男らしさの観念と女らしさの身体【ジェンダーバイアス探検】

エッセイ
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どうもですザムザ(@dragmagic123 )です。今回はセクシュアルなことについて取りあげています。ちゅーてもエッチなことじゃなくてね。ジェンダーバイアスとかセクシュアリティとか、そういうあれです。取りあげているのは女性学の研究者・宮淑子の『セクシュアリティ・スタディーズ』。発端になってるのはその本に書かれてた性転換した人の男社会と女社会それぞれの報告でした。そこから「男らしさ・女らしさ」へと話は進みまして、「男性性は観念、女性性は身体によって定義されてる!」…といったところへと向かっていくようです。よろしければあなた様も探検してみてくださいませ。
この記事で取りあげている本
 

男らしさの観念と女らしさの身体【ジェンダーバイアス探検】

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セクシュアリティ・スタディーズ

性的なことは思春期以来の多くの人間にとって大きな関心が向けられるものですよね。はたまた、「性を語る文化的な枠組み」としてのジェンターに目を向けると、社会に出ても出なくても、男と女とでは対称的にはなっていないってことに気付いたりすることもあるでしょう。「男だから許されない」「女だから許される」──これはそれぞれ性別を取り替えても同じです。そういう取り決めがある、その事実があるわけです。
とりわけ、そうした性的な視線が向けられるのは〈身体〉です。
身体は性的なものに反応する基点であり、性的なものそれ自体として客体でもあるわけですな。
そういうのは何も自ら進んで学習していったわけではなくて、人から教わるハメになっていたものです。幼少期から親に躾けられ、制度や慣習や世間や常識などと言われているものから押し着せられてきた価値基準。はたまた教育やメディアだってそう。
だからこそ、芸能人やモデルの整った顔を見ては自分のと比べてコンプレックスになったりする。自分の顔を見るのに他人の目を通して見ることになっている。これは身体だって同じ事情でしょう。
ここに性差が入ってきた場合には、「モテる・モテない」であったり「結婚できる・できない」であったりなどの色恋の話題になってきたりするわけです。
ここまでの話題を、女性学の人・宮淑子の『セクシュアル・スタディーズ』を参照して整理すると、性器による性行為に関わるのが「セックス」で、「女らしさ・男らしさ」でもって押しつけられる価値観は「ジェンダー=社会的文化的な性差」となります
そこにさらに宮叔子が説き加えるのが「セクシュアリティ」の概念です。「性にかかわる、人それぞれの生き方や意識、行動など、性的存在としての人間の全人格と全生涯(to be)を包含する概念だとしたのである。
それには、生殖を伴わない同性間の性、子供の性、老人の性、マスターベーションなども含まれる。つまり、セクシュアリティとは、人間が独立した個人として自分らしく生きていく〈生〉と、その大切なベースである〈性〉、この両者からなる概念と解釈されるのが適当であろう。わかりやすく言えば、「人間としての性のあり方」ということになろうか。
(『セクシュリティ・スタディーズ』,p12)
この記事では、以下、『セクシュアリティ・スタディーズ』の、男女の非対称性を述べた箇所から男社会と女社会の違いを掘り下げていきます。

「観念を生きる男」と「身体を生きる女」

ここでは『セクシュアリティ・スタディーズ』から社会に潜みそして支えもしているジェンダーバイアスの話題から、男社会・女社会、男らしさ・女らしさを巡って、男女の非対称性を「観念/身体」の図式で検討していきます。

