【映画解説】『僕が跳びはねる理由』にみる感覚と表現の話|+自閉症

画の紹介
この記事は約17分で読めます。
Pocket

こんにちは、ザムザ(@dragmagic123 )です。いかがお過ごしでしょうか。
発達障害、あるいは自閉症。昨今これらの「特性」が話題になることが多くなりました。わざわざ関心を向けなくとも、見聞きしたことがあるのではないでしょうか。
「コミュニケーションの障害」とも呼ばれるその理由は彼らの意思伝達の困難にあります。縮めて「コミュ障」といえば察しのつくかたもいるのではないでしょうか。
ただ、世間で流通しているコミュ障のイメージよりも、自閉症と呼ばれている人たちの症状は重いもの。同じコミュニケーションの障害の分類としてくくってしまうには、当人にとっても周囲にとってもいろいろな難しさが生じてくるのも事実。
自閉症の難しさ。それは看護・支援する側の視点から語られることが多いものでした。自閉症者が自身の状態や自覚症状を語ることが困難だからです。しかし、ある自閉症の当事者が自分が思い・感じていることを書きつづり、出版する機会を得ました。著者は東田直樹、本の名前は『自閉症の僕が跳びはねる理由』。
とはいえ、本のタイトルを出しましたものの、この記事では “そっち” は取りあげません。取りあげたいのは東田直樹の本を原作とした映画、ジェリー・ソスウェル監督による『僕が跳びはねる理由』です。
 
この記事で取りあげている画
ジェリー・ロスウェル『僕が跳びはねる理由』,KADOKAWA,2020
 

【映画解説】『僕が跳びはねる理由』にみる感覚と表現の話|+自閉症

『僕が跳びはねる理由』を観るべきだ

個人的な動機の話からすると、ぼくが『僕が跳びはねる理由』を観に行こうと決めたのは、東田直樹の本を読んでいたのが一つ。もう一つには、ぼく自身が「発達障害」もしくは「自閉スペクトラム障害」として診断された経緯があり、自閉症の当事者たちの福祉を題材にした映画を他人事には思えなかったからです。
そしてまた、以上の個人的な動機を離れて、多くの人がこの映画を観にいくことの意義があることも確かだ、とも思っています。しかしその “意義の確かさ” は必ずしも映画を観た人全員に共有されているものではない様子。ぼくが見つけたなかでは、「なぜ文字盤を使うのかがわからない」という感想があり、ほんとに同じ映画を観たのかしらと思いもしました。
映画の技術や見せ方云々は別にしても、『僕が跳びはねる理由』を目にしたなら、せめても啓蒙されて欲しいポイントがある。インストールしてもらいたい価値観がある。
勝手ながら、この記事では以下、『僕が跳びはねる理由』を観てインストールしてもらいたい価値観を、3つ紹介していきます。最初の2つで自閉症者の生きる世界を押さえ、最後の1つで自閉症と健常者とに共通するテーマを取りあげる構成です。
 

インストールすべき3つの視点

本稿では、時間感覚と言語感覚という表裏によって自閉スペクトラム障害を定義し、そこから翻って、発達障害者と定型発達者あるいは自閉症者と健常者とに共通した「表現すること」の意義に目を向けます。
ここでは自閉スペクトラム障害の当事者が生きる世界を言葉上で描出する試みとして、彼らの生態が健常者のそれとどのように隔たっているのかをデッサンしてみます。

