【幸せになるには】悩みが多い人は自分が大好きなだけ|+言語ゲーム

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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。今回はブロガーで作家のはあちゅうの『半径5メートルの野望 完全版』から、幸せになるための考え方・方法・姿勢について掘り下げています。話題としてはかなりチャラい部類になると思いますが、「幸せになるには自分を忘れましょう〜」みたいな一見して宗教臭い視点をチラ見しつつ、その根拠を探るために言語ゲームのアイデアを参照している、チャラいどころかなかなかにメンドクサイ記事になっております。
この記事で取りあげている本
この記事に書いてあること
  • はあちゅうの『半径5メートルの野望 完全版』の第8章に「悩みが多い人は、結局自分が大好きなだけ」というくだりがある。ここで紹介されているエピソードの最後に、「自分のことばかり考えていたら悩むけれど、ハッピーな人は、人のことを考えているからあんまり悩まない」という結論されていて、幸せになれない人の原因に悩む自分がいることに気付ける。
  • 言語ゲーム論の視点では、社会的である人間はつねに何らかのゲームに参加している。ゲームとは人間の言葉の用い方・振る舞いの効果として現れるものであり、そこにはルールも観客も存在する。この観点で言えば「悩む自分」も、特定の言葉の用い方・振る舞いをするゲームの結果として表現されたものだと説明できる。
  • 悩みのないハッピー(幸せ)な状態になるには「自分への興味」ではなく「他人への興味」を優先する必要がある。なぜなら「自分」という観念は「悩む原因」になるからだ。むしろ自分は忘れてしまうべきなのだ。ただし、それは自分を「幸せかどうかを問うもの」ではなく「幸せを享受するもの」として(言葉を使うようにして)使用すべきだ、という意味である。

 

【幸せになるには】悩みが多い人は自分が大好きなだけ|+言語ゲーム

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はじめに

我が家の本棚にはいわゆる積読本が山のようにあります。そんな環境にいると、ふとした拍子に目についた本に手を伸ばしてみることがあるのですが、今回はブロガーで作家のはあちゅうの『半径5メートルの野望 完全版』が標的となりました。
ザムザは購入した本をいつ買ったのかをメモしておく習慣があります。見ると購入したのは2018年の12月11日の火曜日でした。
当時のザムザは仕事を職場に辞表を提出していたこともあり、これからの生き方に悩むところが多かったのでした。そんな時期でしたので、SNSで自分の “生き方” を発信する「はあちゅう」の存在をどこかで知っていたのでしょう、そうした脈絡から手に取ったのではないかと想像します。
 

悩みが多い人は、結局自分が大好きなだけ

第8章に「好きなことをして生きていくために」というタイトルが付けられています。ザムザが気になったのはそこで見つかる「悩みが多い人は、結局自分が大好きなだけ」のくだりでした。
そこで書かれている内容は、はあちゅうがインドのヨガ施設で開催されたヨガのワークショップに参加した際に見聞きしたことの紹介でした。
ワークショップの参加者たちは先生から二つの質問をされます。
  1. 「どうやったらあなたは幸せになれますか?」
  2. 「あなたは何を求めてインドに来ましたか?」
順番としては上の通りなのですが、文章で紹介されているのは②→①の順なので、ここでも同じ順から紹介します。
②の質問に対して(はあちゅう自身も含めて)多くの参加者は「自分を高めたい」「自分を見つめ直したい」「自分を変えたい」などの目的を語ります。
ところが、参加者の中で “一番有名で一番世間的に成功している人” (以下:超成功者)が語ったことは他の人と毛色が違いました。その人物は次のように答えます
「僕は、みんなが何を求めてここに来ているかを知りたくて来た。好奇心だ」
はあちゅうは超成功者の答えが印象に残ったと言います。
ただのミーハーですが、何もかも手に入れたような人ってどんな答えを言うんだろう?と期待してしまったところがあったので、その答えを聞いた時、みんなの答えは「自分への興味」なのに、彼の答えは「他人への興味」だったことがすごく印象に残りました。
(p249-250)
超成功者の②の質問に対する回答を受けて、はあちゅうが興味深く紹介しているのは同じ人物の①の質問に対する答えです。その人物はどうすれば幸せになれるかと訊ねられて、「僕はすでに幸せなんです」と答えたのでした。
ようするに、超成功者は「私はすでに幸せである」→「みんなが何を求めているのか知りたい」という思考チャートを描いているのですね。
はあちゅうは上のエピソードを以下のようにまとめています。
自分のことばかり考えていたら悩むけれど、ハッピーな人は、人のことを考えているからあんまり悩まないのかも、なんて思ったりもしました。(p250)
 

