【突然の崩壊だ。】現実とは崩壊しつつある建設現場である:建設現場

小説
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 こんにちは、ザムザ(@dragmagic123 )です。わたしは2019年3月から音読で本を読むという日課をしています。その第1冊目に選んだのが坂口恭平の小説『建設現場』でした。

 

 わたしは『建設現場』が刊行された直後に、青山ブックセンターで開かれたトークイベントに参加しました。2018年の10月21日。イベント名は「『建設現場』(みすず書房)刊行記念 書かずにはいられない 坂口恭平 トークイベント」。

 さしあたってはこの記事の中で上記のトークイベントの内容については触れませんが、その日、わたしと『建設現場』との縁がつながれることになったのです。

 

 ところが身辺がごたついていたわたしが『建設現場』を読むことになったのはトークイベントの翌年の3月に相成りました。

 全5章の118節に、エピローグに当たる文章が加えられることで構成された『建設現場』。その本をわたしは1度に3節ずつ読み進んでいきました。そして『建設現場』全311ページを39日掛けて読みあげるに至ったのです。

 

 今回ご紹介する『建設現場』は以上のような経緯で読了した本になります。この記事を書いている2019年9月26日02:03現在、Amazonの当該ページにはレビューがありません。そのことは読者の『建設現場』という本への関心の薄さを表しているのではなく、本の内容が筆舌に尽くしがたいからであるように思われます。ようするに、よくわからないのです。

 この記事ではそんな筆舌に尽くしがたい『建設現場』を、筆者が音読して体感したものを踏まえた解説を挟みつつ、ご紹介していきます。

この記事で取りあげている本
坂口恭平『建設現場』,みすず書房,2018
 
 
この記事に書いてあること
  • 『建設現場』は建てない建築家・坂口恭平が書いた小説である。躁うつ病の患者である坂口の現実はたびたび崩壊する。坂口の創作活動は、そうした「崩壊する現実」への抵抗運動なのだ。小説『建設現場』は坂口の現実の消息を反映する形で描かれた現実建設の物語である。
  • 『建設現場』は現実を構成する〈書くこと〉と〈見ること〉を巡る小説である。書くことを通して、見る。目に見えている現実の背後に、目に見えないものの働きがある。現実は一つの建設現場なのだ。現場は絶えず崩壊しつつあるため、設計し、工事する必要がある。
  • 現実を生きる者は、現場で労働をしている。それは「崩壊する現実」を設計することでもある。やがて現実が崩壊することになったとしても、それは現実を生きる者自身が設計し、工事した結果なのである。「建設現場」とは、自分自身の拠って立つ現実を建設する現場に立っている人間の状況のことなのだ。

 

【突然の崩壊だ。】現実とは崩壊しつつある建設現場である:建設現場

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坂口恭平と『建設現場』

 『建設現場』は小説です。どこかから集められてきた労働者たちがせっせと働く現場があり、その現場は着々と崩壊している。主人公の男は自分がここにいる理由もわからないままに崩壊の進む現場をさまよう。――そんなあらすじの小説です。劇的な事件が起こるわけでもないですし、濃密な人間関係が描かれるわけでもありません。

 以下では、小説としての『建設現場』のわからなさを著者の人物像から読んでいきます。そこからさらに「建設現場」というタイトルへと目を向け、その言葉が何を意味しているのかを想像してみることにします。

『建設現場』は理解するためではなく、読むことを通して別な世界を見るための小説?

