「意味あんのかよ、こんな世界!」を考える:『クチュクチュバーン』

小説
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 令和の夏。わたしはSNSのタイムラインのなかに、ある小説本を読んだ方の投稿を偶然発見しました。『クチュクチュバーン』━━吉村萬壱の小説2作品が収録された、2002年に刊行された本です。
 その投稿によれば『クチュクチュバーン』は意味を徹底的に剥ぎ取る、暴力的なまでの意味のなさが表現されているというのです。
 いみじくも詩人の川口晴美が指摘するように「結論や意味づけからどこまでも逃れて、現実には役に立たないことや意味のわからないことに寄り添っていける言葉」が詩なのであり、そのようなものであるからこそ、詩は人を魅了する。
 ━━詩と小説が同じ評価基準から判断できるのかは、ここでは問わないにしましょう。
 しかし、意味のなさを描く『クチュクチュバーン』もまた、「結論や意味づけからどこまでも逃れて、現実には役に立たないことや意味のわからないことに寄り添って」いるのだとすれば、それはやはり人を魅了するものになっているのではないでしょうか。
 かくして、わたしは読むことにしたのでした。
 原作に描かれている意味を剥奪する力や、およびその〈意味のなさ〉━━そういった点に焦点を当てて、『クチュクチュバーン』という本をご紹介します。
 
この記事で取りあげている本
吉村萬壱『クチュクチュバーン』,文藝春秋,2002
 
 
この記事に書いてあること
  • 吉村萬壱の本『クチュクチュバーン』には、2001年度の文學界新人賞を受賞した「クチュクチュバーン」と「人間離れ」の2作品が収録されている。どちらの作品も筆舌に尽くし難い。
  • 「クチュクチュバーン」に登場する見る人・シマウマ男は〈意味あんのかよ、こんな世界!〉と叫ぶ。シマウマ男にとって世界は意味のなさにおいて記憶されている。
  • 「クチュクチュバーン」では〈考える人〉と〈見る人〉という対比されている。〈考える=思考〉では付けられることになる記憶の優先順位が、〈見る=直観〉においては存在しない。

 

「意味あんのかよ、こんな世界!」を考える:『クチュクチュバーン』

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『クチュクチュバーン』の内容紹介

 『クチュクチュバーン』は作家・吉村萬壱の単行本小説です。「クチュクチュバーン」と「人間離れ」の2篇が収録されていて、どちらの内容も筆舌に尽くし難いイカレた小説世界が展開されています。“ イカレた ”と書いてみはしましたが、表題作の「クチュクチュバーン」は2001年の文學界新人賞作品だったりするので侮ってはダメです。

 “ 筆舌に尽くし難い ”とは言った手前ではありますが、『クチュクチュバーン』の本を紹介する建前上、以下に収録されている2篇の小説の内容をさらってみることにします。

「クチュクチュバーン」
 人体が正常な形ではなくなりつつある母親とその子どものやり取りからはじまる。視点は幾人かに移動するものの、そのどれもが異形。五体がきちんと揃っていなかったり、もしくは手足の数が増殖したり。はたまた動物や静物との融合、巨大化したり。当然社会秩序もままならない。人類みなが異形化しつつある世界。そんななか、全ては一つに収縮していき集合体と化す。それはクチュクチュと凝縮し、やがてバーンと弾けるのだった。
人間離れ
 ある日、さまざまな大きさの卵が降ってきた。地球上の全システムが壊滅する。卵からは蟹のような〈緑〉と、内臓そのもののような〈藍色〉がウジャウジャ出てきて、それらは人間を殺戮する。人間は生き残ろうとするも手立てがなく、終いには肛門に指を突っ込んで腸を引きずり出す「直腸出し」という芸当でもってやり過ごそうともします。はたまた犬畜生に身をやつしたり、殺人をしたり。まさに「人間離れ」の観を呈するのだった。

 以上が『クチュクチュバーン』に収録された2作品のざっくりとしたあらすじになります。

 ジャンルとしてはSFになるでしょうが、物語はエロありグロありの、ナンセンスかつスプラッターな作品となっています。

 

シマウマ男の退屈から

 『クチュクチュバーン』の表題作である「クチュクチュバーン」にはいくつかの登場人物が出てきます。ここでは特にシマウマ男という人物に焦点をしぼり、シマウマ男の作中世界での経験を見ていくことにします。

意味あんのかよ、こんな世界!

