センス・オブ・ワンダーから始まる思考のために/賭け金としての自我

本の紹介
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こんにちは。ザムザ(@dragmagic123 )です。今回はレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を手に入れましたので、自我と感覚とを見比べています。カーソンは不思議なものに驚けるセンスが大切だと述べているわけで、知ることに重点を置いた頭でっかちの自我を批判しているんですね。この記事では感覚(センス)が大切だって話にうなずきながら、自我の存在意義ってなんだろうというところに目を向けます。
 
この記事で取りあげている本
 

センス・オブ・ワンダーから始まる思考のために/賭け金としての自我

「センス・オブ・ワンダー」あるいは「神秘さや不思議さに目を見はる感性」

ペンは剣よりも強し。レイチェル・カーソンという作家がこの世界に果たした偉業を語るなら、そんな言葉で始めるのもいい。彼女の執ったペンが行った仕事は、人類が懸命になって発展しようと試みた努力が、自然環境の破壊に貢献していることを、気づかせたことにある。
産業革命以降、人類の文明的な発展は目覚ましいものだった。来るべき近代を目掛け、合理性の理念の下に進められた開発計画は人々の暮らしを便利にはした。便利にはした、しかし、その陰には多くの環境問題が続々することとなったのも確かである。
問題の根拠を歴史の必然とするのではなく、人類のエゴイズム(利己主義)あるいは欲望のエコノミクス(経済学)に認めるなら、その根本にある情念は「我執」だ。読んで言葉の通り、自我への執着だ。仏教では色を好む自我全域に通底するものとし、そこからの解脱を本願とされるもの。
我執という名の万有引力装置にテクノロジーの恩恵も加わったことが近代の土台を作った。哲学者ハイデガーは、近代技術の本質は、「Gestell(総駆り立て体制)」にあると考えた。近代という合理的なシステムに導かれ、人間が人間であらんと欲する不可視の力により、人も物も徴発されていく。この、世界の全てを駆り立てていく体制を主導しているものを、ここでは我執と呼ぶことにする。
今回取りあげるのはカーソンの『センス・オブ・ワンダー』。当記事では、この、たった60ページの本のタイトルになっている、カーソン自身が人類誰しもに涵養されて然るべきと考え、推奨する、「神秘さや不思議さに目を見はる感性」を手掛かりにし、我執ひいては自我の存在意義を点検する。
 

教育とは「人の心に火を点ける」ことで、その点火装置は「驚き」である

カーソンが奨励するのはセンス(感性)だ。「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと語る彼女は「センス・オブ・ワンダー」すなわち「神秘さや不思議さに目を見はる感性」を称揚する。それはまた、とくに教育現場に向けて唱えられている節がある。
人間にとって驚く能力が重要であるという視点への理解には、数理工学者である吉田武による次の檄文がよく響くので、引用しちゃおう。
 教育に携わる者にとって,最も重要な行為は,「人の心に火を点ける」ことである.一旦,魂に「点火」すれば,後は止めても止まらない.自発的にその面白さの虜となって,途を極めていくだろう.それでは,どうすれば点火するのか,点火装置は何処に在るのか.それは「驚き」の中に在る.
 「驚き」を教える事は,何人にも出来ない.人が驚ける能力,これこそ天からの贈物である.この意味に於いて,子供は天才である.驚きを失った大人に点火する方法は無い.火種は尽きているのである.
(吉田武『虚数の情緒』巻頭言 pviiiより)
教育において最も重要なことは「人の心に火を点ける」ことであり、その点火装置は「驚き」の中にある。吉田が述べているのはそういうことだ。そして驚きそのものを人に教えることは誰にもできないと続け、これこそ真に天からの贈物なのだと述べる。
こうまとめてみると、吉田はカーソンの本およびその理念を知っていて、それを自分なりに引き受けた形を件の箇所に書きつけているのではないかと思える。
言わずもがな、人間もまた動物である。人間的に思考することがあっても、感情的になってしまえば動物的であると目される。それが人間だ。人は理屈では動かないが情熱の火が入ればあっさり動くということもある。その火は別名を「欲望」と言うのかもしれない。
 

