想いの小説:風が吹く十字路に季節は移ろう|松永澄夫文芸三作品

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 どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。

 今回ご紹介するのは哲学者・松永澄夫が作家として発表した3冊の文芸作品(小説)です。

 松永は「想いを哲学する」ことを唱えており、そのアイデアは彼の小説にも読むことができます。日常の素朴な感覚を大事にする哲学者によって書かれた小説。そこには彼の哲学の実践を見てとることができるのです。

 もちろん、すべての小説がそうであるように、作者の事情を離れて小説を読むこともできます。当記事では哲学者としての松永澄夫のアイデアを押さえながら、ときおりの逸脱を挟みつつ、『風の想い──奈津──』『二つの季節』『幸運の蹄鉄』の三つの文芸作品をご紹介します。

 

この記事で取りあげている本
この記事に書いてあること
  • 哲学者・松永澄夫は作家として文芸作品を発表した。その三作品は『風の想い──奈津──』『二つの季節』『幸運の蹄鉄』であり、いずれの作品も想いを哲学した松永澄夫の「風のようなものとしての想い」を形象化したものとして楽しめる。
  • 『風の想い──奈津──』『二つの季節』の二作品は「私とは何か?」に思い悩む人物が登場する。これは「私が想いであること・想いが風のようなものであること」を知らないでいるための葛藤である。二作品では私が風の通り道(十字路)であることの自覚が大切だと説く。
  • 『幸運の蹄鉄』のあとがきで松永は自作を「面白い物語のイメージからはほど遠い」と評している。しかしそれはどの意味ででも面白くないことなのではない。松永の作品は人物同士の出来事を楽しむのではなく、想いの揺れ動きそのものを楽しむものなのだ。

 

想いの小説:風が吹く十字路に季節は移ろう|松永澄夫文芸三作品

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作家・松永澄夫

 松永澄夫は哲学者です。が、そうであるばかりではなく、文芸書も刊行しています。2013年の『風の想い──奈津──』を皮切りに、『二つの季節』(2018)、『幸運の蹄鉄』(2019)といった三つの小説、さらには『めんどりクウちゃんの大そうどう』という(自身で挿絵も担当した)児童書を発表している作家としての顔もあるのです。

 松永の文芸への関心の度合いは、20歳の学生であった折に作品集『立野』(1968)を出していることからも、そうした創作作品をじっさいに書かずにはおれなかったという熱量の程がうかがえます。

 松永澄夫のプロフィールを簡単にさらっておきましょう。1947年に生まれた、熊本県の農村部の出身。東京大学名誉教授。子どもの頃から理科系の学問に関心があり、大学も理科系に進むものの、社会の成立に関心があった松永は大学闘争による混乱のなか、紆余曲折あって哲学の道に進むことになります。

 このあたりの経緯および松永澄夫の哲学者としての姿勢に関しては以下の記事で触れています。

 上の記事では、哲学者・松永澄夫が(理屈っぽくお堅い言い回しではなく)生活のなかに瑞々しく溢れている言葉でもって哲学する姿勢を紹介しています。そしてその哲学的関心の中央に陣取っていると言っても過言ではない概念が「想い」であるということの紹介にも力を入れています。

 想いとは、わたしたちが素朴に「~を思う」と言うときのの思うでありながら、それと平行・随伴するかたちで以て私と私の現実とを一挙に立ち上げるものです。この想いを問うことこそが「哲学が考えるべきこと」であり、来し方行く末をまなざす「自分の存在」の肯定を賭けた希望になる。──というのが、上掲記事の趣旨です。

 この記事では、松永澄夫の3つの文芸書──『風の想い──奈津──』、『二つの季節』、『幸運の蹄鉄』──を紹介しつつ、哲学者として松永がこだわった想いのコンセプトが、作家としての活動のなかでどのような展開を見せているのかを確認します。

 

松永澄夫文芸三部作

 ここでは松永澄夫の3つの文芸作品をご紹介します。

 作品発表の時系列が『風の想い──奈津──』、『二つの季節』、『幸運の蹄鉄』となっているのですが、私見では発表した順とは逆に辿っていくことがいいと考えます。

 その理由は『風の想い──奈津──』はこういって良ければ抽象的で難解に思われる節があり、『二つの季節』でそれが和らぐもののまだ難しく、『幸運の蹄鉄』においてようやく馴染みのあるストーリーの形式に出会えるからです。

