【介護回想】糞尿のにおいと死にゆく人間が生きるリアル【幻想破壊】

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ザムザ(@dragmagic123 )でございます。みなさん、「現実だなぁ〜」ってどんなときに思いますか? ──朝目覚めたとき? 夢中になっていた何かを中断したとき? 我を忘れるほど楽しんでいた映画が終わったとき? ……いろいろな「現実への覚醒」のパターンがあるでしょう。この記事では、人間が「人糞製造機」(美輪明宏)であることを露見させる現実、わたしたちを繭のように包んでいた幻想が破けて露見する類いの現実を、老人介護の体験から汲み上げてみます

【介護回想】糞尿のにおいと死にゆく人間が生きるリアル【幻想破壊】

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家中にみちる現実のにおい

2020年にひとりの老女が体調を崩し、急を要するからとそのまま入院する運びとなりました。それが私の祖母です。体調悪化したこのとき、意識も覚束ない高熱に浮かされており、普段は腰や節々の痛みに喘ぎつつも滞りなく自発的に行うことのできた排泄もままならず、彼女は粗相をしたのでした。結果、家中に糞便の〈におい〉が立ち込めていたことが印象に残っています。
入院生活は過酷で、血圧低下や幻覚発症、認知症の進行などに見舞われます。折り悪く新型コロナウイルスの影響下でろくに面会もできないなか、それまで旅行や外出もせずにいて、ほとんど在宅での暮らしをしていた彼女にとっては相当なストレスだったであろうことは想像に難くありません。
しかし、老女は彼女自身の希望もあり、同年末のクリスマス前に退院の手続きをすることができました。家族は彼女を迎えるために介護ベッドやケアマネージャーの手配などをし、当日を迎えます。数ヶ月ぶりに自宅に帰った要介護老女は、痴呆性の胡乱な頭脳と眼差しをしていたものの、再び家族に囲まれる暮らしを送ることができたのでした。
ここからは要介護認定を受けた私の祖母である老女のことを、その認定された階位から、「レベル5」と呼ぶことにします。
レベル5を家に迎えたとともに始まったのが介護生活です。歩行ができず、トイレまで自力でたどり着けないため、常にオムツを使います。申告があればベッドの側に置いたトイレへと介助者に助けられる形で座り、排便。この便器は糞尿の臭気が漏れ出ない工夫がされてはいるものの、そこは生き物のするところで、完全に〈におい〉を封じることはできません
レベル5が起居する部屋にも幾つもの消臭対策を施しましたが、完全にカバーをすることはできません。また、自力で身動きが取れず、加えて多少ボケの入った判断力ゆえ、粗相をしてしまうこともあります。そうなると便器での排泄以上の威力でもって臭気が拡散・浸透することになり、部屋一室どころか家中全体に〈におい〉が蔓延することになる。。。
〈におい〉を山括弧で書いたのには狙いがあります。ご覧の通り、ここまで語ってきたなかでそれが登場する文脈には、いずれも糞尿・排泄物が付きものです。というのも、以上の話から取りあげたいのは、「糞尿・排泄物のにおい」を嗅いだときに私が思ったこと、だからです。私はこう思いました。──
ああ、これって現実のにおいだな…
 

自然破壊ではなく幻想破壊

ここではレベル5との介護現場から離れ、人間が人間として生きようとすることが自然破壊に繋がる可能性を孕んでいることと、その裏面として、健康を崩し、人間的な生活が成り立たなくなったときに陥る苦悩が幻想破壊であるという事実を取りあげていきます。

第二の自然を生きる人間

人間はふだんスマホや衣服やシャンプーなどの「商品」あるいは「文化記号」で身を包んでいるものの、それらは少しでも健康のバランスが崩れると、途端に糞尿という内なる自然によって壊されてしまいます。自然破壊ならぬ、……ダメだな、うまい言葉がない。ともかく、今まで正常だと思っていたものが「どれも幻想だったんだ」と納得せざるを得ません。幻想。そう、幻想か。自然破壊ならぬ、内なる自然によって脆くも崩れさられる、「幻想破壊」。
私が「ああ、これって現実のにおいだな…」と思ったことは、何かしらそれまでの日常を構成していた幻想の皮膜が取り払われてしまった感じを覚えたからです。けれども、たぶん、そっちのほうが生物の本当の姿なんだと思う
誰かが言っていた言葉に、「第二の自然」という概念があります。人間が他の動物とは違ったあり方をしているというときに参照される、その言葉が物語るのは、「動物は自然界に生きている、しかし人間は他の動物とは別の自然を生きている」といったこと。動物が動物として生きている、いわば「第一の自然」が「ナマの自然」だとすれば、人間が生きている自然は「加工された自然」である、というわけです。
人間は文明社会を生きている、これはいいでしょう。人間に比べてみれば野生の動物たちが非文明的な暮らしを送っていることも、納得できるはずです。逆に、非文明的な暮らしを送っている動物たちからすれば、人間はどんな暮らしむきをしているふうに見えるでしょうか? 感覚や直感に従って生きている野生の動物たちからすれば、人間はきっと、ありもしないものにキョとキョとしている、妄想幻覚症のごとき、幻想を追って生きる生活を送っているように見えるのではないでしょうか
むろん、そんな人間たちにペットとして飼育され、野生を骨抜きにされてしまったかのように見える動物もいます。しかし見方を変えれば、その姿も第一の自然へと適応してみせるのと同じ適応姿勢でもって、第二の自然を生きる人間の生活環境に適応した姿だとも考えられる。基本的に人間は、人間として生きる以上は、つねに第二の自然を生きていかざるを得ないのです。
 