ストーリーを理解することはアイディアを発見することの半分も重要ではない

創元SF文庫の一冊、ジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』の巻末に、作家の鏡明による解説がある。少し引用したいのは、そこに「センス・オブ・ワンダー」の単語が見つかるからだけではなく、それを語らんとする言葉のなかに、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない、と語るカーソンの意図に絡めることのできるアイディアがあるからだ。
この「星を継ぐもの」は、ホーガンの最初の長編だが、彼の特徴が良く出ている。科学や技術について語るときの様子は、まるでオモチャを与えられた子供のように、嬉々としているのが感じられる。そしてストーリーを語るよりも、アイディアを語ることが、中心になっている
 そしてそれは、ストーリーを中途半端に語るよりも、はるかに素晴らしいものをホーガンの作品に与えている。センス・オブ・ワンダーってやつだ!
(『星を継ぐもの』巻末の鏡明による解説より:太字は引用者)
『星を継ぐもの』という作品に関しては、ホーガンのSF作家としての地位を確立した名作である、と言うに留めよう。上の引用箇所で目を止めたいのは「ストーリーを語ること」と「アイディアを語ること」とが対照されている点である。
人は物事をわかる(知る)ときにはエピソード(ストーリー)の形に頼るものだ。他方で、アイディアは人に驚きを与える。鏡の指摘しているホーガン作品の魅力が「人に驚きを与えるアイディアを語るところにある」という点を念頭に置こう。そこにカーソンの「感じる」ことの「知る」ことに対する優位を重ねるなら(少しの飛躍をする)、「ストーリーを理解することはアイディアを発見することの半分も重要ではない」といったセンス(感覚)を取り出すことができる。
カーソンが唱えた「センス・オブ・ワンダー」は「神秘さや不思議さに目を見はる感性」のことだった。感性(sensitivity、感知)に対して悟性(understanding、理解)の概念を立てるならば、悟性は神秘性を打ち消す理屈を通した納得を示すことになる。個々の不可思議を全体の調和によって演繹的に理解するのだ。これは吉田武の言いかたと結べば「驚きを失った大人」に当たるだろう。
それに対して「驚きに満ちた世界を生きる子供」の概念を持ち出そう。子供は個別の驚きを辿る形で全体を描こうとし、帰納的に世界を発見する。この発見から好奇心は起動し、思考は始まる。順番としてはこうだ。「感じる」ことで「考える」が出発し、「知る」ことに達する
 

「理解のためのストーリー」ではなく「発見のためのセンス」が大切なのだ

私たちは自分が属するストーリーの中で物事を把握している節がある。人生物語を「将来の夢」や「今季の目標」などのテーマに従って時間意識が構成され、未来あるべき姿や今すべきこと、かつての自分を基点にしたりし、「やらなくてはいけない事」に取り組む姿勢をとる。ここにあるのは主人公がミッションを達成するというストーリーだ。
ストーリーの主人公は近代的な自我の確立と無関係ではない。物語の主人公は「自分が何者なのか」を求める運動を始めることによって定義される。ストーリーの進展ごとに解明されていく自分自身を理解する運動が、世界を自分に向けて駆り立てていくことと重ねられる。これは、近代のテクノロジーが「Gestell(総駆り立て体制)」として記述される所以と別のことではない。
要するに、さまざまな素材を集めてストーリーの形へと編集したものが自我である。そう言ったって構わないのだ。この記事では、以上の、ストーリー準拠の「やらなくてはいけない事」に従事する姿勢を「我執」という言葉で押さえる。自我への執着によって主人公格を得ることで、人は大人になる。そういうことなのかもしれない。
しかし、カーソンや吉田は「理解のためのストーリー」ではなく「発見のためのセンス」がより大切なのだと説いた。ここではむしろ子供であることに価値を見出している。
「センス・オブ・ワンダー」にしても、やらなくてはいけない事に従事する模範的な姿勢ではなく、「やるべきだと感じた事」を見出すエウレカを追求する姿勢が称揚されているのだ。そうしたセンスによって人が夢中になっているのは一種のひらめき、すなわち、何らかのアイディアに取り憑かれているからに他らならない。
 

