映画『天気の子』僕たちの何が「大丈夫」なのか?【微ネタバレ解説】

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(C)2019「天気の子」製作委員会
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 こんにちは、ザムザ(@dragmagic123 )です。

 新海誠監督の映画『天気の子』の上映から2ヶ月が過ぎました。世間はいまだに人気の熱冷めやらぬといった風情がありますね。

 わたしが観たのは2019年の8月10日。その熱が冷めないうちにと記事を書いたのが8月16日。

 物書きとしてこれでひと段落着いたかなと思いたかったものの、『天気の子』から受け取った問いがまだ残っていたようでしたので、こうしてふたたび記事を書くことになってしまいました。

 

 ずばり、今回取りあげるのは「僕たちは、大丈夫」というセリフです。

 

 いったい、僕たちの何が ” 大丈夫 ” なのでしょうか。

 この記事ではその理由についてまとめてみることにしました。

※当記事には映画本編に関する多少のネタバレ要素が含まれています。

この記事で取りあげている画
新海誠『天気の子』,コミックス・ウェーブ・フィルム,2019

(C)2019「天気の子」製作委員会

 

この記事に書いてあること
  • 『天気の子』の主人公・森嶋帆高は「僕たちは、大丈夫だ」と言った。しかし天候が狂いつつある世界で、いったい何が大丈夫なのか。ボーイ・ミーツ・ガールの物語である『天気の子』は、変わりゆく世界を「セカイ系の想像力」で肯定する。それゆえの「大丈夫」なのだ。
  • 社会を描く物語としての「社会系」は、「社会を変えられない」ことにこそリアリティが宿る。それに対して「セカイ系」の物語では「きみとぼくの関係」から社会ひいては世界を変えてしまう。ここには過度な「社会関係の量感」を適度な「人間関係の質感」へと縮減する(恋)愛という人間関係の力がある。
  • 愛は「僕ら」を束縛する社会を縮減する力を持つ。それこそが「愛にできること」であり、「僕らが大丈夫であること」の根拠になる。『天気の子』では森嶋帆高と天野陽菜の関係に「愛の領域」が展開し、その関係から迷うことのない「変わりゆく世界」の肯定がなされた。

 

映画『天気の子』僕たちの何が「大丈夫」なのか?【微ネタバレ解説】

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【『天気の子』のあらすじ】

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 まずは『天気の子』のあらすじを押さえておきましょう。以下は映画紹介ブログ「MIHOシネマ」の記事《「天気の子」のあらすじ・感想・評判・口コミ(ネタバレなし)》からの引用になります。

 高校生の森嶋帆高は、離島から家出をして東京にやってきた。生活は困窮し住む場所はなく、1人ぼっちの生活に寂しさを募らせていった。そんな時、小さな編集プロダクションを営むライターの須賀圭介と出会う。森嶋は須賀の元で暮らし、怪しげなオカルト雑誌のライターとして働くことになった。

森嶋は天野陽菜という少女に出会い、交流を深めた。彼女は弟と2人きりで暮らしていた。ごく普通の少女に見えるが、実は彼女には隠された秘密があった。それは「祈る」ことで天気を晴れに変えることができる能力を持っていることだった。天候の調和が狂った雨が降り続く東京では、多くの人が晴れを望んでいた。そのことを知った陽菜は、祈りを捧げ天気を変えた。

 以下、上に引用しましたあらすじを踏まえて『天気の子』で描かれていたことを振り返ります。

 

【別記事のまとめ】上から目線な大人たちへの不信感を共有する子どもたち

C)2019「天気の子」製作委員会

(C)2019「天気の子」製作委員会

 わたしは既に次の記事を書いています。

 うえの記事で確認したことをざっくり説明すれば、映画『天気の子』の中で、天気は人間によって治療する必要のあるものだと見なされてきたということでした。だからこそ、治療者としての天気の巫女は祈りを通じて、人々の願いを聞き届けるかたちで狂った天気を治療してきたのです。

