ベケットという名を聞いたことがありますか? 劇作家・小説家のベケットのことです。『ゴトーを待ちながら』という作品がもっとも有名な作家です。
日本の知の粋を結集して編まれた思想辞典──『岩波哲学・思想辞典』の項目で、彼は「小説史上類を見ない達成」を成し遂げた人物だと書かれています。すごいですよね。
今回はそんなベケットの、1938年に出版されたベケットの最初の長編小説である『マーフィー』をご紹介します。
サミュエル・ベケット『マーフィー』川口喬一訳,白水社,2001
- 小説『マーフィー』は働かない男マーフィーが働いたことで死んでしまう物語である。
- マーフィーが精神病患者に憧れを持つのは彼らが精神世界のなかで安定しているからである。
- マーフィーは精神病患者のひとりとチェスをして自分の狂気が彼らのそれとは及ばないことを思い知る。
- 『マーフィー』は精神病患者のようになれなかったマーフィーの挫折を描いた小説である。
なぜ働かない男マーフィーは精神病患者に憧れたのか:『マーフィー』
『マーフィー』はどんな物語なのか?
『マーフィー』は、とりあえずは男女の物語です。舞台はダブリン、そしてロンドン。2人の結婚した男女がいて、経済的な理由で2人の生活が危うくなっている。男のほうはマーフィーと言い、女のほうはシーリアと言います。
マーフィーは働く気がありません。断固拒否します。シーリアに働けと言われようともダメなのです。しかもシーリアが働くのもダメだと言います。マーフィーはその理由を語るのに小難しくややこしい言い方をするので、シーリアばかりではなく読者のほうでも「いったいマーフィーは何を考えとるんじゃい!」と思うわけです。
ここらへんの事情から小説『マーフィー』を「ニートの物語」もしくは「浮浪者の物語」だと見ることもできます。
けれども結局マーフィーは働くことになります。精神病院の職員です。そこでマーフィーは類い稀なる才能を見せ、患者たちとの交流をするのですが、ガス漏れ爆発の火傷によるショック死で死んでしまいます。
──ざっくり言えば、以上が小説『マーフィー』の概要です。
「マーフィー」はどんな人物なのか?
ここでは小説『マーフィー』の主人公であるマーフィーの人物像を見ていきましょう。
地雷男マーフィーの人物像
小説『マーフィー』の主人公マーフィーはある程度の教養がありますが、職にはついていません。家族のいないダブリン出身者で、オランダにいる伯父にお小遣いをせびっているからか、音楽会に行くだけの金を〝たまには〟持っています。
さらにいえばマーフィーは目はカモメのように細く、歩き方はびっこで足は萎えています。昔の話はしたがらず、自分の人生には偉大なものが待ち受けていると信じ込み、ロンドンの取り壊しの決まったビルに住んでいて、衣服を脱いで七本のスカーフで揺り椅子に体を縛りつけて椅子を揺らすと心の安定を得られるのだそうです。
──マーフィーはそのような人物なのです。言うまでもなく、世の女性たちにとってマーフィーは、恋人にする男性としては「地雷」と呼ぶにやぶさかでないでしょう。
マーフィー「きみはありのままのぼくを愛していないのかい?」
また、マーフィーは理屈っぽい性格で、恋人であるシーリアと次のようなやりとりをしています。
シーリアが自分たちの結婚生活を続けるためにマーフィーに働いてくれと言います。しかしマーフィーは「きみはありのままのぼくを愛していないのかい?」と応えます。それから以下のことをシーリアに告げるのです。
「女なんてどいつもみんなおなじだ、女には愛することができない、完走することができない、我慢できるのは自分がさわられているという感情だけで、五分も愛せばもうたちまちやめにして、餓鬼どもの世話や家事仕事をやりたくなるんだ。」(p42-43)
ようするにマーフィーが言いたいこと以下のことなのです。
- ぼくは働けない。なぜならそれはぼくがぼくであるうえではありえないことだから。
