デュラスの〝文学に満ちた〟人生のエクリチュール:『愛人 ラマン』

小説
Pocket

 こんにちは、ザムザです。

 今回はマルグリット・デュラスの小説『愛人 ラマン』について書く……ことになりましたが、実をいうと、わたしはまだ、『愛人 ラマン』を読んでいません。

 ではなぜ『愛人 ラマン』に関する記事を書こうと思ったのかと言えば、デュラスの『エクリール』の本を読んでマルグリット・デュラスという作家がとてもまともじゃないと感じたからです。

 「まともじゃない」はもちろん褒め言葉です。前回に彼女の『エクリール』というエッセイ本を読んでガツンとやられました。

 ガツンとやられたわたしですが、すぐには彼女の小説を読みだしませんでした。その前に確かめておきたいことがあったのです。それはデュラスがしきりにこだわる「書くということ(エクリチュール)」についてでした。そのために選んだテクストが『愛人 ラマン』だったのです。

 今回の記事では『愛人 ラマン』の紹介がてら、デュラスの考えるエクリチュールを追いかけます。

この記事で取りあげている本
マルグリット・デュラス愛人 ラマン』清水徹訳,河出書房新社,1985

この記事に書いてあること
  • デュラスは『愛人 ラマン』を、自分の経験した出来事をモチーフにして、文学に満ちた自身の人生という事柄そのものを描いた。
  • デュラスは真の記憶の本質は出来事を記憶の深部へと忘却することにあると考え、その対極の位置に身体という表面を置いた。人生を描くために記憶に頼るのではなく、むしろ身体を重視し、身体という表面に浮かぶものを書くことで換喩的に人生の全体を表そうとした。
  • デュラスが『愛人 ラマン』において到達した「流れるエクリチュール(走る文体)」は、身体の表面に浮かぶ瞬間的なものを書く文体である。そうした文体で書かれた『愛人 ラマン』は、〝書くということを書いた書かれたもの〟、つまり「エクリチュールについてのエクリチュール」なのである。

 

スポンサーリンク
  1. デュラスのエクリチュールとしての『愛人 ラマン』
    1. 『愛人 ラマン』は「性愛を描いた小説」と言えなくもない
    2. 『愛人 ラマン』は物語でなくもないエクリチュールである
    3. 言葉の水準から取り出す声なき声がエクリチュールである
      1. 『愛人 ラマン』を映像化するなら言葉の水準にあるモチーフを表現しなければならない
      2. デュラスの小説は文学である
        1. デュラスは私小説家ではない
        2. デュラスの小説には彼女の人生についての真実も事実もなく文学がある
    4. 文学とは物語でなくもないモチーフを印したエクリチュールである
      1. 文学は物語になりえないもの、モチーフは物語でなくもないもの
      2. 作家の根源的な沈黙から書き印した言葉がエクリチュールである
    5. 『愛人 ラマン』で語られる「書くということ」
      1. 事柄そのものに切りこむようにして書く
      2. 流れるように書かれてゆくエクリチュール( écriture courante )
      3. 流れるエクリチュール( écriture courante )
      4. 走る文体( écriture courante )
        1. デュラスの記憶への態度:記憶は忘れていることに本質がある
        2. 再び、走る文体
      5. 『愛人 ラマン』は人生を換喩的に表した文学である
      6. 身体的な文体とその対極にある真の記憶
      7. 意味のある一般的な言葉と非意味的な特異的な言語
      8. 身体で興る非意味的なものは他者に伝えることができない
      9. デュラスは人生を描くために記憶ではなく身体を恃んだ
      10. 「走る文体」も「流れるエクリチュール」も表面的である
      11. 『愛人 ラマン』は物語でなくもない、瞬間が印された文学作品である
  2. まとめ:『愛人 ラマン』=エクリチュールについてのエクリチュール
  3. 参考資料