 狂った天候を人間の都合から治療する。━━この図式が(劇中でも登場したキーワードである)「アントロポセン」なのです。

 ざっくりとした説明をするだけに留めますが、アントロポセンとは地質学の用語で、人間活動の影響力が惑星規模で地球環境に侵食してしまっている地質時代のことです。(地質時代という言葉は地質学の言葉で、地球の歴史を把握するための時代区分のこと。)

 また、子どもたちと大人たちとの確執も忘れてはなりません。「キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑のキャッチャー)」そして「大人たちへの不信感」は上掲の記事のなかで取り上げたキーワードでもありました。大人たちというのは親であり、社会であり、上から目線で接してくる他人様のことです。

 『天気の子』の舞台である東京・新宿の街は、大人たちの支配する社会関係から落っこちてしまった子どもたちが走り回るためのライ麦畑だったのです。メインの登場人物である森嶋帆高と天野陽菜の2人は、大人たちへの不信感を共有する子どもたちなのであり、彼らを救ってくれる大人たちがいないために、子どもたち自身が互いのキャッチャーになる。━━それが『天気の子』の大まかなイメージです。

 以上のことを踏まえて、当記事では『天気の子』の終盤にあるセリフの意味を検討していきます。

 そのセリフとは、「僕たちは、大丈夫だ」です。

 

【僕たちの何が「大丈夫」なのか?】

 ここからは映画『天気の子』のなかの主人公・森嶋帆高の「僕たちは、大丈夫だ」というセリフの意味を考えていきます。いったい何が「大丈夫」なのか。以下、検討していくことにします。

【Q】:「僕たちは、大丈夫だ」は何が大丈夫なのか?

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 『天気の子』において、森嶋帆高と天野陽菜━━この2人のあいだで交わされるやりとりの中に、「僕たちは、大丈夫だ」というセリフがあります。セリフは帆高から陽菜へ。映画『天気の子』の劇中でも特に印象に残るこのセリフですが、一見したところでは、いったい “ 何が大丈夫なのか ” がよくわかりません。

 なにせ事態は深刻なのです。

 『天気の子』の世界では異常気象による雨が降り続き、今まで「梅雨」と呼んできた天候が可愛いほどに雨、雨、雨。レジャーや花火大会など、人間社会のイベントの大概が晴天を想定されたものであることを思えば、未曾有の雨続きにどれほど気が滅入るのかは想像に難くないでしょう。

 そんな雨の東京・新宿にて森嶋帆高は、祈ることで天気を晴れさせる天野陽菜の能力を知り、「晴れ女」の商売をはじめるのでした。

 商売は繁盛。

 そんななか、晴れ女の能力を持つ者は「天気の巫女」と呼ばれる存在であることが判明します。天気の巫女は人柱として古来より狂った天気を(これまでの人間の生活にあった状態へと)治療する役目を持っているのです。そしてその治療のために、天気の巫女はひとり、多くの人々のために犠牲になる運命にあるのでした。

 

森嶋帆高と天野陽菜とのボーイ・ミーツ・ガール

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 森嶋帆高も天野陽菜も、共に自分たちで自前の意味を獲得しようと足掻いていました。大人たちの唱える意味は彼らを救わなかったのです。

 法律および社会制度などシステムに照らされたなら、森嶋帆高は捜索届けが出されている家出少年ですし、天野陽菜も(子ども2人で暮らしていることから)児童相談所の保護対象として目を付けられています。しかし、そうした大人の社会の側からの配慮は、森嶋帆高にとっても天野陽菜にとっても、「余計なお世話」なのです。

 大人たちが司る社会の側からの配慮は、こう言って良ければ「上から目線」です。そのような上から目線では決して森嶋帆高と天野陽菜の2人を救えません。むしろ日常的な居場所を壊す破壊者とも見なせるくらいです。そうした背景から、森嶋帆高と天野陽菜は同じ目線の高さで関係しあう者同士、「大人たちがお仕着せる意味」とは別な意味を作り出そうとしていたのでした。

 「意味」、と言いましたが、これは承認と言ってもいいでしょう。天野陽菜は森嶋帆高に「ビッグマック」を与え、森嶋帆高は天野陽菜に「晴れ女の名」を与えました。こうした贈与の相手として誰かを見出すこと。それこそ、相手を承認することであり、相手に意味を与えることでもあるのです。

