【書き手の小説観をアップデートする】小説を書くことの価値と効能

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小説は多くの人にとって〈読むもの〉ですが、同時に〈書くもの〉でもあります。小説家の磯崎憲一郎は「小説を書くことは自分の人生を導こうとすること」と語る〈小説観〉を持っています。今回取りあげる『金太郎飴』では、書き手の側からみた〈小説〉、しかも「書くものとしての小説」が語られているのです。この記事ではそうした書く側の立場に立って、作者が享受することになる特権や価値を紹介します。
この記事で取りあげている本
 

【書き手の小説観をアップデートする】小説を書くことの価値と効能

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『ゆきあたりばったり文学談義』から『金太郎飴』へ

以前、当ブログでは『ゆきあたりばったり文学談義』という本を取りあげました。数学者であり、そして豊かな読書経験を持つ読者家・森毅による読書や文学を話題にした話をまとめた本です。
その本から〈読書〉に関するテーマを取りあげて、「ゆきあたりばったり読書」として紹介したのがこちらの記事。
他方で、『ゆきあたりばったり文学談義』では〈文学〉をテーマにしてもいて、以下の記事も書いています。
上の記事では『ゆきあたりばったり文学談義』の著者・森毅の読者としての姿勢から、「メタ人生としての小説」という小説観を取りあげつつ、理想の小説がどのようなものかを検討しました。
また、同記事の中では作家・磯崎憲一郎の発言録である『金太郎飴』も参照しています。今回取りあげるのはこの『金太郎飴』です。
この記事では作者・磯崎憲一郎の発言を参照しながら、読者の立場ではなく、作者の立場から見た「小説観」を紹介します。
 

「作者=書く側」からみた小説観

終の住処』や『赤の他人の瓜二つ』、最近では『日本蒙昧前史』を発表した小説家・磯崎憲一郎には2007年から2019年までのエッセイ・対談・評論・インタビューをまとめた『金太郎飴』という本があります。
その本では、タイトルにあるように、どこを切っても同じ断面を見せる 「金太郎飴」にも似て、磯崎の立場=小説観が微動だもしていないことの自負をうかがうことができます。肝心の断面図=一貫性として挙げられるのはおおむね以下のことです。
小説は現実よりも大きい。現実は小説によって支配されていると言っていい。現実は小説によって引き寄せられるのだ。ゆえに、小説は現実に先行するものでなければならない。世界を生み出す卵のように、事実を生成する傾斜を階層(Story)として展開する装置なのである。
(『金太郎飴』,p10の前後を参考に抽出)
磯崎の小説観で特徴的なのは「小説は現実よりも上位に君臨していて、現実を生み出す装置なのだ」と語る点です。別の箇所に目を向けると次のような発言も見つかります。「自己実現や言葉遊びとかではなく、外界を律するように働くもの」(p13)
一般的な考え方として、小説は人間の生活風景・生き様・人生を文で表現することだという共通了解があります。それも本当でしょう。しかし磯崎が考える小説は「表現された人間の生活風景・生き様・人生」であることを超えて、読者を変えてしまう力を持っている、「メタ人生」なのだ、というものです。──そうした読者の側から見た〈小説観〉を取りあげたのが以下の記事でした。
ここで取りあげたいのは読者目線ではなく、作者目線での〈小説観〉です。読者の側に立てば小説を読むことで何かが変わることがある。しかし、それよりも小説は読むだけではなく書くものでもあります。この〈書く〉場面にフォーカスを当てたとき、読者がする経験よりも切実な体験が作者に訪れることがわかるのです。
 

