【人に詩を書かせるもの】読む効用・想う恋愛・書く宿命|小泉周二

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現代詩文庫》は知られていますが、《現代児童文学詩人文庫》ってシリーズもある…そこに入ってる詩人のひとりが小泉周二です。この記事では『小泉周二詩集』に収録されている詩作品を取りあげつつ、詩を読むことの効用・詩作が恋愛に似ていること・詩を書くことの宿命についてをご紹介します。総じて、「何が人に詩を書かせるのか」をお楽しみいただける…はず!
この記事で取りあげている本
 

【人に詩を書かせるもの】読む効用・想う恋愛・書く宿命|小泉周二

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詩人・小泉周二とその詩集

詩を読む人のなかでは思潮社の《現代詩文庫》って叢書シリーズが知られています。おもしろい詩を読みたい・すばらしい詩人と出会いたい人は「現代詩文庫」から選べば後悔することがない、といった代物です。
他方で、詩には子ども向けに書かれたものもあって、いしずえっていう出版社から《現代児童文学詩人文庫》ってシリーズもあるんですよ。
今回取りあげるのはその叢書の中の第9巻にあたる『小泉周二詩集』です。
小泉周二について軽く紹介すると、茨城県ひたちなか市の生まれで、15歳のときから先天性進行性の難病「網膜色素変性症」となり、将来的に失明する可能性がある宿命を負います。それ以来、なのか、生きていく支えとして〈詩を書くこと〉を始めたのでした。
詩を書くきっかけとして自身が語っているのは、母が聴いていたラジオや家にあった童話全集、文学全集(これは兄や姉たちが読み聞かせてくれたらしい)の影響があったとのこと。小泉周二のホームページに掲載されていたという文章では「僕の言葉についての感覚は読むことよりも聞くことにによって養われたのかもしれません。」(第六十四号より)とあるように、ここでも「目で見る世界」ではなく「耳で聞く世界」から豊かな意味を汲み取る性格がうかがえます。(ちなみに同じ箇所で、中学生の時に感動した詩として三好達治の「」が挙げられています。)
詩を書く以外には小学校の先生として児童に勉強を教えたり、歌手として音楽CDを出したりなどもしているの特筆すべきところでしょう。
詩の内容では海や犬、それから弱視であることに由来したものが多い詩人です。
 

作品鑑賞あるいは誤読

ここでは小泉周二の詩を実際に読んでいきます。国語教科書で取りあげられる「水平線」から、小泉周二作品の読まれ方を押さえ、次に「遠い海」を通して “詩を書くこと” と “誰かに恋すること” との近さを紹介し、最後に「空気と勇気」で描かれる “詩人が詩を書かざるを得ない情念” を、一種の誤読を通して取りあげます。

小泉周二詩の読まれ方──「水平線」の場合

小泉周二の詩は小学校の国語教科書に掲載されました。とりわけ長く掲載されているのが「水平線」という作品です。
水平線
水平線がある
一直線にある
ゆれているはずなのに
一直線にある
 
水平線がある
はっきりとある
空とはちがうぞと
はっきりとある
 
水平線がある
どこまでもある
ほんとうの強さみたいに
どこまでもある
(『小泉周二詩集』,p8-9)
「水平線」は『小泉周二詩集』の冒頭に載っている詩です。読んでみると浜辺に立って海を眺めている詩人の姿が浮かび、目の前には果てない向こうに水面を揺らしている水平線が果てなく広がっているのがわかります。それを水平線として見つめる瞳には、一直線でありながらも同時に不確かにゆれてもいる、そのことを不思議に思う素直さが宿っている。そしてどこまでもある水平線に、詩人は「ほんとうの強さみたいなもの」を感じるのでした。
国語教育学者・鶴田清司は、児童文学作品としての「水平線」を次のように評しています。
子どもたちに〈水平線がある〉という表現に込められた詩人(語り手)の内面的真実(認識・心情)に触れさせようとしたのである。〈水平線がある〉という認識・表現の不思議さ(異化性)に気づくことから詩の世界に分け入り、一つの確かな存在としての〈水平線〉を見て「かくありたい」と共鳴や憧憬を抱く語り手の内面にどれだけ接近できるかが勝負であった。
(『少年詩・童謡の現在』,p299)
異化性」とあるのは物事の不思議さに気づき、その不思議さを見過ごさないように、じっと観察するといった意味です。
「水平線」という詩には〈水平線がある〉という事実に驚きの目を向けて、そこから触発されて感興の起こった詩人のまなざしが込められています。そのまなざしに読み手自身のまなざしを重ねることによって、詩人が発見したように確かな存在としての〈水平線〉を発見し、感動する──この、ある種音楽的とも言える共鳴・追体験・精神的な感応の作用をうながすのが詩を読む効用であり、詩を体験することによる教育となるのです
 