 『天気の子』のストーリーで森嶋帆高と天野陽菜とのあいだに「意味」が生じたのも、社会の側がお仕着せたのではなく、2人のあいだに起こったボーイ・ミーツ・ガールに起因したのでした。

 

「これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください」

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 天野陽菜と森嶋帆高の2人(+天野陽菜の弟)は新宿という安住の地を追われることになります。警察の目をかいくぐり、ホテルの部屋へと行き着くのです。このとき、森嶋帆高は次のように願うのでした。

神様、お願いです。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください

 しかし、しかし━━

 森嶋帆高はそのように願った直後、晴れ女・天野陽菜に対して、「晴れたほうがいい」と言ってしまうのでした。

 次に目を覚ますと天野陽菜の姿はなく、外には晴れ模様の空が広がっていたのです。

 

天候は人間の上から目線から「治療すべき状態にある」と診断されてきた

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 天候が異常であることによって晴れ女が存在することになります。晴れ女すなわち天気の巫女は「天候の異常を治療するため」に存在しているのです。そして天候を治療すると人柱である天気の巫女は消えてしまいます。それが決まりごとなのでした。

 アントロポセンの観点から言えば、天候の異常は人間の評価基準から判定された診断です。いわば、「人間の天候に対する上から目線」があることで、雨が降り続いている天候が「異常」だと見なされ、「治療対象」だと判断されるのです。

 上から目線の一事を取ってみれば、森嶋帆高と天野陽菜が不信を抱いている「大人たちの社会」もそうです。ひいては、天気の巫女のシステムも人間という種が構築してきた文明を保存するために、大人たちの社会は天候に対して「上から目線に『治療すべき状態にある』と診断してきたのだ」とさえ言っていいでしょう。

 

天野陽菜が人柱として空へと消えた理由

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 ここで森嶋帆高が天野陽菜に向かって言った言葉に立ち返ります。

 森嶋帆高は天野陽菜といっしょにいるだけでいいと願いました。それが「僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください」という言葉の真意だったはずです。ところがその直後に森嶋帆高は、迂闊にも天気の巫女・天野陽菜へと「晴れたほうがいい」と伝えてしまうのでした。

 天野陽菜は天気の巫女です。その天気の巫女に対して「晴れたほうがいい」と言えば、人柱として犠牲になることを暗に望むことでもあります。言い換えれば、森嶋帆高は ”神様 に対して、「天気の巫女を差し出す」代わりに、「晴れ空を要求する」ことを表明したのです。どっちも同じ事態を招くことは言うまでもありません。

 結果として、天野陽菜は森嶋帆高の言葉をきっかけにして人柱になります。森嶋帆高は他の大人たちと同様に、あるいは劇中にて須賀圭介が言っていた「そりゃあ一人いなくなるだけで世界が救われるんだったら一人を犠牲にするだろ」(大意)という態度と同じ思想を、意図せずして、天野陽菜へと語ってしまったのでした。

 それゆえに、天野陽菜の姿は空へと消えたのです。

 

「天気なんて狂ったままでいいんだ!!」=セカイ系のロジック

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 天野陽菜が空に囚われてしまった後、地上に残された森嶋帆高は後悔します。その後悔は森嶋帆高にある行動を取らせ、「天気なんて狂ったままでいいんだ!!」という決意のもと、天野陽菜を救う展開となるのでした。

 森嶋帆高による天野陽菜の救助は、単に天気の巫女である天野陽菜を救うだけではありません。天気の巫女が空から地上に連れ戻されることは、人類に「狂っている」と診断されて巫女を媒介にした治療を受ける関係から、天候が解放されることでもあるのです。

 注目すべきは、延々と続いてきたはずの人類の天候に対する上から目線の関係が、森嶋帆高と天野陽菜の2人の関係によって変わったことでしょう。きみとぼくの関係が大きな世界を左右することになる。━━これはまさに「セカイ系」のロジックです。

 

セカイ系の物語としての『天気の子』

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 セカイ系とは何か。セカイ系は、きみとぼくとの個人的な関係が世界大の影響力を持っているような物語のことです。〈個人〉と〈世界〉とのつながりがショートカットされている物語、ですね。本来であれば個人と世界のあいだには〈社会〉があるはずなのですが、セカイ系の物語では「個人同士の双数的で日常的な関係」が世界大の問題へとダイレクトにつながっているのです。

