【すねかじり詩人】萩原朔太郎はどんな人物だったか|猫町 他十七篇

小説
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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。

 2020年のはじめの頃、縁があって萩原朔太郎の『猫町 他十七篇』を読んで以来、朔太郎に関心があります。

『猫町 他十七篇』には詩人として知られる萩原が書いた小説が収録されていました。他にもオノボリサン的に東京での生活をはじめた萩原の生活・心象風景が写された随筆なども。

 とりわけびっくりしたのは巻末にある詩人・清岡卓行による解説で、そこでは萩原が東京での近代的生活に憧れたこと、そしてその生活のなかで傷ついたこと、さらには43歳(55歳で死去)になるまで、生涯のほとんどを父親からの経済的援助に頼っていたという伝記的事実でした。

 つまり「親のすねかじり」だったというわけですね。

 この事実を踏まえることで、『猫町 他十七篇』に収録されている全18編の文章が「煌びやかなものに憧れながらもそこに溶けこめきれないでいる詩人の姿」を反映しているかのように読めたのです。

 今回ご紹介するのはそんな『猫町 他十七篇』です。

この記事で取りあげている本
 
この記事に書いてあること
  • 萩原朔太郎は口語自由詩を確立させた詩人であり、自身を「哲人風詩人」と称するものの、同じく詩人であり友人でもある日夏耿之介から「純粋詩人」や「感覚家」と呼ばれ、抽象的な論理を解する能力はないと評される。しかし、詩人でもある思想家・吉本隆明から日本近代文学史に冠たる芸術論をものした理論家としても評価されている。
  • 萩原朔太郎は東京での近代的な生活に憧れて、東京に出てきた。しかし経済的に自立する能力は中年になっても持てず、父親からの仕送りに依存していた。そんな暮らしのなか趣味もない朔太郎は、物を書く必要に駆られる以外は瞑想しながら歩きまわる生活を送り、家で待つ家族からも離れ、ひとりでいる時間に充実を感じて過ごしていた。
  • 『猫町 他十七篇』は萩原朔太郎が1926年から1937年の間に書いた散文作品を集めた本。ジャンルは小説や随想、アフォリズムに至るまで収められている。詩人として知られる朔太郎が書いた小説も読める他、東京に憧れて上京した際の過ごし方や青年期に性慾に悩まされたことなどが書かれていて、朔太郎の人となりを知ることができる一冊。
 

【すねかじり詩人】萩原朔太郎はどんな人物だったか|猫町 他十七篇

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萩原朔太郎について

 ここでは萩原朔太郎がどのような人物であったのかを確認します。確認するのは文学史的な位置付け、友人からの人物評、それから『猫町 他十七篇』(以下『猫町』)の解説から朔太郎の生活や憧れに関してです。

口語自由詩の確立者

 詩人・萩原朔太郎は、五七調・七五調中心の文語定型詩からの決定的な脱却を行った人物として知られています。それは概ねゴリゴリの型に支配されてきた詩の風景に、感覚に根ざした清涼な言語表現という名の自由をもたらした革命でした。

 ざっと紹介すると、まず明治以前の日本の詩は主に漢詩を意味していました、そこに西欧の詩が紹介され、新しい型の詩が作られるようになります。明治末期には件の文語定型詩への文学的な抵抗として、北原白秋が「文語自由詩」を打ち立てます。

 そこから高村光太郎が詩集『道程』を発表して「口語自由詩」を世に定着させ、我らが萩原朔太郎が処女詩集『月に吠える』でもって口語自由詩は確立・完成したのです。──教科書的にはそのように語られる人物です。

 

日夏耿之介から見た朔太郎

 

 教科書的な説明はいいとして、萩原朔太郎の人物像はどのようなものでしょうか。わたしはすでに以下の記事で詩人・日夏耿之介の目から見た朔太郎の姿を確認しています。

 上の記事では日夏耿之介の目を通して、朔太郎が「感情の分析が苦手で、抽象的なものを理解するアタマはない。しかし繊細なセンスを備えていることは確かで、的確な物象化をすることのできる詩人である」といった人物像を得られたのでした。

