論理を頼る男の弱さと感情を生きる女の強さ|セデック・バレ

画の紹介
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ある日のザムザさん(@dragmagic123 )はSNS上で次のことを述べていました。

──これを読んだとき、わたしはウェイ・ダーション監督の大作映画『セデック・バレ』の民謡の歌詞を「男の弱さ」という観点で楽しむことができるのではないかと考えたのです。

以上の着想を形にしたのが当記事になっています。
この記事では男性から女性への差別的な「言い方」を取りあげ、むしろそれは男性の側の弱さを示しているのではないかという「考え方」を示しています。とはいえ、記事冒頭に引用したツイートに「〇ん〇んの有無=性別の話だとは思えない」とあるように、この記事で示されている「考え方」は、必ずしも性器の形態に基づく性別には限ったものではありません。
 

論理を頼る男の弱さと感情を生きる女の強さ|セデック・バレ

この記事で取りあげている画
この記事に書いてあること
  • ウェイ・ダーション監督の映画『セデック・バレ』は日本統治時代の台湾を舞台にした、先住民と日本軍との関係(とくに「霧社事件」)を取りあげた作品である。その劇中歌となっている民謡の歌詞が、「おまえら男が大事だと思ってるものは女が与えたものだってこと忘れんなよな」といったメッセージを歌っている。
  • わたしたちは “女性が弱い立場にあると語られること” に見慣れ・聞き慣れている。女性への悪口に、「男性は論理的で女性は感情的である」といった対観念に由来した「女には論理はわからない」があるが、そもそもそこには “論理に頼らなければならない「弱い男」の姿” がある。この観点からは、男は弱いからこそ論理に頼って強がっている。
  • 人間はもともとは女性的で、女は「ありのまま」で女性でいられるからいいものの、男の場合は「女性ではない自分」を論理あるいは理屈に頼ることによって否定し、男性化という名の「理論武装」をしなければならない。これはひとつの「論理構築」であり、自然な「感情生活」を生きる女とは違って不自然なものとなる。
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台湾映画『セデック・バレ』

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セデック・バレ』っていう台湾映画があります。ウェイ・ダーション監督・脚本で2011年に本国公開され、2013年に日本国内でロードショー。日本統治時代の台湾を舞台にした、台湾先住民と日本軍との間の一悶着を映した作品で、全二部の大作です。
聞いた話ではこの映画のために、キャストに先住民の習俗を教えるばかりでなく、今や絶滅の危機に貧している先住民の言語までも覚えさせて撮影したのだとか。すごい熱量ですね。
歴史の話を少しすると、台湾への日本の統治は1895年6月17日に始まりました。台湾の統治を検討する「台湾事務局」が内閣に置かれ、当時の総理大臣・伊藤博文が事務局長を努めます。そこで決定された統治方針は、一方的に搾取をおこなう、いわゆる「植民地化する」のではなく、あくまでも「日本国の延長」として台湾を認識するというものでした。
しかも統治された台湾民は2年間の「国籍選択猶予期間」が与えられて、日本国を選ぶのか、それとも清国を選ぶのかの選択権を持っていたのだとか。えらく良心的な “ゆるい” 統治ですよね(※)。
んで、時代は降り、日本国による熱心な台湾統治は続けられるものの、やっぱしゲリラがいるわけですよ。さらに原住民(蕃地≒蕃社≒蕃人)からの反発もあって、抵抗運動もまた平定しきれずに続いていました。
日本軍はどうにかあの手この手を尽くして懐柔しようとし、帰順を促したのですが……1930年、10月24日、日本人130名がやられちゃう「霧社事件」が勃発します。
──映画『セデック・バレ』で映されることになるのはその「霧社事件」なのです。
 
