目の見えない人だからこそ見えているもの|+オイディプス神話解釈

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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。今回は視覚障碍者について書かれている一節を吉田尚記っていうアナウンサーの本『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』に見つけてしまってね。そこから哲学者ポール・リクールオイディプス神話解釈を連想した──ただし、「リクール」の名前を出してはいますが、わたしがリクールのラベルで記憶してある限りのリクールであることを釈明しておきます──ので、この記事に仕立てあげました。内容としては、《〈目〉が、「見ること」の条件であるのに、「見えること」が、真実を「見えなく」させている》、そんな話をしています。

この記事で取りあげている本

目の見えない人だからこそ見えているもの|+オイディプス神話解釈

視覚障碍者はウソがつけない?

目を見てものを言え。そういう言葉がありますが、そのときの「目」にはどのような効果が込められているのでしょう。目を見ればウソをついているかどうかがわかる、なんて言い方もあるわけです。それらの使用例を踏まえると、〈目〉はその人間の誠実さであったり、マジメさや真実味などの「根拠になるもの」といった意味合いで使われていることがうかがえます。
アナウンサーの吉田尚記の『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』の中に興味深いくだりがあります。そこでは視覚障碍者のことが取りあげられているのです。彼らは目が不自由であるがゆえに、自分の目の代わりになってくれる他人を「何がなんでも信じるしかないんだ」と、吉田自身が当事者から聞いた実体験を踏まえて紹介しています。
そして、ここから先が興味深いのですが、吉田はこう続けるのです。「きわめて現実的な話、視覚障碍者はウソをつくための基盤となる情報を手に入れられないんです。」……視覚障碍者は目が正常に見えないためにウソをつくことができない、そう続けている。
どういうことか? 人はウソをつける場をしっかり目で確認しないと、ウソはつけません。たとえばいま、ぼくが何かウソをついたとしましょう。それができるのは、真実を知っている人がこの場にはいないっていう確証があるからです。視覚障碍者にはそれができない。真実を知っている人がその場にいる可能性をどうしても排除できないんです。
(『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』,p171-172)
目が正常に機能し、視界が開けているからこそ、「真実なのかどうか」を問える基盤を持つことができる。言い換えれば、本当のことを(故意に)間違えることがウソなのであって、ウソはバレないからこそ真実でいられる以上、本当のことを知っている人がいてはウソがウソとして作用しないかもしれない。視覚障碍者はつねにその確信を持てない、だからこそ、何がなんでも信じるしかない。
 

オイディプス王の解釈

話がはぐれるようですが。古代ギリシャの詩人であるソポクレスに『オイディプス王』という悲劇作品があります。あまりに有名な物語であるため、解釈も多いです。

フロイト解釈とリクール解釈

『オイディプス王』に関するもっとも有名な解釈には心理学者・精神分析家であるジークムント・フロイトのものがあります。いわゆる「エディプスコンプレックス」と呼ばれているもので、“子どもは異性の片親を求めて同性の片親を憎むものだ” という人類が普遍的に共有している近親相姦属性を説いた仮説のことです。
エディプスコンプレックスは占い師が「人間関係に関する悩みごとをお持ちですね」と言われてハッとさせられるくらいには真実味があり(つまり、誰にでも当てはまる!)、否定するのが難しい……。否定することができないことが批判されるくらいな学説だったりして。そういうわけで、フロイトの考案した「エディプスコンプレックス」を知ってしまった後では《『オイディプス王』イコール「エディプスコンプレックス」解釈》といった図式を持つようになる。
しかしフロイトによる《『オイディプス王』イコール「エディプスコンプレックス」解釈》の図式に、解釈学の見地から新風を吹かせたのが哲学者ポール・リクール……なはず。煮え切らないのは典拠となる論文を思い出せないからです。
その論文を読んだのは2014年、京成千葉駅前にあるジョナサン千葉中央駅前店のビル奥側にある奥まった席で目を通したことは記憶しているのですが、そのときに読んでいた雑誌が、思い出せない。そこで示されていた解釈についてはぼんやりと覚えているのですが、それが何というタイトルの論文だったかが……わからないんだな、これが。もしかしたらリクール研究者の書いた論文だったかもしれませんが、さしあたってはリクールの解釈として(そう、わたしが記憶しているので)紹介していきます
 

