【書を捨てよ、町へ出よう】読み書きより聞き話しを重視する哲学

文の紹介
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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。小林秀雄っていう「批評の神様」と呼ばれたりする人がいるんですが、その人の書いたものに「喋ることと書くこと」ってのがあるんですね。今回の記事で取りあげるのはその文です。なぜ取りあげたのかって言うと、「哲学の元祖が〈読んだり書いたりする〉より、〈話したり聞いたりする〉ほうが元々は哲学的だったと語っている」といったアイデアが書かれていたからですわ。オモチロイじゃあないか!
この記事で取りあげている文
小林秀雄「喋ることと書くこと」『新訂 小林秀雄全集第九巻 私の人生観』,新潮社,1979
 

【書を捨てよ、町へ出よう】読み書きより聞き話しを重視する哲学

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喋ることと書くこと

ある日ある夜。小林秀雄が映画『天井桟敷の人々』について書いている文章が全集の9巻に入っていると知って目を通したんですが、大体こんなことが書いてありました。
二日酔いで頭が重いし途中で寝てしまうと思ったら案外最後まで見れた。何がそんなに楽しかったかと聞かれてもはっきり言えない。出来の良い映画はこんなものだろう。全体的にうまいものではあったが陳腐だった。
(『「天井桟敷の人々」を見て』をザムザが要約)
──え〜って感じです。とりあえず原稿用紙を埋めました感に満ちみちていて、ガックシ…orz。
ところが、ぷんすかしつつもページをめくっていると「喋ることと書くこと」(1954年)という文章があったんですわ。
そこで目に留まったのは、小林がギリシャ哲学の研究者として名の知れた田中美知太郎の文章を思い出しつつ、「プラトンが書物を軽蔑した理由」を紹介しているくだりでした。
こういうわけで、この記事では以下に「喋ることと書くこと」の、とくに田中美知太郎を参照しているあたりの文章をご紹介していきます。
 

哲学の理想は人と会って話すことにある

西洋哲学の起源に位置するギリシャ哲学の大御所…というよりも西洋哲学の界王神レベルなソクラテス-プラトン〈書かれたもの〉あるいは〈書くこと〉を敬遠していたという話は有名ですね。このあたりの対話は『パイドロス』っていう本で読めるはず。
では、なぜそうなのか?
理由は、書物がいつ読んでも同じページに違ったことが書かれていないから。書物は読まれるだけ読まれておいて、読者の方に目を向けることはないのだ。──ってな具合に考えてらっしゃったわけですわ。
プラトンは、さういう考へを持つてゐたから、書くといふ事を重んじなかつた。書く事は文士に任せて置けばよい。哲學者には、もつと大きな仕事がある。人生の大事とは、物事を辛抱强く、吟味する人が、生活の裡に、忽然と悟るていのものであるから、たやすくは言葉には現せぬものだ、ましてこれを書き上げて書物といふ樣な人に誤解されやすいものにして置くといふ樣な事は、眞つ平である。
(『新訂 小林秀雄全集第九巻』,p167)
もしかしたら読みづらい…かも。引用したのは小林秀雄の元々の文ですが、圧が強いところを含めて引用したいので、ご容赦あれ。
ソクラテスが「産婆術」もしくは「助産術」というやり方で、「ソフィスト」なんて呼ばれている口の上手い連中を論破していくってのはプラトンがその著作で後世に教えてくれているところ。
んで、その助産術でソクラテスがやってたことってたのが、「人と人とが出会ってお互いに全人格を賭して問答すること」でした。「腹を割って語り合って打ち解けて愛を交わす」みたいなもんですね。…最後の “愛を交わす” ってのは “誤解の余地” があるかもしれませんが(苦笑
哲学(者)の理想が書物を “読むこと” でも “書くこと” でもなく──カウンセラーやホスト・キャバ嬢、はたまた宗教家がやるみたいな──、人を相手にした “話すこと” をメインの活動に考えていたというのは興味深いことです。
プラトンは、書物は生きた人間の影に過ぎないと考へてゐたが、今日の著作者達は、影の工夫に生活を賭してゐる。習慣は變つて來る。たゞ、人生の大事には汲み盡せないものがあるといふ事だけが變らないのかも知れませぬ。
(『新訂 小林秀雄全集第九巻』,p167)
書物は生きた人間の影に過ぎない。書物や本が「死者」だと呼ばれたりすることがあるのもそのせいですな。歴史から学ぶことも大切だという点から言えば、本を読んで死せる著者と対話する「死者との対話」も大事ではありましょうが、その場合でも今目の前にいる生者が最優先だという原則は変わりません。
 

本は読んだことを口にしてこそ意味がある

ただ、書物自体が生きた人間と対話する際の助産役になってくれることもあるでしょう。たとえば、人は見た映画や聞いた音楽を「共通言語」にして誰かと会話することができますし。それこそ、読んだ本だったそうですね。それを話題にして誰かと繋がるきっかけになるってことはよくあります。
もしかしたらこの記事だって、話すのではなく書くことを通してではあれど「喋ることと書くこと」をダシにして読んだ自分と対話してる(=〈読んだ私〉に対して〈書く私〉が書くことを通じて対話している)…とも言えそうですわ(笑)
それから…ではなく、さっきの引用箇所の手前ではありますけれど、小林秀雄もまた次のように書いているんです。
詩は言ふまでもないが、散文にしても物語りだつた。讀まれたのではない、語られたのです。本は、歌はれたり語られたりしなければその眞價を現す事は出來なかつたのです。
(『新訂 小林秀雄全集第九巻』,p166)
「本は歌われたり語られたりしなければその真価を現すことはできない」。ふむふむ。書物=本は「目で読み・手で書く」ことではなく、「口で言い・耳で聞く」ことにおいて、特に価値を発揮するのか。なるほど。……ようするに、哲学を勉強するなどと考えて本ばっかり読んでるんじゃダメってことですね。
書を捨てよ、町へ出ようぜ!──なんて言ってアジったのは寺山修司でしたが、もしかしたらそれも「喋ることと書くこと」で見てきたソクラテス-プラトンのアイデアと重ねられるのかも知れません。すなわち、読むことよりも聞くことを、書くことよりも喋ることを重視しようぜ!という点で。本はつねに沈黙したままですが、街で人に会えばしゃべる相手には事欠かないでしょうしね。
もっとも、森見登美彦が『四畳半神話大系』で描いたみたいに、街に出かけても話し相手が見つからないともなれば、やっぱり部屋にこもって本を読んでいたくなるのでしょうが(笑)
 

まとめ

哲学と聞くと一生読み解けないような難しい本をペラペラ捲りながらウンウン唸ってる頭でっかちってイメージも無きにしろあらず。ところが小林秀雄が紹介する田中美知太郎が取りあげる古代ギリシャ哲学者──西洋哲学の創造神のような哲学者ソクラテス-プラトンがやってた哲学はそう言うんじゃないと。むしろ本を読むよりも人としゃべることが大事なんだと言っていたし、実際にやっていたというんだから驚きですな。考えてみれば書物=本を読むときって一人きりになるので、誰かと話すなんて以ての外。……なるほど、だから「書を捨てよ、町へ出よう」になるんだなぁ。
_了

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