やっぱりジェンダーバイアスは強力である

『セクシュアリティ・スタディーズ』の中で、生物としての機能=セックスとしての身体は女性でありながら、個人としての性自認=セクシュアリティとしては男性だった人物・虎井さんの話が紹介されています。
虎井さんは大人になってから性転換手術をしたこともあり、社会経験を女性としても男性としても送ってきました。そこで観察されたのは「自分の意識は変わらないのに周りの対応が違ったこと」、つまりは「ジェンダーバイアス」だったのです。
ジェンダーバイアスとは「男(女)はこういう役目を帯びている」といった固定観念のこと。虎井さんは勤務中に会社の電話に出たところ、女性時代では「男性を出してくれ」と言われたのだとか。これは「女性を男性と対等な仕事のパートナーと見ていない」という事情が透けて見えます。現に、手術後に男性の声で受話器をとったときには、(同じ人だったのかは分かりませんが)相手は緊張し敬意を払ったそうです。
以上のエピソードを踏まえた上で、宮淑子は次のような診断を下します。
女のグループと男のグループに所属してきた人は、女のグループでは、目立つ人が出ると、やっかみや妬みが出て足を引っ張る傾向があるけれど、男のグループでは、自分を相手のいる地位へ押し上げようとする傾向があると話してくれた。これなど、女は同列社会で生き、男は序列社会で生きていることの証左だろう。
(『セクシュリティ・スタディーズ』,p21:太字は引用者)
集団生活ではより明確に個々人の属性ごとの違いが浮かび上がります。女性はより女性的に、男性はより男性的に、それぞれの性差に準じて振舞う。それは女子校・男子校ごとの文化が語り草になる点からもうなずけます。
引用したところを翻訳しますと、虎井さんの報告では女グループでは「出る釘は打たれる式」の傾向があり、男グループだと「追いつき追い越せ式」の傾向があるとし、それを宮淑子は女は横並びで男は縦並びの社会で生きていると診断している。
女の同列・横並び社会と男の序列・縦並び社会という文化的バイアスが働いているのは、たとえばメディアでもそうです。
宮淑子が挙げている男性誌と女性誌ごとの違いを見てみましょう。
手元に男性専用のメディアである男性雑誌と、女性雑誌を比較した資料があるが、男性雑誌には、政治と遊びとカネとセックスが盛り込まれており、いまだに「飲む、打つ、買うは男の甲斐性」の世界が展開する。一方、女性専用のメディアである女性雑誌は、おしゃれとドメスティック(家庭的な)な要素が強く、女性は “硬派ネタ” (政治・経済・社会記事)には疎くていいという姿勢が感じられるそうだ。
(『セクシュリティ・スタディーズ』,p42)
明らかに「女は家庭!男は仕事!」な価値観が息づいています。……とはいえ、難しいのは男性誌が取りあげる「政治と遊びとカネとセックス」を女性誌が取りあげたとして、それをありがたがるのかというのも疑問があります。逆もまた然りではあるでしょうし、男性の側でも男性誌的なトピック快く思わない人だっているでしょうし。難しいですね。──にもかかわらず、ジェンダーバイアスは強力である、ここではそう納得しておきます。
 

