【プライベート・ビデオ講座】撮影者の生理で映像を感じる|編集編

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そういうわけでザムザ(@dragmagic123 )です。今回は詩人の谷川俊太郎と楠かつのりによる対談本『これは見えないものを書くエンピツです』を取りあげます。この本を取りあげるのは当記事を含めて2本目になります。1本目は〈撮影〉の観点から書きました。

なぜ、2本目に着手しているかと言うと、1本だとまとまらなかったからです(笑)

ザムザくんの書いたものがまとまっていたことなんてあったかしら?

どうやら、彼はこの本を〈撮影〉〈編集〉〈視聴〉の三つのキーワードで楽しもうとしているようだよ

この記事では、とくに〈編集〉をテーマにして書いています。編集行為の意味や理念、それらに基づいた方法論などの話題を提供していき、最後には実例としてデヴィッド・リンチに触れます。

この記事で取りあげている本
この記事に書いてあること
  • 映像を撮影した後には編集の段階がある。編集は他者の視線を意識したものであり、それを通して編集者の魂を付着させるプロセスである。しかし配慮する他者とは、必ずしも “見ず知らずの他者” なのではない。気になる異性のような身近な相手でも構わないのだ。そして、そのような他者への配慮がなされているからこそ、あらゆる編集ひいては創造行為は尊いのである。
  • 編集作業とは、一見すると、編集者が映像の意味的な繋がりを意識した一種の解釈行為である。他方、デザインの界隈では意味情報を加算するのではなく、なるべく差し引くべきだと考える。情報を伝えてしまうことは “わかろうとする” 運動を止めてしまうことになるからだ。映像編集にも言葉による解釈ではなく、感覚を触発し運動を促進させることが重要なのだ。
  • 意味情報を足していき、解釈を誘発・連鎖させる編集がある一方で、見る者に “無解釈であれ” と強いる編集がある。二つに優劣はない。肝心なのは既成の価値観に合わせて見直すのではなく、自分の生理感覚から映像を見返すことだ。映像の意味にこだわるのではなく、映像の質感が自分の感覚に相応しくなっているかが大切なのだ。それはまた、趣味への配慮でもある。
 

【プライベート・ビデオ講座】撮影者の生理で映像を感じる|編集編

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はじめに

 詩人の谷川俊太郎と楠かつのりによる対談本『これは見えないものを書くエンピツです』には、「プライベート・ビデオ講座」という副題がついています。 “プライベート・ビデオ” というのは、今で言えばスマホなどのガジェットを通して行っていることです。動画を撮影し、気軽にアプリで加工したり。とくに YouTube や TikTok などの動画共有をメインにしたサービスが広まっている現在は、そもそもネット上で共有するために撮影・編集をしている場合も多く、わざわざ「プライベート」という言葉を使うこともないのかもしれません。
 そうは言っても、『これは見えないものを書くエンピツです』が刊行された1993年にはYouTubeなどはありませんでしたし、今のように手軽に動画を編集することなどはできませんでした。環境が違っていたわけです。映像と言えば一部の映像作家などの専門家のものと考える人が多かったかもしれません。とくに撮影だけではなく映像の編集まで手を出すとなると、ハードルは相当のものだったのではないでしょうか。──そんな中にあっても新しいガジェットを通して新しい表現を模索した人たちがいました。
 以下では『これは見えないものを書くエンピツです』で語られているところを、主に〈編集〉の観点から、編集行為が意味することや、理念やそれに基づいた方法などを検討していきます。また、最後には、取りあげた編集の方法論の実例として、芸術家であるデヴィッド・リンチをご紹介しています。
 

編集に手を出せば…

ここでは、『これは見えないものを書くエンピツです』を〈編集〉の観点で眺めます。編集とは映像を撮影した後にくるもの。では、映像を編集することには何があるのか。──谷川俊太郎と楠かつのりの語りをメインに、デザイナーである寄藤文平の視点も合わせて検討していきます。