小説を書くことは単純化に争って自分の人生を導こうとすること

小説を「現実を生み出す装置」と考える磯崎憲一郎にとって、小説を書くことは「自分の人生を導こうとする」ことです。もちろん、ここで言われている “自分” とは作者そのひとのことになります。このことからもわかるように、小説の最高の価値を享受する立場にあるのは、「書いたその人=作者」なのです
とはいえ、「小説とは、小説を読む経験の中にしかない。」(p254)とも語られることからもわかるように、作者であってさえ小説という経験を享楽するのは〈読む〉ことによります
ただ、作者には読者が味わえない「小説が出来上がっていく=生成する現場」に立ち会える特権があり、それどころかその現場そのものに “なる” こともできるのです。
言うなれば、とある小説を書く計画を「建設計画」とすれば、それを実際に書いている現場である〈作者ー小説〉は「建設現場」になる、その際に、建設現場に誰よりも近い場所で「構築物=小説」を堪能できるのが作者である、というわけです。
ただし、自分の人生を導きもする「小説を書くこと」には注意点があります。それはすなわち「物事を単純化しようとする圧力に屈しないこと」です
小説を書き続けていくのなら、物事を単純化しようとする圧力に常にさらされるから、それに負けてはいけない。書くことによって闘いを、抵抗をすること
(『金太郎飴』,p504)
物事を単純化しようとする圧力とは何か? それはわたしたちが普段自覚することもなく頼ってしまっている “物事を認識するフレーム” のことです。思考し、整理し、評価し、判断し、行動する──たとえば、この一連の流れのなかに、誰かの言い方や考え方、あるいは世間的な常識であったり種々の専門知識であったりが、自動的に入り込んできます。これは日常生活を送る上ではエネルギーの消費を少なくするという点で、補助的な効果をもたらすでしょう。
具体的な例としては、一日の終わりに日記を書く場面を想像してみてください。その日にあったことを記入するのに、多くの細々としたディティール(細部)は単純化されていることに気付けるのではないでしょうか。その日の体調はせいぜい「良い/悪い」で記入されるでしょうし、仕事の内容は「簡単だった/大変だった」によって記入されるでしょう。細かく書けばもっと書き込めるでしょうし、そのときのイメージに忠実になるならより的確な表現を選べるはず。──しかし、それらのディティールは “単純化されたことによって” 見えなくなってしまうのです。
 

リゾーム状の記憶を語る言語・夢・イメージの時間を語る方法

では、小説を書くときに「物事を単純化しようとする圧力」に屈しないためにはどうすればいいでしょうか? このことを考えるためにまず「記憶を語る言語」について考えてみたく思いますが、その前に〈記憶〉にはどのような時間構造なのかを見ていきます。
記憶の時間構造を、「ツリー/リゾーム」の対概念を通して見てみましょう。この用語はフランス現代思想界のアイドルである、ジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリの2人の共著『アンチ=オイディプス』に登場するものです。その本の中で「ツリー状」と「リゾーム状」の対概念があります。ツリーとは「樹木」のことで、リゾームとは根茎のことです。
別記事ではこの違いを以下のように紹介しました。
ツリーというのは樹木がそうであるように根から幹へ、幹から枝へと伸びていき、階層を備えて上位から下位へと展開する構造体である。それに対してリゾームは階層も何もあったものではなく縦横無尽に絡まりあるその絡まりそれ自体の構造を指す
さて、「ツリー/リゾーム」の区別を押さえたところで、今度は森毅が人間の意識の時間および記憶=思い出の時間構造について語った次の文章をご覧になってくださいませ。
もしかして人間の意識の時間というのはツリー風というよりはリゾーム風なのかもしれません。たとえば思い出も、時間軸にそって思い出せるものではなくて、断片的なものが横につながったり、ほんとうか嘘かわからないのにつながったりするわけです。
(『ゆきあたりばったり文学談義』,p108)
〈ツリー風〉というのは「根元から幹がのびて枝がつづいてその先に葉がしげる」という線状構造を指します。ところが人間の意識や思い出の時間構造はそんなものではなく、「土のなかで根っこが上下左右もなしに絡まりあっている」といったリゾーム状になっている、そう語っているのですね。
印象や記憶が断片的に散らばっていて、それらがふとしたきっかけにまとまりを見せるときがある。基本的には整理されておらず、バラバラになっているからこそ、なかには真偽不明なものも意識や記憶の舞台に混じってくる、というわけです。これが〈リゾーム風〉と言われているものになります。
そして、以上の時間構造のことを、森毅は「イメージの時間」と言います。
人間の思い出の中の時間というものは、それほどツリー風に整理されないで、リゾーム風に広がっているものなのです。元来イメージの時間というのはそうなんです。
(『ゆきあたりばったり文学談義』,p109)
「イメージの時間」を理解する上では、人間の記憶を例にするよりも、むしろ眠って見る〈〉を例にしたほうが適当です。というのも、夢のなかでは、支離滅裂であったり飛躍があったりするほうが普通ですので、リゾーム風なイメージの時間を想像するにはちょうどいいのです。
磯崎憲一郎が「記憶を語る言語」という場合の〈記憶〉は上記の「イメージの時間」と重ねることができます
磯崎は「記憶を語る言語」に関して述べるために次のことを言っています。「日常語のように時制に忠実ではなく、どこか突飛になる。」「言ってしまったことで現実が引きずられるようになる。」「単純に嘘とか本当ではないもの、言ってしまうことで事態はそれ一色になる。」(p65)
──これら記憶を語る言語のヒント集(?)は、〈夢〉を見る・語ろうとする際の語り方として読むこともできるでしょう。また、「イメージの時間を語るための方法」として読むことができもします。 そして、それはまた「小説を書くこと」にもつながってくるのです。

