【ゆきあたりばったり】リゾーム状読書術|+ドゥルーズ/ガタリ

エッセイ
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どうも、そこそこ本を読んでるザムザ(@dragmagic123 )です。さっそくですが、あなたはどんな本の読み方をしていますかしら? 「これを読めば役に立つ」とか、「これを読むことには意味がある」なんて読み方をしてはいませんか? もちろんそれでもいいのです。が、しかし。「ほんとにそれでいいの?」と考えている人もいるわけですわ。読書家として文学的素養も兼ね備えている数学者の森毅が『ゆきあたりばったり文学談義』の中で語っているのは、役に立つかどうかもわからない・意味があるかどうかもわからない本を、しかも自分の個人的関心からではなく、読む──そんな読書観なんです。この記事ではそんな現代からすれば風変わりにも思える読書観を取りあげます。
この気で取りあげている本
 

【ゆきあたりばったり】リゾーム状読書術|+ドゥルーズ/ガタリ

ゆきあたりばったり文学談義

ここでは当記事で取りあげる森毅ならびに彼の『ゆきあたりばったり文学談義』について紹介する。

BGMを流すように読む読書家

文学論」というと、どこか大上段に構えてカッチリ論構成も整えたり、なんてことがある。それが文学者のお仕事。しかし、文学にたずさわる者だけが文学を語れるというわけではない。文学は言葉を覚え・話し・聞き・書き・読める者に開かれているものなのだから。
とはいえ、さしあたっては小説を読んだ人間に話を限定しよう。文学を語れる資格は、小説をおもしろがれるだけの文学的感受性を備えた人物にこそある
今回取りあげる『ゆきあたりばったり文学談義』は、数学者・森毅によってなされる「文学談義」だ。文学論としても読めるが、「〇〇論」と言うほとにはお堅いものではない。数学者だからと言っても “数学的” であるわけではなく、むしろどこかチャラチャラとした気楽なテンションで語るのだ。肝心なのは彼が多くの小説・詩集・思想書・専門書など──本を読んできたことである。
多くの本を読んできた人であればそうであるように、読書家・森毅にもまた自分が親しんでいる読書法があり、読書観がある。その読み方について語っているところがまたおもしろいのだ
僕の読み方はBGMのように頭の中に本を流すんです。終始そうした読書です。だから困るんです。本の話は語りでないとどうしようもないというのは、覚えてないからなんです。「ああ、そういえばそういう本もあったな」という記憶しかないんです。
(『ゆきあたりばったり文学談義』,p65)
BGMのように頭の中に本を流す」。本の読み方をこのように語っている人物はなかなかお目にかかれない。それがどのような読書なのかを想像することもまた興味深いだろう。なにせBGMと言うからには読んでいる意識としては主題になっておらず、意識の前景ではなく背景にあるはずで、それは本に書かれている内容を読もうとする類いの読書姿勢からは、ちょっと想像できないものだ。
 

自分の好みから話を聞く自由さ

森毅が「本の話は語りでないとどうしようもない」と語っているように、『ゆきあたりばったり文学談義』は “談義であること” にこだわっている。このような姿勢は本全体を通して貫かれている話し言葉へのシンパシーに通じているのだ。
話し言葉よりも書いたものがいいというのは努力信仰のようなものです。「頑張って書かはったから」という、メッセージ信仰のようなものです。しかし、ちゃんとメッセージが伝わっているかというと、これは疑問で、教師でお話を聞かされているみたいなところがあります。ところが、対談や冗談になると自由なんです。言ってみれば、部屋で誰か二人がしゃべっているのを横でコーヒーでも飲みながら聞いていて、好きなところだけこっちが勝手に利用したらいいという感じです。山をぶらぶら歩きながら、好きなところで、「ああ、きれい、この花好き」と言っているようなものです。そのかわりに自分の好みは必要です。でも、自分の好みで選ぶという、その分だけ自由です。そこがおもしろくて、ぼくは対談や座談が好きなんです。
(『ゆきあたりばったり文学談義』,p172-173:太字は引用者)
上のくだりでは、〈書き言葉〉と〈話し言葉〉とが対比されている。書かれたものであれば作者が伝えたいメッセージがきっちりと書かれているので、それを読み取れなければならない。しかし、誰かが話しているのを聞いている場合、それも教師から何かを教わっているのではなく、登壇者同士が話しているの聞いたり、カフェで他の客が話しているのを聞いている場合では、話し手の言いたいことではなく、聞き手の好みから聞きたいところを聞けばいい。そういった自由があると述べ、〈話し言葉〉によって書かれ、読むことのできる対談や座談を持ち上げて見せるのだ。
『ゆきあたりばったり文学談義』が形式面においても内容面においても、あくまで文学談義の形をとっているのは以上の考え方へのシンパシーが理由である。
 