※統治された側から見た日本
台湾に関する日本語の書籍を見るとわかりますが、結構な数の人たちが日本国による台湾統治を “よかったこと” として語り継いでいます。
たとえば1999年5月22日に台南市社会教育会館で開かれた、戦後の台湾史上初の日本人をテーマにした国際シンポジウム。
出席していた日本側代表がひたすら謝罪の姿勢を示すのに対して、台湾側は「謝罪する必要はない」と答えるのでした。しかもこれは単に “当時の世界の潮流の中では仕方なかった” といった口調であるばかりではなかったのです。
というのもシンポジウム開催を支援した実業家・許文龍は次のように語ります。
「台湾の今日の経済発展は、日本時代のインフラ整備と教育の賜物です。当時、搾取に専念したオランダやイギリスの植民地と違い、日本のそれは良心的な植民地政策だったのです。戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する必要などありません。」
(蔡焜燦『台湾人と日本精神』,p50-51)
めっちゃ褒めてますね。むしろ “感謝したい!” くらいな論調です。
以上のような「日本が統治してくれてよかった」といった立場にある人は、日本と台湾の関係についての著書を発表している蔡焜燦にせよ、作家・司馬遼太郎とも交友のあった「台湾民主化の父」とも呼ばれる政治家・李登輝なども挙げられます。
……とはいえ、「霧社事件」という反日感情に由来する反逆があったことも事実です。彼ら先住民たちにも言い分がありました。映画『セデック・バレ』ではそうした点に目を向け、楽観的に「日本ありがとう」 “ではなかった” 側面を照らしだしているのです。
 

あらすじ

第一部:太陽旗

台湾中部の山岳地帯に住む誇り高き狩猟民族・セデック族。その一集落を統べる頭目の息子モーナ・ルダオは村の内外に勇名をとどろかせていた。1895年、日清戦争で清が敗れると、彼らの暮らす山奥にも日本の統治が広がり、平穏な生活は奪われていく。それから35年、頭目となったモーナは依然として日々を耐え抜いていた。そんな中、日本人警察官とセデック族の一人が衝突したことをきっかけに、長らく押さえ込まれてきた住民たちが立ち上がり…。
 
第二部:虹の橋
連合運動会が開かれていた霧社公学校を襲撃したセデックの決起部隊の手によって、戦う術を持たない多くの日本人は女子供の区別なく命を奪われた。日本軍は直ちに鎮圧を開始。山岳地帯の地の利を活かして戦うセデックの前に苦戦を強いられるが、圧倒的な武力を誇る日本軍と警察を前に、セデックの戦士たちは一人また一人と命を落としていく。男たちが絶望的な戦いに挑むなか、セデックの女たちもまた選択を迫られ、それぞれが信じる道を選ぶことに。決着のときは近づいていた…。
(いずれも公式サイトから転載)
 

民謡の歌詞にみる男の弱さ

ここまで映画『セデック・バレ』とそこで映されている「霧社事件」についての経緯や、日本統治に対する台湾人側の評価を書いてみたものの、この記事は必ずしも映画の紹介や考察などを目的としていません。
では、いったい何を取りあげるのかというと、それは「劇中で流れる民謡の歌詞」(※)です。
以下では、映画『セデック・バレ』において、台湾先住民・セデック族の女たちが歌う民謡の歌詞を自由に読んでいきます。
※映画本編とは関係ありませんが、台湾原住民の歌謡研究には次のものがあるようです。インターネット上で公開されているようなので、関心のある方はどうぞ。→孫悦「台湾原住民の歌謡研究 ―セデック族を中心に―」。 

民謡の歌詞

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映画の劇中で歌われる民謡は、セデック族の女たちが何かと言うと戦いや殺し合いをすることへの嘆きが込められたものとして歌われています。第一部と第二部でそれぞれ流れる歌からは「戦いに出た男たちを待ちながら苦しむ女たちの姿」が見え隠れしているのです。
以下、それぞれの歌詞を見てみましょう。
[第一部]
あなたたち男は なぜ
いつも女を苦しめるの?
あなたたちが大事にする誇りは
女が与えたものだと忘れないで
男たちの名誉を織りなすのは女
勇者の証となる刺青を彫るのも女
 
[第二部]
女たちは涙を浮かべながら
広々とした道に沿って歩く
男たちよ どうかお願い
あなたたちはこれで満足?
子供たちがかわいそう
男たちは一体 どうしたの?
私たちは疲れきってしまった
(いずれも日本語訳はAmazonプライムビデオで視聴できる『セデック・バレ(字幕版)』からの引用)
 