自分とは何か、幸せとは何か

はあちゅうのヨガワークショップでのエピソードからは2つの問いかけを読み取ることができます。──ひとつは「自分とは何か」であり、もうひとつは「幸せとは何か」。
ここでは「自分」を意識する限りは本当の意味での「幸せ」からは遠ざかるという点を取りあげます。

本当に幸せであるならば

一般に「自分」が意識されるときや「幸せ」が目標に掲げられる場合は、現状がネガティブなシチュエーションにいる場合がほとんどではないでしょうか。被害を受けたときや責任を感じたときに「自分」は意識されるでしょうし、苦悩していたり後悔していたりすれば幸せ “ではない” ことで「幸せ」になりたいと願うものですから。
一見してポジティブに思われる「肯定感」や「勝利感」といった場合に挙げられるときの自分も、わざわざ「ポジティブな感情を獲得したのは自分なんだ」と確かめねばならないなら、そこには何か自分を意識しないではいられない “不安の影” があるからに他なりません。そこには不安であるがゆえに何かに頼ろうとする神経質な態度があるのです。
人はわからないからこそ不安になり、不安だからこそ何かに頼ろうとします。たとえば頼ろうとしてすがるのが自分でしょうし、その自分が安心できるものだと信じたいがために他者からの承認を求めたりもする。こうした承認欲求の上に自らの幸せを打ち立てようとするなら、根本にある不安は残りますし、その不安の原因である “わからなさ” にもノータッチです。
本当に幸せであるならば、不安だからといって自分のことを心配することもない。なぜならつねに “安心している” のは自分自身の側なので、 “安心したい” といった関心を自分自身へと向ける必要がないのですから
 

人のことを考えるならば

 はあちゅうが紹介した “一番有名で一番世間的に成功している人” が(おそらく)嫌味な感じもなしに自分はもう幸せなのだと語り、「自分への興味」ではなく、「他人への興味」に関心を向けているのも、不安というものがないからでしょう。
あるいは「他人への興味」という点では「おもしろい」という感受性が参考になるかもしれません。その場合、本当に幸せで不安や悩みがないならば “おもしろがる” のはつねに自分の側なので、自分自身を “おもしろくする” 必要がなく、つねに他人の “おもしろさ” を発見する側に身を置くことができます
 さらに言えば、「他人」への興味は限定的なものでなく、人間一般の関心に向かうほど自分から離れることができるのかもしれない。「自分への興味」がむしろ不安を呼び込んでしまうとすれば、(一人称での自分語りの場合と三人称での自分語りをした場合では、三人称で語ったときの方が感情を抑制することができるように)《この自分》を意識してしまうことは感情生活にとっては控えめにした方が良いようです。
つまりは、「自分」を気にしているうちは「幸せ」にはなれない。──そう考えても良いのでしょう
(ヨガや瞑想で扱うのは「不安からわからなさを見つめる」のではなく、「わからなさから不安を見つめる」ための訓練です。)
 

言語ゲームから見た「自分」と「幸せ」

ここでははあちゅうの「自分のことばかり考えていたら悩むけれど、ハッピーな人は、人のことを考えているからあんまり悩まない」という指摘を言語ゲームの観点から検討します。
特に注目するのは「悩む」という心のあり方です。

悩むとは何か

自分のことばかり考えて悩んでしまう。これは人間の悩みの大半であり大元だと言っていいでしょう。一見して他人の心配をしていても、実のところは “自分が気にしすぎていた” なんて事態が殆どだったりします。
「悩みの大半は人間関係である」などと言われる際にも、人間関係の中で自分を中心に置くからこそ、思い通りにならない他人の言動に一喜一憂したりするのではないでしょうか。「他人と過去は変えられない」といった言葉もあるように、悩みには「過去を抱える自分」や「他人と付き合う自分」の姿がつねに見え隠れしているのです。
たとえば精神科医の西多昌規は『感情に振り回されない技術』の中で “感情に振り回される人” の特徴として次のように語っています。──「こうなるはず」「かくあらねばならない」と思う傾向が強い人は、イライラしたり焦りを起こしやすい
自己中心的な人にとっては、気に入らないことがあった場合に変えようとするのは自分ではなく他人となる。だからこそ、周りと軋轢を生みやすい。
以上のような「こうなるはず」「かくあらねばならない」といった思いは一種のルールだと言えます。そのルールを遵守しようとするからこそ、自己中心的な振る舞いがゲームとして起動する。以下ではそのようなゲーム性を「言語ゲーム」のアイデアから検討していきます。
 