 セカイ系における「きみとぼく」の関係は恋愛関係でもって描かれている場合が多いです。そこで浮かび上がるのが「世界か、きみか」という二択になります。━━この2択は、「多くの人の幸せ」と「森嶋帆高と天野陽菜の2人の関係」とが天秤にかけられることになる映画『天気の子』のストーリーそのままです。

 セカイ系の弱さのひとつは社会のリアルが描けていないことだ、と言われます。社会のシステムがどのようなものであるのかを描かずに、1組の人間関係が社会を飛び越して世界を変えてしまう。そのことが「リアルではない」と言われる理由にもされるのですが、『天気の子』ではこのような「きみとぼく」の関係が世界大の影響力を持ったセカイ系の物語として描かれているのです。

 しかし、必ずしもセカイ系のようであることが、『天気の子』の評価を損なわせるものではありません。むしろ、『天気の子』では “ セカイ系 ” 的であることの希望が描かれているのです。

 

社会系のリアリティ=きみとぼくの関係からは社会を変えられない

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 セカイ系の他に日常系と呼ばれる作品群があります。日常系は世界を変えることにもならず、登場人物の周辺的な日常風景を描いた物語のことです。さらに━━こんな言葉はあまり聞きませんが、━━ここでは「社会系」という言葉を引き合いに出すことにしましょう。仮に、社会系とは社会システムを描かないセカイ系に対して、社会システムを取りあげる物語のことである、としておきます。

 物語において社会のあり方が問題になる場合には社会システムに何らかの問題があり、それを変えるためにプロットが展開されることになります。既存の社会は往々にして(年長者たちが取り決めた既成の)大人たちのロジックで体制が組み上げられています。そしてそれは「責任の所在が不明確であること」を特徴にしています。

 以上のような社会システムを描いた物語、つまり「社会系」は、「きみとぼくの関係からは社会を変えられない」ことにこそリアリティが宿るのです。

 社会系で描かれるのは「社会のシステムを変えられない」こと。その事実は物語の中ばかりではなく、現実においてもリアリティがあります。選挙は体制を変革することはできず、学生運動は世間を賑わせはしたものの革命的な変化をもたらすことはない。このような社会の実情をモチーフにした物語を描くときには、社会が変わることよりも、むしろ社会の変わらなさを描いた方にこそ真実味が宿ってしまうのです。それが社会系なのです。

(ここでセカイ系と言ってイメージされている具体的なアニメ作品は『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)や『ほしのこえ』(2002)、日常系は『らき☆すた』(2007)や『けいおん』(2009)、社会系は『コードギアス』(2006)や『PSYCHO-PASS』(2012)などです。異論ある向きもあるかと思いますが、大まかな分類としてご了承ください。)

 

『天気の子』には大きな主語を縮減する可能性が描かれている

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 『天気の子』においては明らかに世界が変貌します。きみとぼく」の関係から、中間にある社会を飛び越して、天候という世界大の相手を変えてしまうのです。その結果として、社会の側もまた変わっていかざるを得なかった。そういう風景を『天気の子』では描いていたのでした。

 『天気の子』の作中、世界の、そして社会の風景が変わる。そのことは、社会を変えられないことのほうにリアリティがある社会系では実現が難しいことです。しかしセカイ系のロジックでは、変わってしまう。ここにある根拠としてはセカイ系の「主語の大きさの縮減」があります。

 ふつう、日本語での主語は「ぼく・わたし・おれ」などです。しかし、その主語のうちには誰かが、あるいは何かが侵食していることがあります。たとえば親、社会、そして人類の未来、などなど。SNS上の投稿などでお馴染みの「主語の大きさ」のことです。

 おおむね批判されがちな「主語の大きな言説」は、個別具体的な誰かさんを抑圧する性格を持ち合わせています。たとえば「男というものは〇〇だ」や「アジア人はみんな〇〇だ」などと言った言い方です。そうした言い方は個々人を大雑把に理解することはできますが、そのために個々人の特徴をつかみ損ねてしまいます。ここにもまた、権力的に振る舞う「上から目線」の構造があります。

