【ロボットと人間の未来学】知能化としての生命の進化|最後の講義

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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。今回はロボット工学で知られる石黒浩の『最後の講義』を取りあげます。国営放送でも幾たびか特番が製作されていますので、そうしたメディア方面から知った方もいるでしょう。その方の最終講義を書籍化したのが本書です。「生命の無機物化」から進化論の書き直しを説きもするアイデアはSF的な想像力でもあり、想像だけでは収まりそうもない強度があるのです。

この記事で取りあげた本
 
 

【ロボットと人間の未来学】知能化としての生命の進化|最後の講義

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進化=知能化

ここでは石黒浩の「人間のロボット化」や「生物の進化は知能化である」という主張を取りあげ、生命を定義するのに無機物と有機物とを分けることに必然性がないことを見る。また、「進化=知能化」の例として、『劇場版 機動戦士ガンダムOO ―A wakening of the Trailblazer―』を紹介する。

生物の進化は知能化である

ロボット研究で知られている石黒浩の『最後の講義 完全版』である。副題は「1000年後のロボットと人間」。人間の定義をするのに「生身の体」はいらないといった乱暴にも取られかねない主張が刺激的な講義の書籍化。

当の生身の体は人間の定義には不要だ〜というくだりを見てみると、そうなった場合には人間はロボットになるだろうと語られている。人間のロボット化として語られるのは全てを人工の臓器に置き換えるのとであり、有機物としての構成物を捨てて機械になることだと説明されている。──石黒は自身が構想する来るべき人間のロボット化を「無機物化」と呼ぶ。

石黒によるとこうした無機物化は、現在使用されている抗生物質などと同じ地平に位置付けられるというのだ。なぜなら抗生物質もまた自然物ではないのだから。自然物としての人体を機械の体に取り替えることの不自然さはあくまで程度の差に過ぎない、というわけだ。

しかし無機物へのこだわりはおもしろい。石黒はたとえば生物の進化を語るうえで、これまであまりにも(もしくは偶然にも)有機物に偏った進化の系図が記録されてきたものの、実のところそれは限定的に過ぎるのではないだろうか検討する。キーワードになるのは「知能化」である。

僕は生物の進化、生物というか物の進化というのは知能化だと思っています。知能化をどんどん進めるうえで、途中、有機物だっただけだという気がするんです。

今までの進化は有機物の中で動物の進化だけを相手にしていたんだけど、これからは、その先にある機械も全部含めた、有機物、無機物を全部含めた進化の系譜というのが描かれるはずだと思うんです。

生命が現実化する過程で、たまたま立ち寄った先の在り方が(人間=観察者に)動物と見なされる有機物の形をしていた。それが生物としてされてきたものの全てであった。──そこにもしも無機物であるロボットが無機物化した生命体であることを承認されれば、自分たちが描き込まれた進化の系譜を要求したっておかしくない。そして、そしてもしも、もしも今までノケモノにされてきた無機物群が生命体として認められるなら、それは生命にとっての知能的躍進とは言えないだろうか

知能化とはこれまで疎外していた存在を仲間内に引き込む態度として表れるのかもしれない。

 

「進化=知能化」と劇場版ガンダムOO

身勝手ながら、私は上述の「知能化」に関して、『劇場版 機動戦士ガンダムOO ―A wakening of the Trailblazer―』を思い出す。そこで描かれているのは、進化した人類(=先駆者)が「来るべき対話」の相手と出会い、衝突し、交流するというものである。金属で出来た生命なので、旧来の人類であれば対話しようのない相手であるものの、先駆者である主人公は対話を試みる使命にあった。

