【後半部】読者の受苦、作者の治癒|スケアリーストーリーズ

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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。

この記事はアンドレ・ウーヴレダル監督による映画『スケアリーストーリーズ 怖い本』に関するものです。

映画自体の感動と、作中にリフレインするセリフ「物語は人を傷つけ、人を癒やす」を映画のテーマに受け止めた、「読者の治癒、作者の治癒」というタイトルでの連載記事、という形を取ります。

この記事で取りあげている画

アンドレ・ウーヴレダル『スケアリーストーリーズ 怖い本』,CBS Films &Entertainment One

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【後半部】読者の受苦、作者の治癒|スケアリーストーリーズ

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後半部:作者の治癒

 前半では映画『スケアリーストーリーズ』に物語は人を傷つけ、人を癒やす」というテーマを設定し、「物語は人を傷つける」に焦点を当て、読者の受苦」に関してを楽しみました。

 後半部に入るにあたり、押さえておくべきは次の点です。

 

  • サラは幽霊。黒魔術(創造の魔術)によって「サラの本」こと《スケアリーストーリーズ》を書いた。
  • ステラはサラの本の読者。サラの本に物語をせがんだことで周囲の子供たちが物語の被害者になる。
  • サラの本は自動筆記で怖い話が書かれる。その物語の登場人物になると、物語の展開が現実に起こる。
  • 読者であることは物語に対して無力である。とりわけ、サラの本の前では読者の無力は特に強調される。
  • 行動することで作者に関する真実を知るだけではなく、行動する読者以上であることが求められている。
  • 【幽霊物語】は物語を書く作者と接触できる唯一の物語であり、サラに物語をせがんだステラはその自伝物語の登場人物になれた。
  • 作者であるサラの要求は自分の本の読者の中から自分の真実を物語ってもらうことだった。
  • ステラはサラから本を継承し、物語る魔女になる。物語によって失われた親友を取り戻すために、本の使用法を考えはじめる。

 

 以上を踏まえ、以下の後半部では映画のテーマの後半分、「物語は人を癒やす」、すなわち作者の治癒」という点にこだわりつつ、「物語は人を傷つけ、人を癒やす」というテーマを賞味します。

 

解読9:本という装置

 結局のところ、映画『スケアリーストーリーズ』においては《スケアリーストーリーズ》という「本の使用法」が問題になります。

 読者であるばかりではなく、作者にならなければならない。言い換えると、読者と作者とを繋ぎ、作者になったときに改めて向き合わなければならない装置がある。その装置こそが〈本〉。

 今や話は、物語る魔女になったステラと《スケアリーストーリーズ》との関係だけではなく、物語る人間と〈本〉との関係になります。そしてそれは広く、人と世界との関係を示唆することとなるでしょう。

 

 《スケアリーストーリーズ》という魔術書をモデルにして、〈本〉について考えてみましょう。

 《スケアリーストーリーズ》では、本の中の世界があって、本の外の世界がある。本の外は中の世界でもあり、本の中は外の世界でもある。本の中にある虚構世界と本の外にある現実世界とがあって、メビウスの輪を行き来するのが物語および物語る行為である。──ここで言うところの「本」は、現実と虚構との区別を有効にする条件になると共に、そうした区別を無効にする条件にもなります。

 この「本という装置」を信じることは、神を信じることにも似ています。物語の登場人物が自分を物語る作者を信じるように、現実を生きる人間が自分を見守る神を信じることにも似ている、というわけです。

 

 ところで、創造の魔術によって誕生したサラの本ですが、その使用に関わってくるものが「参照するデータベースとしての現実」と「表現する物語の真実らしさ」なのです。

 たとえば、劇中で確認できるスケアリーストーリー(怖い話)のどれもが、「無からの創造」ではなくて、元からあった物(畑のカカシや冷蔵庫のシチュー)に寄生し準拠する形で物語が発動するのです。いわば有るものからの創発(「有からの創発」)が原理になっているのですね。

 以上のことは「小説の作法」に類いするものと言っていいでしょう。

 つまり、サラの本の使用するには何らかの真実らしさが必要になるのですね。

 

 「真実らしさ」は(どのような神を想像してもいいですが)神が世界を創造する上でも無視していいものではありません。真実らしさを「おもしろさ」とでも言い換えれば、ある作品にファンがつくのと同様に、神への信者(ここでの信仰は存在しているそのことにおいて帰依していること)が「世界を楽しむ権利と能力を備えた被造物である」とも考えられます。

