【プライベート・ビデオ講座】ガジェットの意味と使用者のモラル|撮影編

藝術
Pocket

こんにちは、ザムザ@dragmagic123 でいます。今回は詩人の谷川俊太郎と楠かつのりによる『これは見えないものを書くエンピツです』に触発される形で、動画撮影の文化に関するトピックを取りあげます。この記事では特に《撮影》に焦点を当てて、人とビデオカメラとの関係や撮影する行為のモラルの話題を提供します。

この記事で取りあげている本
 
 

【プライベート・ビデオ講座】ガジェットの意味と使用者のモラル|撮影編

スポンサーリンク

はじめに

この頃は「動画の時代」と言われるように、動画コンテンツの勢いが盛んになってきました。 YouTube や TikTok などが顕著でしょう。2020年からはコロナの流行でリモートワークが奨励されたのを思い出せば、zoom を利用したモニタ越しの人間関係が助長されたことも動画の時代の勢いを加速させたと言えます。いずれも私たちが拠って立つ時代に〈動画〉の占めるところが大きくなってきたことを象徴しています。
今回取りあげる本は『これは見えないものを書くエンピツです』。これだと何の本かは副題を見たほうがいいでしょう。そこには「プライベート・ビデオ講座」と書かれています。著者は両者詩人である谷川俊太郎と楠かつのり。本の体裁は二人が対談をしていくという形になっています。
以下ではビデオカメラというメディアのガジェットとしての側面、また、撮影行為のモラルからうかがえるフェティシズムとデュアリズムに関して──いわば人と物との関係と、物を使用することを通して問われる世界との出会いかたを取りあげていきます。
 

メディアとガジェット

ここでは映像メディアを作り出すビデオカメラがもたらす現実世界の別印象と、ビデオカメラを使用することで撮影者が受ける影響を踏まえた「ガジェット」の表現に関するトピックを取り扱います。

プライベートなメディア

私たちはさまざまな「メディア」に取り囲まれた生活を送っています。SNSにしろ、アプリケーションにしろ、端末にしろ。それらは「媒体」あるいは「媒介項」として様々な対象との関係を取り結ぶための蝶番となり、私たちが情報を知ることを助けます。根本的には身体でさえこの世界を生きるためのメディアであるとも言えます。そして、この記事の主題にとっては人体に備わっている知覚器官としての目というメディアが重要です。
『これは見えないものを書くエンピツです』の発売は1993年です。この時代にはケータイもスマホもありませんでした。なので動画撮影はビデオカメラという装置を使用することに限られています。また、編集することでさえ、現代にあるPCや編集ソフトといった融通の利く装置は一般的ではありませんでした。それでも専用の装置を用いて映像にBGMやメッセージを挿入したりといったことはでき、映像の撮影と加工とが一般化しつつあったのです。
詩人ないしは芸術家がビデオカメラに注目したことには必然性があります。なにせ、「プライベート」でありえる動画を撮影できるとすれば、そのような新しいメディアからもたらされる “世界の見えかた” は詩人が言葉を通じておこなう「世界の読解可能性」(ハンス・ブルーメンベルク)の模索に関わってくるであろうことは想像に難くありませんから。
たとえば、プライベートビデオの印象に関して、詩人は次のように語っています。
ビデオカメラではカメラの側が動く。つまり視点が動くのだ。視点が動くと言う事はそこに見ている者がいるということ。見られている者を見ているものだ。それは完全に撮り手の生理みたいなものだ。 カメラが動いている映像に対しては好き嫌いがはっきりするし、見る人もその映像に入り込む間口が狭くなる。しかし、プライベートビデオと言うのは「私はこう思う」といった一瞬の強引さがあったほうが、逆に良いと言う場合が多い。
上に引用したところでは、ビデオカメラを使用することは映像を撮る視点そのものに撮影者が立っていて、そしてその映像自体に(手ブレや息遣いなどの)視点の動きを通して映像そのものと撮影者との間の繋がりが映り込む、いわば雑味のような(好き嫌いをはっきりさせ、間口を狭める)要素が撮影する者の「プライベート」を表現するのだと語られています
ハンディカメラやケータイのカメラ機能、そしてスマホを常用している私たちからすると「なーんだ、そんなことですか」とも思われるかもしれませんが、これは映画やテレビ番組などを製作する立場でもない限りは受身の視聴者でしかいられなかった人々にとって画期的なことでした。ですので、「プライベート」という言葉にはビデオカメラを介して開かれた “世界と取り交わされた新たな関係” の意味合いが込められているのです。
楠かつのりが「撮った映像というのは緊張した時間なのだ。そこには撮影者の意図がある」と語り、谷川俊太郎が「人間にとって短いカットはリアルなものにはなり得ない」と語る。──ここには「人間にとって何がリアルなのか」という、ビデオカメラのメディアを介して出会われた問いがあります。
 