視点①時間感覚

自閉症者の時間は「線状ではなく点状である」とよく言われます。これは健常者の時間体験が起承転結からなる「ストーリー」としてイメージした場合に、自閉症者が体験する時間が「断片的なもの」であるといった意味合いを持ちます。断片は断片であるままではストーリーの体裁にはなりません。
健常者の時間感覚が線状であることのストーリーっぽさは、ふだん物事を理解する際のベースになります。それを受け入れることで世界を大雑把に “まなざす” ことが可能になる。これは時間体験にも言えて、老いて時間の流れが速く感じられるのもストーリーを前提にした一種の慣れに由来するでしょうし、世界に対する期待や予測がある程度可能であるという安心感によって、緊張した遅い時間を体感しないようになる。すなわち、ある種の鈍感さを獲得していく能力が背景にある。鈍感になるからこそ、なめらかな時間が感覚しているという自覚もないままに過ぎ去っていく
自閉症者の時間感覚が点状であるとされる場合には、健常者のようなストーリーベースの安心感は期待できません。世界に対するなめらかなストーリーラインが描き難く、つねに過敏な状態に置かれるからです。点と点とが繋がらず、点から点へと移送される。そんな現実を生きているので、次の予測もできず事態に敏感になり、不安にもなってしまうのですね。
自閉症者が特定の知覚刺激に強いこだわりを持つことは、そうしたストーリーの寄る辺がない自分の輪郭や居心地を確かめる必要に駆られてこその振る舞いなのかもしれません。なめらかには過ぎてくれない時間を、ざらついた感覚刺激にこだわることで感覚する自分自身を確かめる、というふうに。
時間感覚に関してまとめると、健常者と自閉症者を分けるのは、自分が鈍感になれる時間を増やしていける能力の有無によって定義してみると、一応の説明ができるでしょう。ストーリーという仮説を立てることで世界に、時間に、感覚に対して鈍感になれる。しかし自閉症者にはそうした鈍感になるための能力が乏しい。それは物語を生きる能力でもあり、感覚を大雑把に捉える能力でもある。逆に、自閉症者は断片を感じる能力に優れ、感覚を顕微的に調べる能力を備えている
 

視点②言語感覚

健常者は言葉で自分の意思を表すときに、基本的には思ったことを思った通りに言うことができます。お腹が減ったら「お腹が空いた」と言えますし、爪先をぶつけたら「痛い!」と言える。医者に診てもらう際には自覚症状を言うことだってできる。“思ったこと”とそれを“表現すること”とが素直に連絡しているんですね。
素直” という言い方をしましたが、自閉症者と健常者との差異を際立たせるために用いたここでの「素直さ」とは、一般的に言うところの「性格の素直さ」のことではありません。それはメンタル(心)の次元ではなくフィジカル(身体)次元の話なのです。
健常者が自分の思ったことを口に出すときには、身体はなんら邪魔立てをせず、素直に思いを発することができます。ところが自閉症者の場合にはそうはならず、思ったことを思った通りに言えないんですね(これに関して、ここでは“どのように”の話はせず、せいぜい言葉で言い表せるイメージを書き留める程度にしておきます。それも筆者がこれを書いている時点で書ける暫定的なものではありますが)。
自閉症もスペクトラム状に様々な症状の軽重がありますので一概に自閉症的である全員が「思ったことを思った通りに言えない」とは言い切れないんですが、共通して言えるのが、身体が感覚・知覚の情報を解像度の高い “ハイレゾ状態” で拾い集めてしまうことです。そのせいで思ったことを言う以前に感じたことの情報量に意識が占拠されてしまい、「言う」というコマンドを選択する上で多大な負荷が掛かることになる。で、言おうにも言えない状態に陥ってしまう。
言葉を使おうにもまず身体の方が異物となって意思表示の邪魔立てをしてしまう。言うなれば大都会の混みあう雑踏のなかで特定の人物の耳元に自分の声を囁かねばならないような。このイメージにおける人混みも喧騒も、自閉症者の身体の現実として立ち現れてくる意思表示する上での障害なのです。
このような現実を通して浮かび上がる言語感覚のあり様は、時間感覚と同様に、「線状ではなく点状である」といった感覚に由来すると言っていいでしょう。どちらも “なめらかではない” ことによって、ままならないのですから。ようするに、「言おうとする自分」と「言おうとする体」が協力関係にならず、その媒体(メディア)である「言おうとする言葉」が宙吊りになってしまうのです。
 