 「ある本に読者がつくこと」も同様です。その本で語られていることが“おもしろい”からこそ、作者と本との関係に読者なるものが入り込んできます。そして、そうした「おもしろさ」を担保するのが「真実らしさ」であり、ひいては「小説の作法」なのです。

 

解読10:視線表現の作法

 現実世界を虚構である物語によって影響を及ぼす《スケアリーストーリーズ》の本についての話で神が世界を創造した話に繋げた挙句、そこで働いている原理を「小説の作法」だと述べました。そうした原理において配慮されているものが「真実らしさ」であるからこそに、物語と世界が、本と神とがメタファー関係になる、というわけです。

 とはいえ、このままでは話の展開がややオーバーであるままになりかねないので、ここでは補足を加えることにします。

 

 本の物語創造と神の世界創造とに働く原理を「小説の作法」として表したことに関して、物語作者である小説家の口ぶりから検討してみましょう。

 参考になるのはファンタジーやSF作家です。なぜなら、彼らはサラの本がそうであるように、世界創造や世界改変によって物語を紡ぐ代表格ですから。

 

 まず、ひかわ玲子の見解を参考にすれば次のアイデアを引き出せます。

 神の創ったこの世界は自然だ。ガリレオは「自然は数学の言語で書かれている」と述べる。これは実証的であることを事とする科学の世界観に繋がるものである。科学は「サイエンス」。このサイエンスが実のところ、西洋では学問は神が作った世界を知るためにあり、それゆえに、自然界にあるものばかりではなく人間界にあるものまでがサイエンスの傘下に入ってしまう。

 サイエンス・フィクション(SF)で扱われている人間・社会・世界への考察にも、その中心には神がいる。そうした物語で描かれているのは神を知るための一つの試み──試論なのである。

 

 ひかわ玲子の見解を踏まえて、次に夢枕獏を参考にすると次のことが言えます。

 神の創りたもうた自然はそれ自体で表現をしている。そこにも人間の芸術がそうであるように審美的な美醜があって、そうした美醜が「自然の言語」として存在している。自身もまた表現をする人間は、概して主観に属さざるを得ない「視線」から自然の言語をまなざす。なので、花や糞などの美醜を拾いそこねてしまうことがある。だからこそ「花の美しさ」とは出会えても、「糞の美しさ」には出会いそこねたりする。

 ──ただし、言語が聞かれないと存在しないように、自然の言語である美醜の表現もまた視線によってまなざされなければ存在したことにはならない

 

 最後に、ひかわ玲子と夢枕獏とを参考にして、筒井康隆の見解から以下のことを。

 文学ないし小説というのは、学問の中で最も優れていて、人間がたずさわる活動として最高のものである。なぜならそれは神の創った自然世界の表現をまなざす個別の主観的な視線を表現するものだからだ。たとえば小説で描かれる「視線の表現」によっては、「花の美しさ」としか出会えない人にも「花の醜さ」を伝えることができ、「糞の醜さ」としか出会えない人に「糞の美しさ」を伝えることができるのだから。

 ──「おもしろいかどうか」が物語における最低のそして最高の条件であるというときには、「表現しようとする視線の真実らしさ」もまた問われている。そして、そうした条件を支えるためにあるのが「小説の作法」なのだ。

 

 以上、本にとって物語がおもしろくなければならないことと、神にとって世界が真実らしくなければならないこととを、実際の小説家の見解を参照することで接続しました。

 神が創る自然世界に数学的な整合性があると共に、美醜の言語がある。これが世界の真実らしさです。

 物語にも真実らしさがあります。物語の場合は「視線の真実らしさ」と言った方が適切でしょう。世界にとっての美醜が、物語では「視線の真偽」において問われるのです。真なる視線であれば、美醜も善悪も超えて、リアルとフィクションの境界もなく世界をまなざせる。──だからこそ、物語は真実らしく、そしておもしろくあらねばならないのです。

 

 世界を動かすシステムを「神」と呼ぶなら、物語を動かすシステムは「本」と呼べます

 

 人が作者として物語を語るとき、聞き手ないし読者が現れます。小説を書けば書き手は読者にもなる。これは何も自分以外の他人が目の前にいるということに限りません。語ることは同時に「語る聞き手になること」だし、書くことは同時に「書く読み手になること」でもあります。

 また、人が物語を語り・書くときには物語の登場人物にもならざるを得ません。物語の外側に作者・読者として立ちながら、物語の内側では登場人物を演じていもする。これらの立ち位置を可能ならしむるシステムが「本」なのです。