 さらに『幸運の蹄鉄』には他の2冊にはないあとがきがあって、著者である松永澄夫が自身の文芸作品の仕事に関するコメントがあります。そこにはそれまでの『風の想い──奈津──』や『二つの季節』に対する自己評価が述べられているのです。

 わたしは以上の3作品を仮に「松永澄夫文芸三部作」と呼ぶことにします。なぜならそれらの3作品は、松永哲学のテーマである「想いを哲学することは自分の存在の肯定を賭けた希望である」ことを踏まえた、「生」を言祝ぐという共通のテーマを持っているのですから。

 そして以上の3冊の跡を遡った後で、松永文芸三部作において描かれていたところを総括することにします。

 それでは以下、『幸運の蹄鉄』から『風の想い──奈津──』へと遡るかたちで作家・松永澄夫の想いを追っていきます。

 

『幸運の蹄鉄』

 『幸運の蹄鉄』は掌編作品集です。松永自身が新しく書き下ろした作だけではなく、高校2年で亡くなった次兄の詩、それから著者が20歳の頃に書いた小説が、計7本収録されています。以下では新しく書いた3作品を軽く紹介します。

本編紹介

 表題作になっている「幸運の蹄鉄」はさまざまな年齢・人物・場面からなる小説です。短い文が連になっていて詩のようになっているシーンもあれば、小説的な体裁で描かれているシーンもあります。付記的に回想が挿入されていて、全体的にモノクロームの情景を眺めているような印象を受けます。

 その次に児童文学を思わせる「中学時代」があり、こちらは中学生の口調でまとめられた小説です。登場する人物たちは現代の中学生という感じはしませんが、思春期の少年がひとりのクラスメイトにその家庭の事情をなりゆきで垣間見ることから、他人というものの奥行を知ることになる話になっています。

 それから「凧揚げ」。これはまだ二十歳になる前の大学生の物語です。ある男がある女性を凧揚げに誘うところから、互いにそれぞれ想いがはじまります。興味深いことは〝凧揚げ〟が触媒となることで風と想いのモチーフが自然と登場していることです。「で、思う」や「それから想う」などの文が見つかり、文芸三部作の第一作目である『風の想い──奈津──』のタイトルを思い出させます。

 

あとがき

 そして「あとがき」です。

 「あとがき」では哲学者・松永澄夫が哲学書の執筆に力を入れていることを述べていて、『幸運の蹄鉄』に収録された物語はその合間に書かれたのだと語られています。目を引くのは松永の自作に対する自己評価です。書き上がった小説を眺めた松永は、次のような感慨を抱きます。

で、眺めていて、どの作品も、面白い物語のイメージからはほど遠い。事件が起きて、人物が動き出す。すると、この先はどうなるんだろう、と気になる。行動を通して登場人物たちがどのような人間かが分かる。このようなのが読んでわくわくする物語なのに、という自己評価です。」(p199)

 松永の自己評価はある意味で、“自分の書いた物語はおもしろくない”と言っているようにも読めます。ここでの「おもしろい」は“心が躍る”と言っていいでしょう。たしかに、松永が書いた物語にはそのような意味でのおもしろさはありません。しかし、別にそのような意味のおもしろい物語──心踊らせてくれる物語だけが良いわけではないことも確かです。

 では、何がおもしろいのでしょうか?──この疑問については、『二つの季節』と『風の想い──奈津──』を含めた松永澄夫文芸三部作全体のおもしろさにも関わってきますので、『二つの季節』と『風の想い──奈津──』とを発表した順に遡っていきながら見ていくことにします。

 

副題について

 

 この節の最後に、「あとがき」で触れられている『幸運の蹄鉄』の副題「時代」に込められている狙いについて確認します。なぜ時代なのか? それに関してを、松永は以下のように語っています。

人は人生という、短くも、生活の有り方が少しずつ異なってくる年齢を積み重ねて生きてゆき、その年齢ごとに物事について異なる感じ方をします。その異なる感じ方の集積という面から一つの人生をみるときに、人生を象徴する言葉として「時代」という言葉が浮かんできたのです。(p201)