- ありのままのぼくを愛してくれるなら働かないぼくのことも愛さなければおかしい。
- ぼくは愛するきみの行動を変えようとしたことはない。なのにきみはぼくの「働かない」という行動を変えようとしている。
- 働かないぼくを変えようとすることは、きみがぼくを愛する宿命を負いたくないからだ。
以上の通り、なかなかにめんどくさい屁理屈家です。
とは言いつつ、マーフィーは以上の理屈を展開した後に職探しをはじめることになります。
労働・占星術・チェス
ここでは働くことを嫌うマーフィーが、占星術を通して天体の動きにこだわっていたことについて触れます。そして『マーフィー』の作品のなかで決定的な役割を持つチェスの試合の意味も見ていくことにします。
『マーフィー』という作品の本質はチェスによって暗示されている
労働を拒むマーフィーは占星術の知識を持っています。その点に関して、ベケットの伝記を書いたディアドリィ・ベァは次のように指摘します。注意深く『マーフィー』を読むとマーフィーの行き当たりばったりな行動には特定の天文学的な時期が設定されている。──と。
小説『マーフィー』にはマーフィーと精神病者エンドン氏との有名なチェスのシーンがあります。チェスはコマを動かすことで盤上の均衡が崩れ、どちらかの陣営の勝敗が決まる決着へと進行することになります。このチェスの試合は『マーフィー』という作品の本質を表していると同時に、結末を暗示しているものでもあるのです。
小説『マーフィー』からひとつの対立図式を取り出してみましょう。一方には天体が司る〝循環を続ける完全性〟があり、他方には地上を生きる人間の〝結末を迎える不完全性〟があります。マーフィーが労働を拒むのはそれが不完全な世界に属すからです。彼にとって働かないことは完全性のうちに属す安定した状態なのです。
マーフィーという人間の正気はチェスによって暴露されてしまう
マーフィーがこだわる占星術は完全なものであるものの、彼が生きる現実はマーフィーを生活のために働かせようとします。働くことはチェスで勝敗を決するためにコマを動かすのと同様に、不完全なものへと動きだすことになります。
マーフィーが働くことを拒んだのは少しでもコマとしての自分が動くことによって訪れる盤上の結末を拒んでいたからなのです。この場合「盤上」というのはマーフィーの人生のことでもあり、そして『マーフィー』という小説のことでもあります。先に触れた精神病者エンドン氏とのチェスの試合で、マーフィーは負けてしまいます。敗因はマーフィーがコマを動かしたせいでした。
チェスの試合でのマーフィーの敗北は精神病患者(狂人)としての敗北でした。この試合はどちらも狂気であれば勝敗がつかない試合だったのです。しかしエンドン氏の狂気のまえでマーフィーは正気である自分を発見してしまいました。つまりマーフィーはエンドン氏のような精神病患者になれない自分を知ることで敗北したのです。
マーフィーが地上を生きる人間の事情(生活)のために働きはじめたことは、マーフィーという存在の死をあらかじめ決定していました。そうです、やがてマーフィーは死にます。チェスの暗示から解釈するなら、マーフィーは、彼が働きだしたことによって死んだのです。
マーフィー、精神病院で働く
マーフィーは精神病院で働くことになります。彼の勤務態度はふまじめなものではありませんでしたが、風変わりではありました。以下にマーフィーの勤務態度を見ていきましょう。
マーフィーは小世界のうちに生きる精神病患者に魅力を感じる
精神病院でのマーフィーは精神医の側ではなく、あくまでも患者のほうにシンパシーを感じていました。精神病患者が苦痛に悶え、怒りに震え、絶望に打ちひしがれていたとしても、マーフィーの考えからすれば大した問題ではありませんでした。精神病患者の精神が動揺するとすれば、むしろ精神医の治療のほうに原因があるものと考えていたのです。