他者の視線に配慮し、自分を見える化する

 ビデオカメラを持った人が映像を撮影する。撮影した映像はそれだけでは “ただの映像” でしかありません。撮影した映像を “映像作品” へと仕上げるには、〈撮影〉の次の工程である〈編集〉の段階が必要になります。──わたしたちは編集を検討するために次の楠かつのりの発言から始めてみましょう。
ぼくはビデオカメラを回してるとき、ただ撮ってるっていう感覚が強いんですよ。ところが、その映像を使って編集してる段階で、その映像がやっと自分のものになっていくというか、自分の魂が付着していくような感じがあるんですね。撮ってるときはなんとなくしか見えなかったものが、編集の中でははっきりと見えてくると言えばいいのか、だから、逆に言えば、あっ、これはいるものなんだ、いらないものなんだ、というふうな選択ができるんでしょうね。撮ってる段階でそういう自覚があれば全部使えてもいいはずなんですけれども、編集という段になったらそこに使っていい映像といけない映像、なおかつ、似たような映像であっても、入れていいものと入れて悪いものという判断もしている。(92)
 楠自身の言葉でまとめると、「編集するときに初めて自分がそこに見えてくるのが編集だ」というわけです。編集が「自分の魂が付着していくような感じ」だというのもすごいですよね。また、上の言葉を補強するのに谷川俊太郎の発言も引いておきます。
編集する場合には他者の視線を意識せざるを得なくてさ、こんなに長いこと見てるのは退屈だろうとかね。つまり、独りよがりな編集っていうのはあまりおもしろくないと、基本的に思ってたほうがいいんじゃないかなと思うんだ。(92)
 谷川俊太郎は「映像編集には他者の視線が必要である」と述べます。これはまた、「物語」ないしは「作品の物語性」という言葉に言い換えられてもいる。そして谷川は「ある程度ほかの人間が納得するような共同性のもとに設定して人に見せやすくするというのが編集だ」と続けています。
 ここで谷川俊太郎に「物語」と言われているものはなんでしょうか。この点に関して、美学者である室井尚吉岡洋の共著本『情報と生命』(1993)にある次の一節が参考になります。
物語は知覚そのものでもなければ、記憶そのものではなく、それらの「デザイン」である。そのデザインを通して人間は世界と自らを関連づける。バラバラの事物や出来事を逐次的、時間的に配列し、複雑な事象を、ダイジェストし、自分や共同体との関係において編集する。(171)
 編集とは「デザインすること」である。これは感覚的に理解できることでしょう。まとまりのない、ただ単に映したままの映像を、他者の視線を通してまとまりを与え、洗練させる。それは “見やすくすること” であり、”読みやすくすること” であり、”わかりやすくすること” でもあるでしょう──この営みが〈編集〉になるのですね。
 編集の工程を物事に秩序(パターン)を与えることとして読み解けば、「パターンは物の形のパパ(お父さん)なのだ。」と主張していた海野弘の『ヨーロッパの装飾と文様』が挙げられます。
詳しくは次の記事↓
 以上のことは解釈する人間を前提にした映像作品のあり方です。谷川俊太郎と楠かつのりとが『これは見えないものを書くエンピツです』で勧めるのは「プライベート・ビデオ」なわけですが、 ”プライベート” とあるくらいですので、必ずしも “見ず知らずの他者” を気に掛ける必要はないわけです。……そうは言っても、気にしないではいられないものというのはあります。たとえば楠かつのりが言うところの「自分の魂が付着していくような感じ」にとって、知らず知らずに他者を意識することは、おそらく必要な工程なのでしょう。ただしそれは、下手をすると “誰かと共有できるものにならなかった”、ということになってしまうのかもしれませんが。
 