 松永が選んだ「時代」という言葉は、人間が成長する過程で各段階、各時代を持つ人生を念頭に置いた表現なのです。各時代の総合であるところの、人生それ自体。

 

『二つの季節』

 『二つの季節』は《ぼくと君の物語》です。画家であるぼくが、都会の公園で見つけた女性に恋をする。お互いに惹かれ合いますが、決定的には踏み込まないでいる。そんな関係を描いた、秋から冬をまたいで春へと移ろう物語です。画家は彼女を「アマーリア」と呼ぶ。しかし、それは相手に伝えているかはわからない。というのも、この小説は、いわゆる内面──秘めた想い──を描写することに主眼を置いた作品なのです。

 それでは以下、『二つの季節』をおもしろがるポイントを検討していきます。

揺れる想い

 

 小説はまず、私の揺れる想いを描くところから出発します。

私は誰? 私は何? 意味のない問いが、付きまとう。木立の中で、わけもなく立ち昇る問い。自分がなぜ此処にいるのか分からないような、落ち着かない気持ちが、私を揺らす。」(p3)

 後に続く「何だか嫌」という書き方からもわかるように、これは女性で、そして後にぼくと出会うことになるアマーリアなのです。

 気になるのは、このアマーリアは生きることに対する「漠然とした不安」(p24)を感じているらしく、序盤ではほとんど悩みっぱなしである点です。これはぼく、すなわち画家のほうでも同様で、全体で109ページの尺のうちの31ページ地点でようやく語りはじめる「ぼく=画家」でさえ、自問によって展開されるクエスチョンマークを用いないではいられないのですから。

ぼくはもどかしく思う、人は一つの幸福しか手に入れられぬのか? 二つの幸福は干渉し合うものだろうか?」(p34)

 さて、上に引用した想いにはキーワードが含まれています。ひとつは「幸福」で、もうひとつは「二つ」。

 『二つの季節』という小説をおもしろがる道具仕立てをするためにも、あるテーマに沿って幾つかの小節を以下に引用します。まずは「幸福」のキーワードを念頭にして取りあげます。

とは言え、思うんだよ、ぼくは。あるいは思わなければならないと考えるのだよ、たとい君が池の面を見ながら、幾分哀しみに彩られた想いの中を歩んでいようと、君は君の幸福を生きているとね。その想いの中で、君は君の世界を確実に生きているのだもの。」(p38)

心の世界は一人ひとり閉じないわけにはゆかない。心の組織が綻びを見せないとき、人は己の感情の内で、自分の存在を獲得する。その感情に、淋しさや、悲哀や、無力感や、そうして不安の調べが溶け込んでいることが屡々あっても、こうして、ぼくがいる。自分が生きていることのそのつどの成就がある。そうして、そのことの内に幸福があるのでなければ、どうして生きていけようか?」(p38-39)

 上の文章で語られている「幸福」は、想いという形で一瞬一瞬に世界を成就しているそのことがすでに幸福なのではないか、という形で押さえられています。そこには淋しさや悲哀や無力感、ポジティブなものとは呼べない諸々の不安感情も含まれている。とはいえそれもまた都度つどの想いの成就であるからこそ、一個の成就であるからこそに否定的なものではないというわけです。

 

二つの生命

 次に、「二つ」というキーワードを深めるための箇所を探せば、以下の文章が参考になるでしょう。

二つの生命が、ひとときだけでなく、どうやって、ずっと、しっくりし続けるのか、分からない。諦めのような予感がある。」(p40)

 上に引用したくだりは「私は誰? 私は何?」といった気持ちに揺れるアマーリアではなく、ぼくの側の予感です。こう言ってよければ二人とも余計なことを考えすぎる観念的な人物だと言えましょう。ともあれ、彼ら当人にとっては深刻なのです。ここで予感されていることは自己と他者とが別人であり、別物であり、そして別の現実を生きているという事実ゆえに、二つの生命が重なりあい続けていることに確信が持てないことです。

 他人は自分ではない。こうした認識は当たり前のことのようですが、だからと言って容易く見過ごすことができるわけでもありません。とりわけ想いを寄せる相手との関係を考えてしまう場合には、事は重大になります。なにせ相手としっくりいく関係を構築したい想いこそが恋心でしょうから。上に引用したぼくの感慨にしても別の箇所ではこうもアマーリアにゾッコンです。「君の何でもない挨拶言葉が、一週間中、ぼくの心の中を行き来し、ぼくの想いのすべてを満たす。」(p102)。──こうした恋愛関係の只中にあるからこそ、相手としっくりし続けられる根拠が見当たらない場合には深刻な不安に陥ることになる、というわけです。

