【夫婦の矛盾】「結婚の脱構築」の迂闊なノート【単独者は苦悩する】

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12月4日。ザムザ(@dragmagic123 )はTwitter上で以下のツイートを見つけました。

哲学者・藤田尚志による「結婚の脱構築 〜ヘーゲル、キェルケゴール、マルクス〜」の講義を、12/3〜31までの期間で視聴できる、とのこと。折しもある映画のおかげで恋愛脳になっていたところでしたので、「結婚」の語句には心惹かれるものがありました。
この記事は上述の講義を聴講した直後に、迂闊にも書きまとめてみた「結婚の脱構築」に関するメモです。あまりにも迂闊に書き綴ったので、登場人物のヘーゲルとキェルケゴールが私の耳から生み出された架空の人物になっている……かもしれません。目を通される方はご覚悟ください。
この記事で取りあげている座
 

【夫婦の矛盾】「結婚の脱構築」の迂闊なノート【単独者は苦悩する】

 

結婚の脱構築は固定観念に対して身動きが取れるようにするもの

 結婚の脱構築とは、わたしたちが自然とイメージしている「結婚観」をひとつの枠組みであるとみなし、その枠組みを把握することを目的にします。枠組みを把握することによって、結婚の名の下に作用している様々な観念(イメージ)の正体を突き止めて、観察し、納得することを通して、固定観念や規制の枠組みに囚われていた自分自身の身動きが取れるようにする、といった効用が見込めるのです。

ヘーゲルは個人よりも社会を具体的なものだと考えた

 結婚観にも〈正しさ〉が付き纏います。「こういうあり方が正しいのだ」といった価値基準ですね。そのような〈正しさ〉についてを考えた哲学者にヘーゲルがいます。関連する著書のタイトルは『法哲学』ですが、ここではその本がどうだのと言った話題には立ち入りません。気になる方は以下の本をどうぞ。
 ヘーゲルは結婚を人格同士の契約関係だとみなしつつも、ひとは必ずしもその契約関係に束縛されるのではないと考えました。婚姻関係というのは一種の方便のようなもので、関係をより普遍的なものにするための媒介だというわけです。いわば「二人で一つ」のようなものですね。二人が契約という名の社会化をすることによって、より高い次元の人格性を帯びる
 ここまでの「普遍的なものに向かって自分を社会化する」といったアイデアは、ヘーゲルが個人よりも夫婦や世帯の方が具体的なものと考えていたために導き出されていることに注意しましょう。
 たとえば政府を例にしてみます。政府からすれば一人ひとりの個人は取るに足らない存在です。しかし夫婦や企業などの集団であれば、より具体的な存在として認知されます。
 〈正しさ〉を重視していたヘーゲルは、国家こそが〈正しさ〉を保証する至上のものと考えていたため、個人よりも夫婦の方に確かな存在感を認めていたわけです。
 

二人になる。ゆえに一つになれない自分を知る

 ここまでのところを踏まえると、結婚は「ひとが大人になるために必要な手続き」としてイメージできるのではないでしょうか。人が社会に出て、自立する。そのプロセスのひとつとして位置付けられるのが結婚である、というふうに。
 ところがどっこい、ヘーゲルの想定した「二人で一つ」を批判した人物がいます。哲学者のキェルケゴールです。
 キェルケゴールは、ヘーゲルが「個人はより普遍的なものとして自分を社会化していくことが正しい。そのために、結婚や就職がそうであるように他人や大勢と合一することが大切だ」と考えたのに対して、合一しきれない〈自分というもの〉を保ち続けることの大切さを説きました
 一般的かどうかは分かりませんが、結婚する際にはどのような形であれ誓いを立てます。互いに偽りなく、誠実な関係であることを誓う……そんな誓いを。これはヘーゲルの構想したものと一致する、夫婦合一を賭けた伝統的な(とはいえ問題含みな)結婚観と言えましょう。
 しかし、夫婦といえどもそれぞれに人格があるわけで、そこには秘密もあるはず。結婚したからといって互いの全てを打ち明けてしまうとしたら、別人格であるがゆえに秘密を持てる権利を毀損しかねません。あえて言うならば、ここで前提となっている〈自分というもの〉は、「秘密があること」によってその存在を保証されていると言ってもいいものです。
 以上のような「秘密を持つ自分」のことを、キェルケゴールは「単独性」と名付けます。この単独性をわたしたちが親しむ結婚観──生活の塵芥が絶えず降り積もる夫婦の間柄──と重ねてみれば、ヘーゲルの考えた「二人で一つ」のような考え方は必ずしも通用しません。
 むしろ、結婚することを通して「自分が秘密を持っていること=単独性のあること」の自覚が促されるのではないでしょうか。つまり、「二人になる。ゆえに一つになれない自分を知る」とでも呼びたい事態が。
 