『オイディプス王』のあらすじ

まず、『オイディプス王』のあらすじ……というより、オイディプスというキャラクターの消息をご覧ください。知っている方は読み飛ばしていただいて構いません。なんなら太字の部分を拾い読みしていただくだけでもオーケーです。
ギリシア神話の英雄[引用者註:オイディプスのこと]。テーベ王ライオスと妃イオカステの子であるが,息子に生命を奪われると予言されていた父によって,生後すぐ両足のかかとをピンで貫かれ,キタイロンの山中に捨てられた。しかし隣国コリントの羊飼いに拾われ,子供のなかったポリュボス王と妃メロペの子となり,王の後継者の地位を約束された。成長ののち,自分の素性に疑問をもち,デルフォイに行きアポロンの神託にたずねたところが,父を殺し母と結婚する運命にあると告げられた。この託宣の成就を避けるため,父母のいるコリントに帰るのをあきらめ,テーベに向ったところ,山中の隘路の辻でテーベからデルフォイに向ってやってきたライオスと出会い,争いの末に殺害した。テーベに着くと,当時この市を悩ましていたスフィンクスの謎を解いて,この女怪を自殺させ,その功績によって未亡人のイオカステと結婚し,テーベの王位につき,2人の息子ポリュネイケス,エテオクレスとアンチゴネとイスメネの2人の娘をもうけた。しかしテーベは,オイディプスが知らずに犯した大罪のために悪疫と飢饉に襲われ,その原因を究明する過程で自分のほんとうの素性を知ったオイディプスは,イオカステが自殺したあと,自分の目を突いて盲目になり,アンチゴネに手を引かれ放浪の旅に出た。そして最後には,アッチカのコロノスに来てテセウスの保護を受け,エウメニデス女神たちの聖林の奥で,神秘的な死をとげたとされる。
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より:太字は引用者)
 

リクール解釈=真理の寓話

『オイディプス王』の世界観から、フロイトは「人間の精神に潜在する欲望の姿」を取りあげました。子供というものは異性の親を我がモノにしたくて、同性の親と敵対する運命にある。それに対して、リクールではこれを「真理の寓話」として捉えたのです。
リクールはオイディプスがみずからを盲いさせた点に注目します。オイティプスは真実を知り、おのれ自身が(たとえ無自覚でのことであったとはいえ)しでかした罪に耐えきれず、真実を見抜くことのできなかった自分の目を、突いた。ここまでだと悲劇でしかないのですが、肝心なのはその先、盲目のオイディプスは女神たちの祝福を受け(たかのように)、死を迎えるのです。ここまで読むと、一気に寓意的な様相を深めていくのですが、リクールが凝視したのはこの点でした。
真理の寓話だ、と考えるリクールの視点に立つと、一見して真相を知ったがために失明したオイディプスも、その逆に、盲目となったために真実を発見することができたのだと解釈できるのです。俗世間の苦悩の発端を見過ごしてしまったがために視力を屠り、聖世界での祝福に浴する権利を獲得した。(おそらく、この寓意が有効なのは、ただ単に目が見えなければいいというのではなく、自分が何も見えていなかったと気づいた上で、見えなくなることを選択する、その意思がポイントなのではないかしら。)そう考えれば、ここで暗示されている〈目〉の寓意は、「見えるからこそ見損ない、見えないからこそ見据えることができる事柄がある」ということなのではないでしょうか。
 

視覚障碍者は器が大きい?

リクールの『オイディプス王』解釈を、吉田尚記が述べたところに重ねてみましょう。吉田はこう語りました。「人はウソをつける場をしっかり目で確認しないと、ウソはつけません。」オイディプスの目を曇らせたものは、目が見えることで出会えてしまう俗世間のいざこざだった……と考えていいでしょう。しかし目を潰して盲目となってみれば、事の正否は不問にされ、まったき肯定の境地に立つことができる。
少なくとも、盲目のオイディプスは娘であるアンチゴネの手に全幅の信頼を寄せなくてはならない以上、利己や保身に走ってウソをつかなければならない理由がないのです。今や彼は自分の弱さをすべて他人に預けることでしか存在できない。吉田の言いかたでは、「相手を信頼する、自分の弱点という有り金を全部相手に賭ける、そうしてしか生きていけない人が現に存在する事実それ自体」が、ここにはある。
改めて、吉田尚記の言いかたを確認してみましょう。
視覚が働いていることによって、視界が行き届いている限りにおいて、はじめて人間はウソをつける。人は口ではなく目でウソをつくというのは、そういうことです。視覚障碍者は人を一〇〇パーセント信じているがゆえにウソも陰口も叩けない。だからあんなに器が大きくて、尊敬できるんですね。
(『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』,p172)
吉田は視覚障碍者を「器が大きくて、尊敬できる」と語ります。そこには「ウソをつくこと」と無縁であるから、という前提があるでしょう。オイディプスが、盲目になることにより見開かれた世界で真理に達したように。そうした、ウソをついてまで固守したい自我を持つことのできなさ、それゆえの尊さがあるのではないでしょうか。
なお、これは「視覚障碍者はそうあるべきだ」といった、価値の話ではありません。そうではなく、〈目〉に依存して生活しているわたしたちの有り様をうかがう糸口に、なればいいなって。
 

終わりに

「目は口ほどに物を言う」ということわざがあります。やや大仰に「目は真実を語る」と言い直してもいいかもしれません。〈目〉が真実を、語る。語りの力。しかし人間の歴史を思えば「語り」は「騙り」でもある。記紀神話、南京事件、コロナ奇禍におけるSNS……etc. 連想ゲームはいいとして、この世は「光あれ」で目が役立つ世界になったわけでありつつ、色によって執着を催すのが人間でもある以上、宗教が語り継ぐ真実が「執着なしのまなざし」であるというのは、やっぱり〈目〉が大切ってことで間違いない。この記事ではそのような「見ないで、見る」式の真理観を取りあげた次第。
_了

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