 『建設現場』という小説は他の多くの小説を読むようにして読んでも、内容がよくわかりません。

 けれども『建設現場』が小説として出来の悪い作品だということではないのです。

 どのような出来の小説なのかについて、手短に書くことはできません。ただ、わたしが音読することを通して『建設現場』の作品世界を読んだところを語るなら、『建設現場』は読むことを通して見えてくるものを楽しむ小説なのではないか。――そういった印象を持っています。

 もしかしたら『建設現場』は、ストーリーを追っていくだけの他の多くの小説とは別のナニカを描いている小説なのではないか。この小説は読んで内容を理解するような造りではないのかもしれない。──つまり物語を理解するための小説ではなくて、何か別な世界の風景を見せるための小説なのではないか。

 

著者:坂口恭平のこと――建てない建築家・精神崩壊する患者・現実建設としての創作活動

 よくわからない『建設現場』という小説を楽しむためには、著者のことを少し知っておくといいかもしれません。

 著者である坂口恭平も実はよくわかりません。ひとつの定まった活動や肩書があるのではないという点では「不定の人」ですし、まわりの目をはばからず自分勝手な振る舞いをするという点では「不逞の輩」でもあります。歌い手、絵描き、文筆家、詩人、総理大臣…etc.なんでもござれです。

 坂口恭平はもともと「建てない建築家」として活動していました。彼が建てるのは多くの建築家が建てる〝物体としての建築物〟ではなくて、〝環境としての建築物〟なのです。環境としての建築物は、またの名を「現実」と言います。いわば、建てない建築家とは「現実建設」を行なう活動家のことなのです。

 

 他方で、坂口恭平は「躁うつ病」の患者でもあります。メンタルの調子を崩したときの状態を「精神崩壊」と言うことがあります。崩壊──それは、ちゃんと形をなしているように見えたものが破片となって崩れてしまうことです。

 坂口恭平にとっての精神崩壊は現実の崩壊と同じ事態なのです。だからこそ、彼は現実を建設する建築家として何度も何度も定期的に崩壊してしまう現実を建設しようと試みる。坂口恭平のあらゆる創作活動は現実建設なのだと言ってもいいでしょう。その線から、小説『建設現場』を「現実建設文学」と呼ぶこともできます。

 

「建設現場」は坂口恭平の生きている現実を象徴したタイトル

 小説のタイトルである『建設現場』とはいったい何でしょうか。

文字通りに理解すれば、現在進行形で建設中の作業現場のことです。じっさいに、小説『建設現場』は建設現場の労働者の視点から物語はじまります。さらにその後の展開もいくつかの地区に分かれて建設が行われていることがわかり、『建設現場』は文字通りに「建設現場」が描かれた小説だということがわかります。

 ところが小説のなかの建設現場はふつう言われている「建設現場」とはどうも様子が違っているのです。

 まず現場は崩壊しつつあります。崩壊を防ぐ手立てはなく、修復作業と崩壊の被害を日誌に記録していく。さらには建設の目的もまったく不明。誰もが自分の作業には意味がないことがわかっている。建てても建てても定期的に揺れ、崩れ落ちていく。終わる見込みのない作業に、現場の労働者たちは従事しているのです。

 「建設現場」というタイトルは、ただ文字通りに理解してみるというよりも、ナニカが象徴されていると考えたほうがよさそうです。そのナニカをあえて想像してみるなら、著者である坂口恭平の〝現実〟の在り方が参考になるかもしれません。

 坂口恭平にとって現実は崩壊するものです。躁うつ病の症状から精神崩壊をするとき、彼の現実は崩壊してしまうのです。そして彼の創作活動は崩れてしまう現実を立て直すという狙いがあります。いわば現実の〝再〟建設としての創作活動です。

 ――それらの情報から「建設現場」という言葉を解釈すると、「建設現場」は坂口恭平が生きている現実そのものの象徴なのだとイメージすることができるのです。

 

『建設現場』を読む

 ここでは『建設現場』を読むことがどのような読書経験なのかということについて検討します。

 先に結論を言ってしまえば、『建設現場』は〈書くこと〉と〈見ること〉について書かれた小説です。

 この章節では〈書くこと〉と〈見ること〉を巡る『建設現場』を理解するキーワードを5つご紹介します。

 5つのキーワードは「言葉」「場所」「時間」「現場」「労働」です。それらのキーワードを確認したのち、改めて「建設現場が崩壊すること」の意味を眺めてみることにします。 