会いたいものを想う時間──「遠い海」を読む

小泉周二の詩に「遠い海」があります。これはちょっと走りさえすれば海に行けるのに、あえてそうすることはせずに自分の部屋なりでひとり海野ことを想っている、といった情景を歌ったものです。
遠い海
一っ走りすれば
会えるのに
ほおづえをついて
想っている
 
いっぱいの青
まけない白
やまない歌
 
一っ走りすれば
砂浜に立てば
ぼくのものになるのに
 
息をころし
目をとじてひとり
想っている
(『小泉周二詩集』,p22-23)
「遠い海」の読みどころはもちろん、「なぜ海を遠いままにしておくのか」になるでしょう。というのも、〈一っ走りすれば〉海に行けるというのに、そして〈砂浜に立てば/ぼくのものになるのに〉、なのにそうすることはしないのですから。──つまり、海との関係や距離感を遠いままにしているところに、この詩の味わいがあるのですね。
ここで歌われている “海” とは何か。それは実際の海に似た、どんな海以上の意味を湛えているのか。肝心なのはここでの詩人=ぼくが「会いたいのに、実際に会いに行くことよりも、ひとりで相手を想っていることに価値を見出している」という点でしょう。これはまさに、詩人が詩を書く行為そのものではないでしょうか?
恋愛のイメージを借りてみましょう。恋をすることは相手に会いたい状態です。そして側に相手がいないからこそ、手紙なり電子メールなり電話なりをしたくなる。この場合、会えないことによって「会えるまでの時間」が生じます。それに対して、実際に相手と会っているときには「会えるまでの時間」はなくなり、一種の無時間の状態になる。これが恋愛の風景です。(実際には会いたい人と会っているときにも、「会えなくなるまでの時間」が生じるでしょうが、ややこしくなるのでここでは割愛します。)
──このことを詩人が詩を書くことと重ねるなら、詩人は「恋人と会っている時間」ではなく「恋人と会えるまでの時間」において詩を書くことになります。なにせ、愛しい人と会えていないからこそ、会いたい心情を相手に伝えるための努力として、メッセージを表現したい欲求が生じるのですから
相手なしには表現(欲)はありません。しかし、恋しい相手がいても、 “相手が目の前にいるから表現できない” という事態もあるのです。なぜなら、相手が目の前にいれば時間が生まれる余地がないから。恋する相手がいて尚且つ会えない状態にある、その〈切なさ〉にこそ「創造の時間」は生じる。会いたい相手が目の前にいない状態にあってこそ、詩は生まれのです。
また、「遠い海」がどうして “海” というイメージによって歌われた詩なのかについては、次の国文学者で歌人でもある佐佐木幸綱の言葉が参考になります。
「歌を書く時に時間に神経質に感覚が動いていくということがある。で、やはり海っていうと時間が止まっている、時間が悠久だっていう感じがする。そこへいくと川は時間が過ぎていくという実感が直接的だ。」
(佐佐木幸綱の発言「川辺での対話」吉増剛造『打ち震えていく時間』,p84)
歌=詩を書くことはある種の時間感覚に神経を澄ませることですが、海を想うとなると時間が止まった、悠久のものであるといった感じがある、そう指摘されています。そして「海」に対して「川」が持ち出されているのは、無時間的な海に対して、川には時間が過ぎていく流れの感覚があると続けている。
改めて小泉周二の「遠い海」に目を向ければ、そこには詩人の “無時間的なものへの憧憬” がありながら、しかし実際に海には行かないで机に座ってひとり海のことを想っている、その情景のうちに、時間の気配があることに気づけます。時間の気配とは詩が立ち昇る気配であり、〈渾々と想う私〉の姿のことでもあって、それはまた〈滔々と流れる川〉のようでもある
「遠い海」とは、無時間的なものとの遠さにおいてこそ詩の形に結晶する詩人の想い、あるいは「会いたいのに会えない時間」の形象なのです。
 