言語ゲーム:プレイヤーからゲーマーへ

ここでは「言語ゲーム」について紹介します。このアイデアは哲学者・ウィトゲンシュタインの名前を出すことが慣例ではありますが、ここでは「プレイヤーからゲーマーへ」の運動として解説することにします。

言語ロボット

まず、ゲームの初めにルールは存在しません。それはまだゲームですらなく、単なる人間の個々の「言動=振る舞い」であり、その振る舞いが連続的に行われ、ある規則を持ち始める。このときの “規則” は連続的な振る舞いを客観的な視点から眺めたときに発見されるものです。これがルールであり、そのルールに適正であるかどうかによって「振る舞いの規則的な連続性」は “それを守ることによってゲームとして成立することとなります。このゲーム化が起こることによって、はじめてプレイヤーはプレイヤーとなるのです。
ここでの “プレイヤー” は「学校に通う生徒」であり「会社で働くサラリーマン」であり、「家族を営む一員」のことです。それぞれが “プレイヤーとして” 学校・会社・家族のゲームを生きています。これは原理的な話で、人がなんらか属性を持つ社会的に意味のある存在でいるためには、つねに何らかのゲームに参加している必要があるのです。
(やや戯画的な説明ですが)多くの場合、プレイヤーはゲームの遊び方に対して自動的な姿勢でいます。だからこそ、生徒であれば学校で教師の指示に逆らうことはなく、サラリーマンであれば会社の仕組み抗うことはなく、家族ではそれぞれの役割をただまっとうするしかない。人がそれらのゲームに参加すること、すなわち、人が学校の生徒・会社の組織人・家族の一員になることは──言葉の意味が辞書で説明されている通りの意味しか持たないと信じるように、自分自身もエスカレーターを利用するように──自動的に物事を処理し、動作を遂行するロボットみたいに自分というものを決定してしまうのです。ルールを殊更意識しているわけではない、それなのにルールに対して執拗な振る舞いをしている。これを「言語ロボット」と呼びましょう。
以上のような言語ロボットに対して、言語ゲームの視点は別のあり方を提示します。
 

言語ゲーマー

ゲームのプレイヤーは必ずしもルールに縛られているわけではありません。ゲームをせずには社会に属することも他人と関係することもままならない以上、ゲームをするためにルールを守っていはするのですが、たとえ他人と同じゲームをするにしても、「たった一つの遊び方しか存在しないのだ」と考えなくてもいいのです。
言語ロボットだとルールに(意識するしないに関わらず)愚直に従って自分の役割を演じるので、学校における生徒として・会社にとってのサラリーマンとして・家族にとっての一員としての生き方 “らしく” 生きようとする。だからこそ “そうではない” 生き方を「非常識」だと感じてしまうのです
しかし、現実には非常識な人間がいます。非常識な人間は「常識を打ち破る」という点では、 “クリエイティブ” などと言われもし、新しい価値を提示することがあることも本当です。言い換えると、そうした非常識は既成のゲームのクリア条件にこだわることなく、それとは無関連に別な遊び方を発見あるいは新たなゲームを創出する可能性を宿している。さらには今参加しているゲーム以外のゲームも視野に入れた(比較文化的な)活動ができるのです。
こうしたクリエイティブな人間は単に「ゲームをしている人(プレイヤー)」なのではなく、「ゲームを遊んでいる人(ゲーマー)」になっている。プレイヤーがただゲームの参加者であるの対して、ゲーマーは自身が参加しているゲームを分析・攻略するところで違っています。
こういった、自分が参加するゲームに対してつねに俯瞰的な視点を持っているプレイヤーを特に「言語ゲーマー」と呼ぶことにします
 