映画『劇場版 機動戦士ガンダムOO ―A wakening of the Trailblazer―』が、生命の進化の歴史に無機物の存在までも網羅することを説く石黒浩の話題に関連するのは、来るべき対話相手というのが「金属生命体」であるという点だ。金属生命体との対話相手として覚醒した主人公の姿に、石黒の考える「進化=知能化」を重ねるなら、そこでの進化した知能の発現は、先駆者である主人公が無機物生命体を対話相手として認め、理解できるようになったことと関連させられる。つまり、来るべき他者に対して開かれることが、進化の形として描かれているものであるように読み取れるのだ。

ここでいうところの「知能」は「機知に富む」や「知識が豊富である」のとは違う。そうではなく、友愛の念を抱ける対等な存在として交際する態度や能力といったほうが適切だろう。

さしあたっては件の映画で描かれているのはSF的想像力にすぎないものの、石黒が語るように生命の定義が無機物までも包摂することになり、生命の進化がその事実を理解できるようになることと結びついた「知能化」であるならば、「そんなもの存在するはずがない」と信じることは不合理なのではないだろうか。なぜなら、私たち人類は全宇宙どころか地球上でさえ自分たちが出会える他者の全てを網羅できてはいないのだから。

 

進化の系譜と人間の未来

ここでは石黒浩が構想する生命の無機物化を受けて、人間とロボット、人間とコンピューターの違いを押さえる。その違いに関連して、人間が技術を伴った存在であることから人間の運命について触れる。また、運命というSF的な想像力を通して、作家・小松左京の構想した「未来学」を紹介する。

有機物と無機物の違いとは何か

有機物と無機物、有り体にいえば人間とロボットとは異なっている。『最後の講義』のなかでそれは無機物の側から有機物へと近づくことの難しさとして語られている。ひとりの聴講生が訊ねる。

先ほど、人間を無機物に近づけるというお話があったのですが、僕個人としては、コンピューターは数字的には論理ゲートでできているから、人間のような曖昧性とか、ニューラルネットワークの曖昧性を実現するのは難しいのではないかと思うのです。コンピューターの方を有機物に近づけるということは、考えた事はございますか。

以上の質問は、知的な無機物の代表であるコンピューターが所定の真理値表に照らし合わせて直解的にネットワークを構成しようとするのに対し、知的な有機物であるところの人間の知能には真理値表などといった確かなものはなく、曖昧であり、正確なだけのコンピューターが人間の知能の曖昧さへとなりきることができるのか、というもの。極端な戯画化をすると、ガリ勉マジメ君がケンカ上等のヤンキーになれるのかということだ。

コンピューターでは本当に文字通りに直解しかできない。それに対して人間には正解も誤解ができる。真理値表を用いるためにコンピューターは(不幸なことに)決して間違うことがないが、人間は(幸いなことに)間違うことができる。そしてそのために正解することにも価値が生まれる

石黒は聴講生の質問に対してコンピューターと有機物とのもっとも大きな違いとして「生体揺らぎ」を挙げる。生体揺らぎとは、生命が生まれながらにして電気を帯びていて、その電気によるゆらぎを利用し、揺れている状態のままに生体活動のための制御をおこなうシステムのことだ。コンピューターではそうした揺らぎを取り除くべきノイズとして除去することによって直解主義的なクリアな世界をつくり出せる。しかし生体ではむしろコンピューターが嫌うノイズを活かすことによって活動するのだ。

コンピューターと生体とでは活動の原理が異なっている。そうしたことを踏まえて石黒浩などの研究者は生体の原理によって駆動するロボットをつくり出そうとする。

無機物でも熱揺らぎはあるので、それをうまく利用して、原理は生体と同じような、有機物と似たような原理で無機物を制御できるものを作ると、もっともっと効率の良いものが作れるだろうと考えています。

以上の生命進化の道筋を、語り手はあたかも「無機物化への道」であるかのように構想する。さながら人間がいずれロボットになる、といった道筋を。その大元には「人間という種が誕生してしまったこと」を据えるのだ。そうした無機物化へと傾く理由を「人間だけが他の動物の進化の系譜から外れた存在だから」であると考えて。

 