詩人の情念あるいは宿命──「空気と勇気」を誤読する

「空気と勇気」って作品があります。空気も勇気もなければならないものなのだと語る詩。
空気と勇気
あるのかないのか
はっきりしないが
 
すうのが空気
だすのが勇気
 
つつむのが空気
ささえるのが勇気
どっちも
なくては
生きていけない
(『小泉周二詩集』,p28)
吸うのが空気で出すのが勇気。包むのが空気で支えるのが勇気。どちらとも、あるのかないのかがはっきりしない。けれども、「どっちも/なくては/生きていけない」
さて、ここから少し特殊な言い換えを行ってみます。誤読と言ってもいいかもしれません。
空気と勇気。──言い換えると「吸うもの・包むもの」と「出すもの・支えるもの」となりますが、それをここでは「食う気と言う気」に変換することにします。
言葉遊びのようになりはしますが、〈空気〉を生命にとっての糧食摂取=〈食う気〉として理解できます。また、〈勇気〉を自分にとっての意思表示=〈言う気〉として理解することもできるでしょう。
詩人は「空気と勇気」を通してインプットするものを〈空気〉とし、アウトプットすることが〈勇気〉であることを歌っています。いわば「空気は存在するための食う気」であって、「勇気は表現するための言う気」である、というわけです。
「空気と勇気」の詩において「どっちも/なくては/生きていけない」と歌っているのが詩人であることを考えると、空気だけあればいいというのは、人がただ生活を送っているだけの状態を言うでしょう。いわゆる表現活動をしていない状態ですね。しかし彼は同時に、 “勇気=言う気” がなければならないと言う。空気と勇気、または食う気と言う気の両方がなければならないと歌っている。ここには詩人にとっての宿命と言ってもいい “切実なもの” の気配があります
ようするに、「空気と勇気」という詩そのものが “空気=食う気” によって生きてきた詩人がいて、 “勇気=言う気” を通して表現された事実を物語っています。そして、この詩自体が〈食う気〉だけでなく、〈言う気〉もなければ生きてけないと語っている──ここには詩人の切実な情念を見つけることができます
「空気と勇気」と同じモチーフが生きているように思われるのが「人間」という詩です。
人間
空気みたいになりたいなあ
誰にも気づかれないけれど
すべてのものを生かしてる
空気みたいになりたいなあ
でもね
ぼくは人間
誰かに気づいてもらいたいよ
誰かに感謝されたいよ
(『小泉周二詩集』,p82)
「空気と勇気」の中で空気と勇気の両方がなければダメなんだと歌っていたことを思えば、「人間」の詩の中で「空気みたいになりたいなあ」と歌うものの、「でもね/ぼくは人間/誰かに気づいてもらいたいよ/誰かに感謝されたいよ」と歌っているくだりには、やはり “空気=食う気” だけではダメで “勇気=言う気” も共存させていなければならないという情念がリフレインしていることがわかります。
「空気と勇気」と「人間」の詩からうかがえるのは、詩人の生態──詩人にとって「詩を書くこと」が “それをせずには生きてはいられない” ほどに強く駆り立てられてしまうものだということなのです。
 

まとめ

小泉周二の書く詩は子ども向けに書かれたものとあって、読みやすく、そして優しい内容です。しかし、どの良質な詩がそうであるように、大人が読んでも深い感動のある作品です。良質な詩というのは詩人の感動を表現したものである以上に、詩人が詩を書くときに伴う情念を帯びた呼吸が伝わってきます。そうした作品はまた、読み手を詩人へと駆り立てもするのです。よろしければ、あなたもなってみませんか、詩人ってやつに?
_了

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