イバラのような悩みは17歳のポケットにふりそそぎ【山田かまち評】

詩集
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どうも、サファリング…じゃなくて、ザムザ(@dragmagic123 )です。今回は山田かまちって人の本を2冊手元に置きつつの執筆です。かまちはその “死に方” が有名ですね。そうです、エレキギターの練習中に感電死。冗談みたいですが、ほんとらしいんですよ。彼は芸術家的な意味で「意識の高い」若者だったようで、幼少期から作品づくりに勤しんでいたのだとか。音楽(ロック)は言わずもがな、詩文や絵などをやっていた様子。この記事ではそんな山田かまちの作品を通した(かまち自身がそうなったような)感電の記録を綴っていきます。もちろん、感電したのは彼の読者なザムザの一匹。
 
この記事で取りあげている本
 

イバラのような悩みは17歳のポケットにふりそそぎ【山田かまち評】

はじめに

@山田かまち詩画集

山田かまちという芸術家がいる。音楽をやり、絵をやり、詩文をやった若者だ。彼はしかし、永遠に若者になった。若くして死んだのだ。17歳。その死因というのも青ざめた文学青年が病に伏せったり自殺をしたりといった(良くも悪くも)文学的なものとは違っている。感電死なのだ。それも、エレキギターの練習中に。
今回取りあげてみるのは山田かまちの詩文である。
さしあたっては『悩みはイバラのようにふりそそぐ』と『17歳のポケット』を手元に並べておく。
『17歳のポケット』の帯には歌人の俵万智が推薦文を寄せている。そこでは山田かまちが「自分とは何者なのか。生きるとはどういうことなのか。自由とは? 愛とは? 真の幸福とは?」といった、答えの出ないに問いを突き詰めようとする姿が紹介されている。それと共に、答えの出ないに問いを突き詰めようとするがゆえに「傷ついてしまう」、かまちの姿さえ浮かびあがらせているのだ。
……そう、かんたんに常識的な回答に目を向けるのではなく、あるいは考えないことにするなどの逃げを打つのではなく、かまちは感じるままに考えたのである。そしてそれは少なからず常識と呼ばれるものと諍いを起こすことにもなった。──しかし、そこにこそ山田かまちが芸術をするための葛藤=格闘もまたあったのだ。
この記事では以下、山田かまちの葛藤=格闘の成果に目を向けてみることにする。
 
 

山田かまちを読み残す

本を読んでいると読み残したい本に出会うことがある。より解像度を上げて言うなら、読み残したい文に出会ってしまうと、その文と出会ってしまった瞬間と感想とを保存してみたくなる。
読み、そして読んだことを書き、残す。これが「読み書き残す」の表現が意味するところだ
ここでは山田かまちの本として世に出ている『悩みはイバラのように』と『17歳のポケット』との出会いを取りあげ、その出会いの姿を書き残す。

悩みはイバラのようにふりそそぐ

ここでは山田かまちの詩画集『悩みはイバラのようにふりそそぐ』を取りあげる。

ただ、書け!省略形ばかり使う人々よ

@山田かまち詩画集

山田かまちを読んでいると岡本太郎が「芸術は爆発だ」と語るときのような、表現への熱情、その熱感がある。さながら思春期の少年が青い性欲を発散させようとするように、ただそれに駆り立てられている、未成熟であるがゆえの焦燥感が。
ためらうこと?
ない。
おびえること?
ない。
ただ、    書けばいい。
(『悩みはイバラのように』,p98)
ためらいやおびえは、ない。ただ、書けばいい。自分には才能がないかもしれない、とか、こんなことやっても仕方ない、とか。そういった否定的な、行動することに対する抵抗なんて無視して、書く。
ここでの「書く=表現すること」には “切実なもの” が付きまとっている。子供が大人の決まり事の世界にシラけるみたいに、粉飾されたウソではなくて本当のことを追求しようとするような、そんな切迫したものがないだろうか。
省略形ばかり使う人々よ
本当のことを言え!
「どれだけ感動しているかということだけが幸せの度合をはかる方法だ」
(『悩みはイバラのように』,p149)
山田かまちは「省略形」と名付けたものは何だ? それは次の行にある「本当のこと」ではないものなのか? ──省略形とはそもそも、言葉そのもののようじゃないか。
 