 とりわけおもしろいのは、朔太郎が「純粋詩人」および「感覚家」として持ち上げられていながら、同時に、フィーリング(感覚的)で詩人や学者の思想をわかった気になるような気質だったという報告です。まさに「感覚タイプ」のイメージにぴったりな人物評、というわけです。

 

都会暮らしに憧れる朔太郎

 ここでは『猫町』に依拠する形で朔太郎の人物像をイメージすることにします。参照するのは『猫町』の巻末にある清岡卓行の解説文です。そこから3点ほどピックアップしてみますと、以下のような情報が拾い出すことができます。

  • 前橋に住んでいて東京に憧れていた。住居の独立による自由こそあったものの、自立できることも期待して東京に出てきてからも経済的な独立はできず、父からの仕送りに頼っていた。
  • 妻・稲子は朔太郎の夢想した理想的都市生活の一態であるダンス・パーティなどに溺れ、子どもの養育さえほっぽりだした。朔太郎は始めこそ看過していたものの、近代的な生活の虚栄に疲れるようになった。
  • 43歳になるまでは経済的に自立していない自分を援助してくれていた父親の死。朔太郎は父の墓を見つめ、宿命凝視的な思いを抱いた。すなわち、生活の根底において父親の援助なくしては暮らせない自分自身を。

 以上の3点から、萩原朔太郎がどんな暮らしをし、どんな憧れを持ち、どんな生き方をしたのかを大雑把ながらイメージすることができます。すなわち、東京での近代生活に憧れるも自立はできず、そこに属することができた憧れの世界のなかでは近代生活の虚妄に徐々に疲弊していった姿を。

 それから、朔太郎が親のすねをかじって暮らしていたことを。

 

『猫町 他十七篇』

 詩人として知られている萩原朔太郎ですが、それ以外の文筆業もおこなっています。小品集『猫町 他十七篇』には萩原による幻想風の短編小説や随筆などが収録されています。以下では『猫町』に収録されている作品の中から萩原朔太郎の人となりがわかる箇所をいくつか取り上げてみます。

猫町:詩人の直覚

 「猫町」は東京から北越の温泉に出かけた「私」が、ふとしたことから「繁華な美しい町」に足を踏み入れ、そこで人間の姿をした猫の集団を目にする、というあらすじです。一個の幻想文学作品として楽しめる作品になっていますが、秋の山道を歩きながら迷信じみた話を聞いたあとで次のような思索があります。

 理智は何事をも知りはしない。理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。だからすべての哲学者は、彼らの窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜を脱いでる。詩人の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ。

 ここで言うところの「哲学者」は概念を組み立てる役割を持った存在です。哲学者がミステリアスな事象を把握するための概念を作ることは、「隠れた意味」の常識化であり、通俗化である。当然、それだけで宇宙の神秘を解説できるわけではありません。言い換えれば、豊穣な意味を領した神話になり替わることはできないのです。

 いわば、朔太郎が称える「詩人の直覚」──まさに純粋詩人である朔太郎の感覚的実感!──こそが事物を理解するための概念(=「哲学者の概念」)より深々と宇宙の神秘をつかむ実在なのである、というわけです。これはある意味、フィーリング重視な朔太郎の自己弁護のようでさえあります。あるいは、朔太郎が大雑把につかんでいる「哲学者」の観念がそのような印象であったと見ることもできるでしょう。

 この点に関して、日夏耿之介によれば朔太郎は自身を「哲人風の詩人」だと語っていたとのこと。しかし、詩論を書いてもいる朔太郎に耿之介は「決して哲人風の詩人などではない」と評しています。その一方で、時代を降り、詩人で思想家でもあるまさに「哲人風の詩人」と呼ばれるに相応しい人物である吉本隆明からは次のような評価をされています。

朔太郎の芸術論は、大著『詩の原理』において文学原論として集大成される。すでに触れるべき余裕がないが、『詩の原理』は漱石の『文学論』とともに、日本の近代文学史がうんだもっとも優れた文学原論の書であり、いまなおこえることは容易なわざではないのである。(『近代文学鑑賞講座15』1960.12.角川書店)