 かくして二人はそれぞれの季節を生きていることが露わになります。別の現実と言ってもいいでしょう。それぞれがそれぞれの想いに揺れる、そんな現実を生きている。そしてその現実の情感の移ろいこそが、季節。

 

十字路としての私

 互いの属する季節が異なっているとはいえ、ぼくとアマーリアのそれぞれの季節にはなんら共通項がないわけではありません。たとえば下の文章には「ぼくらの結びつき」について述べられています。

ねえ、アマーリア、これが生きているということではないのか? 昨日が今日へと、明日へと意味を持ってつながっていくことが。その意味がどんなものかは決められてはいない。けれど、意味を尋ねる者が、意味を探し当てるのではないか? そして見当てられ、育てられた意味が、ぼくらを結び合わせるのではないのか?」(p103)

 ここで述べられている「意味を尋ねる者」の行為は、別の箇所にある(意志的に)「君に向かう情」(p89)と共鳴します。君への意志的な行為を通して育つものこそが意味であり、そして、その意味こそが二つの季節を渡す架け橋としての想いになる。この想いはまた「私は誰? 私は何?」という不安を感じていたアマーリアをして「在ることの調べ」という表現でもって納得されてもいます。すなわち、季節が移ろうように想いもまた移ろう、そのことが在るということの実際なのだ、と。こうした実感はアマーリアが冒頭で感じていた「わけもなく立ち昇る問い」や「落ち着かない気持ち」の理由も私の不確かさの根拠として見定めることができます。そしてそのような不確かなものとして私を認識する視点を救う認識も、『二つの季節』のなかに見つけることができるのです。

ぼくは鏡でありたいと願った。光が色となり、風の呼吸が線となって、ぼくは恰度、木立と空を映す公園の池のごとく、ありとあらゆるものが出会う場所、十字路でありたく思った。」(p50-51)

 ありとあらゆるものが出会う十字路のような場所。それが私です。そしてその十字路を通るものこそ想いであり、その想いによって情感が与えられ、それがそのまま季節感となる。ここでの「季節」は気象条件によって区分される時節のことであり、「存在の季節」とでも言うべき生きて在るものが佇むことになる内面生活における心象風景のこととも読むことができます。

 

『二つの季節』をおもしろがる

 ここまで確認してきたことを踏まえますと、『二つの季節』の小説は、次のようなものと理解できます。二人の男女が出会ったことによって起こった問いと惑い、その深まり、そしてそれらからの解放によってもたらされる軽やかな気分。そうした関係の質の変化が秋から冬、そして春へと移ろうことと重ねられ「季節」という言葉によって表現されているのです。

 ここで重要なのは二人が直面する季節は一つのものではなく、あくまでもそれぞれが別個に佇むことになっている季節であるために、本編においてぼくとアマーリアの記述が分けられているように、季節は二つあらねばならないということです。ですので、タイトルもそのことを踏まえた「二つの季節」になっているものだと理解できます。

 私、想い、季節、風、十字路などの言葉たちは、私の不安や恋することの不安を解消する役目を帯びることなるのです。それぞれの季節を生きる二人が二つであることの距離を保ったままに互いを言祝ぐ。たとえ不安に駆られることがあろうとも、その不安を成就させている風のような想いの働きの只中(その場所に醸される季節感!)に佇んでいられることが幸福である。その確信ないしは想いを育ててくれる点が、おもしろいのです。

 

『風の想い──奈津──』

 『風の想い──奈津──』は、わたしが勝手に「文芸三部作」と読んだ松永澄夫の小説作品のなかでもっとも難解です。ジャンルとしては恋愛小説の部類。帯には「四季の移ろいのなか、二人は弾み、揺れ、やがて訪れる別離の予感に震える。哲学者が書いた、せつない物語。」と書かれています。しかし、この小説は「どこで誰がどのように何をして」といった物語の筋を発見することが容易ではありません。観念的と言ってもいいでしょう。おそらくその理由は描かれていることの近さにあります。以下、その近さを通して『風の想い──奈津──』の小説を紐解いていきます。