 「クチュクチュバーン」を読むとき、本文中からもっとも多くの読者の共感を得ることのできるセリフを挙げるとすれば、きっと次のセリフが選ばれるでしょう。

意味あんのかよ、こんな世界!

 ━━単行本の帯のキャッチコピーにも使われたこのセリフは、「クチュクチュバーン」に登場する〈世界の観測者〉となったシマウマ男によるものです。

 見ることを己れの務めとするシマウマ男はクチュクチュと化する世界(それがどのように混沌とした事態であったのかは本編を読んで確かめてください)を見届けます。シマウマ男は終わりゆく世界のその後までも見続けることを許されていました(誰によってか、何によってかはわかりません)。シマウマ男が見たものは、《人々は愛し合い、憎み合い、殺し合っていた。それだけの光景》。━━観測者であるシマウマ男にとって、それらはあまりに退屈な眺めでした。

 世界の退屈さを痛感した直後、シマウマ男は自死します。そのときに叫んだのが〈意味あんのかよ、こんな世界!〉だったのでした。

 《意味あんのかよ、こんな世界!》は『クチュクチュバーン』の内容をよく表現した言葉です。しかし冷静に考えてみればシマウマ男が目にした人々の愛憎のいとなみは、むしろ、大抵「人が生きる意味」と言われる風景です。

 穿った目で見るなら《意味あんのかよ、こんな世界!》は、「クチュクチュバーン」という小説自体に言及する言葉として読めます。その場合、シマウマ男があまりに退屈すぎて自死を選んだ世界は、「クチュクチュバーン」の物語世界を超えて、すべての「人が生きる意味」を描いた小説および物語に向けられた言葉として読むことができます。

 

何故だかわからないけれど妙に記憶に残っていることの無意味さ

 以下では上で確認した世界の無意味さを掘り下げてみます。

 ある種の無意味さは好ましい好ましくないに関わらず鮮烈に記憶に残ることがあります。さながら、強烈なショック体験や精神的ストレスを負ったときに、その出来事に意味を与えることができずに苦しむ心的外傷後ストレス障害、すなわち〈トラウマ〉のように。

 人にはトラウマと呼ぶほどには病的でなくとも、〈何故だかわからないけれど妙に記憶に残っているシーン〉があります。むかし友達に言われた何気ない一言、小説をパラパラめくったページに見つけた一文━━などなど。

 以上の、さながらトラウマのように妙に記憶に残っているシーンは、意味があることよりも意味のなさによって記憶に銘記されています。なぜ特定のシーンを忘れずにいるのかということの理由がわからないままに自分の記憶に刻まれている。そこにある〈無意味〉。意味を感じているからこそ覚えているという以前において、不如意に記憶させられることになっているという事態の無意味さ。この無意味さに関して、文章を続けていくことにします。

 

見当識と記憶の関係

 脳科学者J・アラン・ホブソンの『夢に迷う心━━夜ごと心はどこへ行く?』では〈心脳パラダイム〉がベースとなっています。「心脳パラダイム」とは脳と心を同一視し、ひとの心を脳内現象によって説明しようとする立場のことです。この場合の「心」は意識のことだと考えていいでしょう。

 この本には脳と記憶の関係についても言及されています。心脳パラダイムの立場にあるホブソンは、脳と記憶の関係のあいだに意識を位置づけるのです。

 ホブソンは次のように主張しています。

脳に記憶内容を定着させるには、夢を見ているときのように、見当識を失っている状態が必要である

 〈見当識〉とはある意識の自覚状態のことです。自分が何者であり、今はどこにいて、何をしているのかがわかっている状態。━━そうした状況がわかっている状態を、〈見当識がある〉と言います。他方で、意識が〈見当識を失っている〉状態(失見当識)があります。その最も身近な例が睡眠状態です。

 眠っているとき、人は自分の状態への認識作用を停止しています。この点で、人が寝起きにぼーっとしている状態も、失見当識の状態からはっきりとした見当識の状態に意識が回復しきっていないからなのだと説明できます。

 

夢中状態では直観的なイメージを記憶しやすい

 さて、一般的に睡眠時間には記憶が整理されていると言われます。その補足には、脳が現実の出来事に優先順位をつけ、重要度の低い情報は忘れ、重要なことを記憶に定着させる━━などと言われるわけです。

 眠っているあいだに夢を見ることがあります。ところが夢の内容は記憶に定着しにくいです。この理由は脳が外部の現実のことを記憶しようとする習性から理解できます。脳が夢の内容を覚えていても日常生活には役に立たないと判定するのですね。ただし、夢を見ている時の〈夢中状態〉では脳の機能は高まってもいます。