他者への配慮:編集ひいては創作行為の尊さ

 余談ですが、文学作品の界隈では「時の試練に耐える」という言い方がされることがあります。ただ売れている作品ではまだ古典の名に値する、時の試練に耐えうる作品とは言えませんが、百年単位、千年単位で読み継がれているとなれば、それは時の試練に耐えた作品として「古典作品」と呼びうるだろう、というわけですね。
 ここでは二つの他者が想定されています。同時代に属する〈緯糸としての他者〉と、各時代を経て繋がる〈経糸としての他者〉のふたつが。あらゆる編集行為は同時代的にしかなしえない以上、配慮できる他者は「緯糸としての他者」でしかありえません。
 なので、俗に言われる “大衆迎合的” であることは必ずしも馬鹿にはできないでしょう。(……とはいえ、同時代ではまったく受けなかったけれど死後に評価されるといった例にも事欠かないわけですが。)なにせ配慮された他者がいるということ自体が、その創作行為の尊さを証明しているのですから。
 以上の話は、すべての編集ひいては創作の行為が「気になるあの人」を想定していると言えるでしょう。つまり、ラブレターでありラブソングである、というふうに。時の試練というのは、恋慕の相手が時の流れのなかで横の軸から縦の軸へと膨らんでいく過程なのですね。しかし、届けたい他者がひとりでも想定されているのであれば、わざわざ時の流れにさらされずとも、その行いは美しいではありませんか。
 

「加算する編集」と「減算する編集」

 解釈可能なものとそうではないものとは明らかに異なります。編集作業を行うことは意味のつながりを整えることです。意味のつながりを目的とする場合には、”有意味なもの” としてそれぞれの映像がまなざされているのです。たとえば次の谷川俊太郎の発言には言葉の比喩で映像の持つ意味を語っています。
映像の意味っていうんじゃなくて、むしろ質感と言えばいいのかな。きっとそういうものなんだろうね。編集して継ぎ合わされると、映像っていうのは言葉と同じように一つ一つの意味のつながりとして理解されるというふうになるじゃない?(58)
 言葉に意味があるように、映像には質感があり、その質感が意味のような効果を持つ。谷川はそう考えます。ここでは映像の質感が “言葉が備えているような解釈可能性” になるとされています。解釈可能性というのは「別の言葉で言い換えることができること」、つまりは「パラフレーズできること」(換言可能性)です。パラフレーズできることによって他の表現と親和性を持ち、(言葉にせよ映像にせよ)AとBという表現の間につながりを設けて、別様の意味を表す表現へと編集することができる。上の谷川の発言は、AとBの映像を編集することを通して、より訴求力のある第3の質感を表現することができることを語っているのです。
 他方で、上述のような意味や質感を加算させる編集とは違った編集も、先の引用箇所の続きにおいて示唆されてもいます。
もちろん、そうじゃない編集もあるんだけどね。だけど、長回しの一カットだけというのは、例えば縄跳びなら縄跳びにどんな意味があるのかということよりも、縄跳びというものをしている人間の質感みたいな……それは一種ナンセンスなんだけどさ、ノンセンスのおもしろさみたいなものが出てくるんだろうと思うんだよね。(58)
 ここで谷川は、解釈可能性に賭けた映像と映像とを加えていく形の編集 “ではない” 編集として、一種のノンセンスを目的にした編集を挙げています。ノンセンスというのは、意味の足し引きができる解釈ではなく、意味がゼロであり、無解釈なもののことです。先に説明したように、解釈とは意味の連想や類感をヨスガにして別の表現へと置き換えること(パラフレーズ)でした。なので、解釈がない(無解釈)ことは、別の表現に置き換えることができないということを意味します。以上の、無解釈の説明を踏まえてノンセンスの説明を補えば、ノンセンスとは単に “意味がない” のではなく、”意味があるかないかが、ない”のです。
 以上の谷川が言う「ノンセンスのおもしろさ」を目指した編集をここでは「減算する編集」と名付け、センス(意味)を意識した「加算する編集」と区別することにします。
 編集には足していくものと引いていくもの──「加算する編集」と「減算する編集」がある、それはいいでしょう。しかしその上で、わたしたちは楠かつのりが言う「自分の魂が付着していくような感じ」をどのように理解すればいいでしょうか。なにせ魂が付着していくような感じがないよりもあるほうがいいに決まっていますが、意味解釈に頼った加算方式と無解釈を指向する減算方式とでは方向性が真逆です。どちらかが正解だとすると、それとは逆の方法だと、魂が付着する感じと掛け離れてしまいかねません。
 

わかろうとしやすいデザインとは何か?