視点③感覚表現

時間感覚と言語感覚。双方のベースには「感覚する身体」があります。この身体を介して感覚したことを表現するという点に着眼するなら、自閉症であろうと健常者であろうと関係なしに共通する、オウンセンス(自分の感覚)をコモンセンス(みんなの常識)に変換するというテーマを取りあげることができます。
健常者の場合オウンセンスはコモンセンスとそう変わりません。これは一見して生活上の問題はなさそうに思われますが、「自分の感覚を表現する」という点からは、感覚の特殊さが常識の一般性によって抑圧されてしまう可能性を孕んでいます。
作文や絵を描くときに「感じたことを表現すればいいんだよ」と言われた際の戸惑いを想像してください。生きている以上、自分が “何か” を感じていることは確かなのですが、それをどのように表現すればいいのかというのはまた別の話なのですね。たとい表現できたとしても、よくある言い回しや馴染みの記号を用いて “わかりやすく” してしまう。この「わかりやすさ」には、オウンセンスを犠牲にしてコモンセンスを召喚するのと似た風情があります。
健常者の感覚に寄せて言えば、大勢の人の中で自分の意見を持ち続けることの難しさが挙げられるでしょう。友達に合わせて自分のやりたいことができないのもそれです。どちらも自分のことを決めるのに先立って自分以外のことを優先している。コモンセンスがオウンセンスのあり方を決めているのですね。
自閉症者のことに立ち返ると、先天的にコモンセンスに馴染めない彼らにとって、(健常者がコモンセンスを前提にできるのに対して)絶えずオウンセンスで直接にコモンセンスと向き合わねばなりません。コモンセンスを前提にできないからこそ、自閉症者のコミュニケーションは困難に陥る。とりわけ健常者側からは「何を言いたいのかわからない」と思われることにもなってしまいかねない。
自閉症者のコミュニケーションの難しさから取り出せる問題点は、センスがセンスであるだけでは他者へと伝達することができないということです。
常識とされているコモンセンスを経由してでなければ、自分以外の誰かにメッセージを伝えられない。オウンセンスはコモンセンスへとエンコードされ、それを受け取った人が自分の感覚上にデコードすることを通してメッセージは伝達される。コモンセンスを前提にしたコミュニケーションが困難な自閉症者にとっては、これは非常にムズい。
自閉症者が「ひとの気持ちがわからない」と言われるのもこの点にあるでしょう。そのように言われる際の “ひと” とは、「ふつう」や「常識」、「一般的」などという言葉ともねんごろでしょうから。
 

映画の魅力、結局

映画『僕が跳びはねる理由』では、自閉症者のコモンセンスに対するあらゆる道が閉ざされている “のではないこと” が示唆されています。言葉を話すコミュニケーションが苦手なのだとしても、文字を使ったコミュニケーションならオウンセンスを語ることができる、という形で。
『僕が跳びはねる理由』から受け取れることがあるのなら、まず健常者にとっては自分が感覚していることを誰かに伝えることの本来的な難しさであり、簡単に伝わってしまうことのもどかしさを挙げることができるでしょう。伝えることが難しいからこそ、たやすく伝えられる方法に依存してしまう。それは個性を殺すことであり、自分を他人に明け渡してしまうことにもなりかねない。そうした必要悪的な原事実に気づき、自分自身の感覚に目を向けさせる視点を授けてくれるのがこの映画だと言えます。
他方で、障害者にとっては自分が感じていることを表現することへの希望を示唆してもらえるでしょう。というのも、この世界では、自閉症含め、障害があるというだけで犠牲になる人権があまりに多いのですから。当事者自身が自分の感覚的現実を表現することに対して萎縮したり自粛してしまうことに抗うための手掛かりとしても、この映画の魅力は語られるべきです
 

〈感覚〉を深堀りしたい人のための3つの視点

映画『僕が跳びはねる理由』は観る人に「感覚とは何か」という問いを授けてくれます。自閉症者の感覚に寄り添うことで、「世界を享受する=自然を感覚する」ことの豊穣さを垣間見せてもらえるのですね。その点に目を凝らすと、健常者が無意識裡にスルーしてしまっている感覚の味わいが見えてきます。ここではそうした感覚の深みを(映画を通して窺える)自閉症者の世界から紹介します。