ガジェットのリアル

私たちが何をリアルなものだと感じるのか。その問い自体はビデオカメラ以前にもありました。しかし、ビデオカメラを使用することのうちに見えてくるもの “というもの” があります(ここで少しややこしい書き方をしたのは “わかりづらく” するためです。「というもの」と付け足すことで “使用することのうちにしか見えないもの” をほのめかすためです。言葉はとりあえずの理解ができてしまいかねないので、そのことへの抵抗)。たとえば次のような語りは “ビデオカメラの使用感” に裏付けられています。
一つの場面をカメラを置きっぱなしにして撮ってみると、退屈もするんだけど、一種落ち着くということもある。肉眼で見ていると目の隅にいろんなものがチラチラよぎってるんだけど、カメラのフレームだとそこしか見てないわけね。そこに何か動くものがなくなっちゃって、それが空白の場所になっちゃっても、自分は何かをとにかくじっと見つめているんだと言う、ビデオカメラのあり方に逆に自分が影響されるっていうのか……。普段ははきはきと忙しくしてるんだけど、今は一つのものをじっと見つめてる時間なんだっていうことで安心するみたいな、そういうところがあるんだよ。
上に引用した発言にある「ビデオカメラのあり方に逆に自分が影響される」という印象に注意しましょう。表面的にはビデオカメラはあくまでも撮影者の側が影響を行使することで、「〈撮影する〉という行為」が成立する。ところが、事の水面下ではビデオカメラという装置を使用することを通じて、影響を受けているのではないか、そのように示唆されているのです。
使用することを通じて使用者が影響を受けている。こうしたあり方というのはさまざまな道具の使用者である私たちにとっては馴染みのものでしょう。それはスマホ依存に代表されるような「物質依存」に代表され、「使用者として接しているはずだったのに、いつのまにか立場が逆転して、使用されているはずの物が “使用者を使っている” 状況になっている」。わかりやすいイメージでは飲酒があります。「お酒を飲んでいるのか、それともお酒に呑まれているのか」ですね。
ところで、キュウソネコカミというバンドに「ファントムヴァイブレーション」という楽曲があります。フロントマンのヤマサキセイヤによって書かれた歌詞のなかでは、現代社会における人とスマホとの関わりについてが歌われています。とりわけ有名なのは「〽︎スマホはもはや俺の臓器」のフレーズです。──ここで歌われているのは一種誇張された人と物との関係ですが、”もはや俺の臓器である”といった実感が当人にあるかはさておき、私たちは現に使用している物に対して「急に無くなっては困る」と感じている物があることは確かです。その代表としてスマホを挙げる人も多いでしょう。
無くなっては困ると感じる感性にとって、そのような対象物は人体から臓器が抜かれては困るように、深々と刻まれたものとして深刻にその人の生活感覚のうちに組み込まれています。こう言ってよければ「現実に寄生している」と診断してもいいでしょう。使用者の現実感覚に寄生する類いのアイテムに対しては「ガジェット」の用語を当てはめられます。ガジェットは使用者の視覚や聴覚といった知覚を拡張する効果がある、3Dメガネやウォークマンなどが代表的です。
ビデオカメラもまた映像というメディアを作り出し、それ自体がメディア媒体として、使用する者の現実感覚に訴求するガジェットの側面があるからこそ、ビデオカメラと向き合う使用者が使用することのうちに現実的なもの(リアル)の印象をこれまでとは別様な形として受け取ることができるのです(←悪文注意)。だからこそ、映像の大量消費時代とも言うべき現代においてさえ、自分自身が世界の一場面を切り取った「プライベートビデオ」から、普段見ている現実とは別様なリアリティを見つけることができるのではないでしょうか。詩人が模索したように、それは私的でありながら詩的でさえもある営みになるはずです。
 

フェティシズムとデュアリズム

ここでは、谷川俊太郎が語る「ビデオカメラで人を撮影する上で自覚すべきこと」に注目して、撮影行為のフェティシズムと、その自覚を踏まえたうえでのデュアリズムについて取りあげます。

フェティシズムの危険性

『これは見えないものを書くエンピツです』のなかで一点、谷川俊太郎と楠かつのりの意見が対立する場面があります。それはビデオカメラを使って人を撮るときのモラルに関してでした。
谷川俊太郎は「撮る」ことには常に意志が付きまとうとし、承諾もなしに他人の肖像を自分のプライベートな現実であるビデオに引き込んでしまうことになると語ります。他人をカメラに収めることで、撮影者は映像のなかに他人を収集してしまう。ビデオカメラを「ただ使うだけでも」、一種のモノとして他人を収集してしまうことにも似た「恐るべき行為」となる。──そのように谷川は考えます。
対して、楠かつのりは谷川俊太郎の考えていることは一種の “考えすぎ” なのであって、それはビデオカメラ自体に属する問題ではなく、道具を使う人間の側の問題だと説くのでした。
二人が対立している問題は、ビデオカメラがどれほど私たちの現実感覚に食い込んでいるのかへの理解の違いとして理解できます。「メディア」が “情報を知ること” に焦点を当てた表現だとすれば、「ガジェット」は “使用者が使用する物から影響を受けてしまうこと” に重点が置かれた表現です。メディアは人間と情報との関係、ガジェットは情報環境とそこでの人間の生態との関係を踏まえた言葉であるとも説明できるでしょう
楠は、人間が世界を現実のものとして感じる感度について、次のように語っています。
僕らは、音で、つまり耳でも現実を感じているし、臭いでも、また触ると言う行為で現実感を保っているところがある。いくら映像が鮮明になっても、一体になったとしても、それはそれで驚きではあるわけですが、触ることができない、手のひらで感じられることのできないものは、やはり現実だとは思えないんじゃないでしょうか。ここでは映像と言うことで、目で見る現実が中心になっていますが、それはいくら進化したっていいわけで、それによって人間そのものが人間と言うものから逸脱して変わるなんて、僕自身は思ってないんです。
上で引用したくだりで楠かつのりが語っているのは、人間は映像だけで現実感を覚えるのではないということです。目以外にも耳や鼻、そして肌からも感じているものがあって初めて「これは現実である」と感じられるのではないかと考えています。──とはいえ、私たちは楠の立場に素直にはなれません。なぜなら哲学の思考実験にある「電極に繋がれた水槽の脳」 もありますし、何よりテクノロジーの発展によってVR(Virtual Reality)の精度も高まっているのもあり、私たちが「現実とみなしているもの」の不確かさは無視できないからです。(仮にヴァーチャルな身体であっても、基礎となる目耳鼻口舌などの基礎的な感覚器官がベースになければ現実とは呼べないだろう、という話であれば楠の考えにも説得力があります。しかしその場合、目耳鼻口舌といった感覚器官を抜きにした人間を非人間であるとみなす、一種の優生的なニュアンスが出てしまうことは理解しておくべきでしょう。)
「人間は千年や二千年くらいじゃ変わらない」と言われることがあります。しかし〈人間〉は変わらなくとも、人間を取り巻く環境は変わります。十年や二十年の単位でさえ、「スマホ」や「バズる」といった目新しい道具や概念が登場するのですから。これらは千年前や百年前にはなかった変化です。そして、それらの登場によって人間の現実は様変わりしたことも事実でしょう。となると、道具としての使い方だけではなく、道具を使うことで立ち上がってくる現実のあり方を考える視点は重要になります。
谷川俊太郎がビデオカメラで人を撮影することを「恐るべき行為」と呼ぶのは、人がビデオカメラを使うときにそれが単なる道具であることを超えて、人の現実のあり方にまで影響を及ぼすものとして考えているからです。つまり、人が変わらないでいるにしても、使用する物によって立ち現れてくる部分は変わってくるわけです。ビデオカメラで言うならば、「撮る」ことを通じて、人は相手のプライベートをあたかも気に入ったモノを集めるように収集する振る舞いに開かれてしまいもします。さながら、一種のフェティシズムとして。
 

