フアン・ルルフォ=ラテンアメリカ文学農村部担当:『燃える平原』

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 こんにちは、ザムザです。あいかわらず本を読まない日のない生活をしています。

 突然ですがみなさんは小説を読むときに文を読みますね。文を読みながら物語を読み取っていく。言いかたを変えれば、読者は文に物語を語られています。
 ここで、物語には「語り手」がいるということに気づきます。

 小説はつねに〝誰かの語り〟なのです。
 ふつう、その誰かさんが誠実に物語を語ってくれていることを疑ったりはしないものですが、なかにはうさんくさく、いかがわしい語り手もいます。
 不誠実な語り手の語りを聴く読者はこのように思うかもしれません。
 「おめえ誰だよ!?
 しかし、そんなツッコミは知ったこっちゃなく、うさんくさく、いかがわしい語り手は語りはじめます。
 「まあいいから聞けや
 ――というふうに。

 今回ご紹介するのはそんなうさんくさく、いかがわしい語り手たちが登場するフアン・ルルフォの『燃える平原』という小説です。

この記事で取りあげている本

フアン・ルルフォ『燃える平原』杉山晃訳,岩波書店,2018

この記事に書いてあること

  • フアン・ルルフォは農村文学の頂に登りつめた作家である。
  • ルルフォの『燃える平原』ではうさんくさく、いかがわしい語り手たちが魅力的である。
  • よく磨かれた文体はよく研がれた主観であり、よく研がれた主観は客観にも匹敵する。

フアン・ルルフォ=ラテンアメリカ文学農村部担当:『燃える平原』

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革命の暴力的な死の光景を記憶するフアン・ルルフォは農村を舞台に小説を書いた

 1951年のことでした。有望な作家志望者への奨学金給付を目的とした「メキシコ作家センター」が設立されます。当時は自由に燃えた「メキシコ革命」のあとで政治的な安定を迎え、都市部の繁栄のなかで小説の読者層となる都市中間層が膨らんでいました。政府が主導する文化振興策は文学界の発展にも及んだのです。

 メキシコ作家センターは金銭的支援ばかりではなく、作家同士の交流の場としても機能し、メキシコ文学界を牽引する作家を多く輩出しました。その文学機関の最初の成果として挙げられる作家がフアン・ルルフォ(1917-86)です。

 ルルフォはメキシコ革命の戦乱を記憶しています。10歳でした。「農地に火を放たれ、父親や祖父、父親の兄弟、みんな殺された」と彼は述懐します。幼いルルフォは母親も亡くし、祖母に引き取られますが、やがて孤児院にあずけられることになります。身近に暴力的な死の光景を目撃してきた彼の悲惨は、(その他多くの現代メキシコ文学がそうであるように)ルルフォ文学の原風景になっています。

 1953年。ルルフォは短編集『燃える平原』で成功を収めます。収録作品の主な舞台は農村部。革命の動乱が尾を引く不安定な社会の下層民が主要な登場人物となっています。

 岩波文庫の表紙のに書かれたコピーには次のようにあります。

焼けつくような陽射しが照りつけるメキシコの荒涼とした大地を舞台に、革命前後の騒乱で殺伐とした世界に生きる農民たちの寡黙な力強さや愛憎、暴力や欲望を、修辞を排した喚起力に富む文体で描く。

 何事もギリギリまで切り詰めたものというのは凄みがあります。チキンレースしかり、断食しかり。文章も同様です。文の体と書いて「文体」と言いますが、余分なものを削ぎ落とした表現には、無駄のない肉体のごとき凄みがあります。ルルフォが描く文学風景はそのように読者に肉迫するのです。

 ルルフォの『燃える平原』含め、ホセ・レブエルタスの『人間の喪』(1943)など、メキシコのみならずラテンアメリカには「大地の小説」という文学の流れがありました。大地の小説とは農村部を舞台にした小説のことです。ラテンアメリカ文学者である寺尾隆吉は、ルルフォの長編小説『ペドロ・パラモ』がメキシコにおける大地の小説の流れにピリオドを打つことになったのだと言います。いわば、ルルフォは農村文学の頂に登りつめた作家なのです。彼以降、メキシコ文学は農村部から都市部へと舞台を移さなければならないほどでした。ルルフォの小説はそれほどまでに農村部の可能性を汲みつくしてしまったのです。