 ですが、『天気の子』においては「大きな主語」の抑圧を越える(whethering)可能性が描かれているのです。

 

「人間的であること」の観念=「太陽の下で謳歌する人間的な暮らし」

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 社会系ではない『天気の子』という物語が世界を革命することができたのはなぜか。それは「セカイ系だったから」です。

 よく、人間は変わらないと言われます。たかだか1000年、2000年の単位では、「人間的であること」の観念の歴史は揺るがない。そういった観念は自然界から生じたものではありません。人間自身が作りあげてきたものです。ときに文明が「第二の自然」と言われるように、人間が生きる人間界は「第一の自然」とは別次元のものなのです。

 「これが人間である」という観念は、人間自身によって作られたものに過ぎない。そうした観念の歴史は縦積みにされ、重々しくのし掛かってきもします。個人的な事柄を決めるのにも大きく膨らんだ主語が邪魔立てすることもあるでしょう。たとえば「他人・世間・みんな」などの観念的な主語は、ときに当人の自覚とは関係なしに一人称の「わたし」へと侵食します。その結果、「わたし」は「他人・世間・みんな」への目配せなしではいられなくなる。社会系の物語でしばしば露呈するのは、そういった大きな主語に繋がれて観念(イデオロギー)の海に溺れる人間の姿なのです。

 『天気の子』においても、太陽の下でのびのびと生きる人間のあり方こそが「人間的」であるというイデオロギーが見て取れます。晴れ女・天野陽菜が祈り、曇天に晴れ間を開いたとき、人々の表情も明るくなった場面に顕著なように、たしかに晴天は心地いいものでしょう。とはいえ、そのような「太陽の下で謳歌する人間的な暮らし」は、『天気の子』の世界では変化の時を迎えているのでした。

 

セカイ系のポテンシャル=社会関係をショートカットできる決断力

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 『天気の子』の世界では、旧来の「人間らしさの観念」を維持するか、それとも変わりつつある流れに乗るのかの岐路に立たされている。物語上で問題になっているのは、これまでの「太陽の下で謳歌する人間的な暮らし」を守るためには、ひとりの少女が犠牲にならなくてはいけないことです。そして、その少女には想われ人がいて、彼女もまた自分を想ってくれる人を想っている。──こうした状況に、セカイ系は起動します。

 常識的で合理的な大人であれば、次のように考えるでしょう。「そりゃあ一人いなくなるだけで世界が救われるんだったら一人を犠牲にするだろ」(大意)。しかしこれでは救われない人間が、少なくとも2人いることになります。そうです、森嶋帆高と天野陽菜の2人が。

 2人の関係は恋愛関係にあると言っていいでしょう。恋愛関係とは、いわば互いが互いを見つめあうことであり、そして、自分たちとそれ以外とを分けようとする志向性、つまり「求心性」がある状態のことです。そうした「求心的な人間関係=恋愛関係」にあるときの2人は、大人たちの合理的な「主語の大きな言説」の重たさを振り払う力を持つことができます

 社会の変わらなさ、あるいは人間の変わらなさを支えていたのは「大きな主語の重量感」にある、と仮定することにしましょう。そうした重量感は「恋愛関係に起因するセカイ系的な価値判断の短絡」、言い換えれば、「恋愛感情によって社会関係をショートカットできる決断力」によって縮減されるのです。つまり、主語の大きさを縮減するポテンシャルを秘めたものが恋愛関係であり、「セカイ系であること」のポテンシャルなのです。

 

愛にできること、または、セカイ系の物語を駆動する恋愛関係の縮減力

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 再び、森嶋帆高のセリフ、「僕たちは、大丈夫だ」へと返りたく思いますが、その前に『天気の子』の主題歌について触れておきます。

 映画『天気の子』の主題歌は、新海誠監督の前作『君の名は。』と同様にRADWIMPSが担当しました。タイトルは「愛にできることはまだあるかい」。社会のシステムや人間であることの変わらなさに支配されたリアリズムに対して、「〽︎愛にできることはまだあるよ」と唱える歌になっています。