マーフィーはこう考えます。「ぼくは大世界には属さない、ぼくは小世界に属す」。すなわち、精神医は大世界の代表であって、精神病患者たちを狂人であることのほうへと追放します。
ところがマーフィーにとって精神病患者たちは自らの小世界(精神)のうちに独特のよろこびを見出している存在なのです。つまりマーフィーは小世界の住人である彼らに魅力を感じているのです。
マーフィーは精神病患者のうちに自分の自分の理想の姿を見る
マーフィーは精神病患者たちを自分の同族だえ考えて、自分自身の小世界を構築する情熱を抱きます。その理由には以下の3点が挙げられています。
- 高度の精神病患者には精神医の無粋な治療にもまったくの無感動であること
- 精神病患者たちのいる部屋がマーフィーの考える「小世界」を体現していた
- マーフィーが患者と良好な関係を持てたのは彼が患者たちのようになれることの根拠を示していた
以上の三点からはマーフィーの精神病患者への憧れがあります。
すなわち、マーフィーにとって大世界に対して無感動な態度を取りさえする精神病患者は、小世界に属したいマーフィーの理想の姿なのです。
マーフィーは精神病院という聖域で働き精神的な安定を得る
マーフィーが働きはじめたのは恋人であるシーリアに頼まれたからでした。それ以前のマーフィーは部屋のなかで椅子に揺られ、自らの精神の内部に安定を感じていたのです。彼が働きたくなかったのはそうした安定のある精神の内部から追放されてしまうからでした。
シーリアはマーフィーにまともな男になってほしかったのです。しかしその努力は「マーフィーを前にもましてマーフィーたらしめた」のでした。すなわちマーフィーは働くことを通して、より大世界の理屈から離れて小世界の屁理屈のなかに閉じこもることになったのですから。
マーフィーは精神病患者の生きる小世界を「聖域」と呼びます。それは大世界にとっては病的な「妄想」なのですが、マーフィーにとってはいわば〝生きるよすが〟なのです。マーフィーにとって精神病院は聖域であって、そこで働くことは単に部屋のなかで椅子に揺られて自己の精神に閉じこもること以上に安定のできる暮らしだったのでした。
そしてマーフィーは精神の安定を得る
精神病院で働くなか、マーフィーはシーリアと共に暮らした部屋にお気に入りの揺り椅子を取りに行きます。このときにはもはやシーリアとの関係は終わっていました。なぜならマーフィーの安定は精神病院での労働のなかにあったからです。
マーフィーは死にます。その夜は「もっともいい夜」でした。なぜならマーフィーの自己が彼自身が満足のいくかたちで「疎外の様相」を見せはじめたからです。
職場の先輩であるティクルペニーがマーフィーのとっておきの屋根裏部屋に勝手に侵入しました。しかしマーフィーは安定した調子をかき乱されることがありませんでした。
自己が疎外の様相を見せるということは、小世界に属する精神が大世界に属する肉体に影響されることなく安定している状態を言います。そうしたマーフィーの姿は彼が憧れる精神病患者と極めて似ていたのです。
(しかしマーフィーはエンドン氏とのチェスの試合によって明らかになったように、精神病患者とは似て非なるものです。精神病患者には狂気〝だけが〟ありますが、マーフィーには狂気〝だけがあるのではない〟のですから。マーフィーがシーリアの部屋に自分のお気に入りの椅子を取りにいったことも象徴的です。それはマーフィーが自分にはエンドン氏のような精神病患者の狂気がないことを悟ったための行動だからです。精神病患者は何もなくても肉体さえあれば精神のなかで安定することができます。ですがチェスで敗北してしまったマーフィーには、精神の安定を得るためにはお気に入りの椅子が必要だった。
いわば、マーフィーのチェスの試合での敗北は、彼が精神病患者になれなかった〝挫折〟を暗示しているのです。)
まとめ:精神的な自由は精神病患者の狂気のなかにある?