 ーーと、ややオカタイ感じで(?)書いてみましたが、収録されている作品はバラエティ豊かなのです。たしかに暴力や死を描いたものはシリアスであり、それゆえに読者の心に迫るという性格を持ってはいます。しかしその一方では腹を抱えて笑えるような話もあるのです。

『燃える平原』

 ここでは『燃える平原』に収録されているうちから、《コマドレス坂》と《アナクレト・モローネス》の2作品をご紹介します。

うさんくさい語り手:《コマドレス坂》紹介

 1作目は《コマドレス坂》です。

 物語はサポトランという町に住むトリコ兄弟と〝おれ〟とのあいだにあったことを語るものです。語り手は〝おれ〟で、トリコ兄弟のならず者っぷりがうかがえるエピソードを語っていきます。〝おれ〟はトリコ兄弟の親友のようなのですが、小説の冒頭で「おれとは死ぬ間ぎわまで仲がよかったんだ」と宣言されていますので、ナニカがあったことはたしかです。

 中盤、唐突に〝おれ〟は告白します。

 レミヒオ・トリコを殺したのはこのおれだ。

 レミヒオ・トリコは、トリコ兄弟の弟です。兄貴のほうはどうやら殺されてしまったらしいのですが、レミヒオは〝おれ〟が殺したに違いないと問い詰めます。そして、

 レミヒオがおれの前から退いたとき、麻袋に刺しておいた皮針は、月のこうこうとした光を受けてきらりときらめいた。どうしてだかわからねえが、その長い針は、不意におれの心をとらえた。だもんでレミヒオ・トリコがそばを通るとき、おれは針をさっと抜きとって、まようことなくやっこさんのヘソのすぐわきのところにぐっと刺しこんでやった。はいるところまでぎゅっと刺しこんで、そのまま手をはなした。

 ――こうなるのです。

 《コマドレス坂》はつまり、語り手である〝おれ〟がレミヒオ・トリコを殺したときのことを語る物語です。その点だけに注目するとずいぶん野蛮な話なのですが、読後感はけっしてそのようなものではありません。むしろ哀愁がかもされています。

 次の文章は《コマドレス坂》のラストになります。

 あれはたしか十月ごろだったと思う。サポトランでは祭りがはじまってた。花火がさかんにうちあげられてたから、それをおぼえてる。花火がとどろくたんびに、おれがレミヒオ・トリコの死体を投げ捨てたあたりから、ハゲ鷹の群れが舞いあがった。
 いまでもそれをおぼえてるよ。

 ね? 哀愁が漂っているでしょう?

 ところが、かもされている哀愁が《コマドレス坂》の読みどころのひとつであるにしても、読者は最後の一文にあらためてハッとさせられます。「いまでもそれをおぼえてるよ。」――《コマドレス坂》という小説は、〝おれ〟が誰かに語っていた物語だったのです。

 ここで浮かびあがるのは「〝おれ〟って何者だよ!」という疑問です。

 《コマドレス坂》の語り手である〝おれ〟の正体はよくわかりません。サポトランの町の誰からも嫌われていたトリコ兄弟と仲がよかったというくらいですから、彼もまたならず者だったのかもしれない。トリコ兄弟が盗みを働くのを手伝ったりもしています。もっと言えば、そもそもひとを殺っちゃっています。殺人のシーンでためらうことなく自分と仲のいいはずのレミヒオを殺しているくだりを読むと、とてもまともそうな人間には思えません。そんなアブナイ語り手の言うことを真に受けていいのかどうか、いまいち信用できないのです。

 シリアスな(ハードボイルドと言ってもいいでしょう)《コマドレス坂》の魅力をあげると次の2点があります。

  • 一方では〝おれ〟はトリコ兄弟と仲がいい、他方ではトリコ兄弟(の弟)を殺したのも〝おれ〟である。語り手である〝おれ〟の仲のよさと殺人との落差がどのように語られるのか。
  • 一方では〝おれ〟はトリコ兄弟の悪行を読者にばらし、他方では自らの悪行をばらす。語り手としての〝おれ〟のうさんくささがどのように騙られるのか。

いかがわしい語り手:《アナクレト・モローネス》紹介

 もう1作は《アナクレト・モローネス》です。

 こちらは同じルルフォ作品でも笑かしてもらえます。なにせ最初の巻頭からして、

あの婆ども!