 ここでデザインの世界に目を向けます。
 デザインの世界では通常、情報を足していくよりも引いていくことの方に重点を置きます。減算する編集ですね。デザインでは何より伝わることが大切なので、情報加算型だとそれを見た人に解釈しなければならない時間(タイムラグ)ができてしまい、伝わりづらくなる。なので、解釈の段階を挟まずに直知直解で伝わる方がよくなる。つまり、無解釈に伝わる引き算型のデザインが求められます。
 デザイナーの寄藤文平は『絵と言葉の一研究』のなかでデザインに〈消費されるもの〉と〈消費されないもの〉という区別を立てました。「本当に必要なものは消費されたりしない」という信念の下に。前者の〈消費されるもの〉にはタッチや絵の印象などといった、人格や感情にまつわるものが当てはまります。そして〈消費されないもの〉には “デザインそれ自体で何も伝えていないようなもの” を当てはめるのです。ただし、 “伝えないためのもの” と言っても “役に立たないもの” ではありません。寄藤が理想とするデザインは、 “何も伝えないで役に立つもの” なのです。
 寄藤文平が語るデザインのあり方は “引き算型のでデザイン” です。人格的・感情的に意味のある情報を追加していくのではなく、むしろそれらの意味情報を差し引いていくことで「何も伝えていない絵」を指向するのでした。
 しかし素朴な考えでは、「何も伝えないデザインではマズいのではないか?」と思わせもします。この点に関しては、「わかりやすさ」を “理解しやすいかどうか” ではなく、 “理解しようとしやすいかどうか” に基準を置いているのがポイントになっています。「わかる」の言葉を使って言い換えますと、 “わかりやすいかどうか” は “わかろうとしやすいかどうか” である。──なのです。「わかる」を判断ではなく、ひとつの運動として捉えているので、 “伝わりやすいかどうか” もただ単に “伝わったらおしまい” ではないのですね。デザインは理解しようとする運動を止まらせないためにある
 また、本のタイトルになっている「絵と言葉」という区別も重要です。絵が何かメッセージを伝えることは、絵が言葉を伝えることになります。しかし絵が伝える内容が言葉の理解に関するものであるとすれば、言葉で言いたかったことが伝わってしまった時点で “消費された” ことになるでしょう。すると絵は必要ではなくなります。この点から、寄藤文平が「何も伝えていない絵」と言う場合には 、何かしらのメッセージを伝えようとしているのではなくて、むしろメッセージの外側にある、言外の趣きを示したいのだと受け取ることができます。
 言外──言葉の外側の趣きに関して、たとえば寄藤文平は『絵と言葉の一研究』のなかで次のような感覚の話をしています。
僕の感覚だと、「作品」と言うものは、見る人の無知というか、思考停止がなければ単独で成立しない。たとえば、「あの有名なゴッホ」という言葉から離れて、ゴッホの絵を見るのは難しい。ゴッホの絵がただの「作品」であるためには、見る人がゴッホのことを全く知らないか、自分が「あの有名なゴッホ」という意味づけの中で絵を見ているということに無自覚でなければならない。(198)
 上の引用箇所で語られている “感覚” は、無解釈のままに作品と向き合うことを「見る人の無知」だと述べています。そして、現在のように、あらかじめ意味づけられた情報に囲まれた世界では無知のままに、ある種の意味づけの中で絵を見てしまうことは難しいだろうと語るのです。だからこそ、作品のテーマを語れる人のほうがそうでない人よりも優遇されるし、 “作者には作品の説明責任がある” といった考えかたもまかり通るのでしょう。
 ──しかし、わたしたちはサン=テグジュペリが『星の王子さま』を通じて、次の文言を知っています。「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」。目に見えるものと心で見なければならないもの。言葉でなされる説明よりも、表現された心を感じとる機微が大切である。こうした心で感じとることを思う姿勢は、知識やそれに基づく解釈に頼るのではないという点で、「無知の知」のひとつのあり方と言えましょう。
 