キーワード①【言葉】:〈書くこと〉と〈見ること〉の一致

 『建設現場』の主人公サルトは過去の記憶をほとんど持たず、わけもわからずに気がつけば建設現場で働いていました。しかしサルトは次のように現場に対する想いを語っています。

夢ならすぐに入ることができるのに、わたしはこの目の前の現実にすぐに入ることができない。(p24)

 サルトが感じている現実感覚をよそに、図面をもとに建設されているはずの工事は難航。できたとしても定期的に起こる崩壊によっておじゃんになる。記憶することができないサルトは、現場で起こったことを逐一手帳に書き込んで記録していきます。こんなことをしても意味がないのではないだろうかという不安を感じながら。

 サルトは言葉を使って記録すると「わたしではなくなってしまう」と感じています。書くことは言葉を使うことです。言葉を使用することはまた記録することでもあります。記録するためには言葉に先立つ〝知覚する体〟があります。しかし、言葉はあくまでも事物の抽象物でしかありません。

 サルトは抽象的なものではなく、具体的に、何かを知覚している(=見ている)状態そのままを書いてみたいと考えているのです。

 サルトにとって〈書くこと〉と〈見ること〉は対立しています。それは言葉と体との対立でした。言葉は体が知覚したものを抽象化するものです。サルトが言葉を使ううえでは避けられないことのように思われます。とはいえ、サルトは書き続けるなかで次のような境地に達します。

見れば書ける。書くということが、見ることに限りなく接近していた。(p50)

 サルトは言葉をしだいに頭で使うものではなく、体で感じられるものとして把握していきます。それは文字ではなく感情に似ていました。そして体が反応する感情こそが具体的なものを表現するための言葉なのだと理解するのです。

 かくしてサルトは、「文字としての言葉」ではなく「感情としての言葉」を知ったとき、サルトは〈書くこと〉と〈見ること〉とが同じものになると気づいたのでした。

 

キーワード②【場所】:一人ではなく、一箇所としての〈わたし〉

 サルトは現場にいます。絶えず〈書くこと〉を行うサルトが書くものは現場で起こったことであって、その現場に対して〈見ること〉を行うのはサルトの体です。ここにはひとつの現場とひとつの体とがあり、そのどちらともが「ひとつの場所」になっています。2つのものは溶け合うようにして〝ここ〟にあるのです。

 ひとつの場所である「サルト」には〝わたし〟がいます。しかしそのわたしは「もう一人のわたし」を感じてもいるのです。

 ある場面でサルトは子どもたちと出会います。子どもたちはサルトに近づいても、わたしのことが見えません。どうやら彼らはもう一人のわたしのほうを見ているようなのでした。

 子どもたちはもう一人のわたしに何かを伝えようとしますが、声には出しません。もう一人のわたしのほうも沈黙しています。このときのわたしは、子どもたちともう一人のわたしとが触れ合うための装置であり、そして場所になっていました。

 サルトは次のように感じます。

 わたしは彼らにとっての「言葉」になっていた。(p119)

 子どもたちともう一人のわたしとの間になんらかのコミュニケーションがあったことはたしかです。その出会いは〝わたし〟という場所が開かれていたために可能となった一種の交感です。そして交感を可能にした「媒介としてのわたし」は、サルト自身が自覚するように一種の言葉の状態になっているのです。あるいは一人ではなくて、一箇所の場所に。

(ここでの「子どもたち」は3人、年齢は一番幼い子が3歳くらいです。彼らは言葉の意味を通してコミュニケーションを行うのではなく、むしろ見るという行為を通じた交感に近いやりかたでコミュニケーションを取っています。このことは子どもたちが言葉の意味によってではなく、感情の意味によって意思疎通をする、自然さや純粋さなどを象徴していると見ることができます。)

 

キーワード③【時間】:記憶の時間を取り戻す

 現場には時計がありません。労働者たちの体には「なにか時間を定めるもの」があり、それは「記憶の時間」よりも正確でした。しかし正確だからといって必ずしも良いことだとは限りません。サルトはその時間を定めるものに違和感を感じます。サルトは頭のなかに埋め込まれている何かのせいで自分の感情を確認できないのだ、と考えるようになります。

