所有する人間と他者経験を揺さぶる異者体験|わたしの名前は…

画の紹介
Christophe Audeguis et Agnès b.
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ザムザ(@dragmagic123 )です。 このたび、オンライン映画館「アップリンク・クラウド」において無料公開の運びとなっていた映画『わたしの名前は…』(2013)を見ました。無料公開は2020/05/7から5/17までの10日間ですので、すでに終わっていますが、今回は(例によって)映画の紹介というよりも雑感を書き出すことを目的にした記事です。
 
この記事で取りあげている画
 
 

所有する人間と他者経験を揺さぶる異者体験|わたしの名前は…

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映画紹介

Christophe Audeguis et Agnès b.

 映画『わたしの名前は…』は2013年公開のフランス映画です。監督は「アニエスべー」の名で活動するファッションデザイナーでもあるアニエス・トゥルブレで、この映画が初監督作品で、10年以上前に新聞で読んだ記事に着想を得て作られた作品。日本だと2015年の公開。
 ストーリーは以下──職を失って家にいる父親から性的虐待を受けている女の子(12歳)がいて、彼女は他の家の父親もそうなのかと悩むも、誰にも言えず、自殺を考えている日々でいた。ある日、学校の遠足で10日間家を離れられることになる。海岸での自由時間に、そこに立ち寄っていたスコットランド人のトラックに乗り込み、彼女の逃避行が幕を開ける。
 いわゆるロードムービーです。しかしそれにも増して求心力があるのは、出演する役者が知る人ぞ知るマニアックなメンツです。
 主役にも匹敵する位置に現代美術家のダグラス・ゴードン、劇中音楽を担当するのはフランスのエレクトロポップ・アーティスト「Air」のメンバーであったり、ロックバンドの「Sonic Youth」であったり。さらには人文系の関心がある人には「マルチチュード」の概念およびその著作で知られるイタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリの名を聞いてニヤッとするかもしれません。
 

鑑賞雑感

Christophe Audeguis et Agnès b.

 ここでは映画『わたしの名前は…』を見た吾人の雑感を記していきます。映画の内容を基にしてはいるものの、読む分には映画鑑賞の体験を前提にする必要はありません。取りあげるのは「人が所有するということ」と、それから「他者経験を揺さぶる異者体験」です。

人が所有するということ

 「所有する」という言葉を人相手に使うとどこか失礼なニュアンスがあります。しかしそれは偏見であるかもしれません。ここでは映画『わたしの名前は…』における父と娘の関係から、対象との精神的な結びつきを示唆するものとして所有の観念を確認します。

所有は否定的か?

 所有という観念があります。たとえば「妻は夫の所有物だ」などと聞くと腹立たしい語感を持っています。ここには「所有」という言葉がどこか対象を物のように見立てている感じがあるからでしょう。所有の後に続く傾向にある字が「所有 “者” 」と「所有  “物” 」などであることからも、物を前にしての所有する側とされる側とに分類する観念であるというふうに感じられます。
 しかしそれは日本語話者であるからかもしれません。英語圏ではそのような偏見もなしに家族・友人・恋人との関係を語るのに「所有」という言葉を用いています。文はソシオパスの当事者として本を書いた法学徒M・E・トーマスによるもの。
所有という単語は、典型的には家族や友達と呼んでいる人に限っている。私はこのような人々には、所有というのは、自分のものであるという感覚を覚える。感謝の念も感じている。
 上の文を見る限り、所有の観念に対して否定的なニュアンスがありません。むしろ肯定的であり、誠実であるような印象さえあります。
 
 

ハートフルな所有

 人と物との関係に関して、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは「使用」の概念を「支配」と対比させます。支配では物に対して一方的である関係を固持したままの冷たい関係です。ところが使用は双方向的な関係であり、使用者と使用物との間は一方が変われば他方との関わり方も変わるといった熱い関係になのです。
 先に取りあげたトーマスは所有と対比させて「搾取」の概念を持ち出します。アガンベンの「使用−支配」とトーマスの「所有−搾取」は無関連ではなさそうです。ある物との使用関係において使用者が変容することを拒めないのがアガンベンのいう使用であり、トーマスのほうでも親密な関係についてを所有の言葉で語っている以上、所有相手が傷つけばこちらも冷静でいられないような、所有者が変容することを拒めないものになっています。ようするに、どちらも後者では対象と一方的な関係であり、前者では双方向的なのです。
 所有の観念を「相手を物のように扱っている」というふうに受け止めることもできますが、アガンベンやトーマスのアイデアを踏まえるなら、肝心なことはむしろ、所有する物との関係が “どのようなものであるか” という視点が見えてきます。たとえば家族について考えるとわかるように、妻と夫、親と子は互いにまったくの無関心ではいられません。自分が自分であることのうちに相手を要素として含んでいる状態にあると言ってもいいでしょう。
 所有の観念が、対象となる相手を自分にとって──家族・友人・恋人がそうであるように──重要で、大事なものであることを表現している。そのように考えれば「妻は夫の所有物だ」という文からも、「夫は妻を所有しているために妻が大切だ」というハートフルなニュアンスを読むことができます。
 

精神的な所有関係

Christophe Audeguis et Agnès b.