想いに焦点を当てる

 登場人物はぼくと貴女=奈津の二人。小説は何のとも何処のとも知れない展覧会で、貴女に想いを寄せるぼくのモノローグと叙情詩からはじまります。それから季節が移ろうなかで互いの内面が詩的な文体でもって描かれ、それが交互に続いていくのです。ここには二つの内面ないしは心の情緒的な近さはありますが、その近さが具体的となる二人の実際のやりとりが浮かばないのです。

 冒頭の展覧会のくだりの直後、奈津のターンになるのですが、そこで奈津はいきなり次のような内面を告白します。

種々の想いで私は疲れた。私は問うたわ、いつか私の心が燃え立ち、世界がきららかに透明になる、そんな時をもてるかと。」(p9)

私は誰? 私は誰? 私を不安にさせる問いが、つきまとう。銀杏の葉が無闇に舞い落ち、風に吹かれて転がるように、私の中で、心騒がす問いが湧き上がり、繰り返す。」(p9-10)

 以上の独白は後の『二つの季節』のヒロイン・アマーリアにも共通しています。アマーリアもまた「私は誰? 私は何?」と小説冒頭のモノローグにおいて語っていたのですから。

 アマーリアにせよ奈津にせよ、哲学の問いの代表例とも言うべき「私とは何か?」を真剣に受け止めている女性の姿があります。対するぼくにおいても事情は似通っており、『風の想い──奈津──』に目を向けてみますと感傷的な独白が目に数多く目につくのです。あたかも同一の内面を共有しているように、もしくは同じような視点から世界を眼差しているかのように

 奈津の自問との類似を認めるためにも、ぼくのモノローグを下に引用してみます。

「ぼくはね、自分が吹きさらしの中に立っていると感じる。心は金縛りになったみたいで、問いの無内容な嵐が、ぼくの心を空白にする。貴女に寄せる強い思いが、かえってぼくの心を真っ白にする。ぼくは己が心の動きを透明にしようとし、肯い得るかと問う。けれども、問うても、感情は自分の道を進む。」(p22)

 上の文章は「ぼくはね」という呼びかけの態でもって始められてはいますが、この文章が奈津に読まれ、あるいは聞かれていることかは定かではありません。

 以降、ぼくと奈津は付き合いを重ね、同じところに居合わせる時間量を嵩ませていくことが読み取れます。そしてぼくは「ぼくら」などと言い、モノローグのなかで奈津のことを人称によって包摂しさえします。「ただ在るだけ、ひたすら在り続けることだけでいることが許されないぼくら。」(p23)や「哀しみも淋しさも、生きることの強さとなって、ぼくらを養う。」(p72)など。──ここでぼくと奈津、二つに分けられているはずの内面をまとめあげているのが「想い」です。

 わたしは先に『風の想い──奈津──』が難解である理由として、描かれていることの近さを挙げました。近さとは二つの心の情緒的な距離感のことです。しかしそれは、だからダメなのだということではありません。それはひとつの形式として理解されるべきです。また、小説を書くことは焦点化することと不可分です。『風の想い──奈津──』においても近さの形式を通して描かれた「焦点=主人公」がいます。そしてこの小説の場合、その主人公は「想い」なのです。

 

芸術論として

 また、わたしは「あたかも同一の内面を共有しているように、もしくは同じような視点から世界を眼差しているかのように。」とも述べました。この印象を展開しますと、『風の想い──奈津──』は奈津という女性は実在せず、もしくは実在していたとしてもそれはぼくの想像上の奈津が生まれる発端にしか過ぎず、本当のところはぼくの夢想に近い小説なのではないだろうか、と読めるのです。

 このように読めたのは、『風の想い──奈津──』が想いに焦点化しているからでしょう。想いへの解像度を上げると二者は一体になり、自他という二つの次元は合一してしまう。そのために、「ぼくが生きる縁として偶像化された奈津への想い」が描かれた小説だと読めなくもなかったのです。そしてこのような読み方ではこの小説は芸術について書かれた小説だと読むこともできます。たとえば、以下のくだりなどは芸術論への読みを補強する性質があります。