 絶賛です。日夏耿之介が萩原朔太郎を「抽象を解さない感覚の人」と語りましたが、吉本隆明によれば学者でもあり卓越した文学論も書いた夏目漱石にも比肩させられると言うのです。吉本の言葉を信じれば、『詩の原理』という日本文学史に冠絶した文学論を残した朔太郎の理智は、文学者としても十分に卓越したものであったと言えるでしょう。

 

大井町:初の東京暮らし

 「大井町」は朔太郎が1925年2月、38歳の頃に「前橋という田舎」から大井町に越してきての印象を書いた随筆作品です。町の様子は季節は冬、煤で汚れた煉瓦造りの建物、工場で働く労働者たち。そうした「むげんにさびしい」風景の中で、詩人が思うところ。

 人生はふしぎなもので、無限のかなしい思ひやあこがれにみたされてゐる。人は自分の思ひを自然に映して、それぞれの景色の中に居住してゐる。

 これが「大井町」の冒頭です。自分の思いの反映としての風景。朔太郎はこの町を描写するのに肯定的な言葉を用いてはいません。「大ぜいの労働者がぞろぞろと群がつてゐる。」「みじめな郵便局の前には、大ぜいの女工が群がつてゐる。」しかし朔太郎はそれらを結局は「好い町」だと言うのです。

 煙突と工場と、さうして労働者の群がつてゐる、あの賑やかでさびしい街に、私は私の住居を見つけた。私の泥長靴をひきずりながら、まいにちあの景色の中を歩いてゐた。何といふ好い町だらう。私は工場裏の路地を歩いて、とある長屋の二階窓から、鼠の死骸を投げつけられた。意地の悪い土方の嬶等が、いつせいに窓から顔を突き出し、ひひひひひと言つて笑つた。何といふうれしい出来事でせう。私はかういふ人生の風物からどんな哲学でも考へうるのだ。

 萩原朔太郎、38歳。「東京という首都におもむく夢、日本にいて覚える西洋への憧れをかくしている夢、さらにいえば近代的な生活への自立の夢を実現するために」朔太郎が住んだ、賑やかでさびしい町こそ、大井町でした。いわば朔太郎が初めて東京に進出した第一歩です。その土地の何もかもが輝いて見えたとしても嘘ではないでしょう。

 とりわけ、事物を感覚的に把握して象徴的な表現へと還元する「象徴派詩人」でもある朔太郎ですから、憧れていた都会での近代的な風景から受け取った哲学的な詩想はいろいろとあったことでしょう。そうした、「田舎者詩人、東京での生活に感動する」といった風情のある随筆になっています。

 

秋と漫歩:ソロ充・朔太郎

 

 「秋と漫歩」は萩原朔太郎が49歳のときに出した随筆集『廊下と室房』(1936)に収録された作品です。内容は東京をのんびり散歩する自分自身について書いたもので、解説の清岡卓行によれば朔太郎が東京に来たばかりの頃から数年のあいだに書かれたもののようです。

 読むと次のような朔太郎の生態が書かれていることがわかります。すなわち、趣味や道楽もなく、友人との交際もなく、旅行は嫌いじゃないが面倒くさいし宿屋に泊るのも嫌であること。つまりは他人と関わることが煩わしい、今で言うところの「ぼっち」(ひとりぼっちでいること)ですね。

 こうした私の性癖を知ってる人は、私が毎日家の中で、為すこともない退屈の時間を殺すために、雑誌でもよんでごろごろしているのだろうと想像している。しかるに実際は大ちがいで、私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない。どうするかといえば、野良犬みたいに終日戸外をほッつき廻っているのである。

 以上のような性癖を報告した後で、朔太郎は自身の散歩狂いを「唯一の「娯楽」でもあり、「消閑法」でもある」のだと述べるのです。そして自分が秋の季節を好む理由を「戸外生活をするルンペンたちが、それを好むのと同じ理由による」のだとうそぶくのでした。こうして見ると「ぼっち」というよりも「ソロ充」(ひとりで過ごして充実感を味わえること)と言った方が的確かもしれません。

 また、タイトルにもなっている「漫歩」については次のように語っています。

 前に私は「散歩」という字を使っているが、私の場合のは少しこの言葉に適合しない。いわんや近頃流行のハイキングなんかという、颯爽たる風情の歩き様をするのではない。多くの場合、私は行き先の目的もなく方角もなく、失神者のようにうろうろと歩き廻っているのである。そこで「漫歩」という語がいちばん適切しているのだけれども、私の場合は瞑想に耽り続けているのであるから、かりに言葉があったら「瞑歩」という字を使いたいと思うのである。