 映画『わたしの名前は…』を見て、所有について考えたのは映画自体に所有を思い起こさせる場面があったからです。
 映画に、定職につかずにいる父親が登場します。冒頭から彼は自分の12歳になる娘に対して性的虐待をする、なかなかショッキングな場面があるのですが、これもどうやら常習的に行われている模様。快楽を求めて娘を家の二階に呼ぶのですが、しかし同時にこの行為によって自分も苦しんでもいるのでした。
 父親と娘との関係は同じ家族として互いに無関心ではいられない「所有関係」にあります。『わたしの名前は…』における性的虐待──ドメスティック・バイオレンスが起きている家族関係は健全な家族のあり方としては間違っていますが、所有関係の近さゆえに深々と負うことになる傷を表現するのには格好のモチーフになっています。
 現に、娘と性行為を行う父親はみずからの行いによって深く傷ついてもいるのです。もしも相手が実の娘ではなく、商館の少女などであったとすれば、少なくとも所有関係に基づいた受苦もなかったでしょう。ここで働いている所有の観念は、所有物だから自分の勝手にしてもいいといった対象との幼稚な関係ではなく、所有する相手を傷つけてしまえば自分も傷を負うことになるような精神的な関係を示唆するのです。
 
 

他者経験を揺さぶる異者体験

 自己と他者とは〈今・私・現〉などの言葉で以て語られる自己の固有性にとって等根源的です。他者にもまた固有の領域があり、自己がそれに触れるとき異者体験が起こる。ここでは映画『わたしの名前は…』における他者経験を揺さぶる異者の気配を取りあげます。

表象可能な他者図式

 他者という概念があります。ざっくりした意味は、自分ではないもののこと。「他人」という言葉と区別して、心理学や哲学の専門用語として用いられることが多いです。さしあたってここでは、他者概念を図式的に自己と対立する “他なるもの” と理解します。
 他者は自己との関係から表象可能なものです。──映画『わたしの名前は…』ではひとりの女の子が家族という必然で親密である関係の中で傷つき、苦しめられている。ここでの家族関係は閉じたもので、生きる世界全体を憂鬱なものにしてしまう密閉性を備えています。自己との関係から他者が立ち現れるということは、父親から虐待された娘の自己が表象する他者もまた暗いものになるでしょう。自他関係の図式そのものが否定的なものになってしまい、彼女の選択肢には「自殺」までが候補に上がるのでした。 
 ところが、そんな矢先に女の子は学校の遠足で家を離れることになります。移動するバスの中で、彼女は同年代の子供たちと比べてありありと憂鬱である様が見て取れるのが痛々しいです。浜辺での自由時間でも彼女はひとりでいましたが、大型の運送トラックが停まっているのを見て、女の子には「家出」の選択肢が出てきます。
 トラックの運転手は良い人でした。女の子にとっては(性的虐待を受けている)ドメスティックな事情とは無関係であり、それゆえに家庭内でのシガラミの外側へ抜け出すことができます。家族では必然性と親密性とに支配されていたことと対比させれば、トラック運転手との関係では偶然性と意外性とがあります。家族関係が図式的な他者性を前提にしているとすれば、後者のトラック運転手との随伴関係は自他の図式そのものを揺さぶる異者性に属するのではないでしょうか。
 

