【失礼考察】他人を尊敬せず関係性の場を無視する自分勝手さ?

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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。人間も続けていると過去とやらが堆積するものでして、今回はそんな過去の、記憶の中から「失礼」に関する印象を束ねてみました。きっかけは2021年の2月にちょっとした失礼を受けまして、この出来事がきっかけとなり、「そういえば、わたしの人生の幾つかの場面で『失礼だな』っていう感受性が働いていたことがあったっけな」と想起いたしましたのです。この記事では、失礼にまつわる人間関係のコミュニケーション上で働いている礼節を嗅いでいます。

【失礼考察】他人を尊敬せず関係性の場を無視する自分勝手さ?

失礼集め:過去の断片と現在の出来事

高校生の頃だった。中学から高校へ辛苦の色味が繰り上がったばかりのその年に、陽キャ系ヤンキーとの会話の中でワイはこんなことを言った。「失礼だろ」。前後の文脈はよく覚えていないものの、ギスギスした雰囲気ではなかった気がする。しかしワイのその言葉は相手にとっては意外なものだったようで、相手は少しの驚きを込めつつ「失礼ってなんだよw」と、反応した。それは、それを思い返す今現在のワイにとって、何故か妙な手触りを以て記憶され続けている場面なのだ。

あのときのヤンキーの反応はどこか具体的なものであったからこそ、今現在のワイに印象的に刻銘されているのかもしれない。

また、こんなこともあった。

コロナ禍が始まる前。心寄せてくれた女性がいて、その時のワイは彼女のところに転がり込んでいた。ある程度打ち解けて来ると誰しもがそうなるように、彼女もまたワイに軽口を利くようになる。そのセリフの幾つかは彼女にとって相手をdisすることに同類するような語彙だったようで、ワイが怒り出さないことが不思議だったらしく、「どうして怒らないの?」と言ったのだ。さも不可解そうに。訊かれた当時はうまく応答できなかった。今現在のワイは、彼女にとっては失礼であるはずだった事柄に対してワイ自身が失礼を感じなかった、だから怒らなかったのだろう──そう思う。

しかしこの回答はまだ抽象的でしかない。

(こうして書き並べてみると、他者というものはヤケに具体的で、自己というやつはイヤに抽象的だよな。)

上の二つの事例を思い出すことになったきっかけは次のことがあったからだ。

ワイにも友人がいる。その人物から唐突に失礼なメッセージが送られてきた。書いてみると陳腐でしかないような、そんな一言に過ぎない、そんな文言。彼とは「コミュニケーションとはどういうもので、どうあるべきものか」といった原理的な話題も話していたので、まさか急に俺とのコミュニケーションそのものを破綻させるが如き文言が送られてくるとは、思いもよらなかったのである。

この記事にとって重要なのは、ワイが送られたメッセージの内容云々なのではない。重要なのは、ワイが「失礼だな」と感じた、そのことなのだ

 

「失礼かどうか」を判定する基準は「尊敬の念の有無」

失礼って何? ワイは何に失礼だと感じているのだろう?

一般論にするつもりはない。けれど、まったくの特殊個人的な話なのでもない、と思っている。

先にちょろっと触れた、「コミュニケーションとはどういうもので、どうあるべきものか」について、ワイは相手への尊敬の念が肝心なのだと考えている節がある。敬意があるからこそ、異邦人が知らずのうちに侵すマナー違反に対しても寛大な態度をとることができる。もっとも不躾なマナー違反はマナー違反をその場で指摘することだ、と紹介したドラマが昨年末に放送されましたね。フィンガーボウルの水を飲んだ王女の話も、この手の配慮にまつわるものでしょう。

ワイは日記にこう書いている。

身勝手なのはいい。俺だってそうだ。でもな、身勝手なのと他人に対して、しかも尊敬すべき間柄だと互いに認め合ったはずの相手に失礼なのは、違う

そう、どうやら、ワイは尊敬の念の有無を「失礼かどうか」を判定する基準にしているらしいのだ。

コミュニケーションのさなかに、相手の人格を否定するような言い方をすることは、一般的に、ダメだ。そう考えているってことは、なーんだ、ワイも一般的な意味で「失礼かどうか」を考えているのか!と思えるけれど、けれど、ここにはもちょっと立ち入ることのできる奥行きがありそうなのよね。