言語ゲーム

プレイヤーとゲーマーの違いを産むのは「言語ゲーム」を理解しているかの違いだという説明もできます
言語ゲームとは何か。それは「言語っぽいゲーム」のことですが、少し “言語” についての解説をしましょう。
言語ゲームがなぜ「言語 + ゲーム」なのか。それはまず(人間がおのずと習得することになる)言語というものの意味と文法が、言語を使う人が自分で意味を考えるようになっているのではなくて、伝統的にそういうふうな使い方をしているからそういう使い方になっている、といった約束事によって成立していることに由来します
たとえば「ウザい」という言葉の意味は、「ウザい」が使われた場面によって決定され、一般化し、「ウザい」という言葉の意味が一種の伝統として定着していきます。それは使用された場面の数と公認のものとなった意味によってふくらんでいくわけです。
言語はこうした緩くとも確かな伝統によって営まれているゲームである。こうした事情が人間の社会的活動の全般に適用できるのです。なにせ人間の社会的活動でまったく独自におこなわれるものはなく、言語のようにある種の「伝統的なしきたり」を前提にすることによってしか個人の活動というものは成り立たないのですから。
──この姿勢を理解できないプレイヤー志向のタイプだと「言語ロボット」として堅いルールに支配されたゲームをすることになります。あるゲームの中で意味があるとされていることを真に受け、それが意味の本体だと信じてしまう。「男は外で働いて女は家庭を守る」だとか、「会社員は副業してはならない」だとか。あるゲームの中で正しいとされているルールが「ジェネラル・ルール」だと思い込んでしまい、実はローカルなものでしかない可能性が見えなくなるのですね。
対して、言語ゲームのことをわかっているゲーマー志向のタイプでは、「言語ゲーマー」として自分の関心に合ったゲーム活動をすることができます。自分が参加しているゲームのオルタナティブな可能性が見え、より良いプレイ方法を吟味し、別のゲームとの関連を考察することもできる
言語ゲームの考え方は、人間が社会的活動にコミットする際に、「自分がどんなゲームに参加しているのか、どんなルールを遵守しているのか、他にどのようなゲームプレイの可能性があるのか」を反省するための思考フレームとして機能するのです
 

悩める心とは何か

ここでは言語ゲームから「心」を考え、そもそも “心そのもの” なんてものはないという点を確認し、その上で「心の問題」や「悩んでいた自分」を解消する道を検討します。

「心」はどうあるのか

言語ゲーム理論を用いて研究をする社会学者に橋爪大三郎がいます。彼には『「心」はあるのか』という著書があり、タイトルにある通り、そこでは人間の心がトピックになっている。──これはまさに「自分のことばかり考えて悩む人」がこだわっている領域のことだと言っていいでしょう。
素朴な感覚として、わたしたちは心こそが自分自身だと考える傾向にあります。内面の世界ですね。たとえば誰かと面と向かって話す際にも、建前と本音を使い分け、本音の方に “本当の自分” を見出し、その居所として挙げるのが心なのである、といった具合で。
橋爪はそんな素朴な感じに対して、次のような立場を表明します。
お腹がすいた、うれしい、幸せ、……というように、言葉の数だけ感情が出てきます。さまざまな感情が、人びとめいめいにとって開かれてある、私一人にも開かれてある。内面は見えないけれども、言葉で伝え合えば、見えるようになります。そのときお互いに見えるようになった自分だけのもの、それを「心」と言うのではないか。「心」は言葉のなかで作られているものである、というのが私の立場です。
(『「心」はあるのか』,p62:太字は引用者)
上の立場・考え方は言語ゲーム論をベースにしたものです。文化によって虹の色が違った色数で認識されるように、人間の感情もまたそれを表現する言葉の数だけある。ここでの “感情” は言葉の数に合わせて他人に伝えることができ、互いに伝わった感情が見せてくれる自分だけの領域の「これは自分だという感じ」を告げ知らせてくれるものです。
つまり、わたしたちの内側に「心そのもの」があるのではなくて、人間が使用した言葉の「効果=使用感」として作り出されてくるのが心なのだ。──橋爪が心を説明する立場はそのようなものなのです。
 

言語ゲームにおける観客

ここでは言語ゲーム理論の一般的理解として知られる「プレイヤー-ゲーム-ルール」の三項目に対して、「観客」という項目があることを指摘します。それによって自分自身の「心の問題」を一種のゲームとして捉えた場合に、プレイヤーと観客との関係に注目する観点を得られることを紹介します。
ゲームには観客が不可欠

「心」が「言葉の使用感」として作り出される。これが言語ゲーム理論から説明した “人の心” です。言語ゲームではプレイヤーがおこなう言葉の用い方・振る舞いの結果としてそれらが意味のあるものだとされるゲームとそのルールが発生します。しかし、そのような「プレイヤー-ゲーム-ルール」の三項目に対して、それらが成立する上で重要な第四の項があるのです。それが「観客」です。
思想家・東浩紀は『哲学の誤配』において次のような言語ゲーム解釈を語っています。
まず一般的な言語ゲームの理解として、ゲームをおこなうプレイヤーにとってのルールの不在を強調するものだったと言います。そしてルールが事後的に振り返って見出されるものでしかいからこそ、同じゲームの中であってもゲーム進行の過程でルールが変わることもありうるのだと続けるのです。
──しかし、そのような一般理解に対して、東は言語ゲームの考え方が優れているのはゲームと観客の関係を示したところにあると言います。
核心はむしろ、ゲームがゲームとして続くためには必ず「観客」が必要となること、裏返せば、ゲームとはそもそも観客を生み出すためにこそ続けられるものであることの発見にある。
(『哲学の誤配』,146)
ゲームプレイをする上でプレイヤーの意識にはルールが存在していない。なぜならゲームに夢中でいるのだから。しかしルールのことは意識していなくても、観客の目は気にしないではいられません。すなわち実質的には観客のまなざしこそがプレイヤーにルールの存在を呼びかけるのです。だからこそ「プレイヤー-ゲーム-ルール」の三項がひとつのゲームとして成立し、そしてゲームが続いていくためには観客の存在が不可欠となる。「観客こそが、プレイヤーの快楽とは別に、ゲームのアイデンティティーを作り出し支える」ことになるのです。
 
