【サウンド考】感覚を殺してロックは自殺する|+ジミヘン

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+どうも、ザムザ(@dragmagic123 )でいる者です。今回は田中純の『政治の季節』……に収録されている「自殺するロックンロール」という論文……に登場する「サウンド」という観念を掘り下げる記事を書きました。
手掛かりには「ギターの神様」の異名を持つジミ・ヘンドリックス……音楽アルバムの『ARE YOU EXPERIENCED?』を携えることで、この記事では「サウンド」──もっと言えば「マスメディアの一形態であるロック・ミュージックにおけるサウンド」を紹介します。
この記事で取りあげている文
田中純「自殺するロックンロール」『政治の美学』,東京大学出版会,2008
この記事で取りあげていること
  • 田中純の『政治の美学』に収録された「自殺するロックンロール」という論文には「サウンド」という観念が取りあげられている。サウンドとは意味との象徴的関係を経由することなしに現実的表出としての生理的感覚と情動──つまりは “エモさ” を喚起し、そこに照らしてメッセージを解読するであろう “自我という鎧” を砕いてしまうものなのだ。
  • メディア評論家であるフリードリヒ・キットラーを援用することで取りあげられる「サウンド」は、伝説的ギタリストであるジミ・ヘンドリックスに由来するという。ここでサウンドは「ロックのサウンド」というニュアンスを帯びる。ロックはオーディエンスの体さえひとつのメディアと化し、揺さぶりを掛けることによって “じかに” 感覚へと訴えかける。
  • 大衆の意識的な常識を対象にしながら大衆の無意識的な情動を対象にするロックはマスメディアの一形態である。このことは常識に対する反抗という形で権力を持たない人々のメディアになることが本義であったロックを自殺に追い込む。なぜなら、ロック・サウンドの働きは身を委ねる快楽をもたらすと共に、個性を抑圧する常識を形成する営みにもなるから。

 

【サウンド考】感覚を殺してロックは自殺する|+ジミヘン

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「サウンド」との出会い

ここではまず、そもそもなぜ筆者であるザムザが「サウンド」という言葉が気になったのか、そしてこの記事を書くに至ったのかの経緯を紹介します。

田中純『政治の美学』

 思想史学者である田中純の著作に『政治の美学』があります。おもに「芸術的な想像力と政治的な権力とがなぜ結びついてしまうのか」に関する研究をまとめた浩瀚な本です。
 わたしはこれを読む機会に恵まれたのですが、そんな読書のさなかに以下のくだりを発見することになります。
生理的感覚と情動を喚起するサウンドは、象徴的な意味のコードと対立する、現実の直接的表出である。(p124)
 上の文章が見つかるのは、『政治の季節』に収録されている「自殺するロックンロール」という論文です。ここで語られている「サウンド」。この言葉は “生理的感覚と情動を喚起するもの” であるとのことですが、どーにも納得がいきませんでした。
 文系の論文にありがちな一筋縄ではいかないヤヤコシイ「観念」が込められている用語なのではないのか? 哲学書でしばしば見つかる特異な意味合いを示唆している術語なのではないのか?
 ──悶々として先に進めません……なんてこともないんですが、何かしら魅力のある言葉だろうという直感が働いたのは確かでした。
 

サウンド概観

 わたしは別の記事でも『政治の美学』における「サウンド」に注目しました。その記事ではまず、サウンドの一般的な意味合いを次のように押さえています。
サウンドとは何か。それはまず「音」のことで、感覚に行き渡る「響き」であり、あるいは何かを伝達する「声」でもある。とくに英語の sound に目を向けると、その意味の広がりがただ音を立てたり何かを聞いたりといった聴覚的なものだけに収まらないことがわかります。
 同記事の中では以上の理解を踏まえてサウンドを以下のような形で把握しました。
サウンドとは水面に波紋が立つような、感覚的なさざめき・ざわめきの心象を物語る言葉なのです。文学的であるよりも音楽的であり、論理的であるよりも直感的であるような。そしてサウンドとは頭で考えるよりも身体で感じるものであり、理屈や意味にこだわるのでなく、フィーリングを重視し、そのフィーリングの只中に聞き手を呑みこんでしまう。
 こうした理解でも「サウンド」を理解するのに手がかりとしては有効であるように思われます。
 しかし、早合点はよして、『政治の美学』における当該箇所の前後をもう少し見渡してみましょう。
 