デュラスのエクリチュールとしての『愛人 ラマン』

『愛人 ラマン』は「性愛を描いた小説」と言えなくもない

 『愛人 ラマン』は1984年に発表されたマルグリット・デュラスによる小説で、フランス本国だけでも150万部を売り上げた世界的ベストセラー小説です。その内容は仏領インドシナでの少女時代を中心に、フランス本国に帰国してから執筆当時までの生活を含めた自身の記憶を辿る自伝的な作品になっています。

 『愛人 ラマン』で描かれる自伝的な物語は「性愛を描いた小説」です。金持ちの中国人青年が自分の愛人になることを受けいれることで、母親や兄弟などとの家族の関係から決定的に離れていく。性愛で結託した家族から性愛で出会った愛人によって離れていく物語なのだ、というふうに読むことができます。

 しかし『愛人 ラマン』に対して、そうした理解をしてしまうことはいささか野蛮です。

 

『愛人 ラマン』は物語でなくもないエクリチュールである

 『愛人 ラマン』は特定の時期の人間関係をエピソードとして切り貼りした、モンタージュチックな構成をしています。それらは断片的なイメージの切り貼りに近く、読者はひとつながりの物語の映像が浮かぶ類いの小説ではないことに気づきます。

 むしろデュラスが『愛人 ラマン』で描いたものは、物語になりえない、物語でなくもないナニカなのではないかと考えられます。たとえば文学者の坂本佳子郷原佳以は、デュラス作品の解題で、そうしたモンタージュ構成が表現するのは「物語になりえない「絶対的な」映像を映し出す」ことなのだと語ります。

 『愛人 ラマン』は物語と呼べなくもなさそうですが、それでも物語と言い切るには作品そのものが「物語」という呼び名を裏切ってしまうようです。そんななか、デュラス自身の言い方を参照しようとすれば、彼女は頻繁に「エクリチュール」と言っていることに気づくでしょう。

 『愛人 ラマン』はエクリチュールである。では、エクリチュールとは何なのでしょうか?

 

言葉の水準から取り出す声なき声がエクリチュールである

『愛人 ラマン』を映像化するなら言葉の水準にあるモチーフを表現しなければならない

 デュラスは『愛人 ラマン』が映画化する話が出たときに、映画版は『愛人 ラマン』の本質を掬いとった良いものにはならないだろうと考えました。ジャン=ジャック・アノー監督による制作プランでは、『愛人 ラマン』の舞台となった時代の写真を基にした忠実な模倣という趣きがあったのです。

 アラン・ヴィルコンドレによる伝記によれば、デュラスは『愛人 ラマン』の映像化に当たって必要になるであろうことを次のように考えています。すなわち、スクリーン上に表現しなければならないのは、『愛人 ラマン』のテクストのなかに散りばめられているモチーフなのだ、と。

 モチーフとイメージは違います。アノーが映画のなかで模倣しようとこだわるのは、あくまでもイメージの水準に過ぎません。イメージは「映像的な物語」だと言ってもいいでしょう。しかしデュラスがこだわっているのはあくまでも「言葉の水準」にあるモチーフなのです。

 デュラスがこだわる言葉の水準。そこにデュラスの考える「エクリチュール」のヒントがありそうです。

 

デュラスの小説は文学である

 「言葉の水準」という点を掘り下げるために、デュラスによって「書かれたもの=小説」がどういった性格を持っているのかを確認します。

デュラスは私小説家ではない

 作家が小説を書くことは、モチーフを言葉で表現することです。あるいはモチーフからイメージを取り出すこと。そうした執筆行為のなかには表現する(書く)までのプロセスには作家とモチーフとの関係が反映されています。つまり、作家の意図が現れるのです。

 池澤夏樹が個人編集した全集のデュラスの巻には『太平洋の防波堤』と『愛人 ラマン』が収録されています。二つの作品はデュラスの初期と後期を代表するものですが、どちらもデュラスの若い時のことを素材(モチーフ)にしています。それはあたかも〝自分の人生には語る意義がある〟と考える私小説家のやりかたと同じです。