プレイヤーと観客の関係

ここで気がかりになるのはプレイヤーと観客の関係です。ゲームが “観客を生み出すためにある” とすると、ゲームを始めようとするプレイヤーの観客に対する関心も気になってくるでしょう。関心があるのか、ないのか。あるのだったら魅せるのか、それとも媚びるのか。──おそらく、媚びてしまうとダメなのです。媚びてしまうと他人の基準で自分の快楽(あるいは幸せ)を決めてしまう。。
作家・百田尚樹のよく売れているメンタル対策本には次のような戒めをしている一節があります。
常に自分を他人と比べて、勝っているか負けているか、幸福かそうでないか──意識的、無意識的にかかわらず、そんな比較ばかりしている人は、はっきり言って一生、本当の幸福感を味わう事はないでしょう。
(『鋼のメンタル』,p141)
「本当の幸福感」は他人との比較をすることを通じて、他人に自分の幸せの基準を明け渡しているうちは手に入れることができない。これはメンタルの健康状態を良くするアドバイスではありますが、言語ゲームにおける「プレイヤーと観客との関係」にあっても適用させることができます。導き出される教えとは、観客に媚びてはならない。そうではなく、魅せるのでなければならない
観客に対するプレイヤーの関心としての「魅せる」とは何か。それはビジネスライクに言えばApple社のキャッチコピーとして知られる「Think different.」のことです。カスタマー(顧客)の側には固定概念しかなく、それとは異なった “オルタナティブな価値” を提示しようとし──ここには媚びの姿勢はありません──それでいて、自分が始めたゲームを楽しんでくれる観客を集めることができ、結果としてゲームのアイデンティティーを作り出し支えてもらえる、これが「媚びる」のではなく「魅せる」姿勢だと言えます。
重要なのは自分のゲームを楽しむ基準があくまでも自分自身の側にあるということでしょう。(ここで言われている「自分の基準」は「自分への興味」とは同じではありません。「自分の基準」は「自分への基準」ではない、だからこそ「他人への興味」と両立させることができる。これは言葉上のこだわりのように見えますが、ゲームの遊ぶ姿勢としては大切な心得となるでしょう。)少なくとも、自分の幸せを他人任せにしているうちは本当の幸福感とは縁遠いところにいることは確かです
 

問題は心なのではない

人が思い悩むときにモヤモヤする場所が心(と呼ばれるところ)ですが、心が言葉を用いるなかで出来てくると考えるのが橋爪大三郎、あるいは言語ゲームの立場でした。
「心」が「自分」とニアイコールの関係にあることを思うと、人々のあいだで言葉をやりとりするその結果としてあたかも心というものがあることになるのなら、自分というものもまた、ある種の言語ゲームの効果として作り出されている現象だとは言えます。仮に心がなくなって意思を持たないゾンビになった自分を想像してみてください。果たしてそれを自分と言えるでしょうか。
──そうなってくると、「自分のことばかり考えて悩む人」もまた、特定の言葉を使用したことで生じた使用感によって現れたものだと考えられそうです
現に思い悩んでいるという言葉の用い方・振る舞いがある以上、心や自分が存在しないとは言いきれません。しかしそこで悩まれているものを単純に心の問題にしてしまうのはいかがなものだろうか?──橋爪はそう問いかけるのです。
日常が生きづらかったり、自分が本当の自分でないように感じられたりしたとして、それは、はたして「心」の問題だろうか。私の感じでは、たぶん、かなりの部分は「心」の問題ではなくて、政治や経済や社会や、哲学や宗教や、もっと幅広い関心の中で考えた方が良い問題なのだと思う。それを無理に「心」の問題と言う枠に押し込めてしまうと、かえって解決から遠のいてしまうかもしれません。
(『「心」はあるのか』,p186)
引用したところでは、心のせいにしてしまうことは問題を考える枠組みを狭めてしまうことになる、と考えられています。悩みを解決したいのであれば、その枠を取り払い、「心の外に目を向ける必要がある」とさえ言っているようにも読める。
ここで、はあちゅうが「ハッピーな人は、人のことを考えているからあんまり悩まない」と述べていたのを思い出しましょう。そのメッセージを改めて解釈すると、橋爪が心の問題は「政治や経済や社会や、哲学や宗教や、もっと幅広い関心の中で考えた方が良い」と説いているように、悩む先が自分という限られた領域でおこなわれているから苦しくなるのであって、関心の幅を外へ外へと広げていきさえすれば「悩んでいた自分」も解消されるだろう、というわけです。
 