 現場では3つものが疎外されているのです。すなわち①時間、②記憶、③感情――の3つが。それらは建設現場で労働者として働くことによって疎外されています。それら3つはまた、総じて、自分が自分であることに関わるものだと言っていいでしょう。そこから「記憶の時間」を、自分が自分であることの3つの要素━━時間、記憶、感情━━を総合させたものだと考えることができます。

 サルトは現場での仕事をやめます。しかし労働者であることをやめたサルトは混乱状態に陥ります。言葉を話せなくなり、頭の中で像を結べなくなり、それから感覚を統合する力がなくなってしまうのです。サルトは、現場で埋め込まれた〝頭の中にあった何か〟が機能しなくなったのでした。だからこそサルトは新しいやり方や自分の言葉を、長い時間を掛けて一から作り出さねばならなくなったのです。

 自分のいる場所さえもわからなくなったサルトはふらふらと歩きだします。そして影ができたときに、そこに記念碑を建てることにしました。

(これだけですと何のこっちゃとなるでしょうから、少し補足をしておきます。もっと多様な解釈をすることはできるとは思いますが、ここではひとまず「影ができる」ことを「時間が経過すること」程度に理解しておきます。また、「記念碑」といっても「そこらへんにあるもの」を積み重ねただけの塔でしかありません。こちらはチリも積もれば山となるように、「ルーティンの結果蓄積された作業の成果物」という理解がさしあたっては適当でしょう。)

 次第に、塔はそこかしこに点在するようになります。塔と再会すれば増築したりなんてこともして。

 やがて、サルトは「空間と呼べるようなもの」と遭遇するようになります。それは「何も囲われていない場所」であり「わたしの場所」であり、そして「時計」なのでした。

 時計とは、現場で疎外された「記憶の時間」を自分自身に取り戻すための装置なのです。

 

キーワード④【現場】:人間は各自の現場を生きている

 「そもそもここで行われているあらゆる労働が無意味だった。」サルトはそのように語ります。「ここ」すなわち現場とは何なのでしょう。別の箇所でサルトは現場での建設を「完成しないこと自体が目的」なのではないかと感じてもいます。もっと言えば、サルトは現場で行われている建設事業には目的がないということに関して、確信までしているのです。

 サルトは意味がない労働が行われている「目的なき現場」で記録を続けています。ときおり書くことが無意味だと気づき苦しくもなるのですが、体のほうは続けろと音を鳴らすのです。苦しいと感じるのはわたしが勘違いをするからで、体のほうでは書くことを望んでいる。――サルトはそう考えます。

 どうやら、サルトが記録する行為には〝わたし〟と〝体〟とが対立しているようなのですさしあたっては、わたしは〈書くこと〉で体は〈見ること〉を担当しています。これは「頭と体の対立」だと言ってもいいでしょう。

 サルトは体とわたしとの間に「何かまた別の現場がある」と感じます。その別の現場に対して、サルトは工事の予感を覚え、そこにも図面があるのではないかと考えるのです。このことは「頭と体の関係が描かれた図面」をイメージすればいいのかもしれません。その図面に基づいて現場では工事が行われる、というふうに。

 体が望んでいることであるにもかかわらず、無意味だと気づいて苦しくなる頭(わたし)がある。だからこそサルトは、頭と体の間にある〝別の現場〟での工事を予感しているのでしょう。わたしがあり、体がある。ならば、わたしと体の間にはひとつの関係性の下、ひとつの現場ができる。

 以上から、現場は、人間は誰しもが自分の現実を生きているのと同じ意味で、人間がつねに自分の現場で何らかの工事の状態に置かれていることを踏まえた表現なのだと理解することができます。その点から言えば〝建設〟というときには、自分自身をさながら「ひとつの工事現場のようなもの」として想定しているのではないかと考えることもできるのです。

 