 しかし池澤は全集の月報のなかで、デュラスが自身の経験に根差したテーマやエピソードを小説にすることを指しながら、それでもなお、「デュラスは私小説家ではないのだ」と断言します。

 

デュラスの小説には彼女の人生についての真実も事実もなく文学がある

 池澤によれば、デュラスは自分の人生経験を素材(モチーフ)にこそすれど「自分の人生を語るという意図」はないのです。

 デュラスの用いる素材は彼女の書く小説のなかで何度も登場してきます。しかしそれらは書かれるたびに〝同じでなくもない、違ってなくもないイメージ〟として現れることになるのです。あたかも同じものを見ながら異なる印象を受け取るようにして。

 池澤はデュラスの小説について次のように述べています。「彼女の人生についての真実も事実もなく、文学があるのだ。」池澤の考え方では真実や事実は私小説に属するようです。では、真実でも事実でもない〝文学〟とは何なのでしょうか。

 

文学とは物語でなくもないモチーフを印したエクリチュールである

文学は物語になりえないもの、モチーフは物語でなくもないもの

 坂本佳子と郷原佳以の見解を思い出しましょう。彼女たちによれば『愛人 ラマン』は「物語になりえない」ものを描こうとしていたのでした。仮に、池澤夏樹が挙げる事実や真実を〝歴史や物語〟などの「物語的なもの」と読み替えれば、文学は歴史でもなく物語にさえなりえないものを表現するものなのだと考えられます。

  • 事実・真実-物語的なもの
  •  文 学 -物語になりえないもの

 次に、イメージの水準にこだわったアノーを思い出しながら、物語的なものを〝イメージ〟だと考えることにします。その場合デュラスがこだわる〝モチーフ〟は、小説『愛人 ラマン』が物語〝でもある〟ことを踏まえるとそれ自体は物語〝ではない〟ものの、そこから物語が生じうるようなナニカ――「物語でなくもないもの」だと見立てられるでしょう。

  • イメージ-物語的なもの
  • モチーフ-物語でなくもないもの

 

作家の根源的な沈黙から書き印した言葉がエクリチュールである

 さらにデュラスがイメージにこだわるアノーに対して「言葉の水準」を持ち出したことを参照します。言葉の水準には「語り(話し言葉)」と「印し(書き言葉)」の二つの側面があります。前者はイメージを喚起するものですが、後者にはイメージを喚起することに加えて、モチーフを固定する効果が含意されています。

 繰り返しますが、デュラスは『愛人 ラマン』の本質的な部分を「言葉の水準」にあるのだと考えていました。

 また、デュラスは『緑の眼』に収録されているインタビューで作家は「内なる闇」の根源的な沈黙から言葉を取り出し形にするのだ――と答えています。根源的な沈黙から取り出される言葉、すなわち「声なき声」。語られたものであるよりかは、印されたものである言葉。つまり、「エクリチュール(書かれたもの)」。

 

『愛人 ラマン』で語られる「書くということ」

 『愛人 ラマン』はデュラスのエクリチュールでした。デュラス自身も『愛人 ラマン』を「エクリチュールについての本」であると述べています。

 たとえば以下のくだりは『愛人 ラマン』の序盤に書かれていますが、そこで述べられていることは誤解しようのないほどに「書くということ」について書かれているのです。

「書くとは、といま改めて考えてみると、とてもしばしば、書くとはもはや何ものでもないという気もする。ときにわたしは、こうだと思う。書くということが、すべてを混ぜあわせ、区別することなどやめて空なるものへと向かうことではなくなったら、そのときには書くとは何ものでもない、と。」(p13)

 ここからは以上のような文を収めた、「書くということ」について書かれたエクリチュールとしての『愛人 ラマン』に焦点を当てます。そしてエクリチュールとしての『愛人 ラマン』を確かめていくことにします。

 