言葉の解釈をやめて感覚する魚になれ

 『これは見えないものを書くエンピツです』に戻ります。映像の編集ひいては編集行為全般には「加算する編集」と「減算する編集」があったのでした。意味および情報を足していき、解釈を誘発・連鎖させる編集がある一方で、見る者に “無解釈であれ” と強いる編集がある。二つの編集のあり方に優劣はありません。しかし楠かつのりが編集行為には「自分の魂が付着していくような感じ」を得られるとも語っているのを聞くと、そのような “感じ” を得るには「加算する編集」と「減算する編集」のどちらを選べばいいのだろうと考えてしまいます。なにせ、ふたつの方法は正反対なのですから。
 わたしたちは編集の現場の視点としてデザイナー界隈で仕事をする寄藤文平の見解を参照しましたが、そこで語られていたのは加算型ではなく、減算型の編集が大切であるというアイデアでした。驚くことに『絵と言葉の一研究』のなかではデザインの評価として「何も伝わらないからイイ」とさえ書かれているくらいなのです。
 そうなってくると、正解として選ぶべき編集方法は「減算する編集」のように思われてきます。
 ……が、しかし。
 『絵と言葉の一研究』では「感覚的に鑑賞される絵」と「頭脳的に理解される言葉」とがしばしば対立するように語られていました。そして、絵が言葉のほうに寄っていく場合に消費されてしまう。解釈などを含めて、言葉は人を思考させますが、絵などの作品と呼ばれるものはむしろ(少なくとも言葉にまつわる)思考停止することが良い。つまり「言葉を使って考えるな、見た絵を感じろ」というわけです。
 プライベート・ビデオの映像に関して、谷川俊太郎は「映像の意味」を「映像の質感」と言い直しました。あるいは楠かつのりもあくまで「自分の魂が付着していくような “感じ” 」と述べて、自分たちが語っていることがあくまでも感覚的なものであることを強調しています。これらは寄藤文平が言葉と絵とを分けて「考えるな、感じろ」と語ったところに重なります。ここで紹介した三者とも(言葉を用いた)解釈的なものに対して距離を取っているのです。
 たとえば楠かつのりは編集の際に “いわゆる解釈をするのではない” ということを以下のように語っています。
つまり、編集をするときには、いわゆる解釈をするんじゃなくて、自分の側からどういうふうな映像をそこに入れたらいいかみたいな、とりあえず主観的に映像を選択してつないでいくみたいなことをやっていく。それを積み重ねていくことによって、逆にまた新しいスタイルが見えてくるかもしれないし、それがひょっとしたら自分のオリジナルなスタイルになるかもしれないっていうことですよね。(96)
 上の引用箇所で言われている「いわゆる解釈」とは、頭脳的に理解される言葉であり、それに関連した思考のことと見ていいでしょう。そうではなく、楠かつのりは主観的であれと言います。ようするに、トップダウン式に既成の価値観に合わせて「これは良いものだ」という姿勢で映像を見直すのではなく、「これが良いものだ」といったある種の独善的な身勝手さにおいて映像を見返すボトムアップ式の姿勢が大切だとされているのです。
 また、上の楠かつのりの発言の後には谷川俊太郎は次のように述べています。
そうなんだよね。だから、ある程度人に笑われようと、退屈されようと、自分の生理にわりと正直にやったほうが新しいものが出てくる可能性があるということですね。(96)
 谷川俊太郎が「自分の生理」と言ったところは特に重要です。なぜなら感覚こそがわたしたちの相互理解から隔てる国境線であり保護膜なのですから。
 たとえば『荘子』の冒頭に次のような話があります。
あるとき荘子が弟子と川のほとりを歩いていて、魚が泳いでいるのが見えました。すると弟子が「楽しそうに泳いでいますね」と言います。すると荘子は「おまえは人なのに、どうして魚が楽しんでいるかどうかがわかるんじゃい」と言い返したのでした。
 ──ここで言うところの人と魚の違いのひとつは、言葉を話せるかどうかにあります。もしも魚が人の言葉を話せれば、言葉の理解を通して人は魚の感覚をわかることができるでしょう。しかし人と魚とでは少なくとも水の感じかたが違うはずです。ところが言葉はそのような感覚の異なりを、言葉の意味を理解することを通して埋め合わせてしまうのです。荘子の弟子が「魚が楽しそうに泳いでいる」と判断したとき、実際の魚の感覚がどうなのかは問題になっていません。弟子は自分の感覚を魚に投影し、それを言葉にしたに過ぎません。ここでは人が人であることの結界として、魚が魚であることの結界として、感覚が存在しているのです。そして既成の意味を流通させている言葉がつねに古いものに属するとすれば、新しいものが出てくる可能性は常に個別の感覚にある、というアイデアが「自分の生理」から出発することの本意になるのです。
 まとめると、「自分の魂が付着していくような感じ」を求める編集姿勢には「加算する編集」であっても「減算する編集」であっても構わないのです。誰かのお仕着せではない、主観的な自分の生理に対して正直であるのであれば。ただし、ヘタに既成の解釈格子を使って解釈するのだけはやめておけ、といったところでしょう(耳が痛いことです汗)。
 再び、さきほど挙げた『荘子』の魚の例に立ち戻ると、わたしたちはむしろ魚になるべきであると言えるでしょう。なぜなら荘子の弟子が “言葉” を象徴するトークンであり、魚が “感覚” を象徴するトークンだと仮定すれば、「考えるな、感じろ」式の編集理念は「魚になること」によって実現することになるでしょうから。
 

