メタ人生としての【小説】を読むのがもっと楽しくなる小説観

エッセイ
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小説を読んでいると大なり小なりの「小説観」が形成されていきます。たくさん読んでいれば読んでいるほど、それは堅固なものになる…。だからこそ、小説観が柔軟であるためには自分の個別的関心だけで読む本を選んでいてはいけない〜なんて言っていたのは数学者で読書家の森毅。今回は彼の『ゆきあたりばったり文学談義』から〈小説観〉に関するポイントに注目し、「人生に対するメタ人生としての小説」を取りあげていきます。
この記事で取りあげている本
 

メタ人生としての【小説】を読むのがもっと楽しくなる小説観

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ゆきあたりばったりな読者の小説観

当ブログで近頃、『ゆきあたりばったり文学談義』という本を取りあげました。数学者であり、そして豊かな読書経験を持つ読者家・森毅による読書や文学を話題にした話をまとめた本です。
その本から〈読書〉に関するテーマを取りあげて、「ゆきあたりばったり読書」として紹介したのがこちらの記事。
他方で、『ゆきあたりばったり文学談義』では〈文学〉をテーマにしてもいますのや。
この記事ではそんな〈文学〉に関する側面を、「小説観」として取りあげ、読者家・森毅の小説に対する要求から、理想の小説の姿を読み取っていきます。
 

読者の立場から見た理想の小説とは何か?

ここでは、森毅の『ゆきあたりばったり文学談義』で語られている小説観を取りあげます。人生を「現実と虚構とのクロスオーバー」であるとし、小説をそのような人生に対するメタ人生として位置付ける小説観から、「理想の小説の姿」を読み取ります。

人の小説の楽しみ方〜メタ思想としての小説

 

本を読む人であれば、本に対して何かしら思うところがあるものです。たとえば「本を読むと人生が豊かになる」とかそういうやつ。小説だってそうです。ある程度小説を読んできた人にはおのずと「小説の好き嫌いの基準」ができてくる。つまりその人の「小説観」ができてくるのです。
どんな小説が好きかって話は、人によってはそれ自体で “おもしろい話題” だと言えます。というのも、小説をおもしろく読んでる人の楽しみ方を知ることで、自分が小説を読むときにも応用することだってできるからです。人の小説の楽しみ方を知ることで、自分の小説の楽しみ方もアップデートできる。素晴らしいじゃないか!
さて、森毅の『ゆきあたりばったり文学談義』には「メタ思想としての小説」という小節があるんですが、そこでおもしろい小説観・小説の楽しみ方が語られているのです。ちぃと長いですが、どうぞ。
いろいろと読んだ本、好きな本のことを話してきましたが、前にも述べたように、僕は人生がどうとか、世の中をどうするとか、そういう小説はあんまり好みではないんです。人生がどうとか言いますが、生きていくということは、どうせ現実と夢とをクロスオーバーしながらいくわけでしょう。僕がいう夢というのは、何かになりたいという夢じゃなくて、虚構=フィクションのことです。フィクションを読むことで読む人間の考えが拡がればいいんです。これはやはり自分本位なのかもしれません。僕は見る世界が広がればいいんで、それがはっきり形をとった思想になるかどうかはわからないですけれども、世界の見方というか、一種メタ思想みたいなものが、小説にはある。小説というのは、そういうものでいいのではないでしょうか。
(『ゆきあたりばったり文学談義』,p145-146)
翻訳しましょう。まず、人生がどうとか世の中をどうするとかといった “実用的なもの” としての小説は好みではないと語っていますね。そこから話は小説が “人生に効く” と言われるとは言っても、そもそも人生そのものが「現実と夢とをクロスオーバーしながらいく」ものだと進めています。
現実と夢。リアルと虚構=フィクション。それらのクロスオーバー。森毅が「フィクションを読むことで読む人間の考えが拡がればいい」と語るとき、小説を読むということは “知識を得る” のではなく、「人間の考え=世界の見方=思想」そのものに影響を与えるものだというアイデアがあります。すなわち小説というものは「人間の考えについての人間の考え」であり、「世界の見方についての世界の見方」であり、「思想についての思想」である。つまり、「メタ思想」こそが小説なのだ、というわけですわな。
 

読者から見た理想の小説〜メタ人生としての小説

森毅が語る小説観を翻訳すれば、わたしたちが〈現実〉と読んでいるものはリアルとフィクションとがクロスオーバーし、つまりは絡まりあって分別する意味がないものだとして、その上で、小説は一種の〈メタ現実〉の位置にあるというわけです。
さて、『ゆきあたりばったり文学談義』で語られているところから、おもしろい小説についてのアイデアを読み取ることができるのではないでしょうか。小説について語られる「これが小説である!」といった話から、「理想の小説の姿」を浮かび上がらせよう、というわけですな。
ところで、小説家・磯崎憲一郎の発言・対談をまとめた本に『金太郎飴』があります。そこで披露されている強靭な小説観は、『ゆきあたりばったり文学談義』から読み取れる「小説=メタ現実」と共鳴しあうどころか、ほとんどぴったり重なるほどに共通したものなのです。
『金太郎飴』のタイトル名には、磯崎がいつでもどんなときでも同じことを語っている、という意味合いが含まれていることが想像できます。金太郎飴がどこを切っても断面図に同じ絵柄が見えるみたいに。
では、『金太郎飴』から抽出したい磯崎の主張を取り出して見ましょう。
小説は現実よりも大きい。現実は小説によって支配されていると言っていい。現実は小説によって引き寄せられるのだ。ゆえに、小説は現実に先行するものでなければならない。世界を生み出す卵のように、事実を生成する傾斜を階層(Story)として展開する装置なのである。
(『金太郎飴』,p10の前後を参考に抽出)
おおよそ、以上のことが語られています。いかがでしょう? この小説観。小説は現実よりも上位に君臨していて、現実を生み出す装置なのだと語られているのですわ。あるいは、そうあって然るべきなのだと。それもあって、別の箇所では次のような発言も見つかります。「自己実現や言葉遊びとかではなく、外界を律するように働くもの」(p13)というふうに。
磯崎の小説観は「小説=メタ現実」と考えた森毅の小説観にも通じていることがわかるでしょう。どちらも「現実を超えている(=メタ)のが小説である」と語っているのですから。
以上見てきたところを踏まえて、理想の小説の姿を読者の側に立って描き出して見れば、次のようになるでしょう。
人生がどうとか世の中をどうするとかといった “実用的なもの” としての小説は、何か・誰かの役に立つものとしての意味から読まれる。しかし、そのような意味に囚われた小説では「人間の考え=世界の見方=思想」を左右することはできない。理想の小説は、個人が生きる現実を押し拡げる力を持った、一種の超現実的な実在なのである
つまるところ、わたしたちは自分の人生の中で「小説を読んでいる」のではなく、「小説を読んでいる」ことの中に自分の人生がある、と言うほうが適当であるようなのですね。いわば、読者の人生に対するメタ人生として小説はあるというわけです。
 

まとめ

小説を読むことを「勉強になる」とは、あまり言いません。なぜなら、小説は「読んで為になる・役に立つ」よりも深いところで、人の糧になるものだからです。この記事で取りあげた森毅・磯崎憲一郎の2人は、小説が現実よりも大きなものであると語りました。そうした小説観というのは、人に対する神のように、小説が人を導く力を持っていることを示唆しているのです。小説を読んで、人が「おもしろい」と言ったり思ったりするとき、それは単に「勉強になる」以上の経験なのかもしれません。わたしたちが考えている以上に。
_了

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