第一部と第二部のどちらともが、「男たちの行動を嘆いている女たちの視点」になっていることがわかります。──が、ここで特に注目したいのは第一部の歌詞です。
というのも、そこで歌われているのは「おまえら男が大事だと思ってるものは女が与えたものだってこと忘れんなよな」ということなんですもの。おもちろい♪
 

第一部の歌詞が語るもの

第一部の歌詞が興味深いのは、「男が命を賭けてまで守ろうとする誇りを与えたのは女なのだ」と語っているところです。
というのも、わたしたちは “女性が弱い立場にあると語られること” に見慣れ・聞き慣れています。社会に出れば女性であることによって不利益を被った女性は数多い、それは確かだからです。前近代的な価値観を超えたはずの近代においても、女性であることによって負わされた傷は、当事者たちによって枚挙にいとまが無いほど。
ところがぎっちょん、第一部で歌われている歌詞では、男たちが女を従えてふんぞり返っているその自信は女によって “与えられたもの” だと語られている。これはいったいどういうこっちゃねん。
しかししかし、「じつは男なんてもんはへっぽこで、ほんとは女の方がすごいのだ!」という主張はそう受け入れがたいものでも、物珍しくもありません。
たとえば女性への悪口のひとつに「女には論理はわからない」などといったものがあります。これは男性は論理的で女性は感情的であるといった対観念に由来するものと見ていいでしょう。一見して女性蔑視をしたい文言に見えますが、そもそも論理に頼らねばならない男ってどうなのでしょう? それって強いんすかね? 弱いから論理に頼っちゃってるんじゃないの?──なんて視点を立ててみると、案外に男ってやつはショボそうに見えては来ませんでしょうか。
 

男性的なものの弱さ

男の弱さについて考え出しますと、いろいろなところにそれを見つけることができるのです。以下では「男性的なものの弱さ」を示す考え方・世界観を取り上げてみます。

文化人類学から

文化人類学の成果に弱さを見出そうとすると、たとえばA・ショールムは論文「ベダミニ族のセクシュアリティの観念」の中に次のような報告を挙げています。
男性の生涯は、精液の獲得と喪失を中心に展開される。少年時代、男性は精液を摂取することによって成長する。その後、女性との性交や少年への供与によって、精液は次第に失われていく。それにつれて、男性は次第に弱くなっていき、年老いて、死、すなわち、最終的な腐敗を迎える。
(『DOLMAN』3号,言叢社,1990,p57)
いかがでしょう。男性はここではもはや「精液の水差し」のようになっているではありませんか? そのうえ最終的には腐敗までしちゃうそうです。
極めつけは同じ論文中において、「極端に女性的なもの」に触れることで男性は精液を一挙に失ってしまい、老化を早めてしまうのだとも報告されています。
こうした世界観から「男性の方が強いのだ!」という信念を取り出すことは難しいでしょう。なにせ、せっかく盛り立てた男の自信も「極端に女性的なもの」に触れさえすれば一発で雲散霧消してしまうのですから。
 

心理学から

心理学者・渡辺恒夫は「[世界秘密]と官能性のシステム~文明の深層にひそむ[男性性の脆弱さ]」という論文の中で、まさにドンピシャで男性の弱さを取りあげています。
「母親から脱同一化する以前の、乳幼児期の母子共生状態のあいだに、男児女児を問わず子どもには、「原-女性性(proto-feminity)」とも言うべき性的アイデンティティの核が形成される。そのため、男性の性的アイデンティティはいわば二重構造をなすことになり、男性は、自らのアイデンティティの基部に潜在する原-女性性へと引き戻されないための、心的バリヤーをはりめぐらせることになる。この無意識的バリヤーを、共生不安とよぶ。共生不安は、母子共生が長引けば長引くほど、そして確立すべき男性性の資格が厳しければ厳しいほど、強くなるだろう。共生不安は意識の上では、女性ならびに女性的なるものへの恐怖と蔑視、男性としての自己が女性的なる属性を帯びることへの恐怖、女性への親密な関係への恐怖、等などとしてあらわれる。
(『DOLMAN』3号,言叢社,1990,p18)
引用が少し長くなってしまいましたが、ようするに、人間の子どもは大元のところで女性的で、女の子の場合はそのまま女性的でいればいいのに対して、男の子の場合には女性的である上に男性的であろうとしなくちゃならないのです。だからこそ、女性的なものから執拗に距離を取らなくてはならず、男性は「男性化に失敗したらどうしよう…」という不安に苛まれることになってしまう
こうした不安があるからこそ、男性は弱い。そして同時に、だからこそ男は強がらなければならないのです。
 