自我は「物語の主人公」という制度によって要請された欲望であり我執である

自我は手放すためにある。先に結論を言えばこうなる。ストーリーは己を主人公にさせ、その主人公は自身の成長を賭けて行動を起こす。ここにあるのは「物語の主人公」という制度によって要請された欲望であり、我執だ。
アイディアはどうだろう? アイディアは自我から離れさせるものとの出会いなのではないだろうか。
興味深いアイディアを思いついた場合に、人は自分のために(我執)というよりも、そのアイディアのために動き出すものだ。それはそのアイディアが素晴らしいものであればあるほどに、よりいっそうアイディアそのものをどう活かすことができるのかに血道を上げることになる。ここでは自我は通常そうであるような意味で、欲得の中心にはない。
カーソンの「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない、であったり、はたまた「センス・オブ・ワンダー」のことを思えば、ここまで考えてきたことは(先にも述べた通り)「ストーリーを理解することはアイディアを発見することの半分も重要ではない」へと、まとめられるだろう。
それでは、感覚は良くても自我は良いものではないとでも言うのだろうか。違う。そうじゃない。感覚も自我も大切だ。
感覚は身体に起こる。自我は物語られた意識である。カーソンの説くセンス・オブ・ワンダーがいかに感じることの重要性をプッシュしたとて、人間の生活のベースにあるのはアイディアの発見ではなくストーリーを通した理解なのだ。つまり、基本は物語られた意識を生きていて、時折、センスを介しての発見が閃く
アイディアを発見するのは常に既にそうだというのではない。常に既にそうなのはストーリーのほうなのだ。しかし、だからこそ、カーソンが推奨する驚きの感覚が価値を帯びることになる。
 

我執ひいては自我は己を手放してもいいものと出会うための賭け金である

ストーリーは我執を強化する。アイディアはその我執を一時停止させ、思考の出発点となる。「感じる」ことで「考える」が起こり「知る」ことがもたらされる。これはゲームだ。気づき、考え、知ることのゲーム
作家の坂口恭平は「思考」に「人間のあるべき姿」を見出している。
戦うのではなく、考える。僕が思考しているのは “Revolution of Thinking” なんです。考える。そしてその知に従って行動する。これが人間のあるべき姿であり、いまだ決してなくなっていない力なのだ。カントは言う。「知る勇気を持て」。そして「未成年状態から抜け出すのだ」と。
(坂口恭平『発光』p19)
Revolution of Thinking” は「思考による革命」や「革命的思考」あるいは「思考状の革命」などと翻訳できるだろう。それが人間の力であり、未成年状態から抜け出させるものだと、坂口は述べている。ここでの未成年状態というのは、考えずに既成のシステムに依存することとでも考えておけばいいだろう。
思考することで得られた知に従って行動すること。知る勇気を持つこと。そして未成年状態から抜け出すこと。これを(先にも述べたように)気づき、考え、知ることのゲームだと考えよう。このゲームにとって我執ひいては自我の存在意義を考えるなら、それはしがみつくためにあるのではなく、手放すに値するためのものと出会うためにこそあるのではないか
思考することを通して知る勇気を持ち既成のシステムに我知らず依存する未成年状態から抜け出すゲームにとって、自我は一種の賭け金なのだ。自我は手放すためにある。手放しても大丈夫なものと出会うための賭け金が、自我なのである。
カーソンが「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないとし、「神秘さや不思議さに目を見はる感性」すなわち「センス・オブ・ワンダー」。我執の強化によるストーリーの停滞はアイディア発見の要素を伴うことで、ゲームとしてより豊かなものになるだろう
 

終わりに

自我について考えることがある。それは感覚を統御するようでいて、ときに感覚に不意打ちをくらう。主人の顔をして奴隷のような卑しさを持つ。レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』のアイディアは、改めて自我の貧しさに気づかせてくれる。「センスを磨け」とはよく聞く言い回しだが、あの真意は自我をびっくりさせるだけの刺激をじゅうぶん摂取せよといった含みもあるのかもしれない。おそらく、じゅうぶんに磨かれたセンスなら、部屋から一歩も出ずとも、庭から外へ出ることがなくとも、驚きに満ち足りた生活を送れるだろう。(たとえば画家の熊谷守一はその道のプロ)

_了

関連資料

レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』,新潮社,1996

吉田武『虚数の情緒』,東海大学出版会,2000

ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』,東京創元社,1980

坂口恭平『発光』,東京書籍,2017

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