ゆきあたりばったり読書が最強である

この記事では以下、数学者であり読書家でもある森毅の文学談義の中から、読書術および読書観に関する考え方を取りあげ、「ゆきあたりばったり読書」とは何かを検討していく。

役に立つのか/糧になるのか

役に立つ」という言い方を聞くとき、それとは対になる言い方ってなんだろうと考えることがある。「役に立たない」ではない。それは否定した言い方だ。ここで考えているのは「役」ではないものへの “役に立つ”  のことだ。
人はなにかと人の役に立とうとする。そうしなければ食っていけないという理由もあるだろうが、たんに相手の気を引くためにそうしようとすることだってある。子どもが親にかまってもらいたくて。好きな人に振り向いてもらいたくて。
それはおおむねいいことだ。つねに誰かが誰かに、何かが誰かのためになることが前提になっている。社会はまわる。その循環を促すだろう。
しかし、もっと個人的な話にあってはどう、言うのだろう? ──これが「役」ではないものへの “役に立つ”  である。役というのは社会のなかでの人間の地位を言うものだ。そうではなく、もっとプライベートな、個人的なものへの “役に立つ”  とはなんだろう、と考えているのである。
人が個人であることを意識させられるとき、そこには孤独がある。人が孤独になるのは、たとえば「読書」がそうだ。本を読むとき、人は黙読や音読にかかわらず、自分が読み上げる音声を自分で聴くことになる。一種の独り言の状態だと言っていい
読書にも「役に立つ」という言い方がされる。役に立つ本というわけで、「実用書」のジャンルもあるだろう。この点で、「役」ではないものへの “役に立つ”  を考える上で、読書を取りあげることは有益だ。
では、実用書とは対極にある本とはなんだろう? ──それは古典だ。
古典を役に立たないとは言わないが、少なくとも “すぐには” 役立ってくれないことは確かだ。その点において “実用的” ではない。
しかし実用的ではないからと言って古典が読まれないわけではない。古典はどういった点から読まれるのか。それは、役に立つかどうかといった目先の欲望ではなく、役に立つかどうかもわからない情報を自分に入れるためだ。それはひとつの無駄である
しかし、役に立つかどうかもわからない古典を読んで、ふとした瞬間に思い出されるような無駄な情報がある人生というのは、悪くないのだ
また、古典には「それを読んだおかげでわかるようになること」が多い。とくに人間関係の機微などはそうで、何度も反芻することになる名場面・名文章・名言がひとつあるだけでも、生きることが良いものになる。
実用書をたくさん読んでも得られない、人生の滋味をもたらす古典。この点から「役」ではないものへの “役に立つ” に、「糧になる」という言い方当ててみたい。役に立つ本に対する、糧になる本。──それは誰かのためではなく、個人が個人的であることの喜びを育むものだ
 