ゲームとしての「自分」と「幸せ」

ここまで取りあげてきたのところをまとめると次のようになります。
  • 言語ゲームでは人間の社会活動をプレイヤーのゲーム参加およびゲームプレイとして理解し、またゲームがゲームであるためにはプレイヤーは観客との関係を意識しなくてはならないと考える。
  • 人間の幸せは他人の基準に合わせているうちは手に入らない。ゲームをプレイヤーと観客の関係として理解するなら、観客に媚びるのではなく、観客を魅了するゲームプレイをしなければならない。
  • 言語ゲームから見た人間の悩みは「心」や「自分」を気にするような言葉の用い方・振る舞いの結果として、 “気にするようになっている” からであると説明される。だから、悩みは悩むことでは解決しない。
ようするに、言語ゲームから見た「自分」も「幸せ」も、どちらも “それがあるということにする” というゲームプレイ──人間の言葉の用い方・振る舞いの効果として出現するものだというわけです。
だからこそ、「人間の悩み」であっても “悩む” というゲームプレイの効果・結果として現れているので、悩み続ける限り、「悩みゲーム」は終わることがないのですね。
それゆえに、本当に悩みを解消したいのであれば、悩みゲームとは異なる言葉の用い方・振る舞いを通して、「別のゲーム」を始めればいい
 

再考:ハッピーな人になるには

ここではこれまで見てきたポイントをまとめながら、結局ハッピー(幸せ)な人になるための方法が何なのかを見ていきます。

「自分への興味」ゲーム

当記事は『半径5メートルの野望 完全版』の第8章「好きなことをして生きていくために」から、著者であるはあちゅうの見聞きしたヨガワークショップのエピソードが発端だったのでした。
再びそのエピソードを紹介すると “一番有名で一番世間的に成功している人” (以下:超成功者)が、ヨガの先生から次の質問をされます。
  1. 「どうやったらあなたは幸せになれますか?」
  2. 「あなたは何を求めてインドに来ましたか?」
他の多くの参加者が「自分への興味」を語るなか、超成功者は「他人への興味」を答えました。はあちゅうはその理由として、幸せに関する超成功者の答えを持ち出します。そこで彼が答えていたのが「僕はすでに幸せなんです」だった──。
以上を踏まえてはあちゅうは、「自分のことばかり考えていたら悩むけれど、ハッピーな人は、人のことを考えているからあんまり悩まないのかも」という結論を出したのでした。
さて、わたしたちは言語ゲームの立場から見た「人間の心」を見てきました。
心があるからこそ「自分への興味」も起こり、自分のことばかり考えて悩むことにもなる。そして言語ゲームからすると、わたしたちはそもそも「心」なんてものが “ある” ということにしたゲームに参加していて、だからこそ「心」があるという設定で生きなくてはならなくなっている。すなわち言葉の用い方や生活上の振る舞いの効果として、結果的に「心がある」というゲームをすることになっている。つまり、言語ゲームによれば「人間の悩み」もひとつのゲームの遊び方によって現れていると説明できた
心があり、自分があり、そして悩みもあれば幸せを願いもする。これらもゲームとそれが備えたルールによって立ち現れてくる「意味」です。言い換えれば、ゲームという枠組み基盤が制約として存在するからこそ意味が保証されている
ゲームに対してそのルールにプレイヤーとしてただ従っているのではなく、それが他の多くのゲームのうちのひとつであるという認識を持つことがゲーマー感覚です。──言語ロボットから言語ゲーマーになることで、生きることと遊ぶこととは同じ意味になる。
ようするに、遊び方を変えさえすればゲーム自体もまた変貌するのではないでしょうか?──こうした観点が浮かび上がってきます。
 