 RADWIMPSが『天気の子』の物語に向けて歌ったメッセージは、森嶋帆高が発した「僕たちは、大丈夫だ」の言葉と共振します。

『天気の子』に登場する子どもたちは、大人たちの支配する社会によって抑圧を受けています。家族、会社、世間、そして人類──主語の大きな言葉たち。セカイ系の物語を起動する主人公とヒロインとの恋愛関係は、そうした大きすぎる主語の力を縮減します。そういった、世界にどうしようもなく重くのしかかる問題の量感に対して、軽々と決断することを可能にする「縮減力」こそが、「愛にできること」なのです。

 もちろん、『天気の子』で描かれる地球大的な気候変動は、人間社会にとってはぜんぜん大丈夫ではありません。にも拘らず、本作の主人公・森嶋帆高は高らかに宣言するのです。「僕たちは、大丈夫だ」と。その大丈夫の意味を、ここで確認しましょう。

 ここまで、わたしたちが確認してきたことには「セカイ系の物語を駆動する恋愛関係の縮減力」があります。つまり、それこそが「愛にできること」。余計な「社会関係の量感」を適当な「人間関係の質感」へと最適化する「愛の縮減力」があれば、人間はどんな天候の下で生活することになろうとも、大丈夫なのです。

 

【A】:「僕たちは、大丈夫だ」の理由は、愛の「縮減する力」にある

(C)2019「天気の子」製作委員会

 ある環境下で「みんなが困っている」状況があります。しかしこの場合の「みんな」とは誰でしょう。それは個別具体的な「僕たち」いや「きみとぼく」に比べて、なんとも包括抽象的な言葉となっています。

 『天気の子』の作中世界が直面する地球大の環境問題があります。晴天であることが稀になった東京。しかし社会はそうした天候の事情ではなく、晴天に合わせた都合でフリーマーケットや花火大会などのイベントを予定しています。みんなが晴天を待ち望んでいるのです。

 そのような社会を生きる人々にとっては、天気の巫女が犠牲にならない世界は望ましいものではありません。ですが、どの人間もそうであるように、目の前の大切な人を思いやる領域は、みんなに優先します。いわばそれこそが過度な量感の支配する「社会の領域」に対する、適度な質感が交通する「愛の領域」なのです。

 「僕ら」を束縛する社会を縮減する力を持つ愛。それこそが「愛にできること」であり、「僕らが大丈夫であること」の根拠になる。かくして、天候の狂いを見せる「変わりつつある世界」は天気の巫女によって治療されることなく、森嶋帆高と天野陽菜の関係をベースとして世界に肯定されることになったのでした。世界は人類の都合による呪縛を解かれ、変わりゆく世界であることができるようになったのです。

 

【記事全体のまとめ】

 映画『天気の子』はセカイ系的であることの希望を告げる作品です。家族、世間、社会などの事情に縛られる人がいる中で、「きみとぼく」の関係から地球規模の変化を選択できる物語を見せてくれる。抽象的な「みんな」ではなく、具体的な「僕ら」を基軸にして世界を判断する。それこそが「愛にできることはまだある」ことを示す「セカイ系の想像力」なのです。森嶋帆高は言いました。「僕たちは、大丈夫だ」と。そうです、愛の持つ「主語の大きさを縮減する力」があれば、わたしたちは大丈夫なのです。

_了

関連資料
新海誠『天気の子』,KADOKAWA,2019

 

 

【メーカー特典あり】天気の子【特典:CDサイズカード「大丈夫」ver.付】

 

 

【メーカー特典あり】天気の子【特典:CDサイズカード「愛にできることはまだあるかい」ver.付】

 

 

【映画パンフレット】天気の子

 

新海誠監督が、がっつりと『天気の子』に託した思想を語ってくれています。『天気の子』に込められた趣向を知ることで、作品をより楽しむことができることでしょう。わたしの記事にも引用したい名言がたくさんあったのですが、そういったことはしないでくださいね〜と言う記載があったので、断念。買って損のない充実した内容のパンフレットです。

 

新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド

 

 

J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳,白水社,1984

 

 

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳,白水社,2006

 

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