事柄そのものに切りこむようにして書く

 翻訳者の清水徹は巻末の解説で、デュラスが母や兄が生きているうちでは『愛人 ラマン』を書けなかったこと、そして、ようやく「事柄そのものに切りこむ」ことができるようになったことの確信がデュラスにはあったのだと述べています。

 デュラスは自分の人生を素材にして小説を書くことの多い作家でした。しかし考えてみれば、人生を物語るといっても、いったい何を描けば人生を物語ったことになるのでしょうか。筋道を立てて出来事を組み立てれば〝自分が生きた人生〟を表現したことになるのでしょうか。

 デュラスはそうは考えませんでした。清水の記述によれば、デュラスは物事のあいだに区別を立てることを止め、「すべてを本質的に形容不能なただひとつのものへと溶けこませる」ことを選んだのです。自分の人生そのものを書くためには、イメージベースの基本的な物語のお約束を守るより、〝モチーフに語らせる〟式の書き方を、というわけです。

 

流れるように書かれてゆくエクリチュール( écriture courante )

 『私はなぜ書くのか』のなかでデュラスは『愛人 ラマン』の文体(書き方)を次のように語っています。

「書き始めたときには、イメージを優先するためにテクストを後退させることを考えていました。けれども書くことが優勢になり、それはわたしよりも速く前進し、読み帰して初めて、これが換喩のうえに構築されていることに気づいたのです。」(p47)

 上の文章で登場する「換喩」とは、部分的なものによって全体を表す方法です。この場合では、デュラスの人生のなかの具体的な出来事(モチーフ)が、抽象的な人生の全体を語り示していることを意味します。

 

 しかし上に引用した文章にはデュラスの文体が換喩的であったという事後的な発見よりも重要な点があります。それは書いている最中にそうであったことに関する証言です。すなわち、書くことが書いている作家よりも速く前進しはじめた、という点です。

 デュラスはそうした書き方を自身が『愛人 ラマン』で到達した文体だとして、確信をもってそれを「流れるエクリチュール」と名付けています。

 

流れるエクリチュール( écriture courante )

 『愛人 ラマン』のなかで死んだ母親に触れるくだりがあります。死んだ母親に触れ、母の匂いや色、声なども思い出せない。けれども時々に優しい声が蘇る。そして次のように続けるのです。

「だからこそ、いま母のことを、じつにすらすらと書いている、こんなに長く、こんなに引き伸ばして、母は流れゆくエクリチュールとなってしまった。」(p47)

 清水が引いているデュラスの証言によれば、「流れるエクリチュール」は出会うものを分け隔てなく運んでゆくエクリチュールである、とのこと。それはデュラスの兄や母――すべての無罪たらしめる〝許しのエクリチュール〟であると説明しています。

 また、清水は『愛人 ラマン』本文にあるメコン河のイメージが浸透した表現だと解釈し、「流れゆくエクリチュール」と訳しましたが、解説では元の〝écriture courante 〟というフランス語の意味のひろがりに合わせるなら「流れるように書かれてゆくエクリチュール」になるだろうと述べています。

 

走る文体( écriture courante )

 「流れるエクリチュール」は別の訳もあって、その訳では「走る文体」となっています。その場合の〝文体〟のルビは〝エクリチュール〟です。「流れるエクリチュール」が『私はなぜ書くのか』のなかで登場するときは「走る文体」で統一されています。

 この「走る文体」――書き方のことを、デュラスは物事のひとつひとつにこだわることなく、そしていちいち意味付けることもなしにページの上に示していく書き方なのだと説明しています。

 

デュラスの記憶への態度:記憶は忘れていることに本質がある

 「流れるエクリチュール」や「走る文体」を考えるうえで、少しよそ見をすることにします。

 

 デュラスは人生を書くうえで、出来事に区別を立てることをしませんでした。ここにはデュラスの「記憶への態度」が表れています。

 

 『私はなぜ書くのか』のなかで、デュラスは人生が時系列に沿って区切られているという考え方を批判します。その批判は、人が自分の人生におけるひとつの出来事の射程を知らないでいるという点にはじまります。