夫婦になることの矛盾を個人的な葛藤として引き受けよ

 ある制度が認められ、常識化すると、その制度の中で正しいとされること以外は「後ろめたいこと」とみなされます。先ほど挙げた秘密もそうです。結婚の際に立てる誓いは、たとえ明文化されていなくても、「相手に対して誠実であらねばならない」といった掟が隠然と働いていることは確かです。
 パートナーから「俺に/私に言えないことがあるのか?」と問い詰められる状況を思い浮かべてみましょう。そこには「自分たちの間には秘密はないはずだ」といった “常識” があります。しかし、もしも婚姻関係が互いの秘密を相手から取りあげるための根拠になるとすれば、それはパートナーの個人的な権利や人格的な尊厳に対する冒涜になりかねません
 まとめましょう。
 ヘーゲルはより個人が普遍的なものへと社会化していくといった、「二人で一つ」になるタイプの結婚観を推しました。これを「倫理的合一」と言います。しかしこれを批判する形で、キェルケゴールが考えたところでは、「普遍的なもの=社会」よりも「単独的なもの=秘密」に着目し、「二人になる。ゆえに一つになれない自分を知る」タイプの結婚観を導きました。こちらを「非倫理的躓き」と呼びましょう。
 ヘーゲルとキェルケゴールの結婚観の間には矛盾があります。一方では誠実であれと説き、他方では秘密を持てと説く。しかしここでは、そうした矛盾がさしあたっての結論に導いてくれます。婚姻関係はパートナーとの間柄を社会化することである。とはいえ、夫婦関係にも秘密はあります。夫婦であることは一種の安心をもたらすものの、互いに秘密を持つ権利がある以上、その秘密から関係に綻びが生じる可能性もある。つまり、結婚という合一には秘密という躓きの石が含まれているのです。ゆえに、結論は「夫婦として二人になることの矛盾を、個人的な葛藤として引き受けよ」といったものとして記述できるでしょう。
(なお、哲学の概念で言えば、ここでの結婚観の矛盾には「弁証法」と「否定弁証法」とのカチ合いを連想してもらっても構いません。むしろそのことですので。)
 

置き換え不可能であり反復不可能な単独(者)性

 余談ですが、倫理が普遍性を語るものであるということを話題にするときには、人は倫理的であろうとすることによって特殊個人的なあり方から疎外されることが考えられます。というのも普遍的であることは主体が他の誰かとの置き換え可能性を備えることにもなるからです。置き換え可能な主体性はキェルケゴールがこだわる「単独性」を否定するものと言っていいでしょう。この点に、倫理的であることが〈合一〉を物語るのに対して、非倫理的であることが〈躓き〉を物語ることになる理由があります。普遍的であれば個別の主体性は一つにまとめられてしまい、特殊的であればバラけたままに合一を夢見て、そして躓く
 一般に、「〇〇学」と呼ばれる学問は、反復可能であることのそのパターンの発見および類型化・概念化の営みとして了解されています。その限りで様々な場面でも「応用」や「活用」ができると言っていいでしょう。
 しばしば、自然科学と人文科学とが図式的に分けられる際には、大雑把にではありますが〈合一〉と〈躓き〉が重ねられます。たとえば、人文科学(人文学)が不要であると言われる際には、個人的・属人的な〈躓き〉に関する知識は不要だと考える向きがあり、いわば置き換え不可能・反復不可能な知として取り扱われる
 対して、社会的・属事的な点を重視する(というと極端ですが)人文学不要論者の思想では、ヘーゲルが倫理的合一を語る上で「個別の葛藤する個人」を「乗り越え=止揚」てしまう理屈にも通じています。というのもこちら──科学は置き換え可能・反復可能な知にするために合一が目掛けられるのですから。
 

解消されない矛盾を矛盾であるままに引き受ける

 ヘーゲルに抗して、キェルケゴールは「乗り越えられないこと=躓き」を重視しました。つまり、躓きを抜きにして合一のみを語れない人間への配慮こそが、反復不可能なひとの実生活に即した「単独性」の概念である
 とはいえ、なにもルールに従わないことが美徳なのではありません。そうではなく、解消されない矛盾を矛盾であるままに引き受ける、苦悩の果ての 《それ》を確かめることが肝心なのです
 ──ここでの《それ》というのは、あくまでも個々別々な特殊の境遇(コンテクスト)ごとによって違った印象・表現・理解がありえるものであるために、さしあたっては「それ」と表記している程度のものとしてご理解ください。
_了
 

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