映画『天井桟敷の人々』の人間模様を解読する|美神編

画の紹介
©︎1946 Pathé Cinema
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世界最高級の恋愛映画『天井桟敷の人々』を見ると多少なりとも「ため息&うっとり」な状態になるようです。感情移入して恋愛脳ぎみなザムザ(@dragmagic123 )でいます。マルセル・カルネ監督と詩人ジャック・プレヴェールの2人が組んだこの名作について、今回の記事では男と女と恋と愛……だけではなく、そうした人間模様の中に垣間見える真理自由、そして愛欲の対象ばかりでなく芸術的なインスピレーションの源泉にもなる「美の女神」などを取りあげつつ、映画を読み解いていきます。
 
この記事で取りあげている画
 

映画『天井桟敷の人々』の人間模様を解読する|美神編

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天井桟敷の人々

天井桟敷の人々』という映画をご存知でしょうか? 知っているからこそこの記事を読んでいるかと思いますが、1945年に封切られたフランスの国民的映画であり、「世界最高の恋愛映画」とさえ言われる名作中の名作です。マルセル・カルネ監督と詩人のジャック・プレヴェール脚本というタッグは「カルネ/プレヴェール」という呼び名があるほどに映画史上のエポック・メイキングな出来事となっています。
あらすじや登場人物、評価などに関しては下の記事で取りあげています。

この記事ではとくに『天井桟敷の人々』の “恋愛映画としての魅力” ……だけではなく、その恋愛が人間の芸術活動にどのような影響を与えているのかに目を配ることにします。男と女と恋と愛といった男女の恋愛関係というばかりではなく、その恋愛の渦中で、恋愛感情が芸術活動へと昇華される様子を解説することが目的です。

おおむね鑑賞したこと前提で書かれてはいますが、言及されていること一般的な人間の話題としても読めるものになっています。

 

あらすじ

第1部「犯罪大通り」: 1840年のパリはタンプル大通り。通称”犯罪大通り”で裸の見せ物を自らの売りにしている女芸人ガランス(アルレッティ)は、パントマイム役者のバチスト(ジャン・ルイ・パロー)と知り合い、バチストは彼女を恋するようになった。無頼漢ピエール・フランソワ(マルセル・エラン)や俳優フレデリック・ルメートル(ピエール・ブラッスール)もガランスに恋していた。バチストの出ている芝居小屋「フュナンピュール」座の座長の娘ナタリー(マリア・カザレス)は、バチストに想いを寄せていた。ガランスに想いを寄せアプローチを繰り返しながらもバチストの愛はあまりに純粋であり、二人は結ばれることはなかった。ラスネールといざこざを起したガランスは「フュナンビュール」に出演するようになった。ガランスの妖艶な美貌にモントレ-伯爵(ルイ・サルー)が熱をあげた。

第2部「白い男」: 5年後、バチストはナタリーと結婚し一子をもうけていた。ガランスはモントレ-伯爵と結婚していた。人気俳優になったフレデリックの計らいでバチストはガランスに劇場のバルコニーで会うことが出来た。一方、劇場で伯爵に侮辱されたフランソワは風呂屋で伯爵を襲って殺害する。その後、バチストは想い出の部屋でガランスと一夜を過ごすも、翌朝にバチストの前に現れたナタリーと子供の姿を見たガランスは別れる決心をした。カーニバルで雑踏する街を去るガランスを追ってバチストは彼女の名を呼び続けたが、その声も空しくカーニバルの群衆に飲み込まれてしまった。

(引用は『MIHOシネマ』より)

 

美神を巡る男たち

ここでは美神=ガランスを巡って男たちが繰り広げるドラマから、男たちを魅了する美の女神・ガランス自身がどのような存在であるのか、はたまたガランスに恋することを通して男たちがどのような影響を受けたのかを見ていきます。