キーワード⑤【労働】:目的のない労働とわたしの現場仕事

 「そもそもここで行われているあらゆる労働が無意味だった。」サルトはそのように語ります。現場での労働とは何なのでしょうか。別の箇所でサルトは現場での建設を「完成しないこと自体が目的」なのではないかと感じています。さらには現場には目的がないということに関しては確信までしているのです。

 人間はつねに自分の現場で何らかの働きの状態に置かれています。別の言い方をすれば人間は何らかの建設工事の状態に置かれているので、目の前の現実はつねに現場だということになります。

 働くことには2種類あります。ひとつは労働、もうひとつは仕事です。

 

  • 労働=生活のためや利益追求のために働くこと
  • 仕事=自分のためや精神探求のために働くこと

 

 以上の2種類の働き方に関して言えば、小説『建設現場』のなかでは、労働は無意味なものだと書かれていますが、仕事に関してはそうではないのです。とくに「わたしの仕事」と書かれている箇所には圧倒的な肯定感があります。少し長いですが2つほど文章を引用してみましょう。

 

時間の経過を感じるかもしれないが、時間などここには流れたことがない。そんなことを言ったら、川の水はいつまでたってもお前の目には見えていないってことになる。わたしも突然あらわれた。わたしがどこからきたのか、この水がどこから流れてきたのか、この音はどこで鳴っているのか、そういうことをつなぐのがわたしの仕事だ。(p265-266)

 

わたしはなんのために歩きつづけているのか。わたしは休まなかった。わたしがそう選んでいるのだ。これはわたしが選んだのか。いつから道を歩いているのか。道の途中でたびたびさまよった。そのたびに誰かが道案内をしてくれた。顔見知りもいれば、はじめて出会った者もいた。ここで生まれた人間もいた。みんな道をよく知っていた。知らないのはわたしだけだった。しかし、わたしはそれでも歩くことを止めなかった。拾い続けることもやめなかった。それがわたしの仕事だからだ。(p304)

 

 以上から、「労働」とは現場のなかで意味がないと感じながら働いている状態を表していると考えることができます。どこか違和感を感じながら意味のないことに従事している、それはあたかも奴隷のようなものです。ネガティブなイメージのある労働に対して、「仕事」は自分の役割や使命といったものと向かい合っている状態であり、いわば自己実現に携わるものなのです。

 

5つのキーワードまとめ

 ここまでに確認してきたキーワードをまとめてみましょう。

 

  1. 言葉:言葉には文字ではなく感情としての言葉もある。それは〈書くこと〉ではなく〈見ること〉に関わる。
  2. 場所:わたしは感情が出会う場所であり、さまざまな感情が語る言葉である。感情はわたしという「場所・言葉」を介して交感する。
  3. 時間:現場には時計がない。自分が自分であることを確認するための「記憶の時間」を取り戻すために、「わたしの場所」としての時計を作らなければならない。
  4. 現場:現場とは、人間がつねに自分の現場のなかで何らかの働きの状態にあることを表現している。
  5. 労働:労働とは現場のなかで意味がないと感じながら働いている状態のことで、仕事は自己実現のために働いている状態のことである。

 

 以上の5つのキーワードは総合すると、目に見えるものから見えないものへと辿るキーワーとして読むことができます。そうしたキーワードを3つの文言へと束ねれば次のように表せます。

 

  • 言葉には目に見える文字がある一方で、目に見えない感情としての言葉もある。
  • 場所は目に見える場所というだけなのではなく、目に見えないものの出会う場所でもある。
  • 時間・現場・労働は目に見える現実のうちにも目には見えない未来を形づくってもいる。

 

 「見えないもの」だとは言っても、それらは〈見ること〉に関係します。風が目には見えないけれども「見えていなくもない」というふうに。見えるのではなく、見えなくもない。そのような仕方で〈書くこと〉によって記録されたところから〈見ること〉が立ち現れなくもないのです。

 〈書くこと〉と〈見ること〉は、「見えるものと見えないもの」という対比をその間に組み込むことによって、「書くこと/見ること」の関係を「書くこと≒見ること」へと変換することができます。つまり、対立(/)を解消してニアイコール(≒)の関係にある図式にあるものとして理解することができるのです。