 心理学ジャーナリストとして活躍する佐々木正悟は『脳と心を味方につける マインドハックス勉強法』の中で、脳と記憶の関係のあいだに意識を位置づけるホブソンの考えを勉強術に応用します。佐々木が考えたのは、見当識を失っている(もしくは失いかけている)〈夢中状態〉を使って暗記物を覚える、というものです。

定期試験の前日など、長く勉強しているとどうしても退屈になって、教科書によだれを垂らすような事態に陥ります。そうなると自分でも、〈ウトウトしながら勉強していても、頭に入らないな」などと思ってイヤになったものですが、そういうときに読んだことというのは、意外に頭によく残っていて、自分でも驚くことがよくあったのです。

 佐々木正悟は「夢中状態」を活用して暗記する勉強法を「ウトウト勉強術」と呼びます。ウトウト勉強術の要点は、抽象化された意味が記憶に残るのではなく、直観的なイメージが《目にしたそのまま》の形で記憶されることです。目にしたそのまま、すなわち、意味づけがなされていない(さながらトラウマにも似た)イメージそのままの状態。

 

見る人・シマウマ男の記憶

 再び「クチュクチュバーン」の方に目を向けてみます。

 シマウマ男が叫んだ《意味あんのかよ、こんな世界!》は、ふつう〈人が生きる意味〉と言われる人々の愛憎のいとなみでした。シマウマ男は〈人が生きる意味〉が無意味であると言ったのです。

 しかし、シマウマ男が「見ることを仕事」にしていることを思えば、彼のいう〈無意味さ〉とふつう言われる〈人が生きる意味〉は両立します。

シマウマ男は考えることをやめて見ることにした

 「クチュクチュバーン」の終盤、シマウマ男はクチュクチュに呑み込まれていき、最後には目玉だけになります。他の生物はみなゼリー状物質となって一つに溶けてしまっているのですが(とはいえ溶けていても声だけは無数に響いている)、見ることを仕事にしているシマウマ男だけは、(存在することは見られることであるという原理に則って)クチュクチュを存在させるための観測者として(世界の側から?作者の側から?)存在することを許されたのでした。

 考える人であるシマウマ男にとって、クチュクチュの事態は腹立たしいほどに意味がわかりません。なのでシマウマ男は次のような決心をするのです。

「考えてはならないぞ。俺は見るだけだ。考えるもんか。考えても、何一つ分かりっこないのだからな!」

 ここでは〈考えること〉と〈見ること〉とが対立させられています

 考えることは抽象化することであり、意味を求めることです。他方で、見ることは直観的であり、抽象化のプロセスを必要としません。言葉の意味を思えばわかるように、聴覚音像としての言葉に〈意味がつく〉には(随意的・非随意的問わず)思考という抽象化のプロセスを経る必要があるのです。

 考えるためには「意味がわかる」必要があります。ですが、クチュクチュという未曾有の事態のなかでは意味がわかることなどなく、考える人・シマウマ男はまともに考えることができません。だからこそ考える人・シマウマ男は見る人にならねばならなかったのです。さもなくは、まともに考えることもままならず、事態の意味のわからなさに発狂してしまいかねなかったのですから。

 

目だけになったシマウマ男の記憶の定着

 

 シマウマ男が《意味あんのかよ、こんな世界!》と言い放ったのは、目玉だけになった後の世界でした。クチュクチュがバーンと弾けた後の世界では、人類は虫のような形態になります。その中にシマウマ男もいました。シマウマ男は依然として〈世界の観測者〉だったのです。たとえ今の体が死んでも、また別の体で生まれることになる。

 奇妙なのは、シマウマ男には世界がクチュクチュする前も、バーンと弾けた後の記憶も残っていることです。

 バーンと弾けた後の世界で、シマウマ男は質問男から質問を受けます。

「お前は一体何者なのか?」
「さあね。昔はシマウマの顔をしていて、その前は水道局に勤めていた。どうして俺には、こんな記憶がずっと消えずに残っているんだい?」

 J・アラン・ホブソンは脳と記憶の関係のあいだに意識を位置づけました。佐々木正悟は見当識を失いかけているウトウトした状態が記憶に使えると考えました。ホブソンの理屈では、脳による意味づけには優先順位があります。しかし無意味なものは優先順位がつけられません。だからこそ、〈夢中状態〉や〈ウトウトした状態〉に覚えた(=見た)ことは脳の優先判定を免れることができ、記憶の定着もしやすいのです。