真理=ガランス

©︎1946 Pathé Cinema

映画冒頭、パリの「犯罪通り」と呼ばれる通りにはたくさんの人が詰めかけています。「さあ、入った!真理はここにあり!いらっしゃい見てらっしゃい!見たら最後、昼は幻、夜は夢!一糸まとわぬ裸の美女!生まれたままのあで姿!」──呼び込みの男がそのように謳う見世物小屋に、ガランスはいました。
映画人・山田宏一によるガランスの的確な紹介をご覧ください。
「真理」の女神のように「井戸」からその裸身を現わすヒロイン、ガランスに、男たちはそれぞれの性格、身分、地位による視角から、彼女の手鏡に映る「理想の女性」像を見る。
(『山田宏一のフランス映画誌』,p21)
井戸の中の真理」であるガランスは多くの男たちを魅了します。「バケツの中の愚者」ことバチストだけでなく、女たらしのフレデリック、犯罪詩人ラスネール、そして権力者モントレー伯爵に至るまでを夢中にさせるのです。この “夢中にさせる” というのがポイントになっていて、ガランスは彼らを魅了すると同時に、彼らに誘惑されることによって彼女自身の価値は真理にまで高められることになります。
なぜか?
「恋は盲目」と言われるように、人は恋をすると「あばたもえくぼ」の状態になります。相手の不格好なところにも愛嬌を感じてしまうわけです。また、恋愛状態というのは得てして相手を「運命の人」だと確信し、この恋が成就したならば最高だと思い込むことでもある。さながら、相手がこの世の真理を司っているかのように
逆を言うと、真理を見るためには盲目になる必要があるのです。なにせ、この世の真理がその人物が司っているなんてことは限りなく妄想に近いものですから。
さて、ガランスの立ち位置はまさに魅了し、誘惑されることによって自分自身を真理化しています。このことはガランスが男たちに愛欲を掻き立てる存在であり、その魅力によって男たちに「真の世界を生きる可能性」や「自分の運命を愛する可能性」をもたらすことを示唆するのです。
ガランスに恋をすることによって、男たちは盲目と化し、真理を見ることができる。役者ならば役者としての真理が、劇作家ならば劇作家としての真理が、権力者ならば権力者としての真理が──それぞれに直視…いいや、幻視されることになるのですね
 

月に捧ぐ無言劇

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バチストはガランスに魅了され、魅了されるがままに彼女を誘惑します。「あなたを愛している」。そのときにバチストは劇団でつねづね父親から言われている言葉を語ります。「こやつは一家の恥でございます。ある満月の夜にバケツの中に落ちまして、以来、見果てぬ夢をみるだけ」。
そしてバチストは「これが見果てぬ夢だろうか」、そう、ガランスに対して問いかけるのでした。ここでの “見果てぬ夢” はガランスへの恋であり、さらには「恋に落ちる Falling Love」が “満月の夜にバケツの中に落ちること” へとイメージが重ねられています。
しかし、実物の月ではなくバケツに映った月を覗きこもうとするバチストは、月そのものであるガランスを求めることができず、彼女を愛することができませんでした
ねぇ、ガランス、わかってほしい。あなたも同じ愛し方で私を愛してほしい──バチストがそう語るのは、自分のようにバケツを覗き込んで見える「相手=月」を愛でようじゃないかと提案していたのです
この夜に起こったことは後々にまでバチストを苦しめることになります。月を求めなかったことで、月からも求められることがなかった。
とはいえ、「木偶の坊」と呼ばれてきたバチストはガランスへの恋によって、彼が尽くすべき「真理・夢・月」を見出すことになり、無言劇役者の道を歩むことができます。ここからは演劇=芸術は「恋愛によって駆動するものである」というメッセージを読み取ることがでるでしょう。手を伸ばすための月があるからこそ、讃えるための表現も生まれてくるのですから