魂を付着させる編集の実例:デヴィッド・リンチ

 谷川俊太郎+楠かつのりの『これは見えないものを書くエンピツです』や寄藤文平の『絵と言葉の一研究』を通して、〈編集〉は言葉による理解を通して構成するのではなく、感覚から出発して制作しなければならないことを確認してきました。
 では、そのような感覚ベースで編集された実際の作品には何があるでしょう。この記事ではその問いに対してアーティストである「デヴィッド・リンチ」の名前を挙げることにします。
デヴィッド・リンチは絵画、音楽、映画と多岐にわたる芸術家です。特に映像に関するリンチ作品の特質に触れるなら、その特徴を「クローズアップされた細部のテクスチャーを重視する」と語ることができます。
 作品について多くの紹介はしませんが、精神科医・斎藤環による「「映画」という謎の分有」(『美術手帖.2007.10.特集,デヴィッド・リンチ』所収)では次のようにデヴィッド・リンチの映画作品『ブルーベルベッド』(1986)が語られているのが良い例です。
『ブルーベルベッド』(1986)冒頭に映し出される、地下で蠢く無数の虫たちのシーンを想起してみよう。それらは観客を混乱させるための無意味な場面ではない。真に驚くべきことに、それはリンチ自身の、純然たる趣味なのだ。そう、かれはクローズアップされた細部のテクスチャーが好物なのである。(95)
 「純然たる趣味」と斎藤環は語ります。しかし、たしかにそうなのです。それは単に主観的であり、デヴィッド・リンチその人の感覚的生理に基づいて編集された映像作品なのです。
 ところが以上のリンチ作品の主観的・感覚的・趣味的な性格は同時に、リンチの作品が「難解である」理由にもなっています。実際、リンチ作品を見る人は「理解できるから」という理由で鑑賞する人はほとんどいません。むしろ「わからない、わからない」と言いつ思いつしながら画面を見つめている人が多いでしょう。リンチ作品の鑑賞においては、理解や解釈を通したメッセージやテーマの伝達ではなく、映像のテクスチャー(質感)を通じての感覚的な触発こそが与えられるのです。
 感覚的な触発は解釈的なものではなく、無解釈的なもの。パラフレーズする必要のないノンセンス。──このような感覚ベースによってなされる編集姿勢は、 “わかってもらえるかどうか” ではなくて、映像の質感が自分の生理にとって “相応しくなっているかどうか” を配慮したものと見ていいでしょう。そしてその質感もまた、「何も伝わらないからイイ」になる。なにせ、伝わってしまえば理解と解釈が始まってしまいますから。頭脳ではなく、感覚で受けることが大切なのですから。
 

まとめ

この記事では『これは見えないものを書くエンピツです』から、〈編集〉について考えたものです。「自分の魂が付着していくような感じ」が編集行為にはあって、その方法として「加算する編集」と「減算する編集」とがある。どちらが良いというわけではなく、自分の感覚的な生理に正直であることが大切なのだ。──というわけです。それから、感覚ベースの編集の実例としてデヴィッド・リンチの作品を挙げました。頭による理解ではなく、体の感覚が大切である。今回はそうした感覚の話を映像編集と絡めました。プライベート・ビデオ入門、奥が深い。。。
_了
 

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