文字盤の理由 〜感覚論〜

『僕が跳びはねる理由』では、多くの自閉症者が “話し言葉” がコミュニケーションの手段として不得意であることが示されます。それに対して “書き言葉” に属する文字盤ならば、大丈夫らしい。なぜか?
映画の中でこんなことが語られます。自閉症者は部分が見えて、そこに目を凝らすことでようやく全体が見える。普通の人だと全体が部分に先立って見える。この線から、自閉症者は健常者が頭で考えることが一瞬で口から出るのが驚きだと言いもします。すなわち、彼らには全体像の成立がないので、バラバラなものが一挙に押し寄せることになるんですね。
部分が全体になりきらず、バラバラなもののままに「さあ、どれがおまえの言いたいことなんだ?」と押し迫ってくる。その中から自分の言いたいことを選ばなければならない。
このイメージを説明するなら、「連想ゲーム」を挙げるのがいいかもしれません。
連想ゲームは点同士の言葉と言葉が線状に、ツリー状に繋がっていくことで構成され、部分同士が有機的に連鎖していく様がある。これが健常者の感覚風景です。言葉と文字の違いを考えたとき、文章を書くのは不得意でもしゃべるのは得意な人のことをどう説明すべきでしょうか。おそらく、それは連想ゲームができる能力に由来します。主語や動詞や目的語や補語や、それらを繋ぐ助詞にいたるまで、無意識裡に働く連想によって言葉に変換されていく。言葉は一音一声を繋げる速度が即時的で、そして速い
自閉症者の場合はそのような速度には追いつけません。追いつかなければならない情報量があまりに多く感じられてしまうのです。なぜなら、彼らには全体というものが頼りにならず、より強く部分的なものに頼らねばならないのですから。
そんな自閉症者の世界に文字盤が意思表示のための救いになるのは、“少ない情報量に集中できるから” と言っていいでしょう。あるいは “集中すべき情報量が少ないから” と。話し言葉ではまとまりのなかった言葉も、文字盤では落ち着いている。言いたいことを伝えるためにはその落ち着いた文字から適当な一語一文を選べばいい。文字盤というアナログの装置である分、しゃべる際に要求されるデジタルな選択肢が具体的な形で限定されているのもメリットとなっているのでしょう
淀みなくしゃべることは苦手なら、確実に想いを彫刻していくように語ることはできる。これが、自閉症者にとっての文字盤の効用です。また、こうした点から健常者は、自分が普段コミュニケーションの前提にしている連想ゲームがいかに曖昧で抽象的であるのかを知る視点を得ることもできるのではないでしょうか。
 

フツウの正体 〜言語論〜

ふつう、普通、フツウ。この言葉は私たちにとって救いにもなってくれる反面、呪縛にもなっている概念です。救いとなるのは、フツウであるならば人はマジョリティに属することができ、マジョリティである大勢から異端視されることもないからです。みんなと同じであることや、みんなから理解されることは自分の居心地が安寧にも繋がります。
フツウが呪縛になるというのは、普通ではなく特殊な自分には問題があるのではないかと思わせてしまうからです。「フツウはこうだよね」「フツウだったらそんなことしないよね」などと誰かに言われることを恐れる感受性は、フツウという言葉が呪縛にもなっていることを証しているでしょう。
さて、フツウというのは言語と切っても切れない関係にあります。言語は自分だけでわかっていてはダメで、他人にも通じなければならないのですから。この “他人にも通じる” という性質があるからこそ、言語は特殊ではなく普通一般のものとして、概念の把握を介して自他への意思疎通が可能になるのです。
当記事では、映画『僕が跳びはねる理由』から、感覚(センス)という言葉にオウンセンス(自分の感覚)とコモンセンス(みんなの常識)を分析する視点を取り出しました。この二つのセンスを並べたとき、言語を用いる私たちは多くの場合にオウンセンスをコモンセンスによって代弁していることに気づけます。
たとえばヤバい、キモい、ウザい、ダサい、エモい──これらは独特な感覚を大雑把に表現するのに頻用される言葉になります。感覚に対して大づかみなこれらの言葉で注目すべきは、この言葉はある種の感覚を示唆しているものの、それが実際にどのような独特な感覚なのかを語ってはいないということです。ここにあるのはコモンセンスによるオウンセンスの抑圧です。
ところで、詩人、小説家、劇作家のサミュエル・ベケットは、形而上学は普遍性を志向し、詩は個別性を志向するものなのだと語りました。学者はコモンセンスを、詩人はオウンセンスを。映画『僕が跳びはねる理由』では、自閉症者の言葉が「詩的である」と語られています。オウンセンスにこそ自閉症者の本分があるとした当記事からするとこれは当然です。また、ベケットの主張する点からしても、自閉症者が「感覚的であること」とそれゆえに「詩的であること」とは繋がります。
逆を言うと、健常者の言語世界は感覚抑圧的であって、意思疎通的であるばかりが得意になり、センスをそれ自体で表現することが苦手になっていく。それも、言語の名の下に。言語とは、フツウとは、個別のユニークな感覚を抑圧することによって成立する、感覚を表現するための希望であり、と同時にその感覚を抑圧する呪物でもあるのです
 