異者性と並行線

 異者の概念を確認しておきましょう。他者との対比で説明すれば、他者が図式的で表象可能なものであるのに対し、異者とは図式的ではなく表象不可能なのです。たとえば鏡を前にしたとき鏡映は対称的であり、自己と他者も鏡に映るものとしては対称的です。他方で、自己にせよ他者にせよ鏡に映らないものがあります。鏡像とは無関連に〈今・私・現〉を確信させる根源があり、それは鏡には映らず、非対称的であって、各人固有の領域に当たります。こうした固有性を持つ自己がいる一方で、他者にもまた固有の領域があり、この両固有性の関係は互いに把握不可能でありながら、ときに思いがけず出会うこともあり、そうしたときに「異者性」が噴出する。再び鏡のイメージを持ち出せば、異者とは自他を映す鏡を変容させる力なのです。
 家族関係における親密性があり、そして、親密性と対称的な言葉として社交性があります。親密な関係と社交的な関係とは無関連ではありません。どちらも他者との関係という点で、親密性も社交性も他者関係全般に地続いたものになります。他者との関係のベースになるのは親子のような親密な関係においてでしょう。そうした意味で、家族関係は自他関係を決定する基礎になるのです。
 トラック運転手が異者であることを考える上で、次の場面は示唆的で、象徴的です。トラックが古い荒れた道路を走行中、運転手は助手席の女の子に向けて、今走っている古い道路が自分で、右側に見える新しい整った道路が彼女なのだと語るのでした。これは本来交じり合うことのない互いの(人生の)並行性を暗示しています。それぞれの同一線上に自他の図式があり、それぞれの人生が生きられている。映画『わたしの名前は…』では、新しい道路の側にいた女の子が家出したことによって、道路間の境界が越えられ、異者との出会いが起こります。この場面でトラックが走る道路は各自の固有性において理解される他者(と)の一線だとすれば、隣の道路へと越えて他者と出会うことは、異者(と)の一線になるのです。
 

異者体験は揺さぶる

Christophe Audeguis et Agnès b.

 「異者性」という言葉から眺めると、映画『わたしの名前は…』はトラック運転手との出会いによって女の子のドメスティックな問題を含んだ「家族関係=自他関係の基礎」は刷新されます。女の子の生活は良くなったのです。
 ただし、犠牲もありました。
 女の子は保護されます。トラック運転手は誘拐犯として捕まり、取り調べの焦点は女の子がヴァージン(処女)ではないという事実にありました。トラック運転手は女の子からその理由が実の父親によるものであると聞いています。そのことを言えば、彼女の家族は崩壊するでしょうし、彼女の人生もまた台無しになりかねません。女の子が家に戻りたくないからと自分の名前を言わないように、トラック運転手の方もまた、女の子が非処女である理由について沈黙したのでした。
 行方不明だった娘が帰ってきて気が気でないのは父親も同様です。警察の調べで娘がヴァージンであることが認知されている以上、そのことに関する取り調べが行われるはずで、娘が真実を話してしまえば身の破滅は間違いないのですから。そして犯人であるトラック運転手がもしも娘を襲ったのであれば非処女である理由について知っているかもしれず、犯人の方からも父親の性的虐待が露見する可能性もありました。
 しかし、父親の生き地獄と娘の沈黙は終わりを迎えます。
 容疑者であるトラック運転手が自殺したのです。
 結果として、トラック運転手の死は父親と娘の秘密を守ることになりました。父親と娘の関係においても、父親が改心し、娘に手を出さないことを誓います。かくして新たな親密性が生成されるに至ったのでした。自他関係は刷新されたのです。むろん、そこにはトラック運転手という異者との出会いが影響しています。
 異者とは他者の図式および表象を揺るがすものでした。ここでの他者とは父親と娘の間にある関係を示唆します。親子にとっての異者との遭遇は、自分たちの自他関係を再構築させるきっかけとなったのです。つまり、異者体験とは他者経験を揺さぶるものである──このことが映画『わたしの名前は…』を見た吾人の感動でした。
(ただし、ここで言及した「異者」はあくまでも表象不可能であるがゆえに、映画『わたしの名前は…』を見たからと言って語れるものでもなく、せいぜいジーンと胸に迫るしかないものです。なので、吾人が語ったところもあくまで感想や雑感としてしか語り得ないものとして心得てください。)
 

まとめ

『わたしの名前は…』はいわゆるフランス映画な雰囲気のある作品です。扱っているテーマは決して軽いものではないですが、見る価値のある映画であることは間違いありません。今回はそんな映画を見ての雑感をまとめることを目的にして記事を作成しました。所有と家族、他者と異者。何事も勢いというものがあって、感想などは余韻が胸に残っているうちが一番熱感を出せます。この記事でも鑑賞した翌日に書きました。熱が宿っているかはさておき、このような形に書かせしめる力があることは確かです。ぜひ、映画『わたしの名前は…』を見てみてください。
_了

関連資料

岩宮恵子「書評「田中崇恵著『“異”なるものと出遭う──揺らぎと境界の心理臨床学』」『Archives of Sandplay Therapy』2016,Vol.28,No.3,p85-87
北野孝志「他者性との区別における異他性異他性の現象学序説」『豊田工業高等専門学校研究紀要』第40号,2007,133-138

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