 人は普段、多くの出来事を忘れています。そしてときたま過去の出来事が思い出されては自分のなかに保存されている記憶を確かめることができる。しかしデュラスは、人はそうした記憶の所在を確かめることができないことを指摘して、記憶が「わたしたちが好きなように資料を汲みあげてくることのできる文書庫ではない」のだと訴えるのです。

 デュラスにとって記憶は覚えていることよりも、忘れていることが本質的なのです。身に降りかかる出来事のほとんどを忘れていること、そして〝すべてではない〟ことを思い出し・覚えている状態こそが「真の記憶」なのです。

 

再び、走る文体

 ふたたび「流れるエクリチュール」「走る文体」の話に戻ります。

 『私はなぜ書くのか』のなかでデュラスは「走る文体」を次のように定義しています。――ほとんどそこに心がないような、物事を口にするよりも、それに追いつくことを急いでいる文体。そしてデュラスはそうした定義を、単語たちの頂上のことを言っているのだと述べた後で、以下の語りを続けるのです。

 「なくしてしまわないために、より速く進むために、頂上を走っていく文体。なぜならば、これは悲劇なのだけど、すべてをすぐに忘れてしまうからよ」(p153)

 ここで語られていることは記憶のことです。口にしようとする物事とは記憶のことであって、それは悲劇的にも忘れてしまう。だからこそ速く、速くそれに追いつかなくてはいけない。他方で、ここにはデュラスの「身体への態度」も表れています。

 

『愛人 ラマン』は人生を換喩的に表した文学である

 ここで、わたしは解釈をはじめます。

 (※すでにだいぶやらかしてる)

身体的な文体とその対極にある真の記憶

 たとえば『私はなぜ書くのか』において、デュラスは『愛人 ラマン』の文体を、「どうしてもと言うなら」と前置きながらも「身体的な文体」であると述べます。

 先に見たように、記憶は「忘れていること(忘却・空虚)」こそが本質なのでした。しかし同時に思い出していることが「見せかけ・表層」として、絶えず表面に浮かび上がってもいる。

 デュラスにとって、そうした表面に対して深部にあるものが真の記憶となり、真の記憶である深部に対して表面にあるものだと想定されているものが身体なのです。すなわち真の記憶の対極にあるものこそが身体なのです。

 とはいえ、真の記憶〝ではない〟記憶のほうは絶えず身体のほうへと浮かんでくるものです。それは見せかけであり、表層なのであって、その点では真の記憶が忘却されているうえには記憶と身体とが付かず離れずの状態にあります。

 

意味のある一般的な言葉と非意味的な特異的な言語

 ここでエクリチュールの話に戻りましょう。

 エクリチュールは「書くということ」なのでした。そして書く人であるデュラスは言葉の水準を尊重します。デュラスにとって言葉の水準であるエクリチュールは出発点なのです。『私はなぜ書くのか』から引用します。

「すべては言葉から出発します。わたしが使う言語の意味されるもの(シニフィエ)さえも、とりあえずは、わたしには関係ありません。」(p60)

 言葉には意味があります。しかしデュラスが出発しようとしている言葉は、〝意味されるもの〟とは無関係なのだと彼女は言うのです。デュラスのいう意味を欠いた言葉とは何なのでしょう。おそらくそこには記憶と身体の対比を重ねることができます。

 仮に、言葉から意味を差し引くと意味を欠いた非意味的な言葉が残ります。上に引用したデュラスの言葉使いを参照し、「言葉と言語」という使い分けをすれば、〝意味のある一般的な言葉〟と〝非意味的な特異的な言語〟との対比です。

 

身体で興る非意味的なものは他者に伝えることができない

 身体は絶えず出来事を記憶していて、対極にある真の記憶は底のほうに忘れられています。その中間には意識=記憶がある。ところで、何かに〝意味がある〟のはその意味を生成する・保証する別のナニカがあることです。言葉の意味が他者によって生成・保証されれば「一般的な言葉」になり、身体によって生成・保証されれば「特異的な言語」になります。