感動するための感覚をみがき、喜びをつくれ

@山田かまち詩画集

言葉は想いを代弁する。なのに想いは言葉の手前に踏みとどまり、決して顔を出さず、十全なる意味として味われない。だからこそ言い間違いや言葉足らず、誤解が蔓延するのだ。
人は言葉に妥協し、慣習上の当たり障りに抵触なきよう気遣いながら、言葉を選ぶ。このときの「選ばれた言葉」こそ「省略形」なのではないか。どうなんだ、かまちくん?
幸せの度合をはかる方法として山田かまちが挙げているものが「どれだけ感動しているか」なのも読み心地が美味しい。「省略形=言葉」は嘘をつける。しかし、感動は嘘をつけない。その「感動=本当のこと」を「言う=書くこと」に、人の幸せは掛かっている。──そう、かまちは言ったのだ。
「感動」、この省略しきらない言葉から、山田かまちは「感覚」へと目を流す。
感動する歌をつくる人っていうのは──いる。
ただロックのリズムをつくって恐ろしげにケツまくり上げてればよくない。
それもたまにはやるかもしれなくてもさ、喜びをつくれよ。
涙がでるような、感覚をみがきなよ。
いい興奮。
体験したい感覚を欲してる感覚を満たしてやることさ
(『悩みはイバラのように』,p150)
感動させてくれるものには奥行きがある。浅く感動するだけでは物足りない。奥深いものに感動するためには相応の、みがかれた感覚がいる。入門書から入って専門書へと進んでいくように。
山田かまちが「喜びをつくれよ」と言っていることに立ち止まりたい。
才能と呼ばれているものがある。それはしばしば花の開花にも喩えられる。種子が芽を出し開花にまで可能態が現実面へと迫り出されてくるのは、種子に内在したポテンシャルに適った条件が整ったからだ。種子の植ったところに水をやるように、人は己れの才能に自分の手で開花の条件を与えることができる。それは自分を、自分の喜びをつくることである
「体験したい感覚を欲してる感覚」であってさえ、つくることができる。そしてその感覚を満たしてやることには喜びが伴う。このとき、喜びは「つくられたもの」としてある。喜びはつくれるのだ
感動、感覚、喜び。これらはいずれも幸せに関わってくる。人は幸せになることに関して、省略(ショートカット)することはできない。その点において、山田かまちは譲らなかった。本当のことを言い、書くことによって。
 

17歳のポケット

ここでは山田かまちの詩画集『17歳のポケット』を取りあげる。

木にはなくて、人にはあるもの 〜感じる心・時の概念・世界の意味

@山田かまち詩画集

17歳でこの世を去った芸術家・山田かまちは、どのような世界をポケットに展げていたのか。1977年にかまちがエレキギターを練習することに殺された後となっては、作品だけがその裾野をうかがわせる。
[…前略…]
 
ぼくは知っている
木々に
  “すばらしさ” を
感じる心が
これっぽちもないことを!
 
ははははは
木々には
  “時” が
わからない
ほんとうの世界の意味がつかめていない
 
[…後略…]
 
(『17歳のポケット』,p33)
山田かまちは優越感を覚えている。何に? 木に対してだ。この優越表現からいったい何を読み取れようというのか。それは、この詩の読み手が「すばらしさを感じる心」と「時がわかること」(=時の概念)、それから「ほんとうの世界の意味がつかめること」である。
木にだってそれらはわかっているかもしれない。すばらしさを感じているからこそ、芽を出して幹を作り枝を伸ばして葉を繁らせているかもしれない。少なくとも芽を出す時や葉の色を変える時はわかっているようじゃないか。ほんとうの世界の意味をつかんでいるからこそ、一本の木が人に偉大な教えを授けてくれることだってあるんじゃないか。
そうは言っても、木は芸術をやらない。人間がそうするようには詩を書かず、絵を描かず、歌を歌わない。つまり人のように表現することをしない。それは確かだ。あるいはこうも考えられる。木には人のような欲求がないのだ。
たとえば山田かまちは絵を描くことの理由を次のように表現した。
絵をかく理由
 
視覚の欲求を満たすためだった、
ぼくが絵をかく理由は……。
そのほかに、
自己満足する。
時には名声の幻によって自己満足する。
自分を高い境地にもっていきたい。
または素朴に、
えんぴつや色や紙や画面を自由に使う、
本来的な欲求もあった。
とにかく自分を幸せにするために、
絵をかいていたのだ。
(『17歳のポケット』,p106)
山田かまちは絵を描くことを視覚の欲求を満たすためと言う。木にそれはあるか? ない。自己満足のためだとも言う。木にそれはあるか? どうだろうか。自分を高い境地にもっていきたい。木にそれはあるか? わからない。えんぴつや色は画面を自由に使いたかったからとも言った。木にそれはあるか? ないだろう。自分を幸せにするためとも言った。木にそれはあるか? これもわからない。
 

世間にとっての異端者は誘惑者でもある。そして彼は木ではない

@山田かまち詩画集

間違いなく言えるのは、木には「絵をかく理由」などとタイトルを付けて表現をやることは、ない。
木にはおそらく、いや間違いなく、次のような歯噛みするような葛藤をその年輪に回してはおらず、葉脈のうちに走らせてさえいないのだ。
おれの気持ち
 
