【現実はレトリカル】もし僕がいま25歳なら、【他者への自己言及】

啓発書
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 こんにちは、ザムザです。今回はとある自己啓発本を取りあげます。

 

 ぼくの知り合いには自己啓発本を毛嫌う人が多く、ぼく自身も「あまり読まない方がいい本」というイメージを持っていたりします。

 ところが、不思議なもので、本を買うことが好きだと、いつの間にか自己啓発本が本棚に収まったりしているのです。

 さらにはいざ読んでみると思いの外おもしろかったりするのでバカになりません。

 

 今回取りあげる本━━松浦弥太郎の『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』も、いつの間にか部屋に積んであった自己啓発本の一冊です。

 とはいえ、この記事では必ずしも本の紹介にはなっていないことを告白します。むしろ本に書いていないことを読んでいるので、読者であるわたし自身の誤読紹介と言ってもいいかもしれません。

 

 以上の事情を踏まえまして、この記事は『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』の一部を切り出して、わたしが25歳の自分自身に贈りたいメッセージをしたためます。

 そして、本のタイトルに掛けて、この記事を次のように称してみたく思います。すなわち、「もし僕がいま25歳の自分に会ったら、こんな考えを吹き込んでやる。

この記事で取りあげている本
 
この記事に書いてあること
  • わたしたちの現実、すなわちリアリティにはレトリカルな関係性が潜んでいる。
  • 言語表現は自分の現実にとっては演出の手立てであり、修辞的なレトリックのひとつである。
  • 言葉や行為によってなされる他人への言及は、同時に、自分の現実への言及にもなっている。
 

【現実はレトリカル】もし僕がいま25歳なら、【他者への自己言及】

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 『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』への仮説

 人間は必然的に環境という名の偶然に左右されることになります。関わる人間や生活する風土、ひいては、意識に入ってくる情報の影響によって人の状態は変わるのです。だからこそ、経験値や経験則の重要性は人生を語る場面において取りあげられることになります。

 人間が直面する状況を「リアリティ(現実)」と呼ぶことにします。また、上に書いた三行の文を踏まえて、関わる人間、生活する風土、意識に入ってくる情報の影響━━経験値や経験則は、さまざまな経験によって織り成された「関係の束」と呼ぶことができます。

 関係の束に新たな「スレッド(糸)」が要素として加わることで、関係を束ねた「バンドル(束)」であるリアリティが変容します。この意味で、リアリティを構成する細部の関係の要素は、全体の関係の束に対して修辞的(レトリカル)な関係にあるのです。

 現実は修辞的である、すなわち、リアリティはレトリックによって構成されている。━━これが、本記事におけるわたしの仮説です。

『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』を読む

 リアリティはレトリックによって構成されている。この言葉は『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』の中にはありません。しかし、その考え方のひこばえは見つけることができます。

 以下では『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』の本文から三つの文章をピックアップします。そして、その文章の切り株に生えたひこばえを点検し、わたしたちの現実に潜むレトリカルな関係性を観察します。

「したいこと」を「されたくないこと」から導き出す

 はじめにピックアップするのは次の文です。

自分がしたくないことというのは、結局は自分が人にされたくないこと。それなら、他人にされていやだと思うことを自分がするのはやめよう。(p79–80)

 「自分がしたくないこと」と「自分が人にされたくないこと」とがある。そこから「他人にされていやだと思うこと」を「自分がすること」をやめよう、という見解が導かれる。いたってまっとうな考え方に思われます。

 ただ、「自分がしたいこと」がわからない人もいるでしょう。そうした人でも「自分が人にされたくないこと」は思い浮かべることはできるものです。それならば「他人にされていやだと思うこと」を参照しながら「自分がすること」を決めればいい。

 自分にとって大切なのは「したいこと」です。しかしそれがわからなければ「したくないこと」を「されたくないこと」から導き出せばいい。そして「すること」を発見する。━━このことは、人が「すること」によって、自分の現実のあり方が構成されるという、レトリカルな現実のあり方を表現するものになっています。

言語表現は現実の修辞的なレトリックである

 日常的に用いる言葉遣いからも、人の現実は変わってきます。だからこそ「汚い言葉を使うものではない」という躾にも説得力があるのです。『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』の中でもそれに準じた教えが書かれています。

「とりあえず」という言葉を使うよりも「まずは」。「とりあえず」だと先延ばし感がある。(p89)

 「とりあえず」だと何かがマズい。『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』では「とりあえず」には先延ばし感がある、とあります。先延ばし感はマズい。だからこそ「まずは」の方がいい、と。

 「とりあえず」よりも「まずは」であれば、目の前の事態に対して前向きの姿勢が演出できます。ここでは「とりあえず」や「まずは」などの言語表現は、自分の現実にとっては演出の手立て、すなわち修辞的なレトリックの身分になるのです。

 ようするに、リアリティはレトリックによって構成される、というテーマを観察することができるのです。

他者への自己言及:他人への言及は自分の現実への言及でもある

 人が生きるうえで成功体験の有無は大切です。成功体験を経験していなければ、自分に自信が持てず何かに挑戦する意欲さえ持てなくなりかねません。言い換えれば、成功体験の記憶は意志力や行動力の源泉になっているのです。

 『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』の中では、成功体験に関して次のような一節があります。

約束とは、果たすもの、守るもの、というより、人を喜ばせるものだと考えています。

そう考えると、約束とはなにかしなければならない、義務のようなものだという気持ちがなくなります。それに、僕はなによりも、約束できることがすばらしいことだと思います。だって、約束の積み重ねが信用になるのですから、小さな約束であっても、いや小さな約束ほど守ることが大切なのです。つまり、約束を守ることは、いちばん小さな成功体験です。(p91)

 『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』の中では、いちばん小さな成功体験は「約束」だと書かれています。約束とは、「人を喜ばせるもの」であり、他人との関わり合いに属するものです。

 約束こそが最小単位の成功体験である。━━ここでの約束は自分本位のものではありません。むしろ他人本位の、他者への贈り物、「他者への贈与」です。約束を果たすことを通して、他人を喜ばせる。そうすることによって、自分の現実に現れる他人を「贈与する相手」へと変質させるのです。

 以上の姿勢はなにも他人本位であるだけではありません。それによって自分の現実の現れ方も変えることができます。他人は自分の現実の構成要素、もしくは自分という前景に対する背景でもあるからです。背景なくして前景はありません。そして背景が変われば前景の印象も変わるのです。

 他人を「贈与する相手」に変えることで、自分の現実も変わる。これは他人との関係もまた自分の現実を構成するひとつのレトリックであることを表します。レトリカルなイメージを用いれば、言葉や行為による他人への言及は同時に自分の現実への言及にもなっている。つまり、約束は他人に喜びを贈ることでもあり、自分自身に成功をもたらすことでもあるという、「他者への自己言及」になるのです。

まとめ

 ここまで「リアリティはレトリックによって構成されている」という仮説を念頭に、『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』を読みました。この記事はいわば、25歳の自分に会った場合に伝えたいこととしてまとめた、一つのメッセージであり一つのレトリックです。つまりは、「もし僕がいま25歳の自分に会ったら、こんな考えを吹き込んでやる。」とでも言うべき記事なのでした。

_了
参照資料

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