  • 他者が保証 → 一般的な言葉
  • 身体が保証 → 特異的な言語

  一般的な言葉は他者に意味が通じるものですが、特異的な言語は他人に通じたりせず、「ある人生を生きたひとつの身体」の姿が浮かびあがるだけです。

 限りなく表面にあるものが身体で、限りなく深部にあるものが真の記憶。――こうした表面と深部の関係においてある出来事が一般的な言葉で以て語りえるのなら、その出来事は一般的な意味を持っていることになります。言い換えれば、他者に伝えられるだけの一般性を持っているのです。

 他方で、身体で生成・保証された意味は他者へと伝えることができません。なぜなら自分の身体はただひとつだけですので、他の身体との意味のネットワークを設計することができないからです。意味のネットワークが興るのは深部の記憶からとなります。翻って、非意味的な意味にはならないものは表面の身体で興ります。

 

デュラスは人生を描くために記憶ではなく身体を恃んだ

 既成の一般的な意味を書いている自分には関係がないのだと言うとき、そこでデュラスは、〝一般的な意味〟に対して〝特異的な非意味〟のほうに価値を置きます。

 人生は記憶されています。自分の生きた人生を描くとすれば自分の記憶と向き合わないではいられません。しかしその記憶は忘れられています。それが真の記憶です。人が覚えている記憶はせいぜい氷山の一角なのであって、ここには人生そのものを描くことの不可能性があります。

 デュラスは人生を描く不可能性に対して、記憶ではなく、身体を恃んだのでしょう。出来事の記憶ではなく、出来事に晒されてきた自己の身体を。身体が人生を前におのずと語りだすところを文に変えていくことができたとき、デュラスは一般的ではない特異的な――それこそ事柄そのものへと切り込んでいける身体的な文体を手に入れられたのです。

 

「走る文体」も「流れるエクリチュール」も表面的である

 エクリチュールは書くことです。書くことは通常、意識活動の名のもとに記憶を参照しつつなされる行為です。しかしそういった事情は自分の人生の〝事柄そのもの〟を描こうするデュラスにとっては都合がよくありません。

 なぜなら記憶は「わたしたちが好きなように資料を汲みあげてくることのできる文書庫ではない」のですから。逆にいえば、わたしたちが〝好きなように〟汲みあげることのできる資料(記憶)は、事柄そのものを表す記憶としてはふさわしくないのです。

 しかし『愛人 ラマン』においてデュラスは、事柄そのものを描くのにふさわしい文体を手に入れました。それこそが「走る文体」であって、「流れるエクリチュール」なのです。

 デュラスが手に入れた文体に関して、彼女自身が述べるところを並べてみましょう。

  • 記憶の鮮明さということだけにとどめておくこと
  • 一種の意図しない簡潔さ
  • 身体的な文体であること

 記憶の鮮明さ、簡潔、そして身体。いずれもが表面的であることに属していることがわかります。見せかけであり、表層であり、表面なのです。ようするに「走る文体」も「流れるエクリチュール」も表面に属することになります。

 

『愛人 ラマン』は物語でなくもない、瞬間が印された文学作品である

 デュラスは限りなく表面的である身体の水準に、自身の特異的な言語――つまりは「書くということ(エクリチュール)」を見出したのです。そこにはまず、意図がありません。身体という表面に流れついては忘却の波にさらわれる記憶。表面から深部をつかむこと、部分でもって全体を表現するという、換喩的に構築された『愛人 ラマン』というテクスト。流れるように書かれるエクリチュール。

 デュラスは『愛人 ラマン』を「エクリチュールについての本」だと述べました。池澤夏樹は『愛人 ラマン』を「彼女の人生についての真実も事実もなく、文学があるのだ」と述べ、デュラス自身でも「あまりに文学に満ちた作品」だと語っています。また、坂本佳子と郷原佳以は『愛人 ラマン』を物語にならないものを描こうとした作品なのだと述べます。