 

建設現場が崩壊すること

 この節では5つのキーワードを参考にして、「建設現場が崩壊すること」が何を示すのかを検討します。

われわれは建設現場で労働することを通して崩壊までも設計していた

 現場は何度も崩壊します。崩壊は自然な現象のようでもありますが、瓦礫を見たサルトは崩壊が天変地異によるものではなく「明らかに何者かによって意図的に行われている」のだと気づきます。

 崩壊が何者かによって意図的に仕組まれている。そう気づいたサルトですが、最後には以下のような境地に達します。

 

空間が生まれてしまったのは時間が発生したからです。なによりも先に生まれてしまったのは時間で、その時間にわれわれは取り込まれてしまっています。それに対処するために、われわれは崩壊という方法を選んだのかもしれません。(p309)

 

 サルトは崩壊がわれわれが選んだ方法なのだと考えます。ここで言われている「空間」や「時間」はわれわれを取り込んでしまうものとしてネガティブなものだとされています。さながら、空間も時間も現実を一様に決定してしまう頑固な条件であるとでも言うように。

 上の文章のあとには次の文が続きます。

だからこそ、もう一度、われわれがつくってきたものを振り返る必要があります。」309

 意図的に起こる崩壊の元凶がいる。サルトはそれこそが「われわれ」なのだと考えます。言い方を変えれば、われわれは現場で建設を行ううえで建設現場が崩壊することさえも込みにして設計していたのではないかということです。だとすればわれわれが何を設計し、何に着工していたのかを振り返ってみる必要があるのです。

(ここで「われわれ」と書かれているのは、必ずしも多くの人間たちのことではありません。人々という意味に限定しないほうがいいのです。むしろわれわれは「わたし」や、この後に出てくる「あなた」と重なる言葉です。『建設現場』において「われわれ」という表記は人間を個体ではなく群体としてとらえる発想から来ているものと理解したほうが適当なのです。)

 

「建設現場」は「あなたの現実」である

 

 崩壊は想像を超えたものです。しかし現場に降りかかる崩壊の責任が、自然に起こるものだったのではなく、われわれの自分自身の働きによってもたらされることになるのだとすればどうでしょうか。以下のサルトの思考はそのことを「あなた」へと問いかけます。

 

これからはじまることを、あなたは知っていたのですか。それならば、なぜそれを止めようとしなかったのですか。なぜ、あなたはそのまま放置し、労働を続けたのですか。それは自分で理解していたのですか。それともあなたは自分自身であることを見失っていたのですか。これはすべてあなたのことで、あなたが設計したものです。設計するためには頭に思い浮かべるだけではなく、あらゆる手段、書類申請、などが必要だったはずです。それをすべて通し、そのうえで設計しているのです。(p310)

 

 以上に引用した文章を踏まえれば、「建設現場」は「あなたの現実」であると読みかえることもできるのではないでしょうか。なにせ人間はつねに何らかの現実に直面しています。埋め込まれていると言ってもいいでしょう。ですので人間がつねに何らかの働きの状態にあると考えると、その働きの現場を〝現実〟と読みかえることは不自然ではありません。

 無意味であることがわかっている労働、そんな建設現場に違和感を覚える労働者。それらを放置しながら、これからはじまるであろう崩壊に備えず、ただ労働を続けるのであれば、そのような態度は「あなたの現実」が崩壊することさえも予定して設計し、そして工事をし続けてしまっていることと同じなのです。

 

崩壊はわたしが無意味な労働を続けていることに対する体の側からの抵抗である

 崩壊についてもう少し具体的なイメージを持つために『建設現場』の冒頭の文章を見てみましょう。

もう崩壊しそうになっていて、崩壊が進んでいる。体が叫んでいる。体は一人で勝手に叫んでいて、こちらを向いても知らん顔をした。」(p1)