おまえの気持ちが
おれにわかってたまるかい……
 
どこにだってありふれている考え
 
人はできないという
けれど
人のいうことなどすべて聞いていたら
気が狂うだけで何もなせない
 
おまえの気持ちが
おれにわかってたまるかい……
 
ばかなおまえどもだが
いずれぼくが納得させてみるさ
ぼくの力でね
 
その時になったら
おれの気持ちが
おまえにわかってたまるか
と思うかもよ……
(『17歳のポケット』,p109)
山田かまちはツッパっている。「おまえには無理だよ」と囁く無神経な声たちに。バカにさえする。しかし同時に、その声たちを納得させてやろうとも思っている。これは一種の「異端者」になりながら「誘惑者」になることを意味するだろう。
噛み砕いて言うならば、夢見る少年が世間から「どうせ無理だ、やめておけ」とたしなめられるのに抗えば異端者になる。ところが夢を叶えて世間を納得させたとき、少年はその実力によって世間を誘惑し、それに成功したこととなる。親の反対を跳ね除けて歌手を目指した少年が、冷遇時代の後に大人気歌手になるイメージがそれだ。
おまえの気持ちが/おれにわかってたまるかい……」という一節は、無神経な世間様が、 “まるで零落する将来を見てきたみたいに” たしなめてくることへの反発として読もう。それに対して、後半部の「おれの気持ちが/おまえにわかってたまるか」は主語が世間様の側になっているのだ。
厳密には世間に加担していたひとりの人物だが、ここでの反発はもともと世間の側からたしなめられていた人物に対してだ。しかし今やたしなめていた側は納得させられた側となっている。その上で彼が反発する、この「おまえにわかってたまるか」という感覚が生じたことは、彼の、世間からの離脱を意味する。ここで個人と化した彼には、今度は《おれの気持ち》の詩の語り手=主人公の側へとなる気配がある
木ではない人間は考えるをする。山田かまちもまた考える。考えはじめる。そして何が考えられるのか、考えられないものはあるのか。そう進んでいく。考えることによって。
考えなければならないこと
 
ぼくが考えなければならないことはなんだろう。
ぼくは、自分を「進んでいく」と認識している。
つまり、ロケットがある方向へつき進むように、
どこかへ向かって進んで行く。
進んで行く途中である、と感じる。
それはなぜだろう。
それは時間の認識とともにある。
昔の、いつものぼくと違うぼくがここにいるし、
昔の、いつもと違う世界がここにある。
だから時間が感じられるし、
方向は、未来へ向かって進んで行くのである。
未来へ向かって時間が進んでいるからこそ、
こうやって何かが起こるし、
ぼくが存在することができるのだ。
時間がなければ存在はあり得ない。
存在とは、時間と空間を占めるものだからである。
しかしなぜ人間は、
空間と時間という二つの座標を認めるのだろう。
 
そのほかには本当に何もないのか。
 
ぼくたちは存在しているものであり、
空間と時間を占めている。
この空間と時間の世界にだけ、考えることは存在し、
その考える力では、
空間と時間の考え方しかできないのだ。
……ろうか。ということは、すべてを考えることは
考えることにはできない相談なのだろうか。
(『17歳のポケット』,p168−169)
木には時はわからないと述べたのは山田かまちだった。ここでは明らかに時をわかっている人がいる。しかし、同時に、時をわかっているからこそに許された〈考える〉の射程が空間と時間の世界っきりであることの限界もまたある。すべてを取り扱えないことの虚しさまで言葉を連ね伸ばし、かまちは思惟を収める。彼は木ではない
 

幸せになるために、時を止めてはならず、心をうちこまねばならず

@山田かまち詩画集

時に関する問いは山田かまちを捕まえているらしい。
 […前略…]
 
ぼくはすてきな気持ちになる方法を知っている
それは本当はとても簡単なことなんだけれど
君がむずかしいと思った時から
時はとまってしまうのかなぁ……
 
ぼくはすてきな気持ちになる方法を知っている
それはだれにでもできることだけれど
だれでもいやな気持ちになりたければ
それはできなくなる
多くの人は
いやな気持ちになる方法を身につけているけれど
多くの人は
すてきな気持ちになる方法を身につけようとはしないんだ
もしかしたら
ぼくがまちがっているのかな
そうかもしれないけれど
ぼくにはどうしても
そう思えないんだ
 