さながら、「神」の概念およびシステムによって人間が「父-子-精霊」の三位格を備えた宗教的な実存としてあることが可能になるように、「本」の概念およびシステムにおいて人間は「作者-登場人物-読者」の三位格を生きる、物語的な実存であることができるのです。(あるいは、人間は世界と物語の両方に属しているともいえるでしょう。)

 

 この世を表現するための二つの視線の表現があります。一方は神概念を頂点にした世界観で、もう一方は本概念を頂点にした世界観。

 神概念からの視線ではこの世は自然世界として表現され、本概念からの視線だとこの世は物語世界になる。どちらも無秩序なのではなくて、準拠しているルールがあります。

 人間が神概念に訴えかけるときにはサイエンスとなります。そして本概念に訴えかける場合にはストーリーあるいはフィクションになる。

 サイエンスは人間が神の表現からその視線を知ろうとする試みでした。そしてフィクションにおいても表現を通した視線の探究であるという事情があります。

 フィクションの目的のひとつは「真実らしさ」ですが、それが「神の視線を表現したもの」ではないということもないのです。なぜなら、人間もまた神の表現なのですから。神の表現である人間の表現のうちに、神の視線を表現したものが現れない理由はありません。

 とはいえ、表現されたものが、「神の視線の表現である」ということを保証するものもなさそうではあります。それに関しては、神の表現である人間の身体的・情動的な感動体験をもって判定基準にするのが穏当かもしれません。哲学者によれば人間の頭脳よりも身体の方が賢いらしいので。こうした身体的な反応を確かめる基準が「おもしろさ」です。

 

 サイエンスの真実らしさと、フィクションのおもしろさ。どちらも「表現された視線」に関わります。人間にとってあらゆる表現が“小さな説”としての「小説」。──だからこそ、「小説の作法」はフィクションにもサイエンスにも有効な視線表現の哲学となるでしょう。

 

解読11:読者としての作者

 作者ステラは《スケアリーストーリーズ》によって行方不明になった二人の親友を救おうとします。ここでステラが信じるのが「本という装置」でした。このときに信じられているのは、もはや本の作者サラではありません。そうではなく、自分が読者として向き合い、今や作者として向き合うことになった〈本〉そのものなのです。

 そして、〈本〉とは小説の作法に基づいた真実らしさによって世界を現出せしめる映写機です。世界は物語世界として表現される。〈本〉はそのためのメディアになっているのです。

 

 創造の魔術が込められた《スケアリーストーリーズ》と向き合うことは、必ずしも非日常的なことではありません。〈本〉を現実/虚構を包含する〈世界〉の概念に重ねてみれば、〈世界〉には物理法則と社会規則とがあって、何事をするにしてもそうしたルールは無視できません。さながら、〈本〉が書かれる際に準拠されるデータベースや語られたことの真実らしさが問われるように。

 

 映画『スケアリーストーリーズ』のテーマは「物語は人を傷つけ、人を癒やす」の一言に表れています。現に、《スケアリーストーリーズ》作者であるサラは物語に傷つき、サラの本の読者になったステラもまた傷つきます。

 ただし、物語を書くことによる癒しという点でサラの執筆活動は充分ではありませんでした。なぜなら、サラは家族への復讐のために作者になりましたが、復讐しても自分の真実がねじ曲げられた無念は晴れません。サラにとっての治癒は復讐ではなく、真実が語られることだったからです。しかし、幽霊となったサラにはその権利も能力も失われているのですから。物語ることで癒されるためには、サラは絶望的だったのです。

 ステラはサラの本の読者になることで、親友を失うという傷を負います。他方で、作者であるサラの生前の悲劇も知ります。

 ステラがサラの真実の物語を書いたことでサラの傷は癒やされる。それに対して、ステラの傷はまだ癒やされていません。しかしステラという懸命かつ賢明な読者が必要だったサラとは違って、ステラには希望があります。

 

 サラと違ってステラは幽霊ではないので、《スケアリーストーリーズ》の本にとっては、読者でもあり、登場人物でもあり、そして作者でもあります。

 ステラの傷は〈本〉のルールに則って親友を取りもどす物語を書くことで癒されます。

 それに対してサラは幽霊ですから、自分が物語ったことを現実のこととして享受できません。もっと言えば、サラは自分自身について流布された語りの世界の登場人物なのです。サラの真実からすれば、子供殺しの犯人として語られている世界は虚構です。ですから、サラの悲劇は「自分が虚構世界の登場人物でしかなく、現実の存在ではないこと」だと書くことができるでしょう。