自意識からの逃走、闘争

はあちゅうの超成功者のエピソードでは、悩みもない幸せな状態だからこそ、他人(もしくは人間全般)への興味を持つことができるのでした。このことは言語ゲームの視点から逆照射すると、「幸せ」になるためのゲームは「自分」への意識を忘れていくようにすれば良い、と考えられるでしょう。つまり、自意識からの逃走
往々にして「自意識過剰」な人はつねに不安に怯えるものです。「みんなが自分を見ているに違いない」などの視線恐怖などがそうでしょうし、そもそも人前で緊張するなんてことが “自分が他人によく見られたい” という自意識に由来するものです。こうした「症状」は神経症として説明されるものですが、いずれにせよ幸せになるためには自意識過剰の状態では厳しいものがあることがわかるでしょう。
ところで多くの自己啓発本やビジネス書、そしてはあちゅうその人が、ほとんど幸せになるための第一原則であるかのように語っているのが「行動せよ」です。──なぜか?
多くの成功者が「自分を変えたければ行動を起こせ」と説いたり、あるいは某予備校講師が語る「いつやるか?今でしょ!」、もしくは故事のほうでも「案ずるより産むが易し」といった言葉がありますが、それも当然で、現状に満足していないのは今参加しているゲームのせいなのだから、別のゲームに参加するためには別の言葉の用い方・振る舞いでプレイする必要があり、新しいゲームに参加し、あるいは自ら作り出すことにこそ、他人を基準にしない自分の幸せが開かれるからだ、そう説明できます。
自意識の話で言えば、行動することは何かと現状のゲームにこだわろうとする「自意識との闘争」となります。なぜなら、行動とは「新しい刺激」をつねに求めることであって、その刺激に反応するプロセスを経て「新しい自分」に変身・変態していくことなのですから。 
たとえばわたしが見聞きした言葉にも「なりたい自分を思い描く」や「モチベーションよりスタンダード」といった教えがありますが、これらも行動を介して別の・新たなゲームに参加するためのメッセージ・アジテーションであることを読み取れます。
以上の行動至上主義は結局のところ、ゲームの遊び方を変えてみれば違ったゲームが楽しめますよ、そう語っているのです
 

ハッピーな人になるには

はあちゅうはヨガワークショップで出会った超成功者を取りあげて、「成功者になること」について語ったのではありません。そうではなく、彼女が得た気づきは「ハッピー(幸せ)な人の考え方」だったのでした。
他方で、幸せではない人は「自分のことばかり考えているから悩んでしまう」、だから幸せになれないでいる、というわけですね。
以上の理解に「自分の基準/他人の基準」といった、人が幸せになれるかどうかを左右すると言われる「幸せの基準」の視点を持ち込み、さらに人は誰しもゲームに参加していると考える「言語ゲーム」の観点を重ねると、次のアイデアを取り出すことができるように思います。
不幸なゲームは自分への興味から他人の基準を参照することによって起こり、幸せなゲームとは他人への興味から自分の基準を照明することによって起こる。
ところで、はあちゅうの出会った超成功者はこう答えました。「私はすでに幸せである」→「みんなが何を求めているのか知りたい」。言動によって自分が参加しているゲームを変えられると考える言語ゲームの視点で言えば、超成功者の答えを「みんなが何を求めているのか知りたい」→「私はすでに幸せである」という形に書き換えることができ、これもまたひとつのハッピーになるための方法となるでしょう。
逆に、自分のことを幸せだと思っていない人物であればどうなるでしょうか。おそらくこうなります。「私は不幸である」→「自分が何を求めているのかを知りたい」。こうした思考は多くの自己啓発セミナーなどに参加する人の特徴かもしれません。現にヨガワークショップの先生が訊ねた質問はそのような参加者の思考を答えさせるものでした。
そしてハッピーになるための方法として取りあげられた「他人への興味」を採用すると、思考のあり方は次のような形を取ります。「私は不幸である」→「みんなが何を求めているのかを知りたい」。このように書いてみると、不幸であるという意識はあからさまに邪魔です。なぜなら、幸か不幸かで悩む自分(の心)はそれ自体で「自分への興味」となり、「他人が何を求めているのか」という関心をあくまでも自己都合のものにしてしまいかねないのですから。
自己都合ではハッピーになるための条件である悩む自分そのものが保存されてしまう。ハッピーになるためにはそもそも「幸か不幸かの問いそのもの」を忘れなくてはならないのに。(あるいはこうとも言えるでしょう。幸せかどうかは問うものなのではない、と。)
そういうわけで、あたかも原因と結果であるかのように並べた「私は不幸である」→「みんなが何を求めているのかを知りたい」の図式は、「みんなが何を求めているのかを知りたい」を原因に設定し、その後で「私はすでに幸せである」という結果が来るようにするほうがいい。「私は不幸である」もしくは「私は幸せなのかどうか」という前提を設定する必要なはい、と、そのように考えられます。
ようするに「自分」とは幸せかどうかを問うものなのではなく、ただ幸せを享受するものなので、“問うための自分” を原因の位置に持ってきてしまうと、繰り返しますが、悩みもないハッピーな状態になるために手放さなければならない「自分への興味」が残ってしまうのです。だから最初に来るのは「自分」ではなくて「他人」すなわち「みんなが何を求めているのかを知りたい」でなければならない。
──これがハッピーになるための方法…いや、体勢となります。
 