感覚の美しさ 〜表現論〜

健常者はストーリーのなめらかさによって世界を理解できる。自閉症者にはそうしたなめらかなストーリーを健常者のようには持てない。しかし、自閉症者には感覚のざらつきを楽しむ感度が備わっている。とはいえ、その感度によって集められたセンスを他者に伝えることが難しくもある。ここに彼らの障害が「コミュニケーションの障害」と見なされる根拠がある。
センスは “ただセンスであるだけ” では伝達することができない。意思疎通を図ろうとする場合には尚更そうです。オウンセンス(自分の感覚)はコモンセンス(みんなの常識)を経由しなければ “話は通じない” のですから。
映画の原作になった『自閉症の僕が跳びはねる理由』には、次の一節が自閉症当事者の切実な主張として語られています。
自分の気持ちを相手に伝えられるということは、自分が人としてこの世界に存在していると自覚できることなのです。(p31)
意思疎通ができずに「ただそこにいる状態」では、自分が人としてこの世界に存在していると自覚できない。そう語られています。これは自閉症者に独特のものではありません。人としてではなく、物や機械さながらに接されることは誰であれ非人道的に感じます。
よく知られた話では戦間期にイギリス人女性が捕虜である男性日本兵の前で平然と着替えをしたエピソードがありますし、身近なところでは夫婦の間でろくな会話もないままに「メシ、フロ、ネル」だけで送られる共同生活もそうです。どちらも “される側” にとっては人間的な扱いをされていないと感じる。
例に挙げたのは必ずしも意思疎通ができない状態ではないものの、一個の人権を備えた主体が「ただそこにある状態」へと追いやられているという点で同じです。前者は捕虜であることで自分の気持ちを表現する権利が剥奪されており、後者もまた言ってもどうせ現状は変わらないだろうという諦観から、自分の惨めさを相手に伝えられずにいる。いずれも自分の気持ちを相手に伝えられないでいるために、人としてこの世界に存在している実感を得られずにいます。
東田が述べたところに戻ると、自分の感覚を他者に伝えることは人間としての権利を訴え守ることと同義の関係にありそうだとわかります。人権概念は自己表現と表裏一体である。あるいは、人権問題は自己表現の問題だとも言えるでしょう。そこで表現されるべくあるのは高尚な哲学思想や高邁な政治信条などではなく、シンプルな生活感情なのです
ところで自閉症者はしばしば「障害者アート」や「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」などのジャンルに括られつつ、新たなアート市場に作品を供給する “芸術家” として発見される向きがあります。全員がそうであるとは言えないものの、自閉症者の中には何らかの創作活動する人もいて、その中には注目に値するとみなされる “作家” もいたりして。
映画『僕が跳びはねる理由』でも、個展を開けるほどの創作活動をおこなう自閉症者も登場しているのですが、注意しておきたいのは彼女の母親の発言です。そこでは自分の娘にとって創作活動はアート作品を制作することではなく、むしろ「自分の日常を表す手段なのだ」と語られている。これは興味深い指摘です。
自閉症者にとって喫緊の課題となるのが「自分の気持ちを相手に伝える」ことであるなら、不如意な身体に由来する発話表現の困難があるにしても、それでもなお自己表現しようとして選ばれるその手段に、創作活動もあるのではないか。
先の自閉症の娘の母親が述べた「日常を表す手段」という言葉が的を得ているのは、言語によって自分の気持ちを他者に伝えることが難しい自閉症者が、それでもなおと自分の生活感情を他者に伝えようとして選ぶ、その手段こそがいわゆる “アート” なのだと物語っているからです。
繰り返しますが、センスはただセンスであるだけでは他者に伝達することはできません。それは表現されなくてはいけない。筆記や発話による言語表現ができないのであれば、絵を描いたり彫り物をするなどの造形表現をしたっていい。そうしてできた作品から、他者は “人に伝わってほしい何がしかの生活感情” を自閉症者の表現の中に認めるでしょう。かくして、自閉症者の豊かな感覚は報われるのです。
自閉症者の感覚及びそこから出てくるものは美しい。これに頷くとしても、ただしその美しさは、必ずしも万人受けする類いのものではないですし、コンクールに出して賞を獲れるものでもありません。それが美しいのはそういった社会的評価にあるのではなく、個別的で具体的なある一人の感覚体が生きられているその事実を表現しようとする、そのこと自体に美しさがある
 

まとめ

『僕が跳びはねる理由』は面白い映画です。こう言っては不謹慎なのですが、自閉症というのがもう面白いのですから。私自身も半ば当事者であるこの障害を抱えて生きることは、自分自身にも周囲の人間にとっても苦労はあります。とはいえ、この記事で語ったように物語的ならぬ感覚的な断片を楽しむ姿からは、健常者が送れてしまう生活の不自然さにん気づく視点を得られもします。この意味で、件の映画も、自閉症という障害も、面白いのです。

_了

関連資料

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました