【オチョクりオチョクラれる哲学】哲学者・土屋賢二が語る女性と哲学

エッセイ
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哲学ってマジメでお堅いイメージがありますが、端から見るとユーモラスに見えたりすることがあります。目の前にいる人に「きみは存在していない」なんてことも言えちゃうのが哲学なんですもの。事情を知らない人からすると意味わかんないっすよね。そういう点からすれば哲学はオチョクられる要素満載なわけです。で、そのオチョクったり・オチョクラれたりってところで物を考えたりする哲学者が土屋賢二。この記事では彼の『ツチヤ学部長の弁明』から「女性について」述べた箇所と「哲学がオチョクラれること」を取りあげます。
この記事で取りあげている本
 

【オチョクりオチョクラれる哲学】哲学者・土屋賢二が語る女性と哲学

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ツチヤ学部長の弁明

土屋賢二という哲学者がいまして、何冊もの本をお出しになったエラい方……と、言いましても彼が世に問うた(?)本の多くは “いわゆる” 哲学書ではなくて、書店に並ぶにしても一般書の棚になりそうな軽い読み物・エッセイだったりしますのや。
東京大学は哲学科を出てお茶の水女子大学の教授になり、そんで学部長になったってなわけで、今回取りあげる本のタイトルが「ツチヤ学部長の弁明」なのもそーゆー事情があってのこと。
その哲学的スタンス(と言えばいいのか?)は哲学を「オチョクられるもの」と見なしながらも「オチョクりの対象以上である」ともみなす、といった、どこかユーモラスな風情があるもので、その点、彼のエッセイは哲学者としての仕事と地続きなのかもしれませんな。
そだそだ、この人・土屋賢二さんって『東京ラブストーリー』で知られる漫画家の柴門ふみの恩師らしいですわ。この本のなかに入ってる「恩師の立場から──柴門ふみ『恋愛の法則36』解説」って文章にそうあるんで、そういうことらしいっす。

オチョクりもし・オチョクラれもする運動としての哲学

ここでは土屋賢二の文集である『ツチヤ学部長の弁明』から、「女について」と「哲学をオチョくる」って話題を拾い上げることで、哲学がオチョクラれる運命にあること、そしてそれをオチョくるのが反哲学だという話題を取りあげます。

褒めてるんだか貶しているんだか

『ツチヤ学部長の弁明』を読んでいると目を引くのは「女について」言われている文章が多いことです。それは著者がお茶の水女子大学に勤務していたこともあり、女性と接することが多かったため、結果として女性への知見なり一家言なりが構築されたから、かもしれない。とにかく、多いんですよ、女性についての話題が。
女性について取りあげられているといっても、それはユーモラスなもので、ちょっとした批判めいた色合いがあるにはありますが、著者のおおらかな人柄が透けて見えるような穏やかな気配が漂うもの。
たとえば「お茶の水女子大学はどんな人間を生み出してきたか」という文章。これは登壇して喋ったものらしいんですが、これの副題には「被害者の立場から」なんて書いてあって、目を通すと女性批判になってるんですよな。ちゅーても、別々にギスギスしたものじゃなく、たぶん会場にはくすくすと笑いが起こったタイプの、悪意のないようなやつ。
そこで言われている女性批判ってのがどんなものか、ちょっくら見てみましょう。
「正義感が強い」。これははっきり断言することができます。これは女の人に一般に多いと思いますけれども、絶対に不正は許さないという、こういう強い断固たるところがあります。この世の中には不正がいっぱいはびこっていますので、こういう世の中で正義感というのは非常に貴重なものです。ただ自分が正義であると考えるところが残念だと思います(笑)。
(『ツチヤ学部長の弁明』,p21)
正義感が強い、なんて言う、一見して褒めているような文句で始まったかと思いきや後半になるに連れて雲行きが怪しくなり、最後には「ただ自分が正義であると考えるところが残念だ」なんていう、ウィットの利いたオチを持ってくる。
ちょっと連想ゲームをさせてもらうと、土屋賢二が皮肉っている〈正義感〉ってのは、たとえば漫画家・久保帯人の『BLEACH』は44巻の巻頭で見つかる次のメッセージでより確かに納得できるのではないでしょうかしら。
人は皆すべからく悪であり
自らを正義であると錯覚する為には
己以外の何者かを 己以上の悪であると
錯覚するより 他に無いのだ
確信した正義とは、悪である
正義が正義たり得る為には
常に自らの正義を疑い続けなければならない
ようするに、正義ってのは盲信した宗教みたいに、自分以外を悪者だとみなすことによって正義になってるんじゃないか、だとしたら、そんな正義なんて悪そのものじゃないのか?──ってわけですね。
こうした参考文章を読んだ後に、先ほど引用した土屋賢二の文章を見てみると、女性ってのは一般的に断固として自分の正義感を絶対視するときには、もはやそこに正義はないんじゃないですかね〜、と、疑いの余地を仄めかしているんですわ。女性一般の話にするってのはいかがなものかと思いますが、むしろその点は「一般的なことについて考え込んでしまう哲学者のおかしさ」が滲んでいるんですのよな。
「お茶の水女子大学はどんな人間を生み出してきたか」の文章は他にも、いろいろな褒めてるんだか貶しているんだか判然としないグレーな発言が並んでいて、うえで取りあげた〈正義感〉の後には〈行動力〉と〈責任感〉について述べたくだりが続くんです。もちろん、女性のね。そこでもやっぱり「人にやらせるだけの行動力がある」とか、「責任感が強くて頑張り屋なのは、自分と同じような人間を再生産するためだろう」とか、そんなアイロニーを込めた言葉が見つかるんですわ。
 

女の美点としての思い込みの強さ

女は選び上手である」という文章では、女は選ぶのが好きで、選択欲や購買欲があると語り、生物学的に見ても(男が女の選んだものを買う側であるのに対して)女は選ぶ側なのだ〜とかってことが書いてあります。そして土屋賢二はこうした女性の “選ぶ能力” を指して「女の美点のひとつだ」と言うのですな。
しかしここで注目したいのは、女の美点として挙げられている別のこと。
女には多くの美点があるが、残念なことに、その美点に気づいている女は少ない。
たとえば自分が美人だと思っている女は驚くほど多い(どうしてわかるかと言うと、多くの女は、「お前は美人だ」といっても怒る事はないが、「ブスだ」と言うと激怒するからである)。そういう女はたいてい、本当の美点に気づいていない。美しいと思い込むのが上手なのに、その自覚がないのは惜しいことだ。
(『ツチヤ学部長の弁明』,p62)
上に引用した箇所で土屋は女の美点をひとつ挙げているわけですが、それってのがようするに、「女は思い込むのが上手である」ってことなんですな。
女性としてはカチンとこないでもない指摘なんですが、そこはどうにか矛を納めておくとして、ここで土屋が語っている「思い込みが強い」ってのは前節で取りあげた〈正義感〉の話とリンクするんですよね。
女の正義感について説いたところで、土屋賢二は「正義感は大切だ。しかし自分を正義だと考えているのはよくない」と語ったのでした。正義感とは自分以外を悪とみなして、悪と対立するからこそ自分を正義の立場に置くことができ、自分の正義感を絶対視する姿勢があります。それに対して土屋は「自分に正義があるのかを考える姿勢」を示唆しているわけです。
以上の〈正義感〉の話題に含まれている「正義の絶対視」は、ようするに「思い込みが強い」ってのと同んなじです。
はてさて、女が思い込みが強くて自分の正義感を絶対視するのだとすれば、男のほうはなんなんでしょうね。思い込みが強くなくて自分の正義感を絶対視しない…ってことになるんですかね? ──この件はひとまず保留。
 

意味にこだわるモテない哲学者

そうそう、「モテる男の条件」なんて文章もあるんですよ。何かと若い女性たちは流行の最先端の担い手になりがちですからね、女学生に囲まれて仕事をしていた土屋賢二ともなると、モテる男の条件なんてものに対する洞察だっておのずと研ぎ澄まされていたのかもしれません。
現に、「女はどんな男を好むのか」なんてことを調べたりしたご様子。
女がどんな男を好むのか、いろいろな女から意見を聞いてみた。
出てきた意見はまちまちだった。人によって意見があまりにも違う。よほど一人一人が勝手なのだろう。意見の中には、「セクシーな男がいい」という意見もあったが、「セクシーな男」の意味を問い詰めると、結局、「魅力的な男」という、何の参考にもならない意見であることが判明した。
(『ツチヤ学部長の弁明』,p77:太字は引用者)
調査の結果、女性ごとに意見が異なっていて、女性一般(女というもの)について考える糸口が欲しかった土屋には参考になりそうの無い、「魅力的な男が魅力的なのだ」といった意見に集約されそうだという話になっちゃったわけですな。──話が逸れるようですが、糸井重里が1988年の西武百貨店のポスターで打ち出した「ほしいものが、ほしいわ。」と共通したものを感じませんでしょうか? 気のせい?
ただし、わざわざ太字にしたところに注目してみてくださいませ。
意味を問い詰めると」とあります。これって、理屈で物を考える哲学者っぽいですよね
何が言いたいかっていうと、「モテる男の条件」を考えている土屋にとっては、「女がどんな男を好むのか」ってことを考えるうえで、その選定基準には「どういった意味があるのか」が気になって当然です。
しかし、当の女性にとって好みの男との出会いには別に意味なんてありません。ただ、好きだから好きなのであって、そこに客観的に説明できるような明確な意味があるなんてことはないのではないでしょうか?
意味なんて問い詰められても困るわけです。ただ魅力を感じたり、誘惑されたりした結果として、 “好き” になっているのですから。
つまり、意味にこだわる哲学者の態度はダサい、もしくはイケてないのです。そうしたダサさはモテる男の対極にあると言っていいでしょう。言うなれば、「意味にこだわる哲学者」と「魅惑にこだわる女」、ですかね。
……ん? ここでの哲学者の話って「思い込みが強くて自分の正義感を絶対視する女」の反対に位置する〈男〉のことなのでは? 「意味へのこだわりが強くてこの世の真理を追求する男」が〈女〉の反対なのでは? ──ともあれ、先に進みましょう。
 

オチョクられる運命にある哲学

『ツチヤ学部長の弁明』のなかで唯一(?)と言っていい “哲学” について語られた文章が「哲学をオチョクる方法」です。…ちゅーても、その内容は小難しいことを小難しく言ったりするザ・哲学みたいなのとは違ってて、タイトルにある通り、哲学と呼ばれているものをオチョクるものになっているんですわ。
いしいひさいちって漫画家がやっぱり哲学をオチョクってるスタンスで書いた『現代思想の遭難者たち』って本を出していて、名だたる現代哲学者がオチョクラれてるっていう漫画なんですが、「哲学をオチョクる方法」はその本に関するコメントとして書かれたものとなってるんですのよ。
哲学をやってる人は変人であるといったイメージがある…と思いますが、「哲学をオチョクる方法」で突っついているのがその点なんですね。哲学者と一般人っていう対比が出てくるんですが、一般人からすると哲学者がやってることも言ってることも考えてることもみーんな、奇妙に見えるってわけで、だからこそオチョクられもするって話もあったりして。
とはいえ土屋賢二はこの点に対して、一般人がそう思うのは至極まっとうである!と言い切ります。そのうえで、「残念ながら、哲学は本質的にオチョクられる運命にある」なんてことを言うのです。
え!?哲学者なのに哲学を擁護しないの!? ──なんてことも思いますが、ちゃんと事情を説明してるのですよ。ちょっと長いですが、おもしろいのでまとめて引用します。それは、こんなふうに…
ウィトゲンシュタインによれば、哲学の問題は言語の規則を破ることによって発生する。それを解決するのも言語の規則を破ることによってである。たとえば、「円周率は美味しいか」という問題は意味がない。そもそも「円周率の味」について語るのは無意味だからだ。だが、この問題を正当な問題だと認めて、さまざまな理論が組み立てられ、論争が起こったとしよう。たとえば、円周率には味がないが、味付けしていないこんにゃくなども味がない。同じ「味がない」といっても、二つの場合は違う。また、味覚が働かないときも味がしないが、これはさらに違うケースだ。これらの「味がない」場合を一類、二類、三類に区別し、三つの類の間にどんな関係があるかを考察するなど。
もしこういうことをやっていたらみんなの笑い者になるだろう。ウィトゲンシュタインの主張によれば、哲学の問題や哲学の理論はすべて、基本的にはこれと同じようにナンセンスである
ウィトゲンシュタインは、哲学の議論を普通のおばあさんが聞いたら笑うだろうと言った。哲学の議論は、日常使っている言葉を考えられないほど曲解しているからだ。実際、哲学では「この机は本当は見えない」とか「時間は存在しない」といった、普通の人が言ったら笑われるような主張が本気でなされているのだ。
(『ツチヤ学部長の弁明』p193-194:太字は引用者)
全部読むのがあれでしたら太字の部分だけでも読んでみてください。…かな〜りオチョクってることがわかりますね。ここで参照されてるウィトゲンシュタインって人も有名な哲学者なんですけれど、その哲学者でさえ、哲学と呼ばれている営みはこういうふうにオチョクラれる余地があるってことを突っついてるんですわな。
ところで、前節までで取りあげた土屋賢二の書いた文章から「思い込みが強くて自分の正義感を絶対視する女」と「意味へのこだわりが強くてこの世の真理を追求する男」の対観念を読み取ってみましたが、これって哲学をオチョクる側とオチョクラれる側のコントラストみたいになっていませんですかしら?
 ──そういえば、哲学はもともと〈徳〉を追求するもので、そのために大切なのが〈中庸〉だっていう話がありますけれど、それって男と女の中間、あるいは男でもあり女でもあるような何者かになることが肝心なのかもしれない。「哲学をオチョクる方法」での土屋賢二の言い分からすると、オチョクりもし・オチョクラれもすることが哲学者の理想型なんじゃないかしら。
 

反哲学者にオチョクラれる運命

ここまで『ツチヤ学部長の弁明』のなかの文章を適宜ピックアップしてきましたが、「女」「一般人」「哲学をオチョくる」などのキーワードは総じて “哲学に反して哲学をオチョクる” という意味で「反哲学」とみなせるでしょう。
哲学者は意味にこだわる人種です。たとえばそれはモテる男の条件とは何かと考えて、女性たちの意見からモテる男一般を導き出そうとするように。しかしそれは一般人からはオチョクラれるもの…。
ところで、哲学の源流として知られるソクラテスは「産婆術」あるいは「助産術」と呼ばれるやり方で哲学を実践しました。この助産術ってのはざっくり言うと「人に考えさせること」──もっとややこしい言い方をすると「人に考えるをするようにさせること」ってのがしっくりくる──であって、肝心なのは本で読んだり考えたりしたことを書いたりした “意味” ではなく、「人と人とが出会ってお互いに全人格を賭して問答すること」にあるって態度をとるんですわな。
別記事でそのことを取りあげているんですが、そこでこんなことを書いておりますのや。
ソクラテスが「産婆術」もしくは「助産術」というやり方で、「ソフィスト」なんて呼ばれている口の上手い連中を論破していくってのはプラトンがその著作で後世に教えてくれているところ。
んで、その助産術でソクラテスがやってたことってたのが、「人と人とが出会ってお互いに全人格を賭して問答すること」でした。「腹を割って語り合って打ち解けて愛を交わす」みたいなもんですね。…最後の “愛を交わす” ってのは “誤解の余地” があるかもしれませんが(苦笑
哲学(者)の理想が書物を “読むこと” でも “書くこと” でもなく──カウンセラーやホスト・キャバ嬢、はたまた宗教家がやるみたいな──、人を相手にした “話すこと” をメインの活動に考えていたというのは興味深いことです。
哲学は話すことに重点がある。これは意味にこだわって〈読み書き〉する哲学者ではなくて、人と〈話し聞き〉する一般人の立場に近いものです。でも、哲学と呼ばれるものの大元には “人と話すこと” に基礎が置かれていたっていうね。
ちなみにソクラテスは弟子のプラトンが報告する著作のなかで、ソフィストと呼ばれる口のうまい連中と対話したりするんですが、そのときの対話相手たちはソクラテスに対して「オチョクラれてる感じ」を覚えたりしてるんですよね。それにキレて殴りかかろうとしたりするのもいたりなんかして。
土屋賢二が「哲学はオチョクラれる運命にある」と語るときには、そういう「オチョクるソクラテス」と「オチョクラれるソフィスト」の関係が、一般人と哲学者の間で再演され続けることを示唆しているんじゃないかしら。
重要なのは反哲学者としてオチョクる側だけでいればいいとか、哲学者としてオチョクラれるだけでいればいいとかってことじゃなくて、一人二役的にオチョクりもし・オチョクラれもすることの運動を抱え込むってことなのでしょう。そう考えると、土屋賢二が女性に対して褒めてるんだか貶しているんだかわからないグレーな発言でもってエッセイを書き進めているのも、じつは哲学者としてのまっとうな実践だったのかもしれませんな。ソクラテスが対話相手に「オチョクラれてる感じ」を与えたみたいに。
 

まとめ

じつは哲学者という人種は〈女〉を気にするか、もしくは遠ざけるかってことをやりがちなんですよな。土屋賢二の場合は女子大学に仕事を得たからってのもあるでしょうが、それでも哲学的な意味で無視できなかったんじゃないかしら。男女の二元論で哲学者と一般人とを割り切れるなんてのは野蛮な考え方ではあるものの、哲学者が「意味にこだわる男」だとしたら、一般人のほうは「魅惑にこだわる女」になるでしょう。ところが哲学の大元ソクラテスは後者の一般人の側に類いするので、意味ではなく魅惑にこだわる反哲学こそが、本来の哲学なのかもね。ちゅーたところで、オチョクりもし・オチョクラれもするってのが『ツチヤ学部長の弁明』が教えてくれるところではあるんですよな。
_了

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