物質に訴えるサウンド

 先ほど引用した箇所の前後にはドイツのメディア評論家であるフリードリヒ・キットラー(1943-2011)の文章が取りあげられています。メディア研究に取り組むキットラーが考えているのは、何かしら特定のメディア(媒体)を採用するということはそれが伝えようとしているメッセージ(内容)と、そこで用いられるメソッド(方法)とが共犯的に不可分に作用することになる、ということでした。
 『政治の美学』が注目するのは、キットラーが単なるメディアではなく「マスメディア」の登場をヴァーグナーの楽劇に見ているという点であり、その楽劇がロック・ミュージック(以下ロック)という「未来の音楽」を予告していたという理解に対してです。
 田中純はキットラーのアイデアを押さえつつ、次のように書いています。
芸術が意味との象徴的関係のみを持つのに対して、メディアはそれが加工する対象の物質性に直接関係している。「マスメディア」としての楽劇やロックにおいては、語られる言葉の心理的意味ではなく、「サウンド」(「正確にジミ・ヘンドリックス的な意味で」とキットラーは注釈している)、およびサウンドによって喚起される生理的感覚と情動こそが問題である──(p124:太字は引用者)
 やはり、生理的感覚と情動とが喚起されるサウンドが、とくに問題になっています。また、そうしたサウンドの特性が意味として訴えるものなのではなくて、物質へと “じかに” 届いてしまうものとしてイメージされているのです。
 

ジミヘン的なサウンド?

 ジミ・ヘンドリックス的な意味のサウンド……そう述べた後で、田中純はキットラーの「愛が主題になることはもはやない。ロックの歌はみずからが担うメディア力(Mendienmacht)そのものを歌う。」という文を続けます。それから件の「生理的感覚と情動を喚起するサウンドは、象徴的な意味のコードと対立する、現実の直接的表出である。」の文が来る。
 さらに、キットラーの文として次の引用があります。
マスメディアにおいては無意識的なものこそが主題となる。伝統的芸術の伝達経路は意識によって凍結され、意識によって切断された。(…中略…)それに対してサウンドは自我という鎧を打ち砕いてしまう。(p124)
 引用が多くなってしまいましたが(細かな検討は記事の後半に譲ります)、ようするに、この記事では意味との象徴的関係を経由することなしに現実的表出としての生理的感覚と情動──つまりは “エモさ” を喚起し、そこに照らしてメッセージを解読するであろう “自我という鎧” を砕いてしまう「サウンド」の正体が気になっているのです。
 ありがたいことに、田中純は「サウンド」に関するキットラーの理解が、伝説的ロック・ギタリストとして知られるジミ・ヘンドリックスにちなんだものであることを書き記してくれています。『政治の美学』での記述はロックがマスメディアであること、そしてロックのサウンドこそが政治的に厄介なのである〜と進行しますが、ここではそちらには深くは立ち入りません(この記事の後半部に少しの言及はあります)。
 以下では、『政治の美学』において著者・田中純が参照するフリードリヒ・キットラーが参照するジミ・ヘンドリックスに焦点を当てながら、「サウンド」観念の正体を探っていきます。
 

ジミ・ヘンドリックスの「サウンド」

ここではジミ・ヘンドリックス(ジミヘン)がどのようなスタンスで彼自身のサウンドと向き合ってきたか、『ARE YOU EXPERIENCED?』(1967)の日本発売版のライナーノーツを参照しつつ追っていきます。
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ジミヘンとは誰か

 ジミ・ヘンドリックスは「ギターの神様」とも称される伝説的ギタリストです。シアトル生まれ。血統にはアフリカ、アイリッシュ、チェロキー・インディアンなどの血が入り混じったもので、このことは彼の「混血的な音楽性」と重ねられる向きもあります。
 第二次世界大戦下に両親は離婚し、父の元で育ったジミヘンは15歳のときにギターを手にし、バンドにも参加、音楽に夢中になります。高校を中退した17歳の頃には地元のクラブなどでステージに立っていました。
 しかしステージに立てても生活を立てることはできず、ジミヘンは空軍に入ります。軍隊内でもバンド活動をし、除隊した63年からは本格的にミュージシャンとしての道を進みはじめたのでした。(ちなみに除隊理由として筆者がしばしば耳にするのは「トイレでこっそり自慰行為をしていたのがバレたから」でしたが、これには諸説あるのだとか。いずれにせよ、ジミヘンが軍隊生活を気に入らなかったのは確かなようです。)
 さまざまなバンドにギタリストとして参加していたジミヘンですが、1966年に自分のバンドを結成しようと動き出します。そして同年9月に渡英する運びとなり、翌1967年にイギリスで『ARE YOU EXPERIENCED?』を発表し、同作はロック・ミュージック史上に冠たる位置を占めることとなったのです。
 

