさい。」
(『百年文庫13』,p59)
え〜と、ここで人間以前にあったのが原始感情で、それを代表するのが楽器だった。これはいいでしょう。んで、人間の声は規定されない原始感情と違って、個人的な感覚によって規定されている。でもそれが悪いことなのではなくて、むしろ表現しようとする感情が明瞭になるという特徴を持っている。つまり楽器が〈無限なもの〉に関わる一方で、人間の声は〈有限なもの〉に関わるのだって話になってるんですね。ふむふむ。
「第二の要素である声の参加は、原子感情の闘争へこころよい宥めの作用をおよぼし、その流れに、一すじの規定された統合された進路をあたえるでしょう。一方、人間の心は心で、そういう原始感情をとりいれることによって、限りなく強化され拡充されて、以前は最高のものを漠然と予感していたのに、こんどはそれを神の意識に変えて、はっきりと内部に感じることができるようになるでしょう。」
(『百年文庫13』,p59)
原始感情は混沌状態にあったわけで、言うなれば無政府状態よろしく闘争状態にあるわけですわな。それが楽器によって演奏される音楽である、と。──ところが、声が楽器の演奏に参加することで、無限定な闘争状態が宥められる。人間の心の方でも無限なものに感化されてちょっとした全能感みたいなものを感じられる。それが言うなれば交響曲を聴いている際に覚える感動にも通じている。「神の意識」とあるのには多少なりともたじろがされてしまいますが、高められる感じを与えるという意味では納得できるのではないでしょうか。
おおむね、以上に引用してきた発言内容は、ベートーヴェンが第九を作曲する際に想定されていた理念を語っている、という体裁をとっているのでしょう。器楽に声楽をどう組みあわせるのかってことを考えつつ、楽器のサウンドと声の神霊(心霊?)とを交響させるにはどうしたらいいのか、それを考えている……という体裁で、ヴァーグナーの考えを述べている。
 

肉体と精神との交響あるいは時間と音楽

おもしろいなぁと思うのは、楽器は「最初の創造の混沌のなかから生じた原始感情」を代表し、声は「人間の心が持つ完結した個人的な感覚」を代表すると述べているところです。これって肉体と精神のことみたいじゃないですかね?
人体は水や血や肉や臓物で成り立っているわけですが、それ自体が秩序良く並んでいるだけでは混沌とした状態にあります。だからこそ人は生まれて「産声を上げる」ときには必ず “泣き声” になる。それはベートーヴェンが語ったような原始感情なのかもしれない。肉体そのものは楽器であり、原始感情を歌いだす。そこから生育し・発達していくなかで人間の心は形成されていき、規定され統合された果てに “完結した個人的な感覚” が出来ていく。……みたいに、人体は無限なものと有限なものとの合一体なのだ──ってアイデアを描けそうなんですよね。
これはザムザ(@dragmagic123 )の “個人的な感覚” ってことになりそうな話ではあるんですが、筋トレすると「体が鳴る」って感じがあるんですよね。ある日のザムザはこんなことをボヤいてました。

「ああ、この体も音楽を奏でてくれるんだなあ。」体は鳴り物で、あたしはそれをどうにか鳴らすために生きている。──なんてことを言っていますが、この感覚って〈楽器=肉体〉を鳴らして〈無限なもの=原始感情〉を聴こうとしてるみたいじゃないですかね。
だけど、わたしたちは普段〈有限なもの=個人的な感覚〉によって偏った音楽を演奏しちゃってるわけです。意識とか主観とか自我とか、そういった “狭さ” を通して世界を眺めている。そのロックを解除する一環として筋トレはあったりするんじゃなかろうか……なんてことを、こうして書いている今では思うわけです。
思うに、時間に関わるものってのはみんな音楽的にならざるを得ないんじゃないかしら。映画だって上映される画像の順序があって、その順序に沿って鑑賞者の感情が揺すられたりするよね。それって詩や小説だって同じで、目に映ることになる言葉の意味や文章の情報を通してある種の音楽性が生じるからこそ、読者の心に感動が起こったりする。時間と体験とが交響することで音楽が奏でられてる。なんなら、人生だって、そうかもよ?
 

まとめ

肝心なのは原始感情だけだったり、個人的な感覚だけになったりするってことじゃなくて、両者が合わさったときの交響──音楽性が重要だって話なのよね。これはベートーヴェンの口を借りてヴァーグナーが語ったところからすると誤解だろうけど、「人生が音楽だ」ってアイデアをアンロックするのは間違いじゃないよ、きっとね。
_了

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