 

他人を目的にする:他者が存在していることの尊厳への配慮

失礼かどうか。その判定をする自分を虚心坦懐に見つめてみると、哲学者カントの道徳哲学が思い浮かぶ。

カントはこう考えた(ほんとに?)。他人を手段にしてはいけない、そうではなく他人を目的に設定し、自分の行為を決めるのだ。どこで述べているのかは思い出せないけれど、ワイはそう記憶しているから、そう考えたのはやっぱりカントだ(ほんとかなぁ)。

ワイはカントの考えに、さらに、英語学者・渡部昇一が使っていた「他目的的/自目的的」の相違を重ねてみたい。そのひそみに倣えば、他人を自分の計画の手段にしてしまうことは他の目的遂行のためなので他目的的であり、他人を自分の目的そのものにすることは自目的的である

砕けたふうに言えば、他人を自分の都合に合わせたタラレバ思考(IF – THEN思考・条件プログラム的思考)で判定することは不道徳なのであって、道徳的であるためには他者の他者性の本体であるところの「他者が存在していることの尊厳」を肯定するところに掛かってくる

他人の手段化。その際に他人の尊厳は疎外されることになる。何から? コミュニケーションからだ。自分が自分の目的に向かって進んでいる自閉的な運動があるとして、他人の尊厳はその運動の最中には見失われる。「役に立つかどうか」や「有用かどうか」で人格の質が判断されてしまう。こういった姿勢は夫婦生活の場面で交わされる「最低限の会話」を思い浮かべれば間違いない。たとえば「メシ、フロ、ネル」などがそうだ。モラハラではないにせよ、相手を自分の生活の手段へと貶めている。そうは思えないか?

対して、他人の目的化はどうなるだろう。それはおそらく「失礼ではない」ということに掛かってくる。それはタラレバの発想やなんらかのロジカルな条件プログラムに基づいたもの、ではない。それは〈許し〉という言葉が垣間見せてくれるイメージに似ている。相手がいることへの許しであり、相手が自分とは違っていることへの許しであり、相手が間違うことへの許しでもある。この場合の「許される」ということは、役に立たなくてもいいことであり、有用でなくても構わないということである。至高とか、無償とか。そういうことなのだ。

 

身勝手な道徳:他人が目的になり自分が手段になること

再び、「失礼であること」を考えてみよう。

許しのことを考えると、相手が自分に対して「許さない」と思うように仕向けることも考えられる、これはどうなんだ? ワイはこれを失礼だと思う。理由は、ここには他人を手段と化さしめるタラレバ思考があるからだ。自分の期待するような振る舞いを相手に期待した、相手の人格を試験するような、IF – THENプログラム。もしこうしたら、こうするだろう。そんな条件法的思考によってコミュニケーション相手の尊厳を疎外する。これは失礼だ。

「他目的的/自目的的」の相違を思い出して欲しい。カントの「他人を手段にするべからず、目的にして行為せよ」のアイデアに重ねることで、自目的的であることが善いことであると語ってきたが、これはひっくり返すことができる。他目的的であることを道徳的であるとする向きも作り出せるのだ。

というのも、ここまでの説明では「他人が手段になること/目的になること」としてきたものの、他人ではなく自分をメインに据えれば、「自分が目的になること/手段になること」としてリフレームできるのである。そうすると、「他人が手段になり自分が目的になること」、これが不道徳で、「他人が目的になり自分が手段になること」、これが道徳的である、という形になるわけだ。