男性には身体がなく、女性には本質がない

ところで、思想史学者の田中純が『政治の美学』の中で、オットー・ヴァイニンガーって哲学者の書いた『性と性格』という本のことをチョロっと取りあげています。これ、女性蔑視にも読めるのでトンデモ本とも言われるのですが、その内容はだいたいこんな感じ。
──女性が徹底的に性的で、性生活に埋没した存在であるため、性以外の関心がない、というもの。反対に男性は学問・政治・宗教・芸術などの性以外の領域を楽しむことができる
男性は自分のセクシュアリティについて自覚的になれるが、女性にそれは不可能である。なぜなら、女性には性的でない部分などないからだ」ってのがおおよそのアイデアになっています。
パッと見てカチンと来そうなことを言っていますが、ちょっと待ってください。ここでは、ヴァイニンガーが語る「性」を「身体」と読み替えてみたいのです。
女性が徹底的に身体的で、身体生活に埋没した存在であるため、身体以外の関心がない、というもの。反対に男性は学問・政治・宗教・芸術などの身体以外の領域を楽しむことができる。
男性は自分のセクシュアリティについて自覚的になれるが、女性にそれは不可能である。なぜなら、女性には身体的でない部分などないからだ。
いかがでしょう? …とはいえこれだけでは何が言いたいのかわかりませんね。ここで考えてみたいのは〈身体〉なのです。身体の比重という点で、女性の〈身体〉は男性よりも強く大きい。このことを示唆したかったのです。
ところでところで、精神科医の斎藤環が書いた本に『母は娘の人生を支配する』があります。そのなかで女性は身体によって基礎づけられる存在であることを強調される。そして斎藤が依拠する精神分析的な意味において「男は身体を持っていない」と主張されるのです。
精神分析的な意味というのは、社会的・文化的なインプットの結果として、アウトプットされた精神を捉えるといった意味合いです。斎藤が精神分析を「関係性の科学」と語るように、人間関係を反復可能なものとして見ないことにし、一回こっきりの関係に現れた人間精神を検討する──これが精神分析
精神分析を通して斎藤が取りあげるのは女性の女性たりうる特性──「女性性」です。それに関して男性が男性的である所以である「男性性」と対比している箇所があるので、少し長いですが、おもしろいので引用してみますのや。
男性の場合、最も重要となるのは、社会的な同一性の問題です。そこでは学歴、職歴、あるいは知的・身体的な能力といった、社会的な有用性が大切になってきます。男性の葛藤が対人恐怖という形をとりやすいのは、その葛藤の本質が、「自分の社会的価値を低く見積もられるのではないか」という点にあるからです。それゆえは、「恥」や「世間体」の感覚と深く結びついています。
一方、女性の場合は、ここで述べた男性的な葛藤ともけっして無縁ではないにしても、より強いのは、身体表面において悩む傾向です。たとえば摂食障害は、現代においても依然として、圧倒的に女性に多い疾患です。あるいは抜毛症(トリコチロマニア)がほぼ女性の病理であることも、同じように考えることができるでしょう。
おそらくこの問題は、単に病気に限った話ではありません。
例えば男性の自己嫌悪は、自分の性格や能力といった、いってみれば「象徴的なもの」に向けられがちです。これに対して、女性の自己嫌悪はそれ以上に、自らの身体そのものに固定されやすいのではないでしょうか
(『母は娘の人生を支配する』,p120-121:太字は引用者)
男性が「社会に包摂されるための有用性」にヤキモキするのに対して、女性の方では「自分の身体がどうなのか」に注意が向いている、とでも考えておきましょう。さらに次の文章をご覧くださいな。
男性は「身体」を持ちません。先ほど対人恐怖と摂食障害の対比のところで述べたように、男性には象徴的な意味での「本質」しかありません。男性らしさと考えられるものは文化ごとに異なりますが、例えば「論理性」「潔さ」「筋を通す」「我慢強さ」などは、ほぼ共通してあげられる特性でしょう。おわかりの通り、これらはことごとく観念的、抽象的な特性です
これに対して「女性らしさ」を観念的に考えようとすると、ここに挙げたような「男性らしさ」の否定か例外にしかなりません(「非論理性」や「弱さ」など)。一方、積極的な意味での「女性らしさ」は、外見や所作などの身体性において表現される傾向にあります
(『母は娘の人生を支配する』,p127)
まず、「男性は「身体」を持ちません」とあるのがインパクト大ですね。これは誤解を恐れずに言うなれば「男には肩書きしかない」ってことです。男らしさとして「論理性」「潔さ」「筋を通す」「我慢強さ」などにしても、それらは具体的ではなく理念的であることがわかるでしょう。まるで部活動の応援旗に書かれている文句みたいじゃありませんか。逆を言えば、そういった象徴的で観念的なものによってこそ男らしさは定義されることを示唆しているのです。そして、そこには身体性がない
 
はたまた別の箇所で斎藤は「女性には本質がない」とも述べています。これは一見してヴァイニンガーがそうであるみたいに女性蔑視じみた気配を読めますが、そうではありません。ここでの “本質” は象徴的なものであり、観念的なものであり、そして男性的なものです。そのようなものでは女性は語れない。そう述べているのです。
では、女性性=女性らしさはどうかというと、それはよーするに「外見や所作などの身体性」である、というわけなのですな。そして外見や所作などによって表現される〈女らしさ〉は本質に宿る観念なのではなく、表面としての身体である──そういうことになっているのですね。
以上から、「女性性と男性性」とを並べてみたときには、「身体と観念」とに読み替えることが出来そう……という路線を検討してみることにします。
 