幻想を失っていくことの苦しみ

動物にとっては動物として生きる上で自然はつねに「唯一の自然」でしかない以上、「第一」や「第二」などと言った自然への修飾語も、つねに「第二の自然」に生きる人間の側からしたまなざしなのであって、動物の側からすれば「第一」も「第二」も存在しません
人類学では「多自然」という概念があります。多自然とは──第二の自然であるところの人間文化が、人種や土地、年齢や性向に準じて分布しているという「多文化」に対して──まさに自然には第一も第二もないといった「唯一の自然」が、さまざまな生物種のエコシステム(生態系)の絡まりあいにおいて実現している、そうした世界観を告げる概念です
そのことを踏まえると、人間はベーシックな意識では多文化世界を生きていると考えられますが、暗黙の次元においては多自然世界を生きていると言えるでしょう。さながら、地面の上で芽を出して茎を伸ばし、花を咲かせて実をつける世界がある一方で、根を伸ばして水を吸い上げるべく地下世界があるように。
「文化」と「自然」というコントラストを想像してみれば、どちらが「幻想」であるかを決めることは難しくないでしょう。私たちが日常を送る場面はどれほど自然に近づいてみたとて、素っ裸の野生児になりきるということはありません。人はそれを「人間的な姿ではない」と感じるように、人間であることのうちには多少なりとも文化の気配を帯びる必要性があるのです。だからこそ、人間的であろうとする行動指向には「自然破壊」をしてしまう可能性も含みこまれていると言っていいでしょう。
人間的であろうとすることが自然破壊をもたらす。このことはまた、仏教において人間の苦しみの四源泉と語られる「生老病死」(生まれる・老いる・病まう・死ぬ)によってもたらされる「人間的であれなくなること」は「文化的であれなくなること」である、という理解を得られます。さらに「文化は幻想である」いう理解の上に立つと、「人間が執着してきた幻想を奪われること」であると理解を進めることができるのではないでしょうか。
だからこそ、仏教では死ぬことが「世俗の執着からの解放」イコール「仏として三昧境への到達」として言祝がれるのでしょう。(仏教では執着は(エゴ)に由来すると考えるため、我執を嫌う。そのために悟りを開くことが「忘我」や「無我」などへの到達として語られる。三昧境とはそのような無我の状態に入ることをいう。)
人間はふだんスマホや衣服やシャンプーなどの「商品」あるいは「文化記号」で身を包んでいるものの、それらは少しでも健康のバランスが崩れると、途端に糞尿という内なる自然によって壊されてしまいます。自然破壊ならぬ幻想破壊。今まで正常だと思っていたものが「どれも幻想だったんだ」と納得せざるを得ません。自然破壊ならぬ、内なる自然によって脆くも崩れさられる、「幻想破壊」。
 