 つまり、物語を語るサラ自身が登場人物に過ぎなかったのです。

 サラの悲劇と対比させるなら、ステラは現実世界を生きる存在として〈本〉に向き合えます。

 ようするに虚構物語の作者になったサラは読者になれませんが、虚構物語の作者になったステラは読者にもなれます。そして読者として現実世界に属しているからこそ、ステラには物語によって傷ついた自分自身を「物語ること」を通して癒す希望があるのです。

 

解読12:作者の治癒

 ここまで「物語は人を傷つけ、人を癒やす」というセリフに注目し、映画『スケアリーストーリーズ』をおもしろがってきました。

 ここでは、これまで通ってきたところを踏まえて、件のセリフを味わうことにします。

 前半後半に分けたこの記事の冒頭で、次のようなことを述べました。

 

 「物語は人を傷つけ、人を癒やす」とは、さしあたっては「語ること/語られたことによって人は傷ついてしまう。そして物語によって受けた傷を癒すのもまた物語なのである」と理解できます。──では、どのように?

 どのように?──これはステラがしてみせたように、読者から作者へと変身することによって、が答えになるでしょう。

 読者と作者の間には埋めることのできない溝があります。

 たとえば好きなロックバンドがいるとしましょう。そしてそのバンドの追っかけをしているファンがいる。ファンとロックバンドとの関係は、バンドのファンが追っかけをしている間は決して埋めることのできない溝があります。受け手であることと作り手との差、と言ってもいいでしょう。

 

 次に、「物語は人を傷つけ、人を癒やす」という言葉が何(であるか)を語るのかを考えてみます。“何であるか”というのは、そのメッセージがどのような世界の見え方を背景にしているのか、ということです。

 

 物語は人を傷つけ、人を癒やす──この言葉にうなずくときには、物語を成立させるための〈本〉に対する信頼が置かれます。それによって「読者-登場人物-作者」の図式が生まれ、〈本〉の概念を通して人は物語の中にも外にも立つことができ、読者として楽しめ、登場人物として振る舞え、作者として自由に創作することができるのです。

 たとえ物語の中の「読者-登場人物」の相で傷ついたとしても、「作者-登場人物」の相でみずからを癒やすことができる。──こうした理由から、物語は人の経験の条件だと考えられます。そして、その場合に〈本〉は人が「世界と呼ぶものの条件」としても理解できるのではないでしょうか。

 

 多分に、跳躍した嫌いがありますが、映画『スケアリーストーリーズ』がおもしろいのは、ひとりの読者が物語に巻き込まれ、傷を負いながらも物語作者として自立していくことです。

 本来ならば、読者は物語に対して冷静な立ち位置にいます。なぜなら、読者は(本という装置によって)物語からそして作者からも隔てられているからです。虚構であることの合意がある。

 にもかかわらず、映画『スケアリーストーリーズ』での読者は冷静ではいられません。──なぜって、自分が物語の当事者にさせられてしまうから。

 そして、読者のままでいては決して救われない、というのもポイントです。読者として物語に身を委ねるのではなくて、みずから物語を紡ごうとすること。虚構と現実の区別がなくなったときに、本の読者として傷ついた自分自身を物語の作者となることによって救うこと。こうした態度変更によって、物語の読者であることで負った傷に、作者であるからこその治癒をもたらすことができる。

 

 また、映画『スケアリーストーリーズ』は一見して、物語というものの役割がメインになっているようですが、読者が物語によって傷つき、そして物語によって救われるときには常に「読者-登場人物-作者」の三項図式があります。つまり、それらを規定するための〈本〉の概念が背景になっているのですね。

 世界は一冊の書物である、というアイデアがありますが、映画『スケアリーストーリーズ』ではそのメタファーを賦活するものでもあるようです。なにせ世界を象徴する一冊の本が、世界に含まれる形で、世界の中に存在しているのですから。

 

 読者のままでいるのか、それとも作者として本に向き合うのか。──その違いが物語によって傷つけられたままでいるのか、それとも物語によって癒やされるのかを分けることになるのです。これが読者の受苦から作者の治癒という話になります。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。全三部に分けて映画『スケアリーストーリーズ』のテーマである「物語は人を傷つけ、人を癒やす」を考えてきました。概して、味わおうとしたのは次の二点です。①物語を読んだ読者が物語の作者になること、②「読者-登場人物-作者」を成立させる〈本〉の概念──以上の二点は同じ事態の別側面になります。「世界の中で生きる人間」と「本の中で物語る人間」はどうも、比喩である以上に関係しているように見えてしまうようです。

_了

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