 わたしなりに言い換えてみれば、朔太郎は「意識高い系の人間がやるような自身の生産性を上げる目的でなされる運動」ではなく、「ひたすら漫然と無為にぶらつく年金生活者のような歩行」をしているのです。そして前者を「散歩」と呼ぶなら、後者は「漫歩・瞑歩」なのである、というのが朔太郎の考えでした。

 「秋と漫歩」を、朔太郎は次の文で締め括ります。

 家を好まない私。戸外の漫歩生活ばかりをする私は、生れつき浮浪人のルンペン性があるのかも知れない。しかし実際は、一人で自由にいることを愛するところの、私の孤独癖がさせるのである。なぜなら人は、戸外にいる時だけが実際に自由であるから。

 朔太郎にとって家は決して居心地のいい場所ではなかったはずです。なぜなら一家を養わねばならない責任がつねに押し迫ってくるところなのですから。当の朔太郎はなかなか自立することができずにいたことを考えると、社会人・生活者として不能(インポテンツ)の烙印を押される心地がしたとしてもおかしくないでしょう。家の外・戸外に出歩くことが気晴らしになったことは想像に難くありません。

 

老年と人生:老いの悦び

 「老年と人生」は朔太郎が53歳のときの随筆集『阿帯』(1940)に収録されているもので、本文中には「今では五十歳の坂を超えた老年になっているのである」と書いていることから、まさに老年期に書かれた作品として読むことができます。内容も、これまでの人生を振り返りながら今と昔とを比較しつつ、人生における老年期への思索を深めた文章に仕上がっているのです。

 かといって、そこは感覚詩人・萩原朔太郎、上から目線で青春時代の真っ只中を生きている若者に向けた箴言を残そうというのでもありません。むしろ老年期の人生の楽しみ方を羨ましいと思わせるような素振りさえ見せたメッセージになっているのです。

老いは醜い

 冒頭で朔太郎は「老いて生きるということは醜いことだ。」とはじめます。そして、少年の頃には27、28歳まで生きて30歳になったら死のうと思っていたと書きます。しかし結局死なずにいて、30歳になったときには次のような悲嘆を覚えたのだとか。

 三十歳になった時に、僕はこれでもう青春の日が終った思い、取り返しのつかない人生を浪費したという悔恨から、泣いても泣ききれない断腸悲嘆の思いをしたが、それでもさすがに、自殺するほどの気は起らなかった。

 その後も老け続け、朔太郎は50歳の坂を超えることになる。かくも過去の決心とはもろいものかと自嘲気味に述べるのでした。──朔太郎はこうした気質、というかアイデアを「一般の芸術家に共通したことだと思う」と言います。「芸術家という人種は、原則として皆一種の精神的ナルチスムスである。」詩人・萩原朔太郎その人もまたその例に漏れず、老いを怖れた、というわけです。

 ところが、実際に老年期に差し掛かった朔太郎は、自身の感覚に根ざす現実経験から「むしろ若い時よりは、或る意味で遥かに楽しいものだ」と語るのでした。

 なぜ?

 

老いと解脱

 若い時よりも歳を重ねてからの方が遥かに楽しいことの理由を朔太郎は次のように解説してみせます。

 青年の考える人生というものは、常に主観の情念にのみ固執しているところの、極めて偏狭なモノマニア的のものである。彼らは何事かを思い詰めると、狂人の如くその一念に凝り固まり、理想に淫して現実を忘却してしまうために、遂には身の破綻を招き、狂気か自殺かの絶対死地に追い詰められる。そこで詩人が歌うように、若き日には物皆悲しく、生きることそれ自体が、既に耐えがたい苦悩なのである。

 朔太郎が言うところによれば、若い頃に想像する人生の老年期というのはあまりに主観的で、偏狭的で、それから観念的に捉えがちであるとのこと。であるからこそ、観念的な理想に窒息して感覚に根ざして然るべき現実を忘却してしまう。