意味のある読書/滋養になる読書

人に歴史があるように、読書家には読書歴がある。人が自分の経験から他人を判断するように、読書家には自分の読書経験から本を読んでいく。人が何か関心を持っているのには、その関心を持つまでに至った物語があるように、読書家にもすでに “ある関心” から読む本を決める姿勢があり、そこにはやはりそうなるに至った理由があるのだ
これは当然のことであるものの、そうではなかった時代もあったのだ。そうしたことを踏まえて書かれたものに、荒川洋治の次の文章がある。
いまの人の読書の世界は以前とくらべて、わびしいものになったかもしれない。自分と関係する本しか読まない。その場で役立つものにとびつく。そのときには利益にも参考にもならないが、一生の長い時間のなかでゆくゆくは心の滋養になるような本を遠ざける傾向がある。「見栄」でも気取りでもいい、むしろ少し背伸びをして読書をはじめたほうが、拡がりが出ていろんな世界にふれることができる、という森さんの言葉は耳にひびく。
(『ゆきあたりばったり文学談義』,p210)
これは森毅の文学談義本の解説で書かれたものである。要点を砕いて紹介すれば、次のようになるだろう。
いまの人の読書世界がわびしいものになっているのは、「自分が読みたいものしか読んでいないから」だと言うのである。自分と関係のある本やその場で役立つものしか読まない。だからこそ、「一生の長い時間のなかでゆくゆくは心の滋養になるような本」と出会い損ねている。──というわけだ。
では、逆に以前の人の読書世界はどうだったのだろうか? 上の文章から読み取るなら、おそらくこうなる。
以前の人は、見栄や気取りで身の丈に合わない、背伸びをするような読書ができた。そのような姿勢で読む本は必ずしも自分が読みたいものではなかったし、その場ですぐに役立つものでもなかったが、「一生の長い時間のなかでゆくゆくは心の滋養になるような本」との出会いには恵まれていたのである。──このあたりが以前の人の読書の世界として考えられているところだろう。
いまと昔とを比べてみて、いまの人が「自分が読みたいものを読んでいる」というのは、一見して至極真っ当で当然なことのようではないだろうか。むしろそれをダメ出しされるのは不当であるとさえ考えられるだろう。
しかし、いまとそれ以前とでは事情が異なることは押さえておきたい。「以前の人の読書の世界」には森毅の語るような以下の前提があったのだ。
本なんか読んだら、頭に悪い、心に悪い、体に悪いと、読書は三悪いです。今はちょっと健全なんですよ、むしろ健全過ぎるんです。健全過ぎるのもちょっと難儀なものです。
(『ゆきあたりばったり文学談義』,p156)
本なんか読んだら、頭に悪い、心に悪い、体に悪い」とあるように、いまでこそ本を読むということは「エラい」だの「スゴい」だのと言われるものの、荒川洋治や森毅などが生きた往時では、読書はむしろ「キモい」や「ヤバい」と言われてしまうような雰囲気があった様子。
不健全なものには、それが不健全だとみなされるだけの魅力がある。逆に健全さにはある種のフラットさがあり、そう言われていることをしたからと言ってなんらドキドキ感もない。禁じられているからこそ、禁を破るというゾクゾクさせるような醍醐味があるのだ。かつて、読書はそうした「禁じられた遊び」であったはずが、今は実用や教養の名の下に公認のものになってしまったのである
ようするに、読書はいまや健全なものに成り下がり、もともとあった魅力を失った結果、自分が読みたいものを読むという動機からしか読む本を選べなくなったのである。このことは自分の世界を拡げてくれるかもしれない “思いがけない本”と出会う機会を狭めることになる。言い換えれば、読書をするにも目先の意味にしか目がいかず、ゆくゆくは心の滋養になる(かもしれない)本を遠ざけてしまうのだ。これでは読書という豊な行為を貧しくさせてしまうだろう。
 

読み損ねること・読み応えること

ある本を読もうとするとき、人は多くの場合にその本を読み損ねる。それは必ずしも読者に読む力がないというのではなく、本を読むという行為に付きまとう事情として、そうなのだ。本を読んでなんらかの読み応えを感じるときには、同時に読み損ねている印象が必ずや残るのである。
ある本が「再読に耐える」と評されることがある。それは書かれている文章は変わっていないことを思えば奇妙なことだ。しかし人は読み返すたびに違った味わいでもって同じ本を読むことがある。同じ文章からも違った文意を読んでしまうのだ
読み損ねるのと読み応えることとは同時に起こる。むしろ、それが起こらない読書は退屈で、いろいろな読み方のできる本ではなく、たった一つの読み方しかできない本であれば、それは「再読に耐える」ものとして古典たりえることはない
とはいえ、「これがこの本の読み方だ!」というのはある。そのために読解や精読、そして誤読もあるのだ。だから “生真面目な人” が変に読んでいる人を叱ったりすることだってある。
生真面目な人は、それぞれの思いがあって、「マルクスをそんなふうに変に読んで」と思うわけですが、変に読まれる、そのことが、ぼくはマルクスの偉い所以だと思うんです。テキストが一つの読み方しかできない人というのは、ほんとは偉くないんです。
(『ゆきあたりばったり文学談義』,p89)
森毅は「テキストが一つの読み方しかできない人というのは、ほんとは偉くないんです」と言っているが、それはそうで、とくに「再読に耐える」、読むたびに違った印象をもたらしてくれるような古典に対して一つの読み方しかできないというのはヤバい。
たとえば、 “読みやすさ” とともに “伝わりやすさ” を企図されている実用書などがそうだが、著者の言いたいこと=メッセージを読者にわかってもらう目的で書かれている。あれはまさに “一つの読み方しかできないようにする工夫” と考えてもいいのだが、それは〈読み損ねること〉と〈読み応えること〉とが前提になっている古典の読み方・読まれ方を否定することにもなる
ともあれ、研究者で「テキストが一つの読み方しかできない人」の場合は、他の読み方も知ってはいるが、自分が採用している読み方がもっとも「おもしろい読み方」だと考えている可能性がある。どのような本であれ、そこにはおもしろい本やおもしろくない本があるのではなく、おもしろい読み方とおもしろくない読み方があるだけだと考えるとすれば、特にそうだろう。
読書には無数の読み損ねのうち、今回の読書ではこのような読み応えを得ることができた。──そうした実感によって確かめられるのである。
 