物語のように、主人公のように

成功者の人生は「サクセス・ストーリー」と呼ばれます。「成功物語」ですね。この言い方には「人生は物語である」ことと「物語には成功したものとそうでないものがある」という2つのメッセージが暗に含まれています
成功者たちが語る「自分を変えよう」、「目標を達成しよう」、「夢を叶えよう」などの自己啓発的な文言には「あなたの人生を成功物語にしよう」という挑発があることも本当でしょう。
人は人生を物語のように理解し、自分を物語の主人公にように考えることもできる。ただし、サクセス・ストーリーの主人公のように行動している人は多くはない、これが前提として存在する
そもそも「成功する」という言葉が何を意味するのかには、一致した理解を持つことが難しいものがあります。社会的な成功者がじつは我が身の不幸を嘆いていた、なんてことはよく聞く話です。なので、成功した状態は客観的にというよりも主観的に定義されなくてはならない。たとえば「幸せ」などによって。──そう、わたしたちは結局、他人にとっての「成功物語」であるよりも自分にとっての「幸福物語」であってほしいのです
当記事で取りあげたのは「幸せ」とは何か・どうすればそうなれるのかというトピックでした。そしてその方法および正体が「他人への興味」によって駆り立てられた結果として、「自分への興味」と「幸せな状態」とが一致した形でもって享受できる、というものだと書きつけることができたのです。──このことは “ひとつのヒーロー像” を物語っています。
何のヒーローかというと「サクセス・ストーリー」の、です。
あるいは別の言い方をすると、実人生を物語として考えた場合にそのようにあるべき主人公=自分の姿を物語っているのです。
そのヒーロー像は英雄譚にも似ていて、あるいは少年漫画の王道にも通じているでしょう。なにせ、「他人への興味」によって「自分への興味」を実現させる、そのことによって自分自身の幸せを享受するのですから。
あなたは知っているはずです。自分の身の危険を顧みずに守るべきものを助け、他人のことばかりを気に掛ける存在を。そして手近な危機に駆けつけ、大勢の人を救い、世界を守り、物語に大団円をもたらす、そんなヒーローの存在を。
彼らの行動原理は「他人への興味」あるいは「行動することへの勇気」として説明できるかもしれません。いずれにせよ自分のことばかり考えているわけではない。それは共通しているでしょう。むしろそこでは悩むべき自分がないかのように、自分よりも他人を優先する姿があります。
以上のことを踏まえると、いかにしてあなたの人生を幸福物語にするか? または、どのような主人公になればあなたの物語を幸福なものにすることができるのか? この問いに対して、わたしたちはこう答えることができます。
少年漫画のヒーローが世のため人のために己を顧みずに悪と闘うように、みんなが求めているものを、自分もまたみんなのうちのひとりとして発見し・実現するために行動することで、あなたの物語は幸福なものとなる。──結局のところ、ヒーローに憧れた少年時代の夢を忘れずにいられるか、この点に掛かっているのかもしれません。
 

おわりに

この記事では幸せになる方法……なんていう、聞けばシラケるような話題を検討したのでした。言語ゲーム論なども参照して、結果、悩みのない「幸せ」な状態になるには「自分」なんてものは邪魔で、できれば忘れてしまったほうがせいせいするような代物なんだということがわかりました。
補足すると、ここでの「忘れ方」はある種の認知症のようにずっと忘れてしまうものではなくて、眠るときに意識を失うような忘れ方です。すなわち忘れても忘れているだけできちんと甦るような忘れ方。いわゆる「物事に熱中・夢中になる」といった言い方が適当でしょう。つまり自分とは幸せを問うものではなく、受けとるものなのだ、というわけです。
もしも本文中の記述に混乱しているような箇所があるとすれば、それは実際に書いていたザムザが混乱していたのでしょう。ご勘弁ください。この記事はまとめ(られた)記事ではないのです。
_了

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