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一方で、フレデリックはたやすくガランスの部屋に忍び込み、愛を交わす。それも彼が有言劇役者であることによって、彼女に自分の声が届いたそのことで逢瀬を果たすことになったのでした。
これはバチストが無言劇の役者=パントマイム師であることとは対照をなしています。なぜなら、フレデリックの成功とバチストの失敗を思うと、「真理」であり「夢」であり「月」でもあるガランスに触れるためには、「声=言葉」が大切になっているのですから。劇中劇で演じられたなかでも、言葉なしにパントマイムでガランスを崇めるバチストは彼女から振り向いてもらえないものの、楽器を手にして愛を歌ってみせる(これもパントマイムですが)フレデリックはあっさりとガランスを射止めることができるのです。
ただし、ガランスの視点に目を向けると、フレデリックは彼女に “恋をし、愛すること” はできましたが、彼女から “愛された” わけではありませんでした。むしろガランスから愛されたのは “恋をしたものの、愛することはできなかった” バチストの方だったのです
 

自由を求める声

©︎1946 Pathé Cinema

私は自由が大好き」と言ったのはガランスでした。
あるいは彼女はこう歌ってもいます。
〽︎私は私よ
 もともとこんなよ
 笑いたかったら
 大声で笑うわ
 私を好きなら
 愛してあげる
(『天井桟敷の人々』,p80)
ガランスにとっての自由は「相手を求めないこと」によって成立します
「恋なんて簡単よ」と言うのもまた彼女でした。愛をささやく男に応じて恋をし、そして愛する。恋愛に溢れた生活を送る姿はとても自由だと言えましょう。
ガランスは求めるのではなく、求められることによって自由を得るのです。
しかし、ガランスはバチストに恋をします。彼女がもっとも愛した男がバチストである。──ですが、ガランスは “自由の代償” としてバチストとも一緒になることはできません。
男たちが彼女に恋をし、盲目になることによってガランスは真理になるのでした。とはいえ彼女自身が盲目になることはありません。自由を愛するガランスにできるのは愛のささやきに応じることだけ。たとえ、愛するバチストが彼女を呼び止めようとも、ガランスは自由であるためにバチストの元から離れなければならないのです
彼女が彼女自身であるために、ガランスは恋人を求めるよりも、自由を求める声を確かめねばならない。だからこそ、彼女はどれだけ愛していたとしても、求めないことを選択せねばならず、その相手の元から立ち去らねばならない。これによって愛した男たちはつねに思い出になり、懐かしくなると共に美化され、美しいものになっていく。この構造を通してガランスは言い寄ってきた男たちの元を離れ続けながら、自分自身を懐かしく・美しくしていくことになるのです。その姿はまさに「自由」であり、自由な姿でいるからこそに男たちを魅了する「美の女神(美神)」たりえていることがうかがえます。
 

犯罪詩人の作劇

©︎1946 Pathé Cinema

誰も愛さない……絶対の孤独! 誰からも愛されない……絶対の自由!」「哲学者は死を想い、美しい女は恋を想う」「女は誰のものでもない以上、嫉妬はすべて男のものだ」「俺には虚栄心などない。あるのは自尊心だけだ」──などなどの名台詞で知られる犯罪詩人ラスネールに注目してみましょう。
上に並べてみたセリフを見てもわかる通り、ほとんど息をするように詩を吐いているラスネールは、さしあたっては「犯罪者」です。盗みも殺しもやってるぜ!…な人物です。
しかし、第一部で登場する場面で「退屈まぎれに」と言いながら芝居を書いているくだりに始まり、第二部でフレデリックの楽屋に忍び込んだ際には、「ひまを見て戯曲を書いてるよ」と告げて自分の作品について語ってみせる、はたまた同じく第二部の後半でモントレー伯爵の「妻」になったガランスと対面し、今や悪人として知られ警察に追われる身分となった自分自身を語るのに「文学の方で売り出せばいいものをな」と言ってみせている。
──以上のラスネールの姿からは文学を志したかつての青年が夢破れたなれの果て…そんなイメージを思わされるのではないでしょうか。自分を劇作家として売り出すこともなく、それでも犯罪者生活のなかで上演されることのない戯曲を書き続けている。破れぬ夢を引きずっている、そんな哀切を帯びた姿が浮かんできます。
他方で、ラスネールは紙の上に戯曲を書くばかりではなく、犯罪詩人として、現実上にドラマを企画するのです。まさしく “犯罪的” に。