論理の男性、感情の女性

ここまで見てきた「文化人類学」と「心理学」からの視点は紹介としては断片的なものではあるものの、「男の弱さ」を予感する糸口にはなるのではないでしょうか。……あるいは、それらはただの「男の弱さを表現する言い方」に過ぎないのかもしれません。
しかしそれならば「男は強いものだ・女を弱いものだ」という認識でさえただの「言い方」に過ぎなかったのではないでしょうか? 「男の弱さ」がただの「言い方」に過ぎないと言うのであれば、なぜ「男の強さ」がそうではないと言い切れるのでしょうか? ──そうした観点を立てることもできます。
以下ではふたたび、男女の違いを語る俗説として名高い(?)「男性は論理的で女性は感情的である」という「言い方」を取りあげてみます。

理屈を頼る男たち

中沢新一は『芸術人類学』の中で修験者の集団がすべて男性でなければならない理由を検討しています。
修験者は山に籠って修行するのですが、このときに前提になっている「神話的宇宙論」によって、山は「この場は山である」という空間的な同一性を欠いた場になります。この山こそが「巨大な女性の子宮」であり、修験者=男性は子宮に宿り直して成長し、ふたたび新生児として誕生する
──中沢は修験者たちはこうしたイニシエーション(儀礼)をしているのだと説明します。
男たちは(自覚しているかはさておき)その論理・理屈を通じて「男になる」という手続きを踏んでいます。興味深いのは男性としての再誕生をおこなうのに、「巨大な女性の子宮」という女性的なイメージを採用している点です
ようするに彼らはママを必要としたのです。自分を男にしてくれるための「大いなる女性」、すなわち母親。……これは言うなれば「オタクが美少女に萌える」ようなもので、自分を無批判に包み込んでくれる(所有していくれる)ものを所有しようする態度だと見ることもできるでしょう。(※)
以上の説明は「論理的」ですが、同時に「理屈っぽい」ものです。「男になれなかったらどうしよう…」といった潜在的な不安を前提にして構築された人工的で、作為的で、虚構的な幻想ですらあります。
しかし、逆を言えば、男たちは不安であるからこそ幻想に縋らざるを得ず、幻想に縋ることによって安心を得ようとしているのだと納得することもできるのです。
(※おそらくこれはアニメ『エヴァンゲリオン』にも通じる話題でしょうが、ここでは関連を示唆しておくに留めます。)
 

つっぱる男たち

男性は論理的で、女性は感情的」。この言い方を人間が成長する時系列に重ねてみると、先後関係は「感情→論理」の順になります。理屈っぽい赤ん坊はいませんもんね。
先後関係として、論理の手前には感情があります。これは人が他人に想いを伝える場面を思えばわかるでしょう。想いを他人に伝えるためには言葉がいりますし、言葉には多かれ少なかれ論理的である必要がある。そして発端となった想いは当然「感情的なもの」に属します。
仮に「男性=論理:女性=感情」と考えるなら、赤ん坊のときの感情だけが支配的になっている状態は「女性状態」です。しかし男性は身体的な特徴として「女性ではないこと」がわかってますから、自身が男性であることを論理的に執り行われるイニシエーションによって証明しなくてはなりません
つっぱることが男のたった一つの勲章」(嶋大輔)と歌う楽曲が昔ありましたが、ヤンキー(不良少年)が強がることにしても「母性=女性的なもの」である母校や故郷へと「自分が女ではないこと」を主張しなければならないからだと説明できるでしょう。修験道にしたって論理的に構築される「神話的宇宙論」によって、いわば “つっぱってた” わけです。
ここでふたたび映画『セデック・バレ』の民謡の歌詞を見てみましょう。
あなたたち男は なぜ
いつも女を苦しめるの?
あなたたちが大事にする誇りは
女が与えたものだと忘れないで
男たちの名誉を織りなすのは女
勇者の証となる刺青を彫るのも女
こうして見ると、つっぱる息子と困り果てた母親にも似た、誇りや名誉を手にすることによって「女ではない自分」をどうにかして証明したい、「つっぱっている男たち」の姿が見えてきませんでしょうか。あるいは「男は強いんだぞと言っている弱い男たち」のけなげな姿が見えはしないでしょうか。
 