「風のそよぎ、光る木の葉、電線、鳥の囀り、糸を張る蜘蛛、何を見ても聞いても、貴女への想いに転化する。

 ぼくの存在とは何か。今日のこの日、この今の時間を埋めゆく想い、それがぼくの今の生の実質であるのなら、ぼくは貴女によって空洞をえぐられ、かつ、満たされていて。

 だが、ぼくの生はまた、何事かをなすことにもあるのなら、ぼくがあれこれ仕上げ残していく幾多のことの中で、貴女の想いをつくるものがあるか、どれだけあるか、せつに問いたい。奈津、答えておくれ。(p83)

 すべての芸術作品がそうであると断定することはできませんが、多くの場合、作品を生み出す創作行為には女神の気配があります。女神は「芸術作品に関する芸術作品」などに登場する創造を司る神聖な存在のことです。ポピュラーなところではギリシャ神話に登場する芸術・学問を司る女神「ミューズ」が挙げられます。実際にミューズを題材にした作品もあります。ミューズ神から離れるにしても、ポップスで歌われる「愛する誰かへのラブソング」などは、その誰かを創作者自身が創造の源泉となる女神として迎えている、と見立てることができます。このような構図を取ると、ほとんどの芸術作品には女神の気配を嗅ぎ取れるのです。

 うえで引用した『風の想い──奈津──』の一節にもまた女神の気配があります。ここでの奈津への想いは世界に満遍なく行き渡っており、行き渡る想いはぼくの心を満たしもし、空洞を作りもする。そのような事態のなかで、何事かを為していくであろう自身の生を問うぼくは「貴女の想いをつくるもの」の数を問います。ここには何か自身の想いに適うものを作りはじめようとする者の気配、別面から言えば、何かを作らせようと働きかける女神の気配があるのです。

 

奈津からそよいだ風

 『風の想い──奈津──』を読む上で、想いとともに「」にも注意が要ります。いくつか本文をピックアップし、想いと風との共通するところを確認してみましょう。

 たとえば「風が吹き抜ける 黙りこくったぼくらを他処の世界から隔てて。」(p36)と「ぼくは想いが息をし、生長することを禁じなかった。」(p51)と並べてみます。この二つの文では風がぼくらの間を吹き抜けること・想いが呼吸をすることとを確認できるでしょう。風と呼吸とは気体であることで共通します。そして想いは呼吸を通して生長しぼくを悩ませるまでになります。「心、ぼくは自分の心、大きすぎる想いで重くなった心をもって、どうやって生きていけばいいのか。」(p58)。──この実感は違和感のあるものではありません。強いて言えば「情が移る」というのがそれでしょう。情が移ってしまったばかりに、その相手との別れが随分と辛いものになることは人情です。

 あるいは「ぼくの世界は風だけだ。」(p80)とも書かれます。風は息することを通じて身体を満たします。すなわち、息をする想いもまた風を吸い込み、そのことによって想いを新たにさせられ、風の通り道になっている。こうした理解から世界が風だけとなるイメージも楽しむことができます。たとえば「奈津、ぼくの愛のそよぎ」(p61)とあるくだりを参照すれば、風はつねに吹いているわけではないにしても、奈津と出会って以来、「心は定かではなくなり風と呼ぶしかないものに揺すられる心地でいる」と読むことができるでしょう。(恋の思いにとらえられて自由にならないさまを風に悩まされるさまにたとえた「恋風」などという言葉もあります。[大辞林 第三版参照])

 世界が風だけになる。このことはすべては移ろうとする「諸行無常」の考えへと人を近づけさせます。この事実に激しく打たれることになるのは、今現在に拠って立つことがとても強く印象づけられる場合でしょう。本文にもそのことを語っている文があります。「ぼくは 今あることの圧倒的思いに 立っていられないくらい 辛うじて貴女に微笑みかけて 時の歩みの中で生きねばならなぬ人の身を 懸命に引き受けようとする。」(p35)。この場面でぼくが直面しているのは、今あることの圧倒的な重みです。想いの重みが過ぎ来て往き去る時を、今かそれ以外かで事の軽重を振り分ける。にもかかわらず、重みづいた想いもまた去ってしまう。そこで感じられるものは死すべき者の儚さであり、想いを散らしてしまう風への想いです。