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映画のクライマックスに向けて、次の場面がやってきます。自分に心を開いてくれないガランスの理由が、彼女が足繁く通う劇場にあると考えたモントレー伯爵は、シェイクスピア悲劇の『オセロ』を演じているフレデリックに目をつけます。以下に引用する場面は終演後のパーティで、モントレー伯爵がフレデリックと決闘したくて因縁をふっかけているところにラスネールがやってきた際のやりとりです。
モントレー伯爵「現在はどんな方面に才能をお使いかな?
ラスネール「劇を書いております。今、最後の章をね。死を描く情念劇です
モントレー伯爵「悲劇ですかな?」
ラスネール「通俗喜劇……茶番劇……悲劇とおっしゃるもけっこう。同じことです。違いはない。あるとしたら、王が裏切られれば悲劇、寝取られ夫の場合とは大違いだ」
フレデリック「王の悲劇は運命だ」
ラスネール「そう、運命だ。だが、伯爵や俺みたいなあわれな愚者の場合は──ここで俺と言ったのは言葉の綾だが──それは悲劇ではない。道化芝居だ。寝取られ亭主の滑稽譚だ
        モントレー伯爵は言葉を失って、顔面蒼白となる。
フレデリック「しかし、王でも夫でも、嫉妬の角は同じですよ。恋が冷めれば腐れ落ちるあの嫉妬の角はね!」
ラスネール「角も同じ。恋物語も同じ。涙も同じ。しかし、要は面白い劇で、作者がまず笑えることだ」
貴族A「上演されまい」
ラスネール「ご安心なされ、上演されますぞ。いや、すでに上演中です!」
貴族A「面白い!」
ラスネール「さよう、実に面白い。だが、殺人がありますぞ! そして幕がおりても死者は立ち上がらない
(『天井桟敷の人々』,p115-116:太字は引用者)
ここでは犯罪詩人であり戯曲作者であるラスネールが、自分は劇を書いていて、その劇が上演中であることが宣言されています。そしてこの劇には殺人があり、必ずや死者が出るのだと語られている。ラスネールの宣言は彼が自分とモントレー伯爵とを同列に置いているくだりを踏まえると、あからさまにラスネールとモントレー伯爵との間で起こるドラマを示唆しています。
ラスネールのセリフにはこんなものがありました。「女は誰のものでもない以上、嫉妬はすべて男のものだ」。ラスネールはガランスにフラれていて、モントレー伯爵はガランスをバチストに奪われている。二人はどちらも同じ女の前で等しく嫉妬する立場にいる
結局、ラスネールはモントレー伯爵を殺します。そして彼は自分が死刑される姿を胸に描きながら、死体の側で自分の最後を観念する。この場面には彼の人生哲学が響いています。──「必要に応じては盗みも、欲望に応じては殺しも辞さぬ、俺の行く道は一筋。やがては飛ぶ首をまっすぐ立てて闊歩するのだ
かくしてラスネールは、ひとりの詩人として人生を直観し、哲学者として真理を発見し、作者として戯曲を制作したのです
 

まとめ

恋愛映画として最高傑作と言われる『天井桟敷の人々』。この映画からうかがえるのは、恋愛がただ恋愛であるというだけではなく、その恋愛感情から思いがけない力を授けられるというメッセージです。『天井桟敷の人々』では役者や劇作家などが登場する「芸術家映画」でもありますが、彼らがひとりの女性を巡って自身の表現活動を繰り広げる様子からは、恋愛が人を芸術家に変えるものであるかのようにも見えます。この記事ではそんな創作意欲(インスピレーション)の源である美の女神に注目することで映画を読み解きました。ここまで読んで件の映画を見たことがないという人はいないでしょうが、『天井桟敷の人々』は見た後の人生をも素晴らしくする、素晴らしい映画です。ほんまに。

_了

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