それでも生きてしまう人体

今まで送ることのできた当たり前の生活の後にも続く人体の生命活動。レベル5の人体もまた、生命活動を続け、そのための代謝機能を働かせます。食事をし、食べれば排泄もし、また食事をとる。デイサービスに行って最低限の運動をしますが、そこに行くのも億劫となり、ついに寝たきりになる。
家族は世話をするものの、口が回るのが災いしてか、レベル5は自分の体調の局所的な部位の状態を、大袈裟に報告し、それをリハビリをしない理由にしてしまう。はたまた部分的な不調も報告できないほどに体調が悪化し、食事もトイレもままならない。部分的なものか全体的なものの、一か全かの二者択一でしか自分を表現できず、その身体の中間にわたって繰り広げられていた症状の淡いを訴えることができませんでした。(これも認知症の症状だと言えるのかもしれません。)
退院してからの1ヶ月のうちに、レベル5は寝返りもろくにできず、力を込めるための筋肉の衰えるだけでなく、そもそも力を込めるための神経の使い方さえも忘れてしまったかのように、宙を眺めるだけの時間を送るようになりました。家族もずっと側に控えていることはできないので、レベル5は半世紀以上ものあいだ自分が寝起きした部屋のなかでじっとしていることになります。ときおり孫が顔を覗かせ、「りんごを剥いて欲しい」「爪を切ってほしい」「布団をかけてほしい」といったリクエストに応えたりなどしていたようですが、日中の多くを……身動きもせずひとり。……、そんな時間を過ごしていたのです。
家族を困らせたことのひとつに、レベル5が処方された薬を飲むことを拒んだことが挙げられます。その理由は「ニガいから」。歳をとると人は子供のようになると言われますが、レベル5もまさにそれで、嫌なことには駄々っ子のように嫌だ嫌だと振る舞うようになりました。医者が言うことを鵜呑みにするのも危ないご時世ではあるものの、そうも言っていられない容態の老人にとっては好きも嫌だもないだろうに……。いくら周りがそう思ったとて、当人が頑として聞かないのですから、介護する側は困ってしまう。
結果、レベル5は悪化の一途を辿ります。家族は生きてもらいたいわけですから、どうにかしてでも食べさせますし、薬を飲ませる。ところが彼女は生きる気力を絞り出すための意識の向けどころ──漢方医学で言うところの臍下丹田の所在を完全に見失っているのか、みるみる元気を失くしていきました。元気なときには渾々とおしゃべりをした舌も麻痺したようにつっかえつっかえ発音するようになり、言葉もわずかに、静かにしていることが多くなります
栄養の摂取と老廃の排泄。レベル5の姿は人間から動物へ、そして動物から静物へと変わっていくようでした。美輪明宏はある本の中で「人糞製造機」なんてことを言っていました。元の文脈で言えば「夢もなく、ろくに自分の意思を持たないでいる、死んでるように生きているだけの人」といったニュアンスだったかと思います。意志を実現するための身動きを取ることのできなくなったレベル5の姿が人糞製造機という一個のモノへとなり変わっていくように見えたのも、介護した私の本当でした
人糞製造機。これは侮蔑した調子を帯びるのも本当でしょう。他方で、その言葉がレベル5が生きている現実を、彼女を介護する家族が直面している現実を表現する上で、侮蔑ではない意味を持ってしまいもすることもまた、一個の本当でした。この本当からすれば、「人糞製造機」の言い方が侮言にしか聞こえない人々は幻想の住人であるかのように見えてしまいもするのです。
意思の自在にならない身体の中で消え入りかけたロウソクが細々と燃えている。その場面を前に、「もう消えてしまえばいいのに」とは思わない。「せめて最後まで燃えてくれ」と思いながら見守っていたい。ひとりで食事もとれずに、自分で排便もままならない。たとえ人糞製造機の現実を生きることになったとしても、「それでも生きている体」を生き抜いてほしい。〈生きるということそれ自体〉を剥き出しにした、その現実を、最後まで
「ああ、これって現実のにおいだな…。」こう感じた人がいるとき、噎せ返るような「糞尿・排泄物のにおい」のなかで、幻想ではない現実を嗅いだのではないかしら。
 

おわりに

倫理学では人の死には人称があると言います。自分と無縁な人の死は「三人称の死」であり、身近な人のは「二人称の死」、「一人称の死」は自分が死ぬとき。自分の死を体験することはできないため、ふつう死というものを痛感するのは親しい人の死すなわち「二人称の死」である。そのひそみに倣えば、この記事で語られていることは二人称の死が出発点になっています。
記事本編に登場した「レベル5」こと私の祖母は、この記事を書いた2021年の2月同月、荼毘に付されました。近しい人の死は、それが身近であることによって、「人が死にゆく姿」をまざまざと見つめさせてくれるきっかけにもなります。今回私が感じたのは「嗅覚的なリアリティ」でした。「糞尿・排泄物のにおい」に満ちた現実でした。随意にならない現実を生きる「それでも生きている体」でした。
──これは学びとか気づきとか、有益などといった話ではありません。「あの現実感」を思って、書いた。それだけ。けれど、この世に存在させてみたかった、そんな文章だったりします。
_了

関連資料

筆者であるザムザは嗅覚型人間なのでこんな記事を書いたものの、嗅覚=においってのは実は結構な深さで私たちが生きている現実に絡んでるのね。この本はエロスを手掛かりにして「においの現実」を教えてくれる……はず↓
「自然ではなく幻想である」。これを「本能ではなく幻想である」というアイデアに寄せれば、「すべては幻想である」と語った岸田秀の思想に通じるでしょう。人間がいかに幻想に取り囲まれた生活を送っているかを納得するにはおすすめの本↓
「第二の自然」についてはこちら。……とはいえ、この概念も元を辿ろうとするとガダマーやらヘーゲルやらへと遡れる↓
人類学の名著。「多自然主義」って何ぞやと思ったらこの本と格闘するのがよろし↓
東洋医学は人体をひとつの自然環境のように扱っていて、西洋風の型式に当てはめない↓
「人糞製造機」の概念はこちらになります↓(需要あるのか?)
記事本編だと「それでも生きている体」と書きましたが、これは死につつある当人との関係から書き換えれば「生きられた身体」となる。この言い換えから哲学で「現象学」と呼ばれているジャンルに思いを馳せることができる……と、言うわけで「生きられた身体」の概念をインストールするならこちら↓
「死の人称性」の概念についてはこちら↓

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