 ――なくらいですから(笑)。

 物語はルカス・ルカテロといういかがわしい男のもとに、黒い服をまとってお祈りを唱える信心会の〝婆ども〟が、アムーラの地からやってくるところからはじまります。婆どもの目的はアムーラの教会で聖人として祀られていたアナクレト・モローネスの件でした。モローネスは行方不明になっていたのです。婆どもはいなくなってしまったアナクレトのことを慕っていて、教会に聖者として列せられるように働きかけているのでした。その手続きのためにアナクレトの昔馴染みであるルカスの証言が必要だと婆どもは言われ、ルカスのもとにやってきたのです。

 婆どもがそういうわけでやってきたのだとルカスに話すと、当のルカスは次のように思います。

くそっ婆あ! なんてことをぬかしやがるんだ。

 ルカスというこの男、かなり口が悪いのです。

 話は進みます。ルカスはアナクレトの娘を女房に持ったらしいのですが、どうやら追い出した様子。アナクレトを信奉する婆どもが「なんてことをしたんだよ」とルカスを責めますが、当のルカスは次のように言い返すのです。

「この家から叩きだしたんだ。修道院には行ってねえと思うよ。どんちゃん騒ぎやら男遊びの好きな女だったからね。いまごろ、そこいらで男たちのズボンを景気よく引きずりおろしてるだろうよ」

 自分の女房のことをめちゃめちゃに言ってます(笑)

 婆どもはそのたびに「いったい何を言いだすのさ、ルカス」「まあ、なんてことを言うんだい、ルカス」「あんたって、ほんとうにとんでもない罰当たりだよ」「あんたって心底心の汚れた人間だね」――などと言います。

 もはやコントです。

 話はアナクレトの娘からアナクレト当人のことへと移ります。

 どうやらアナクレトは聖人として奇跡を披露するかたわら、乙女に自分の眠りを見守ってもらいたいなどと言って、周辺の生娘を自分の寝所に連れ込んでいたらしいのです。婆どもは「べつにいやらしいこもなかったわ」とアナクレトを擁護しますが、ルカスのほうではこう言ってのけます。

「それはあんたが婆さんだったからだよ。やつは若いぴちぴちした娘が好きだったんだ。骨がきしんで、まるでピーナツの殻みてえにかわいた音をたててはじけるような若い子が好きだったのさ」

 婆どもは言います。「あんたってほんとうに神を冒瀆する汚らわしい男だよ、ルカス・ルカテロ。あんたって最低だよ

 おもしろいのでついつい引用してしまいますが、ただ言い回しがおもしろいだけではありません。小説としてすばらしいのです。

 キレッキレの悪態のあいまにはいくつもの伏線があります。《アナクレト・モローネス》は最初のほうこそ婆どものほうが誠実であるように見えますが、じつは、むしろルカスだけが真実を語っているのではないかというふうに読者を揺さぶるのです。とはいえ語り手であるルカスのほうも信用できません。婆どものことを散々罵っておきながらも、結局は婆どものうちのひとりと夜をともにしたりする。言動が一致していないのです。語り手としての誠実さに欠けています。

 以上を踏まえて、《アナクレト・モローネス》の魅力を2点挙げれば次のようになります。

  • とにかく下品なキレッキレの悪態がおもしろい。
  • とにかく語り手の言動の不一致がいかがわしい。

まとめ

 フアン・ルルフォの書く小説の語り手はうさんくさく、いかがわしい。そうした語り手の声はしかし、ごてごてとした形容詞に彩られているというのでもありません。同じくラテンアメリカ文学の作家であるバルガス・ジョサは、「主観的世界の客観化」こそラテンアメリカ文学の目指すありかただと語りました。ルルフォの『燃える平原』を読むと、可能な限り修辞を削ぎ落した文体であるという印象を受けます。登場人物も、物思うことよりも行動を起こすことのほうに重点が置かれていて、ハードボイルドであると感じさせます。そのような小説は〝研がれたもの〟であるという印象を持つことができます。ジョサが言った言葉をつかえば、よく研がれた主観は客観に匹敵する。それは「わかりやすい」ということではありません。もしかしたら「読みやすい」のでもないかもしれない。しかし切れ味は保証されているのです。ルルフォの研いだ文体を味わえば、うさんくさく、いかがわしい語り手が読者を連れ出してくれます。どこへ? ――客観的な主観のなかへ。

_了

参考資料

フアン・ルルフォ『燃える平原』杉山晃訳,岩波書店,2018

寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』中央公論新社,2016

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