デュアリズムの可能性

ところで、人はビデオカメラを向けられると緊張します。自然な振る舞いは不自然と化し、表情も固くなる。そのような緊張状態の人を撮影しても、撮る側にとっても撮られる側にとっても、そして映像を見る側にとっても大抵はおもしろくありません。別の言い方をすると、「撮らせてください」と頼むことは相手を不自然に変えてしまいかねないのです。──谷川俊太郎がビデオカメラで人を撮影することを「恐るべき行為」になりかねないこと(のジレンマ)はこの点に食い込んできます。
「恐るべき行為」とは、ビデオカメラを人に向けて良い映像を撮ろうとするときには、盗み撮りのように撮るほうが良くなってしまうことに掛かってきます。モラルに基づいて「撮らせてください」と事前に了承を撮るとき、撮られる対象となる相手は “撮られている自分” を意識してしまいます。谷川俊太郎が「撮ることに付きまとう意志」と語ったものです。撮影者の撮ろうとする意志に反応する姿勢へと変化してしまうので、撮られる相手は、どこか元々の自然な振る舞いをぎこちなくしてしまうことになる。ですので、撮影者はなるべく撮ろうとする意志を隠して撮りたくなってしまう。結果、人を撮るときには盗み撮りのような形がひとつの理想の形となる。しかしこれはもちろんプライベートの侵害であるため、ダメ。……でも撮りたい。で、撮る。ジレンマです。──そして恐るべき行為に踏み切ってしまうのが撮影者である、というわけです。
とは言っても、「盗み撮りをすべきである」ということにはなりません。そうではなく、ビデオを撮るときには盗み撮りのようになってしまいかねない危険性を自覚していなければダメだ、と谷川俊太郎は言うのです。
人を撮影するときにはビデオという形へとイメージを落とし込みます。これは一種の物化であり、その点でビデオカメラで人を撮る行為は二重の意味──窃視症的な意味と収集癖的な意味でフェティッシュな行為になります。そして、ここには撮影者のフェティシズムを指摘することもできるでしょう。
フェティシズムは「物との関係」を指して使われる言葉です。一般的に、対人関係においては人を物のようにみなせば非難されます。しかし私たちが一般的に行っている対人コミュニケーションにも「人を物のようにみなす危険性」は含まれています。たとえば、「キャラ」がそうです。ある人を明るくてさっぱりした性格だと見るのはいいにしても、その人を「明るいキャラ」として見なす場合には一種危険があります。相手が明るいキャラかどうかではピンと来なかったとしても、ある地区に住んでいることであったり、肌の色、体型、障害によって相手を見定めるのであればどうでしょう。キャラで相手を認識することはある種のヒエラルキー(階層)に当てはめてしまうことにもなりかねません。ここには人ラベルを貼り付けて陳列棚に並べるような、さながら「物との関係」であるかのような風情があります
谷川俊太郎が「撮影者の自覚」を説く場合には、以上のような対人関係における相手の物化が起こりかねない可能性を踏まえることが意図されます。対人コミュニケーションにおいて相手に安直なラベリングを行うかもしれないこと、単調なキャラに押し込めてしまうかもしれないこと、そのような可能性が自覚されているかどうかは無意味ではないでしょう。この対人関係の比喩を続ければ、相手がいつもと様子が違うときに「あいつはダメだ」と切り捨ててしまわず、いつもの様子と違うことをその理由と向き合うための根拠にすることもできます。ビデオカメラの撮影に話を戻すと、フェティシズム的に相手のプライベートを覗き、イメージを集めているかもしれないことへの自覚は、そこに映っているものに対する畏敬を呼びます。撮れてしまったものは自分の所有するプライベートビデオでありながら、誰かの配慮されるべきプライベートでもあって、そして第三者が視聴できるビデオという形にもなってもいる──このおそろしさ
フェティシズムと対照的なあり方に「デュアリズム」があります。こちらは人と物をベースにしたフェティシズムとは違い、人と人とのあいだにおける “対決” や “決闘” の理念がベースにあります。人と人、いや、自と他。決闘的に他人と相対することで相手を主体化し、また相手を主体化することを通して自分もまた主体化される。ビデオカメラを媒介にした「撮影する/される」関係においてもフェチ的な向きあいかたばかりではなく、デュアルな向きあいかたがあるのではないでしょうか。それはいわば自覚を媒介にした判断留保および自己あるいは現実の再発見と呼ぶべき、世界との出会いがあるはずです。さしあたっては、このことは “問いかけ” という形でしか語れません。あるいは “謎” と。謎であるからこそ、ビデオカメラは撮影者=使用者は問われることに開かれることになるのですから。
 

まとめ

現代は「動画の時代」だと言われます。そんな中で動画の文化に距離を取ることは難しいでしょう。そんなことをすれば時代に取り残されてしまいかねません。それも一興ではあるのでしょうが…。この記事ではビデオカメラを手にした頃──今ではかんたんにできる映像撮影や加工や発表がまだ大変だった頃に、動画撮影をトピックにした詩人たちの語らいを取りあげました。ビデオカメラを使う上での一種の心構えですね。ビデオカメラという道具の意味と、その道具を使った人を撮ることの意味を問い直すにはいい本です。

_了

コメント

タイトルとURLをコピーしました