 『愛人 ラマン』がエクリチュールについての本であり、文学に満ちた作品であり、そして物語にならないものを描こうとした作品である。それらがひと続きになっていることを踏まえて、最後に『私はなぜ書くのか』でのデュラスの次の語りを見てみます。

「書くこと、それは物語を語ることではありません。物語を取り巻くものを語ること、物語のまわりにひとつ、またひとつと瞬間を作りながら進んでいくのです。そこにあるものすべては、けれどもそこにないこともできる、あるいは交換可能である。まるで人生の出来事のように。」(p61)

 デュラスは〝人生の出来事〟と言っています。それも〝交換可能である〟ような出来事を。人生がひとつの全体を形作っていることは確かです。しかしその全体を構成する出来事が交換可能なもので埋め尽くされているからこそ、単に物語ったところで人生の全体を表すことはできない。――おそらくはそういうことなのでしょう。

 だからこそ、人生のひとつひとつの出来事が瞬間として定義された、全体を表すための換喩の機能を果たすようになることが大切になります。物語でなくもなく、しかし文学であるもの。時間によって語られるよりかは、瞬間が印された、そんなエクリチュールであることが。

 『愛人 ラマン』が印されたエクリチュールであり、エクリチュールについての書かれた文学作品であるということは以上の理由によって成立しているのです。

 

まとめ:『愛人 ラマン』=エクリチュールについてのエクリチュール

 ここまでエクリチュールとは何なのかという観点から『愛人 ラマン』を見てきました。デュラスが『愛人 ラマン』において獲得した「流れるエクリチュール(走る文体)」によって描かれた、換喩的な自身の人生の表現。身体の表面をかすめる、もはやその言葉が何を〝意味されている〟のかもどうでもいいといった境地。まさに卓越しています。

 意味にこだわらない特異的な言語を用いて書いていた際に、いったい何を感じていたのかと訊かれたデュラスは、『私はなぜ書くのか』のなかで次のように応答しています。

「ある種の幸福感ですね。この作品は闇のなか……わたしが自分の子ども時代や追いやった闇のなかから、順番がめちゃくちゃになって出てきました。脈絡のないエピソードが次から次へと続き、わたしはそれを見つけては、立ち止まることなく、予告することなく、完結させることなく、放棄していきました。」(p43)

 完結させることなく、放棄している。はたしてそんな書き方がありえるのでしょうか。それも『愛人 ラマン』を読んでみなければわかりようもありません。もちろん読んだところでわかる保証もないのですが。

 つまるところ、『愛人 ラマン』物語や小説である以前にひとつのエクリチュールです。あるいはエクリチュールについてのエクリチュール。

 エクリチュールは「書くということ」であり、「書き方」であり、そして「書かれたもの」なのであって、それらはみなデュラスの手によるものであり、デュラスが自分の人生に切りこんでいったことで生まれた関係の織物(テクスト)なのです。

 そうした消息をうかがえば、『愛人 ラマン』を読むことは作者デュラスとエクリチュール『愛人 ラマン』の関係に踏み込んでいくことだと言えるかもしれません。

 

_了

参考資料

マルグリット・デュラス愛人 ラマン』清水徹訳,河出書房新社,1985

マルグリット・デュラス『太平洋の防波堤/愛人 ラマン/悲しみよ こんにちは (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-4)』田中倫郎・清水徹訳,河出書房新社,2008

マルグリット・デュラス『私はなぜ書くのか』北代美和子,河出書房新社,2014

アラン・ヴィルコンドレ=文,ジャン・マスコロ=写真コレクション『デュラス―愛の生涯』田中倫郎訳,河出書房新社,1998

ユリイカ1999年7月号 特集=マルグリット・デュラス』,青土社,1999

コメント

タイトルとURLをコピーしました