ジミヘンの評価

 『ARE YOU EXPERIENCED?』のライナーノーツにはデイヴ・マーシュという人物による解説が書かれています。これはもはやジミヘン讃歌と呼んでも構わないものです。
 まず、『ARE YOU EXPERIENCED?』を「音楽の領域の大爆発(ビッグ・バン)」であると語り、この音楽作品以降、エレキ・ギターという楽器そのものが変わってしまったのだと述べるのです。。
それまでにない音の可能性、音色の特質や物理的な固有性(ジミは単に弦とフレット以外でも弾けることを明確にしたという事実を初めてジミを知る人に言っておく)をギターは持ち合わせていたのだ。(p7)
 上に引用したところからもギタリスト・ジミヘンの讃えられ方が尋常ではないことがわかるでしょう。
 また、音楽アルバムの側からジミヘンの凄みを見ると、『ARE YOU EXPERIENCED?』が “ひとつの高み” として、他のミュージシャンに立ちはだかっている事情もあるのです。実際に挑もうとした者たちの挑戦を、マーシュは次のように紹介しています。
『アー・ユー・エクスペリエンスト?』は構想(コンセプト)アルバムの概念を打破した。PET SOUNDS、FREAK OUT や SGT. PEPPER’S LONELY HEARTS CLUB BAND を聴くと、このアルバムの解釈を試みているのがわかる。しかし、どのアルバムも高潔な理想を形にできず、安っぽいロックンロールのイメージを拭えずに終わっている。頭で考え過ぎたために、スピードや力強さ、不屈の精神を犠牲にしている。(p8)
 ご覧の通り、けちょんけちょんにされています。これもジミヘンの到達したところが高過ぎるからなのだ。──そのように読み取ることは決して難しいことではありません。ジミ・ヘンドリックスという人物は、それほどまでの評価を受けるに値する人物なのです。
 

ジミヘンの音楽

 ジミ・ヘンドリックスの『ARE YOU EXPERIENCED?』に対して「大爆発(ビッグ・バン)」というイメージを紹介したデイヴ・マーシュですが、そのアルバムに収録されている音楽を聴く体験を次のように記述しています。
まず、彼が理想と思う場所へ行くためには、聞き手(リスナー)も大爆発(ビッグ・バン)を始め、ジミの内なる宇宙回路に入ってみる。そこには人を楽しませ啓発するだけでなく、核心的な部分で人の生き方を変えてしまうような体験がまちうけている。(p8)
 このような書き方が可能な音楽体験というのは、〈言葉の意味〉で以て語りうるものではないでしょう。それを理解するには体験なくしては達することはできず、せめてリスナーとして〈音楽の刺激〉に身をさらし、踊らせることによってしか行き着けない。
 ここでジミヘンの音楽がロック・ミュージックであったことを思い出しましょう。田中純がキットラーの議論を受けて「ロックがマスメディアであること」を確認したのでした。この場合のマスメディアとは、言葉の意味によって説得するものではなく、音楽の刺激によってオーディエンスを感動させるそのことで以て(ある種のポピュリズムにも似た)動員をおこなうものです。
 ロックのコンサートあるいはライブの光景を想像すればわかるように、そこにあるのは体に響いてくる音響とそれによって喚起される狂熱です。そうした状況における「オーディエンスの体」はひとつのメディアと化している。そして、そのメディアに対して “じかに” 働きかけるのがサウンドなのです。まさに “ゆさぶる” その音響的な震えによって。
 さきに引用したジミヘンの音楽を聴く体験に関する文章では、「核心的な部分で人の生き方を変えてしまう」ものだとありました。それはまさに、“じかに” 核心部へと届いてしまうあり様のことであって、届いてしまえばもはや手遅れ、すでにその人は変わってしまっている、そんな音楽体験のことを指します。
 