もういちど、ワイの日記の文言を取りあげてみる。

身勝手なのはいい。俺だってそうだ。でもな、身勝手なのと他人に対して、しかも尊敬すべき間柄だと互いに認め合ったはずの相手に失礼なのは、違う

身勝手であることは必ずしも否定されていない。それでいて、「身勝手であること」と「他人に対する尊敬の念」は両立できることが示唆されている。ここでの身勝手さを補足すると、こう説明できる。──他人への期待は幻滅と怒りの源泉になることがある。「他人と過去は変えられない」はよく聞く処世訓だろ? 身勝手には「他人に期待しない身勝手さ」もあるんだ。それでいて、他人に対するリスペクトも持ち合わせている。そういう態度が

小難しいことを考えたがる(もしくは「考える」という名において「悩む」)人種が陥りがちなのは、自己を際限なしに抽象化してしまうところではないかしら。それに伴って他者の実像までもぼやけてきてしまい、ときには抽象的な観念と化した自己を脅かす敵に見えたりもして。言うなれば「自分勝手」になるのだ。 “自分勝手” は “身勝手” とは違う。身体は具体的だけれど、自分は抽象的だからだ。自分で勝手になるのか、身体で勝手になるのか。このニュアンスの違いは小さくない。

 

関係性の場:他人と関係するところの関係それ自体

抽象的なもので相手を推し量るとき、人はしばしば他人に対して、不敬になり、失礼になる。SNSなどでよく見聞きする「主語が大きい」と言われるあれだ。(自分が経験したことから話を広げて、「男って〜「日本人って〜「メンヘラって〜だよね」と語る口調を思い浮かべよ!)自己イメージがぼんやりしているからこそ、具体的な出来事を語る口調までぼやけてしまう。ぼやけたままで語られる相手にも不愉快な思いをさせてしまいもする

逆に考えてみれば、自己イメージの輪郭を具体化させるにはどうすればいいのか。そこに「他者との絡み」が重要になってくる。哲学で「他者論」というジャンルがあるけれど、そこで論じられる他者は往々にして抽象的・観念的だ。(だから「実践哲学」「臨床哲学」なんていう看板も必要になってくるのかもしれない。)心理学では初めに他者があり、その上に自己が確立すると語られる。他者との出会いなしの、自己だけでは具体性を獲得できないのだ

じつのところ、自己はつねに他者への手段なのかもしれない。他者という目的を叶える手段として──おっと、ここで「役に立つ」や「有用である」などと言ってはダメだ。そうではなくて、「許しを得る」にしようか──許しを得る、そのことによって礼節を弁えることができるのではないかしら。

ただし、注意がいる。「許しを得る」と言うとき、いったい誰に許してもらうのか。これを具体的な何者かとして語るのは難しい。もしも具体的な誰かさんの許しを乞うとすれば、どんなコミュニケーションだって窮屈この上ない。まるで相手の顔色を窺い、忖度をし、慈悲を乞おうと這いつくばるようじゃないか。……これは大袈裟だとしても、よろしいものじゃない。

許しを得るのは、人と人とがコミュニケーションをとる、その場所に起こる気象に対して、であるすなわち(キェルケゴール風?に言えば)「他人と関係するところの関係それ自体」、つまりは「関係性」だよね。(英語の文法で登場する「非人称の It」を思い浮かべよ!)ギスギスしていれば悪天候となり、和気あいあいとしていれば晴天となる。そんな気象現象が、人と人とがコミュニケーションする場にはある。この「関係性の場」に許されることが、「いい天気」にも「居心地のよさ」にも繋がるのだ。

 

おわりに

以上つらつらと追ってきたところを真に受けるとするなら、ワイが「失礼に当たる」と判定するのは、いわゆる「暗黙の了解に奉仕する精神」に背いた場合なのかもしれない。とは言ってみたものの、ここで言う「暗黙の了解」はイメージをつかみやすい言葉ではあるものの、きちんと納得しようとすると途端に正体をはぐらかしてしまう概念なので、それぞれが見ようとする意味ごとに異なった観念として浮かび上がるような代物である。だから、事ここに至ってみたとて、「かもしれない」の推量助動詞表現を手放せずにいる。オーバー。

_了

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