 

〈われ考える〉ではなく〈われ見る〉、故に、〈われ有り〉

 正常さの原則を〈われ考える、故に、われ有り〉に見ることにすれば、思考の成立こそが自らの存在を証しづけることになります。思考こそが夢と現を分ける基準だと言ってもいいでしょう。夢の場合はただ見ることに関わります。脳と記憶に関するホブソンの考えを参照すれば、物事に夢中になっている状態は、思考よりも夢中状態の意識が優位になっていると考えられます。

 抽象化を行う思考に優先して直観的なイメージが優位にある世界はさながら夢の世界です。夢は、物事の意味を現実のなかに位置づけて考える人にとっては記憶に値するものではないでしょう。しかし、目玉だけの存在となり〈世界の観測者〉になったシマウマ男の記憶は、夢と現の境界が取り払われています。なぜなら、シマウマ男は考えることをやめたからです。ですのでシマウマ男は夢と現の区別もなしに世界を目撃することになっているのです。

 考える人から見る人になったシマウマ男にとって、〈われ考える、故に、われ有り〉の正常さはありません。強いて言えば〈われ見る、故に、われ有り〉です。その場合には、物事に優先順位をつける意味的思考の審級はなくなり、無意味的直観のイメージが記憶されることになります。シマウマ男になった後のシマウマ男は、自身の現在の生でさえも十分な意味にはなりえません。それゆえに死んでからあとの生でさえも、さながら夢のごとき前世の記憶を忘れることがないのです。

 

目だけになったシマウマ男は無意味さではなく意味に耐えかねる

 シマウマ男が目だけの存在になったことは〈意味〉を手放したことだと言っていいでしょう。意味とは無関連に、ただただ光景を目にする。それは抽象化することなしに直観的に物事を見ることです。意味づけがなされていないため、そこには〈無意味さ〉があります。シマウマ男にとって世界はこの無意味さにおいて記憶されていたのです。このためにシマウマ男は直観的な無意味さの方に意味を感じていたのでした。

 シマウマ男は《意味あんのかよ、こんな世界!》と言って自死しますが、それは人々の愛憎のいとなみが〈意味のあるもの〉であったからこその自死でした。それらが無意味ではないからこそ、「世界を見る目」であるシマウマ男にとっては退屈だったのです。

 シマウマ男の目は直観的なイメージのみが映ります。物事のオモテ面がウラ面の反映であることで意味が発生するのだとすれば、ウラ面を想定せずに、ただオモテ面だけがある。これが思考を通した抽象化をすることなしに直観的なイメージがある状況です。こうした〈目だけになったシマウマ男〉にとって、ふつう、意味とされているものを〈意味のあるもの〉だと認知することができなくなっていたのでした。

 

現実と夢に関する極私的メモ:現実的な思考としての意味の審級

 以上のことを踏まえますと、「クチュクチュバーン」からは意味/無意味、そして記憶に関して以下の3点を教わることができます。

正常な思考は現実における意味と無意味とを分ける。
現実から夢の記憶を差し引く意味の審級は、現実的な思考によって構成される。
逆を言えば、目覚めても夢を記憶したままでいることは、現実において十分に思考を働かせることができなくなっていることである。

 上の3点はこの記事を書いたわたしの極私的なメモです。

 

まとめ

 この記事では『クチュクチュバーン』に収録されている2編のうち、主に「クチュクチュバーン」を取り上げました。登場人物のひとりであるシマウマ男を通して、〈考えること〉と〈見ること〉とが対比されています。そのことから「クチュクチュバーン」におけるシマウマ男の記憶のあり方についてまとめました。現実と夢との境界を、直観的イメージを用いることによって記憶するのです。「クチュクチュバーン」のシマウマ男から、〈考える人〉ではなく〈見る人〉になることについて考えてみるのもいいでしょう。

_了

 

参照資料
吉村萬壱『クチュクチュバーン』,文藝春秋,2002
 
 
川口晴美[ほか]『ユリイカ 2014年12月号 特集=百合文化の現在』,青土社,2014
 
 
J・アラン・ホブソンの『夢に迷う心━━夜ごと心はどこへ行く?』池谷裕二監訳,朝日出版社,2007
 
 
佐々木正悟『脳と心を味方につける マインドハックス勉強法』,日本実業出版社,2008
 

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