多くの人が
いやな気持ちになりたがっている時って……
時間はとまっているのかなぁ
(『17歳のポケット』,p172)
《すてきな気持ち》と題した詩には、時間がとまってしまっている状態かもしれない人を、「いやな気持ちになりたがっている」と言っている。それに対して〈ぼく〉は「すてきな気持ちになる方法を知っている」というのだ。
山田かまちの詩文から考えると、その方法というのは「書く」「本当のことを言う」「感動する」「考える」「幸せになろうとする」「世界の意味をつかむ」──などなどが挙げられるだろう。
いずれにせよ、肝心なのは時を止めてはいけないことだ。それは木が時を知らなかったことを思い出させるが、人において時を知らない状態になると、かまちは、人が「いやな気持ち」と親しくなってしまうことを示唆してみせる。
幸せは心の問題だ。そう聞くこともある。山田かまちが心を問いはじめるのも宜なるかな。そもそも心にしか幸せがない。体を幸せにすることは是か。心身を二つに分けて考えることは愚かではあれど、幸せが体に訪れるとは言わない。やはり心だ。心のほうに幸せは季節のようにして訪れるのだ。
 
心をうちこめなくて
どうして
いい作品が
できるというのだ。
できっこない。
心をうちこまない生き方に
どうして
いい結果が訪れよう。
訪れるはずがない。
汚れをすべて取りのぞくことだ。
幸せになることだ。
心を何の雑念もなく打ちこめることだ。
誤りを正しく把握することだ。
本当にいいことは幸せな人にだけできる。
(『17歳のポケット』,p178)
作品をつくること。そこには少なからず「心をうちこむ」ことになる側面がある。その作品がいい作品であるほどに、そこには「うちこまれた心」が透視される。このことはなにも、創作活動にばかり収まることではない。人が生きる人生の全場面に当てはまる。人生は一個の作品だ。だからこそ山田かまちは「生き方」に想いを向けたのだ。
 

作品づくりに心をうちこむように、自分さえいればいいようになる

@17歳のポケット

心をうちこむ。それはいったいどのような生き方を見せることになるのだろうか。これは生き方において語ろうとすれば「目の前のことに雑念なく丁寧に接すること」のような言い方となるが、それではいささか抽象的な嫌いがある。これを具体的にしようとするならば「作品づくり」に目を向けてみればいい。
作品づくりは、たとえば、山田かまちが血道をあげた詩、デッサン、水彩画、版画などを思えばいい。それらを作ろうとすれば、目の前のことに雑念なく丁寧に接することが限りなく具体的な課題となり、その結果を完成された作品として観察することができる。そしてそこに「うちこまれた心」があれば、「心をうちこむ」ができていたということになる
心ばかりが対応すべき課題なのではない。自分もまた、課題である。
自分さえいれば
 
自分に救いを求めよう。
何か自分以外のものに
すべて信頼しきっていたら、
もしそのものが消えた時、
君はだめになってしまうよ。
自分だったら消えることはないし、
消えたらその時からすべての目的は消えるんだから、
自分ほど信じられるものはないよ。
 
だからこうしよう。
自分さえいればどんな時でも救われている……と。
自分さえいれば、
どんな時でもいいようになろうってね。
(『17歳のポケット』,p180)
自分には誰かが足りない。そう感じて他人を求めることはたやすい。しかしどの他人であってさえ、自分が自分であることの不足を補えるものではない。であればこそ、この〈自分〉への信頼があれば、救いを求められれば、「自分さえいればどんな時でも救われている」になれる。そうなれたとしたら、どんな他人だって及ぶことのない「自身=自信」を得られるのではないか。
目的は自分自身。そうであればこそに、目的を見失うことはない。見失うかもしれない目的がぴったり自分自身と一致しているのだから。人が自分を見失うとき、往々にして目的の喪失によるところが大きい。会社が倒産したり、大切な人が死んだり、そんなことによって見失われる自分というものは、自分以外のものが目的となっているからそうなるのだ。あくまで目的が「自目的的」であるならば、この自分が失われでもしない限り、目的の喪失もない。「他目的的」に自分以外のものを目的としているからこそ、いつまでたっても自分が救われないのだ
山田かまちが処方する、「だからこうしよう」以下の文言は、人が幸せになることにも、すてきな気持ちになることにも、いいようになることにも通じる道標となる。
 
 

さいごに

なんらかの創作活動をおこなっている人のなかには、「人は死んでも作品は残る」という考えがある。絵描きなどでも、たとえばゴッホが花を描くときに言ったという、「ぼくはこの花を永遠にする」といった文言も同様に、ある。
山田かまちは死んだ。17歳だ。しかし、彼の作品は今もなお生き延びた・生まれた人々に目撃されている。
このことは誰にとっての幸福だろうか?
作者である山田かまちにとってか? 彼の作品を目にすることのできる現代のわたしたちにとってか? それとも、作品そのものにとってだろうか?
いずれにせよ、生きることを作品へと打ち込んだ一個の精神が残ったことは悦ばしいことだ。
……それでも、時々思うのは、作品が失われたとして、誰の目にも止まらなかったとして、それでもなお作者が作品をつくったことの精神性はこの世に内容されるのではないか、ということだったりする。
_了

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