ジミヘンのサウンド

 さて、ジミヘンの音楽が実際に “一度知ってしまえばその人は変わってしまう” といった「魔性のもの」であるかは是非ご自身で確かめてもらうとして。改めて「サウンド」がジミ・ヘンドリックスという人物に紐づけられる点に目を向けましょう。
 ジミヘンの発言として出回っているものに以下の言葉があります。
観客の魂の中に入り込んでいくような音にしたい。その音(sound)が、彼らの心の中にあるちょっとした何かを揺さぶり起こすかどうか見たいんだ。だって眠ったままの人がたくさんいるから。
 ここには明確にサウンドがどのようなものである(べきなの)かが語られています。それによれば、ジミヘンが志向するサウンドは「魂の中に入り込み、心を揺さぶるもの」である、というわけです。
 上のジミヘン的なものの表現に着目して注意しておきたいのは、ジミヘンはサウンドのことを語るのに “魂” と “心” については言及していますが、“精神” に関しては取りあげてはいない点です。精神(マインド)とは知性によってコントロールされた自己意識のことでしょう。サウンドが揺さぶるものを語るのに、ジミヘンは霊的人格としての魂(ソウル)と熱情の源泉としての心(ハート)には触れているのに、精神には触れていない。このことは(ジミヘン自体の考えを説いたものの代表のように理解するのは短絡的ではあるものの)象徴的です。
 パンクロック・バンドのザ・ブルーハーツはサウンドに魅せられた自分たちの感覚を次のように語っています。
学校の先生とか親が言うことよりも、キース・リチャーズのチョーキングやリトル・リチャードのシャウトに本当のことがあるような気がするんだよね(ドブネズミの詩、p33)
 理屈ではないからこそ、どんな理屈よりも強く人を感動させる。それこそが本物なのだ。──彼らはそのような感覚を──デイヴ・マーシュがジミヘンを聴く体験を「人を楽しませ啓発するだけでなく、核心的な部分で人の生き方を変えてしまうような体験」だと評したように──として語っています。
  “知性によってコントロールされた自己意識” が精神なのでした。となると、理屈にこだわるのは精神です。そのことから、ジミヘン(そしてその他のロック・ミュージシャン)が〈サウンド〉にこだわるときの姿勢は、意味や理屈にこだわる頭の働きを介在させることなく、刺激と反応を事とした体の働きに訴えるものだと考えられます。
 

揺さぶるサウンド、自殺するロック

ここでは再び『政治の季節』へと目を向けて、ロックをマスメディアの一形態として取りあげ、サウンドがその根拠に挙げられる点を見ていきます。サウンドが無意識への直接的な作用によって日常的感覚を殺戮する営みに関与し、その意味でサウンドへのこだわりが自殺的であることにも触れます。

自我を打ち砕くもの

 田中純はキットラーのマスメディア分析を引用していました。
マスメディアにおいては無意識的なものこそが主題となる。伝統的芸術の伝達経路は意識によって凍結され、意識によって切断された。(…中略…)それに対してサウンドは自我という鎧を打ち砕いてしまう。(p124)
 上で “伝統的芸術” と言われているのはメッセージ志向の作品のことです。愛を歌う音楽があるとすれば、その音楽というメディアに乗った愛のメッセージこそが、その作品の本質となる。これが伝統的な芸術のあり方です。
 他方で、“サウンド” を駆使する “マスメディア” の場合には、愛を歌う音楽であっても、肝心なのは愛というメッセージなのではなく、メディアとしての音楽(というよりもサウンド)の側に重点が置かれます。これがメディア志向の作品を生み出す。
 キットラーが「自我という鎧」と表現しているように、意識とはひとつの武装状態にあるものだと言えます。脳科学において “人が他者の心を理解する能力” のことを「心の理論」とも言いますが、自我と呼ばれるものも一個の理論武装の結果として現れるのです。
 そして、意識的なものとしてある「自我という鎧」、サウンドはこれを打ち砕いてしまう
 