 恋もまた風であるならば、恋は風であるそのことによって過ぎ去ります。吹かない風はありません。なので、すべての恋愛がそうであるように、恋は終わりへと締めくくられることになる。『風の想い──奈津──』においても奈津との関係はひとつの終局を迎えることになります。ここでタイトルの意味に思い当たることができるでしょう。「風の想い」とは、奈津によってもたらされた想いであり、その想い自体の流動的な性質によってやがて立ち去る風のことでもあるという、まさに奈津によってそよぐこととなったぼくの想いを示唆しているのです。

 

『風の想い』をおもしろがる

 『風の想い──奈津──』は想いを哲学する松永澄夫の小説による形象化と言っていいでしょう。松永哲学にとっての想いは私や現実を一挙に立ち上げるものです。そして素朴な感覚として、恋をするという体験は私にとって事件や出来事と言って差し支えない性質を持っています。その点からこの小説で恋愛小説の形式が選ばれたことも納得がいくでしょう。奈津との出会いが想いの発端となった、というわけです。

 想いは一所に定まってはいないという点で、風と似ています。風の想いとは、風のようなものである想いを示唆するのです。

 『風の想い──奈津──』はしかし一見してポエムにも似ています。そして作者が思いついたままに書かれたかのような不連続な、間欠的な内面の吐露のようにも読むことができる。それゆえにぼくと奈津の関係も抽象的なものに見えて、じつは両者が同じ人物なのではないかとも思えてしまうのです。そのためにおもしろがることへのハードルがあるように感じられもします。

 とはいえ文章には詩文に類いする美しさがあり、それ自体でも読む目に快いです。帯に書かれている推薦文のなかに、山根基世が次のように評しています。「詩のような恋愛小説。その瑞々しさ!」と。

 ですが、わたしが『風の想い──奈津──』をおもしろがったのは想いの動き方や、その取り扱い方の変化にでした。これは次作『二つの季節』にも引き継がれたことですが、「想いが風であること」または「風の想い」は、風のようなものであることにおいて想いが常に移ろいゆくものであることが含意されています。

 そうした想いの事情を踏まえると、『風の想い──奈津──』においてぼくと奈津とが同じ人物にも思えてしまう、ひとつの同じ内面の風景を描いた小説に読めることは次のように理解することができます。つまり、この小説の登場人物(ぼくと奈津)は、仮の主人公であって、本当の主人公は「想い」なのではないのか、と。このような観点で読んでみると、『風の想い──奈津──』という小説が作者(必ずしも松永澄夫のことではなく)の「風の通り道」になっているように読めるのです。そこで吹く風=想いの移ろいが、恋の行末として描かれている。このような点でおもしろがれるのでした。

 

松永澄夫文芸三部作まとめ

わくわくしない物語

 これまで『幸運の蹄鉄』『二つの季節』『風の想い──奈津──』の順に、刊行順を遡るかたちで各作品を見てきました。この順は難易度と言ってもいいでしょう。わたしたちは『幸運の蹄鉄』のあとがきで松永自身による自作への評価として「自分が書き上げた作品がわくわくする物語なのではない」と語っていたことを確認しました。

 松永による自評は彼の文芸作品の失敗を自供したものではありません。むしろ通常の小説とは別な楽しみ方があることを暗示しているのです。(失敗を白状したものと読めなくはありませんが、それではつまらない、おもしろくないので、本稿では却下します。)

 

あれこれのメッセージ

 3作品に小説の別なおもしろさを探ろうとするとき、ヒントになるのがやはり『幸運の蹄鉄』のあとがきです。そこには次のような文言があります。

昨今、子ども向けの本も含め、世の中にはあれこれのメッセージをこめた本が、これでもかと溢れていますが、私は、少しうんざり気味です。」(p201)

 松永の感慨は、ヴィクトリア朝時代にルイス・キャロルによる『不思議の国のアリス』が人気を博した理由として語られていたところを思い出させます。

 『不思議の国のアリス』がなぜヴィクトリア朝時代のイギリスで人気を博したのか。それは当時、多くの子ども向けの本が道徳教育を目的にしているものが多く、純粋に娯楽のために書かれたものがほとんどなかったどからでした。『不思議の国のアリス』への批評にもそのあたりの事情がうかがえます。たとえば、Literary Churchman誌に掲載された批評文には以下のものがあります。