 朔太郎は続けます。

 然るに中年期に入って来ると、人は漸くこうした病症から解脱してくる。彼らは主観を捨てないまでも、自己と対立する世界を認め、人生の現実世相を、客観的に傍観することの余裕を得て来るので、彼自身の生きることに、段々味のある楽しみが加わって来る。

 余計な理想や観念による呪縛に苦しむこと。これを朔太郎は「症状」と言いますが、それらが、老いと共に弱まってくるというのです。そのことを朔太郎は「解脱」と呼び、人生における老年期を「自己を客観化できる余裕が備わってくる段階」として肯定的に語ります。

 

老いと性慾

 とはいえ、「人生の現実世相を客観的に傍観すること」というのはどういうものなのでしょうか?

 朔太郎はそれを性慾を例に説明します。

 若い頃の朔太郎は大いに性慾に悩まされます。「明けても暮れても、セクスの観念以外に何物も考えられないほど、烈しい情火に反転悶々することだった。」性慾に悶々としていても捌け口なんてなく、試験勉強はせねばならず、性慾に気が狂いそうになった朔太郎は牛肉屋で肉を買ってきて壁に投げつけたりなどもしたそうです。……どんだけだよ。

 しかし老化は以上のような性慾狂いを次のような認識へと導いたのでした。 

 何より気楽なことは、青年時代のように、性慾が強烈でなくなったことである。青年時代の僕は、それらの焦熱地獄のベッドの上で、終日反転悶々して苦しんだが、今ではもうそんな恐ろしい地獄もない。むしろ性慾を一つの生活気分として、客観的にエンジョイすることの興味を知った。

 燃えるような性慾を一つの生活気分として客観的にエンジョイ……。こうした認識は青年期の肉体からすれば霞でも食らって生きている仙人であるかのように見えることでしょう。こうなってくるともはや、「早くそうなりたい」って感じですね(笑) 

 

老いと享楽

 性慾に狂って肉を壁に叩きつけた朔太郎の性慾に対する考え方の変化は大変興味深いので、もう少し彼の心境を深追いしてみます。

 50歳の坂を超えて性慾を一つの生活気分として楽しめるようになった朔太郎、彼はその心境から芸者遊びの楽しみを分析してみせます。若い頃には芸者遊びをする中年者の気持ちがわからなかったと白状する朔太郎、しかし老いた今となっては、女を読んで酌をさしたり、無駄話をしたり、三味線を弾かせたりといった「「座敷」の情調気分を味わいつつ、静かに酒を飲んで楽しむ人々の心理」がわかるようになったと言って、次のような分析をします。

 つまりこうした中年者らは、享楽の対象を直接の性的慾求に置くのではなく、むしろその性的なものを基調として、一種の客観的な雰囲気を構成する事で、気分的に充分エンジョイしているのである。灼きつくような情慾に飢えていた青年時代に、こうした雰囲気的享楽の茶屋遊びが、無意味に思われたのは当然だった。

 朔太郎の老年期の報告を噛み砕くと、「性慾が一つの生活気分になる」というのは、エロい気分になって我を忘れることなのではなく、エロい雰囲気そのものを楽しめることなのでしょう。あるいは、衝動まかせの行動ではなくその場の「なんとなく良い感じ」を楽しむ余裕が持てること──これはおそらく「飲みの席でなんとなくその場を立ち去り難いあの感じ」にも似た、「これと言った対象や原因を特定できないそこはかとなさ」としか言えないものなのかもしれません。(曖昧な書き方になってしまうのはまだわたしが充分に老いておらず、断言するにはあまりに不遜だからです。)

 

まとめ

ここまで『猫町 他十七篇』にある文章から、人間・萩原朔太郎の物事の感じ方・考え方について見てきました。埼玉の田舎から東京での近代的生活に憧れる朔太郎。父親からの仕送りがなくては暮らせなかった朔太郎。秋の東京を瞑想しながら彷徨い歩く朔太郎。燃えるような性慾に悶々とする若き頃を回顧する老いた朔太郎。──『猫町 他十七篇』の一冊から、孤独を愛し、親のすねをかじる事で名をなした朔太郎の人物を知ることができます。この本も含め、ご興味のある方はぜひ、朔太郎に関する本を手にとってみてください。

_了

 

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