感覚を殺戮するもの

 田中純は “サウンドが自我を打ち砕く” というキットラーの観点を「無意識への直接作用によって日常的感覚を殺戮する営み」として以下のようにまとめています。
ロックというヴァーグナー的総合芸術作品とは、テクノロジーを駆使してあらゆる感覚にそれぞれの日常的識域を超えて働きかけ、諸感覚の通常の統合(常識=共通感覚的統合)を解体して騒乱状態を引き起こすことによって、無意識へと直接作用しようとする試みである。この意味においてそれは日常的感覚の死を求める営み、感覚の殺戮行為なのだ。(p124)
 人は常識に縛られています。“縛られる” と言うと否定的なニュアンスがありますが、それなしでは正常な言動は不可能だという意味では、他人と共にあるなかで社会的に生きるための歩行杖や保育器であるような前提条件とも言えます。そうした日常的感覚を殺戮するのがロックである。──上の文章ではそう語られているのです。
 「常識を壊せ」というのはしばしばロックの凡庸なイメージとして語られるキャッチ・コピーですが、サウンドが究極のところで感覚の殺戮行為だとすると、これは(聞き手はもちろんのこと)サウンドを表現する者にとってはほとんど自殺するにも等しくなります。なぜなら、サウンドが諸感覚の通常の統合を解体し、騒乱状態に導くものであるとすれば、第一に解体しなくてはならないのは表現者自身の感覚的統合であるからです
 

そしてロックは自殺する

 『政治の美学』のなかでジミ・ヘンドリックスの名前が挙がる箇所をもう一度、最後に取りあげてみます。
芸術が意味との象徴的関係のみを持つのに対して、メディアはそれが加工する対象の物質性に直接関係している。「マスメディア」としての楽劇やロックにおいては、語られる言葉の心理的意味ではなく、「サウンド」(「正確にジミ・ヘンドリックス的な意味で」とキットラーは注釈している)、およびサウンドによって喚起される生理的感覚と情動こそが問題である──(p124)
 上の文章では、ロック・ミュージックがマスメディアの一形態としてオーディエンスの体というメディアを揺さぶるためのサウンド(これは演奏者自身の体をも揺さぶるだろう)を追求するものである、といった構図で把握されています。
 大衆の意識的な常識を対象にするはずのマスメディアが、大衆の無意識的な情動を対象にするロックと軌を一にする。これはしかし、大いなる矛盾です。
 田中純が「ロックの「初めの約束」とは権力をもたない人々のメディアになることだったはずなのに」(p119)とこぼしているように、もともとのロックは常識に投じられる石としてあったはずが、マスメディア的にオーディエンスの情動を揺さぶるサウンドへとこだわる限り、ロック・ミュージックのオーディエンスにおける「個別の心理的意味」は、「単一の生理的感覚」へとまとめられてしまう
 つまり、(個性を重視した)ロックであろうとすることが(個性を無視した)常識を形成する営みにもなってしまう。──それゆえに、ロックは自殺的であるほかないのです。
 

ロック・サウンドの自殺的側面

 最後に、ここまで見てきたロック・サウンドには2つの自殺的側面があるということを指摘することにします。
 まず、感覚の殺戮行為としてのサウンドの側面は、それを表現(演奏)するミュージシャン自身の感覚にとっても殺戮的であり、「常識を壊せ」に代表されるように、自分自身の感覚に対する自殺行為でもある。これがロック・サウンドにおける第一の自殺的側面としての「ロック・ミュージシャンにおける自殺」です。
 次に第二の自殺的側面としての「ロック・ミュージックにおける自殺」は、ロック自身がそもそも声なき声の叫びとして常識的なものに反旗を翻すものであったはずが、マスメディアと同様に大衆を生み出し、そのことによって常識を作り出す側に回ってしまうことに由来する。
 以上がロック・サウンドの2つの自殺的側面になります。
 ここまで見てきた『政治の美学』の当該箇所の論文に「自殺するロックンロール」というタイトルが付いていることにも肯けるでしょう。
 
 総括すると、ジミ・ヘンドリックスがこだわった〈サウンド〉は、音楽に身を委ねる快楽であると共に、田中純が取りあげてみせたように、〈ロック〉が自殺してしまうことにもなるといった “悲劇の根源” でもあるのです
(『政治の季節』ではより詳細に立ち入り、 “ロックのイデオロギー面” に注目することで、ロック・スターの政治性とその不可避なる挫折を検討しますが、当記事はここで終わり。)
 

まとめ

ここまでお付き合いいただきありがとうございます。記事全体をむちゃくちゃ要約するとしたなら、「ジミヘンはスゲえ」であり、「サウンドはヤベえ」となるでしょう。この記事を読まれた方が『ARE YOU EXPERIENCED?』を聴きたくなるか、もしくはサウンド──とくにロック・ミュージックに対する姿勢に寄与するところがあれば幸いです。
_了

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