「縦並びの男たち」と「横並びの女たち」

女性性は〈身体〉に、男性性は〈観念〉に親和性がある。先述したところでは女グループは「横並びの社会」で、男グループは「縦並びの社会」だと取りあげましたが、身体と観念とを当てはめると、「横並びの身体」と「縦並びの観念」になるでしょうか。
これはさしあたっては言葉遊びではあるものの、男性社会の持つ序列制が
自立は男の甲斐性で、依存は女の甲斐性である」と布告するかのように社会を構築してきた実情を衝いているようではありませんか?
女性を男性に依存させるという点では、人類が歩んできた歴史にも当てはめることができます。
当初、人類は狩猟経済を営んでいました。このときには体格や筋力に恵まれた男性がより尊敬される地位にいたのです。ところが農耕経済へと生活様式が移行すると、女性への依存度合いが強まってしまった。自分たちの権威を確保するために、男たちは死者崇拝などの儀礼を考案し、女たちを遠ざけるためのタブーを産み出し、儀礼とタブーを巡る「掟=法」を独占するようになったのです。それ以降、共同体としての暮らしは「男たちだけの世界=政治の領域」によって支配され、女性は疎外されていったのでした。
(田中純『政治の美学』の「結社論」を参照しつつ)
こうした人類史のあり様には、女性にマウンティングする男性の姿があります。しかもそのマウンティングはいかにも象徴的で観念的なアイデアによって行われているのです。
ところで、ここまで見てきたことを踏まえて、再びヴァイニンガーのアイデアを書き換えた文章を眺めてみましょう。「性」と書かれたところを「身体」で書き換えたあれです。
女性が徹底的に身体的で、身体生活に埋没した存在であるため、身体以外の関心がない、というもの。反対に男性は学問・政治・宗教・芸術などの身体以外の領域を楽しむことができる。
男性は自分のセクシュアリティについて自覚的になれるが、女性にそれは不可能である。なぜなら、女性には身体的でない部分などないからだ。
「男性は身体を持たない」「女性には本質がない」などの文言を思い出しながら上記の書き換えを見ると、男性が観念であることや女性が身体であることを重ねられるのではないでしょうか。「学問・政治・宗教・芸術などの身体以外の領域」というのは、どれも象徴的観念的な領域を示唆するものです。対して、女性は身体的でしかないために「観念=本質」には近づけない。と。
男性の「縦並びの観念」が女性に対して抑圧的に働き、そして女性の立ち入り難い象徴的で観念的な領域を開いていくことはいいでしょう。では、身体的でしかない女性における「横並びの身体」はどのようなものでしょうか?
『セクシュアリティ・スタディーズ』において虎井さんが報告していたのは次のことでした。「女のグループでは、目立つ人が出ると、やっかみや妬みが出て足を引っ張る傾向がある」。このくだりを斎藤環が語る以下の文言と見比べてみることにします。
生育過程を通じて女性的な身体を獲得するようにしつけられ、成熟してからももっぱら身体性への配慮によって、「女性らしく」あり続けようとする存在なのです。
(『母は娘の人生を支配する』,p182)
女性はその身体的な外見や所作によって自らの女性性を定義している。そしてまた、彼女たちは「女性の身体を持っていることだけを理由として連帯すること」ができもする。これが「目立つ人が出ると、やっかみや妬みが出て足を引っ張る傾向」の理由でしょう。
同じ身体を持って女性性を共有しているはずが、違った外見や所作で女性性を定義しようとしている、そのことが “連帯できてしまうがゆえに” 許せないのです。まさに「横並びの身体」ですね
ね? 言葉遊びもたまにはいいものでしょう?
 

まとめ

セックス、ジェンダー、セクシュアリティ。言い方はさまざまにあれど、いずれもわたしたちが関心を向けざるを得ない形で働いている性意識の別名です。個人の意識の範囲を超えた社会全体に「男女の非対称性」がつねに隠然と息づいている。そのことにまったく気づかないでいればおめでたいですが、気づいてしまえば見てみぬふりはすべきではないはず。気づいてみて、考えてみた例が、たとえばこんな記事になったりするわけです。よろしければ、この記事で取りあげた本を読んでみてください。おもしろい気づきが得られますから。
_了

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