人間の運命の未来学

人間が他の動物とは違うという話は往々にして語られる。言葉を持つからだとか、道具を使うからだ、などといった理由がそうだ。石黒が注目するのは「技術」だった。人間は技術によって己れに不足する能力を拡張し、環境に対する遺伝子的な欠陥を補うことができ、そのために他の動物とは異なった存在の次元に立つことができる

そのような意味で人間が存在しているとすると、人工生命や試験管ベイビーなどの倫理的な面で問われる神への冒涜などといった憂慮でさえ、神の造りたもうたであろう遺伝子を基準にした生命の在り方を逸脱しているわけで、人間の存在そのものが「神の領域に足を踏み込んでいるもの」となる。

人間は他の動物が自然淘汰によって盛衰してきた生命史の潮流を超えている。だからこそ石黒は「人間の存在そのものが神の領域を侵してるんだ」と語るのだ

技術によってもたらされた事件には、戦争や環境破壊、ホロコーストやヒロシマ、産業革命やIT革命などが挙げられる。どれも技術が深く関わっている。これが人間で、これも人間なのだ。

かくして、技術への問いは未来への問いにもなり、そのための研究は人間の運命をも物語ることになるだろう。

人間と技術との関係を見つめたSF作家の小松左京はかつて「未来学」を提唱した。未来にこだわる小松は『神への長い道』のあとがきで次のようなことを書いている。

自分の最近の作品が未来のさまざまな可能性に関するメモがわりになっているのではないか、と言われた。自分はそれでも構わない。フィクションの形でしか表現できないレポートというものもあるのだ。現代はとっくに「SF的状況」なのであり、種々の技術発明によって様々な問題が続出している。未来がすばらしいものであるという保証はない。それでいてすでに、この現在もまた未来の一部になっている。だからこそ、私は「実現していないもの」を、まだその地点に到達していない人間によって「眺められたもの」としてレポートを書く。そしてそれはフィクションの形を取らざるをえない。

石黒浩の『最後の講義 完全版』の読後感は、こういってよければSF的な情緒がある。なぜならそこで語られているのは人間の技術としてのロボットであるばかりでなく、技術を伴った人間の未来であり、そして運命なのだから。予言としての運命はフィクションと似通ってしまう。その点でSF的であり、以上に取りあげた小松左京の告白と重ねられる。なにせ、石黒によって語られたことは「実現していないもの」の(技術的な確信を伴った)予言なのだから。それゆえに本書は、副題に「1000年後のロボットと人間」が示すように、ロボット工学の成果の紹介であるばかりではなく、ひとつの未来学の展望を語ってくれもする。

 

まとめ

SF小説に鉱山生物が登場することがあります。石であり、生命でもある。そうした生命体は人間の想像上において「存在してもおかしくないもの」でありながら、他方で、私たちの日常で見かける路傍の石に対して「生命である」という直感を得ることは稀です。ロボットも同じで、「ロボットはロボットだ」という判断には、往々にして「生命体ではない」といった含みがあります。石黒浩が『最後の講義』の中で疑問を説くのはその点でした。極端に言えば、生命の進化の歴史を「知能化」として見る石黒の視線は、路傍の石でさえ「生命の表現」だと見る可能性を示唆するのです。

_了

関連資料
Me, myself and my android [日本語] | Hiroshi Ishiguro [石黒 浩] | TEDxSeeds 2012
 
上の動画では、ひとが考える「人間とは〇〇なものだ」といった既成概念・固定観念を〈アイデンティティー〉と呼び、そうした枠組みから抜け出すこと及びその状態を〈エクスタシー〉であると呼んでいる。そのうえで、石黒浩が製作した『テレノイド』や『ハグビー』は「エクスタシーのメディア」であると紹介されている。それらは痴呆症や自閉症の人にも癒しをもたらすという。このことはロボットが人間がこだわるアイデンティティーの枠組みを介さずに行えるコミュニケーションのあり方を示唆していないか。

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