第一級の賢いナンセンスの子どもの本。純粋な楽しみ以外に何の意図も狙いもなく、道徳のかけらも匂わせていない

 『不思議の国のアリス』が広く愛された理由が「純粋な楽しみ」のためにのみ書かれ、そこには「何の意図も狙いも」ないと分析されているのは、松永が「あれこれのメッセージ」という言葉に込めたものと、おそらく別物ではありません。

 はたまた、『不思議の国のアリス』を評した「道徳のかけらも匂わせていない」という言葉から連想を広げて、詩人・ロートレアモンの箴言を引いてみるのもいいでしょう。

一劇作家にも情熱という言葉に有用性という意味を与えることができる。それはもはや劇作家ではない。モラリストはどんな言葉でもかまわず、有用性という意味を与える。かの劇作家はもはやモラリストだ!」(ロートレアモン,p240)

 モラリストは道徳家と訳して構いません。ロートレアモンによれば道徳家は「どんな言葉でもかまわず、有用性という意味を与える」存在です。そして有用性などと言う「あれこれのメッセージ」を込めることができる位置にいる劇作家ではありますが、劇作家がそれを行えば劇作家ではなくなり、ただのモラリストになってしまうだろうと言うのです。

 松永のあとがき、そして『不思議の国のアリス』の受容、それからロートレアモンの箴言を並べてみると、良い作品(本・ドラマ・物語)というものは道徳や有用性に関するあれこれのメッセージとは無関係に、純粋に作品そのものを楽しむために書かれていることが大切なのだと読むことができます。

 

風の吹く十字路

 以上のことを踏まえて、松永澄夫文芸三部作をどう読むことができるでしょう。『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルにはアリスという少女を楽しませるという目的がありました。そこには楽しむアリスの姿があると共に、楽しむキャロルの姿もあったことでしょう。松永の場合にアリスがいたかは措くにしても、松永自身の楽しみがあったことは確かです。そうでなければ哲学者が文芸作品を3作も発表することはありません。

 3作品のどれでも、「私・想い・風」という言葉がキーワードになっています。第1作品の『風の想い──奈津──』ではそのままタイトルにもなっており、「処女作にはその作家のすべてがある」などと言われもしますが、まさにそれを体現していると言っていいでしょう。

 というのも、松永澄夫の本業である哲学者としての記念碑的著作『価値・意味・秩序』で明かした到達点のひとつとして挙げられているのが、「想い」なのですから。想いは哲学の問いとしての「私であることの不思議」にまつわる問題系から導かれていて、まさに、風が立つごとくに「想いが起こるところに私も私の現実も成立する」といったアイデアが構想されているのです。

 想いのアイデア。そのことを小説という形式を通して確かめた、そういうふうに松永澄夫文芸三部作を押さえることができるでしょう。読んでいると、ときおり小説の態が詩へと変じてしまうくだりが多々あります。風のようなものである想いを意識してみれば、それすらも「想いの在り方」の表現としては自然に映ります。そのような「想いの動態」を楽しむこと。──それが、松永の楽しみ(=享楽)だったように思われるのです。

 最後に、松永澄夫文芸三部作を敢えて乱暴に一文でまとめてみることにします。それが3作品への大雑把な見通しとなることを期待して。風のようなものとして押さえられている想いを踏まえて、敢えて文芸三部作全体を一文で表そうとするなら、『風の想い──奈津──』『二つの季節』『幸運の蹄鉄』の3作品は「風が吹く十字路できみとぼくが出会う物語」である、となるでしょう。あるいはむしろ、物語であるかどうかということも重要ではないのかもしれません。想いの風が吹く私を織りなす十字路、こうした認識に立って眺める風景、それから、揺れ動く想いその様、そういったところに松永澄夫文芸三部作のおもしろさはあるのです。

 

全体まとめ

 以上が哲学者・松永澄夫の「想いの哲学」を踏まえつつ、作家・松永澄夫の文芸作品を読んで仕上がった作物です。哲学書という形では描きにくい情緒的な風景のなかで、風のようなものである想いの姿を描いた松永の文芸三作品は詩的・哲学的でありながらも直感的飛躍があったり論理詰めの小説などではありません。私が風であること・十字路であること。今回ご紹介した3冊は、そうした詩的で哲学的な認識を楽しむことのできるおすすめの本です。

_了

参考資料

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