理論武装する男、ありのままの女

これまでのところを踏まえると、人間は大元のところでは女性的であって、女は「ありのまま」で女性でいられるからいいものの、男の場合は「女性ではない自分」を男性化という名の「理論武装」をすることによって示さなければならないのでした。男性はありのままではいられない。理論武装しなければ男性になれない、というわけです。
ふたたび「男性は論理的で、女性は感情的」の俗説ないしは臆見を参照すると、感情的であることがどれだけ自然で恵まれているかがわかります。彼女たちは論理なんて不自然なものは必要ではないのですから。
また、「男性=論理:女性=感情」の図式からは男から女へ・女から男への否定的評価のあり方にも関係してくることが連想されます。以下はひとつの「言い方」ではありますが、感情を重視する女性はイケてない男性を「中身のない男」と評し、論理を重視する男性はクダらない女性を「自分勝手な女」と評する向きがあります。──この言い方を読み解くと、女性が重視する中身とは論理以前に属する “安らかさ” であるのに対して、男性は論理以後に属する “御しやすさ” に重点があることがわかるのではないでしょうか。
一方には “安らかさ” を、もう一方では “御しやすさ” を志向している、男女の非対称性があります。感情の方が論理に先行していることを思うと、根本的なのは「感情生活」を重視する女性の側だと言えるでしょう。それに対して、男性の方はいわば「論理構築」を重視しており、そのような態度はときに「空論構築」と見紛うものにもなりかねません。(とはいえ女性側でも感情に身を委ねることで生活が放縦なもの(「放縦生活」)に陥る可能性もあるでしょうが。)
どちらが優れているといった話ではないでしょうが、ひとつの価値観として「老後の幸せ」を想像してみることにします。
老人ホームで、女たちはおしゃべりに興じている。「あたし聞いちゃったんだけどさ」「ゆうべ変な夢見ちゃったのよ」「〇〇さんところの息子さんってイイ男ねぇ」──などなど。みなさん表情豊かでいます。ところが男たちとなると隅の方でむっつりとテレビを見ています。見かねた職員さんが声をかける段になって、彼らはようやく笑うのでした。
さて、うえの風景では男女のどちらが “幸せそう” に見えるでしょうか?
 

まとめ

何かがきっかけになって着想が訪れるとき、その何かは「トポス」と呼ばれるものになります。ギリシャ語で「場所」を意味するその言葉は、たとえば詩人が詩の着想を得たきっかけを授けてくれた〈ところ〉、あるいは〈もの〉を指すときに使われます。そのトポスから出発して到着するまでの時間と距離が、ひとつの作品として結晶化するわけです。──たとえば、この記事みたいに。
今回わたしのトポスになってくれたのは『セデック・バレ』という映画、というより、その映画の劇中歌の歌詞でした。なのでこの記事はほとんど映画の紹介にはなっていません。
結果として出来上がった記事は「男の弱さ」そして「女の強さ」についての文章でした。重点としては前者をとくに強調することになっているでしょう。というのも筆者であるザムザ自身が「男性は論理的で、女性は感情的である」といった男尊女卑のニュアンスがある男女観の俗説に違和感があったからです。これへの結論としてはざっくり言うと「男は弱いからこそ論理に頼らざるを得ず、女はそんなものに頼る必要もなく、強いのだ」と述べてあります。なので、「男の弱さ」を取りあげる方に力が入ってしまったのでした。
注意しておきたいのは、この記事が “女尊男卑の立場を標榜しているのではない” ことです。これについては本文中では触れていませんが、強弱の観念は優劣のつきやすさにはなったとしても、尊卑を決める基準としては十分ではありません。強さは弱さでもあり、弱さは強さでもあるのですから。
この記事がおもしろいとしたら、それは男尊女卑を茶化している点にあるのかもしれません。
_了

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