リゾーム状のゆきあたりばったり読書

フランス現代思想の界隈で知られるジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリの2人の共著で『アンチ=オイディプス』があり、その本の中で「ツリー状」と「リゾーム状」の対概念がある。ツリーとは「樹木」のことで、リゾームとは根茎のことだ。この区別をまずイメージしてもらおう。
ツリーというのは樹木がそうであるように根から幹へ、幹から枝へと伸びていき、階層を備えて上位から下位へと展開する構造体である。それに対してリゾームは階層も何もあったものではなく縦横無尽に絡まりあるその絡まりそれ自体の構造を指す
ツリー状とリゾーム状のことを持ち出したのは、森毅が『ゆきあたりばったり文学談義』のなかで話題にしたからだ。そしてこの後者のリゾーム状構造こそ、この本から抽出できる読書術・読書観を理解する上で重要な概念なのだ。
人間の思い出の中の時間というものは、それほどツリー風に整理されないで、リゾーム風に広がっているものなのです。元来イメージの時間というのはそうなんです。
(『ゆきあたりばったり文学談義』,p109)
『ゆきあたりばったり文学談義』で紹介されている読書術・読書観では、役に立ったり意味のある本を読むことが批判されている。ドゥルーズ/ガタリの言い方を用いるなら、それはツリー状ということになる。自分の関心から読書を連鎖させ、階層を生み出していくのだから
ツリー状ではないリゾーム状の読書となると、役に立つかわからず、なんだったら読んでも意味がわからないかもしれない読書経験が無秩序に並んでいて、それらがふとした拍子に関連を持ったり持たなかったりするのだ。
そしてリゾーム状読書で肝心なのは、自分個人の関心が重要な位置を占めない点である。そこには自分が読みたくないもの、読もうとは思っていなかったもの、読めなさそうなもの、読めるはずがないものさえ入り込んでくる
森毅が以上のリゾーム状読書を実践してきた読書家だと考えて、彼があとがきとして書いている文章を見てみよう。
ぼくの文学観形成が、特定の「一冊」めいたものを中心に展開しようがなく、自分史めいた文学的環境から作られていることは事実である。子供の頃の食習慣がどうであるかなんて、およそつまらないことであるのに、それで味覚の好みができてしまうようなものだ。それで、聞かれるままに、ゆきあたりばっかりに語ってしまったのである。個別的関心なんかどうでもいいから、ぼくの「味覚」形成として、文学論めいたもののベースになっています、といった程度に考えて、お許しいただきたい。
(『ゆきあたりばったり文学談義』,p203:太字は引用者)
ツリー状で言うところの幹部=特定の一冊は存在しようがないのだ。あるのはリゾーム状となった「自分史めいた文学的環境」だけ。それが現在の読書家・森毅の「文学的な味覚」を形成している。ここにきて「ゆきあたりばっかり」という言葉が『ゆきあたりばったり文学談義』の語り方のことである以上に、森毅の読み方だったことがわかるだろう
すなわち、リゾーム状読書の別名は「ゆきあたりばったり読書(術・観)」なのである。
 

まとめ

読書術・読書法・読書観。本を読むことについて書かれた本は無数にある。どれもがそれぞれ一家言ある読書家たちが書いたものだ。とはいえ、この記事の元になった森毅の『ゆきあたりばったり文学談義』は必ずしも “そういう本” なのではなかった。「ゆきあたりばったり読書術」なんてことは一切書いてはいなかった。ただ、森毅の本の読み方と、読んできた本についてのお話があったに過ぎない。とはいえ、この記事で取りあげた本の読み方──自分個人の関心とは必ずしも関係がなく、何かの役に立つかもわからず、なんだったら読んでも意味がわからないかもしれない読書経験が無秩序に並んでいて、それらがふとした拍子に関連を持ったり持たなかったりし、そこには自分が読みたくないもの、読もうとは思っていなかったもの、読めなさそうなもの、読めるはずがないものさえ入り込んでくる──を実践した読書家の自己PR本こそ、あの本だったことは確かだ。

_了

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