単純化しようとする圧力に抗う方法は〈おもしろさ〉を追求すること

小説を書くときに「物事を単純化しようとする圧力」に屈しないためにはどうすればいいでしょうか? この問いに戻りましょう。
物事を単純化しようとする圧力に抗うための方法は、ひとことで言えば「おもしろさを追求すること」となります。
磯崎憲一郎の言葉を引いてみましょう。
小説を書くときに設計図みたいなものはなくて、「この文章の次に何を置くか」というのだけで書いている。
(『金太郎飴』,p182)
あるいは、こうです。「一行一行を書く瞬間のおもしろさだけ」(p434)、「とにかく、どう書いたらおもしろいか、そこだけしか考えてない。」(p436)
──これらが、『金太郎飴』の中から単純化しようとする圧力に抗う方法として取り出せるくだりです。
ここで、作家・保坂和志は〈おもしろさ〉と自分のリアリティとの関係を述べた文章がありますので、少し見てみましょう。
よく「この話は面白いけれどリアリティがない」というような言われ方がされますが、本当はそんなものはなくて、面白いものはすべて何らかの意味でリアリティがあり、リアリティのないものはどんな意味でも面白くは感じられないはずなのです。面白いと感じるもの、気持ちがそっちに向くもの、忘れずに記憶しているもの、それらはすべて何らかの意味でリアリティを持っているはずなのです。それがいまのコード(共通の了解)の中でリアリティがないと言われがちなものであっても、絶対に何かリアリティを持っているはずで、だからそれをあらためてリアリティとして見つけていかなければならないのです。
(『小説修業』,毎日新聞社,2001,p8-9:太字は引用者)
〈おもしろさ〉は自分自身の感じるリアリティに関わっている。おもしろいと感じるものは「すべて何らかの意味でリアリティを持っている」。磯崎の言い方でいうところの「単純化」の呪縛をふりほどくために、人は小説を書かなければならない。そうすることで、あらためてリアリティのあるものとして発見することができる。──保坂と磯崎の言い分を整理すればこうなるでしょう。
興味深いのはここで言われている〈おもしろさ〉は、『金太郎飴』によれば「自分の感性・感覚だけを書いてはいけない」(p238)という文句とセットにして理解する必要があることです。
小説ひいてはアートに関わることには大抵「センスが必要である」といった言い方がされますが、必ずしもその “センス” の部分に頼ってはいけないというのです。これは言い方を変えれば「手癖で書いてはいけない」になります。手癖で書けば、 “慣れた手つき” で書くことができるものの、しかし、それこそ「単純化」の温床と言っていいものなのですから
手垢にまみれた、単純化ないしは記号化されたものは、どれもが抽象的です。それらを覚えることは本来の自分が生きる現実をはぐらかしてしまいます。具体的なものとして自分の現実を発見するために要請されるのが「おもしろさの追求」なのです。〈おもしろさ〉を介してこそ、自分自身の個性=リアリティを見つけることができる。このときにこそ、磯崎が語る「小説を書くこと」が「自分の人生を導こうとすること」になるのではないでしょうか。
 

まとめ

おもしろく小説を書くのは難しいことです。小説の内容を考えることまでは楽しいかもしれませんし、実際に書いてみて自分の書き方と向き合うことになる場面でも、もしかしたら簡単な人もいるでしょう。しかし「おもしろく書く」には、手癖で書いてはいけないのです。その手癖そのものと向き合うことによって、自分の〈おもしろさ〉を追求していき、「個性=リアリティ」を見つけ直して行かなければなりません。「自分の人生を導くこと」にもなる「小説を書くこと」。これを覚えておくだけでも、あなたの〈小説観〉が刷新されるかもしれませんね。
_了

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