文学者の堀田敏幸は、ベケットが労働を人間性を犠牲にしてしまう悪に属するものだと考えていたと指摘します。そしてベケット文学の根本思想を「労働の拒否」にあるとまでいうのです。しかしその観点で小説『マーフィー』を眺めると納得できます。なにせ登場人物であるマーフィーの思想もまた「浮浪への正当性」を主張するものだからです。
ここまで見てきたマーフィーは働くことを拒む「浮浪者」でした。何もしないでいることに最高の価値を持つと考えるマーフィーは、行動することに価値を置く現代人の考えとは相反します。
行動・実験・思考。〝成長のための自己啓発書〟や〝生産性を意識したビジネス理念〟ではお馴染みの考えかたです。そこでは労働は人間が人間であるうえでは必要なことだと考えられています。
しかしマーフィーという人間は肉体の領域である労働を拒否します。正気を嫌い、精神病患者のような狂気のほうにこそ精神的な自由がある可能性を描くのです。
あえて軽薄なおすすめの仕方をすれば、小説『マーフィー』は、成長力や生産性などに追われて疲れてしまったひとに精神のオアシスを提供してくれる一冊だと言えるでしょう。
_了
参考資料
サミュエル・ベケット『マーフィー』川口喬一訳,白水社,2001
廣松渉[ほか]編『岩波哲学・思想事典』,岩波書店,1998
ディアドリィ・ベァ『サミュエル・ベケット―ある伝記』五十嵐賢一訳,書肆半日閑,2009
内海智仁「マーフィーの「エンドゲーム」 : もう一度終わるために」『岐阜大学地域科学部研究報告 no.18』,岐阜大学地域科学部,p.43-57
堀田敏幸「ベケット、無目的の存在」『愛知学院大学 教養学部紀要 第60巻第4号』 ,愛知学院大学教養教育研究会,2013,p71-88
コメント
興味深く拝読致しました。
とても解りやすい解説で、複雑な内容もすんなり
頭に入りました。
本編からはそれますが、マーフィーは何故
結婚、それ以前に恋をしたのでしょうか?
恋とはマーフィーの安らぎとは正反対の
マーフィーという存在を動かさざるを得ない
耐え難いものと思いますが。
推察になるとは思いますが、どのようにお考えか
是非お聞きしたく、よろしくお願い致します。
コメントありがとうございます。
この記事の趣旨に則して言えば、マーフィーの結婚や恋は、マーフィーが自分だけの世界では満足できなかったから、と言えるでしょう。
それは当人の意思とは関係ありません。恋が自分の意志とは無関係に陥ってしまうものであるように。
自分だけの世界に閉じこもって満足を得られている(ように見える)精神病者は、恋などに現を抜かして他者を求めたりはしません。
マーフィーは精神病患者に憧れたのは作中での彼の言動から確かに読み取れます。
そのうえでマーフィーが恋をして、結婚をして、自分以外の誰かとの暮らしに安らぎを得ようとしていたことは、
物語のはじめからマーフィーの野望の挫折が約束されていたことを暗示していたのだと思います。
他者抜きに満足できる不動の存在を求めていたとしても、当の自己の存在の方で他者を求めてしまうようにできていたのです。
……これはおそらく言語の話かと思います。
言語は他者からの授かりものですから。
マーフィーが抗っていたのはこの言語という他者だったのかもしれません。
言葉は他者に伝わるようにできています。つまり自閉的ではないのです。
ところが精神病者は、作中でマーフィーがその目をじーっと覗き込んでみてもまったく反応を返しません。
その目の奥にはひとつの閉じた世界があり、自己の満足のために他者を必要としておらず、誰かに伝わるような言語を必要とさえもしていないのでした。
マーフィーの憧れはおそらくその点にありました。
マーフィーもだいぶ風変わりな人物ではありましたが、彼は精神病者ではなく、むしろ精神病患者を世話する側に立っていたのですから。
とりわけ、終盤のチェスの試合が象徴的です。
一方にはルールを必要としない精神病者がいて、彼に対してマーフィーはルールを持ち込んで試合をふっかけます。
試合をふっかけた時点でマーフィーは精神病者に負けています。なにせ勝負になっていないのですから。
言語という他者を駆使し、恋人という他者を求め、チェスというルールに頼ろうとするマーフィーは、もともと矛盾した存在だったのです。
マーフィーはもともと、働かないことを自身の本質だと考えていました。それは役に立たない、意味のない存在であろうとしていたからです。
ところが物語が進行していくにつれて結婚相手や生活の必要から働くことになります。この時点でマーフィーは破滅への道を進んでいたのです。
そして最後の一撃になったのがチェスでの、無意味にチェスの駒をいじる精神病者へと意味のあるゲームをしようと突っかかったことです。
マーフィーは死にます。まさに、動きたくない存在が動かざるをえなかったことの末路として。
考えてみれば、恋に落ちたことがそもそもの破滅の序曲でした。
ひとつの恋からはじまったストーリーです。
その点で、『マーフィー』という物語は恋の不条理をテーマにした小説にも位置づけることもできるでしょう。
働かない男への痛恨の一撃こそ、恋だった、というわけですね(笑)