 注意すべきなのは、引用したサルトの思考では崩壊が体で起こっている事態であることです。しかも体はこちら(わたし)のことを無視しています。

 また別のところでは次のような文章があります。

わたしにはある目的があった。ところがわたしには見えていなかった。体はとっくに気づいていて、時々暴れ出すこともあった。」(p154)

 わたしには目的があるにも拘わらず、それが見えません。けれども体はわたしの目的が見えていて、わたしがとんちんかんなことをしていると暴れ出すのです。この「暴れ出す」ことが崩壊です。

 「ある目的」を仕事を通しての自己実現のことだと理解してみれば、現場での無意味な労働を続けることによってもたらされる崩壊、すなわち〝体が暴れ出す〟というロジックを理解することができます。つまり体は「わたしの現場」に対して抵抗するのです。その抵抗のための手段が崩壊なのです。

 

建設現場での作業を無意味なものにしてしまうその崩壊自体は無意味ではない

 崩壊しているのは建設現場だったはずです。しかしいまや崩壊が起こる現場は体なのだということがわかります。体が「わたしの目的」を知っていて、それなのにわたしがその目的にそぐわないことをしていれば、体はどんどん負のエネルギーを蓄積し、やがては崩壊を起こすのです。

 以下の文章はまさにそのことを書いています。

しかし、それは長年、たくわえられた力そのものだったのです。崩壊することが前提で、元に戻るどころか、その戻る場所ですらすべて崩れ落ちてしまうほどの強度をもった力だったのです。だからこそ、われわれは止めようとしました。
あなたもまたそのために動いたのだと信じたいところです。しかし、それは不可能だった。これからはじまることが、どこまであなたの想像通りだったのか、知る者はもういません。それを知る者はあなたですらない。(p311)

 もちろん、現場にいるわれわれにとって崩壊を設計しているという意識はないはずです。たとえあったとしても、想像していた崩壊と実際の崩壊とが同じだなんてことはありません。実際には想像不可能だからこそ崩壊はその都度未曾有のものになるのですから。

 しかし崩壊は「わたしの目的」を知る体のほうからすれば一種の修正運動です。わたしの建設現場を是正しようとする現象、つまり、建設現場での作業を無意味なものにしてしまうその崩壊自体は意味のあることなのです。

 

『建設現場』まとめ:ひとつの現場における建設と崩壊が記録された日誌

 『建設現場』は〈書くこと〉と〈見ること〉について書かれた小説です。

  • 〈書くこと〉は記録すること、すなわち現場で作ったものを確認すること
  • 〈見ること〉は感じること、すなわち体が感じている感情を確認すること

 人間は生活のため、もしくは自分自身のために働きます。それはつまり「自分自身の拠って立つ現実を建設する現場に立っている」ことです。しかしそこには崩壊も起こります。現場では建設がつねになされているように、崩壊もまたつねに起きています。

 建設現場は現実のことでもあり、体のことでもあります。自分の体の感情をおろそかにしていると崩壊してしまう、だからこそ作ること(建設)を通して、自分にとってより自然な働き方を追求しなければならないのです。〈書くこと〉、そして〈見ること〉は自分の現実・自分の現場を生きる人間にとって切実なことなのです。

 『建設現場』が〈書くこと〉と〈見ること〉とを描いた小説です。そこには人間の生が依拠している、わたしと体(=もう一人のわたし)との建設的な営みのなかにある建設と崩壊の風景が描かれています。そして『建設現場』はひとつの現場における建設と崩壊とが記録された日誌でもあるのです。

 

記事全体のまとめ

 『建設現場』はよくわかりません。しかしそれでいいのです。下手にわかろうとがんばると崩壊します。

 かく言うこの記事も崩壊している気がします

 記事として公開するにはそれではまずいのですが、しかし、崩壊していることは必ずしも悪いことでない気もしています。

 なにせ『建設現場』には、崩壊はつねに起きているものだと書かれているのですから。

 そんな『建設現場』についてまとまった文章を書いてしまったとなれば、むしろちゃんと読めていないのではないかと不安にさえなります。

 というのも、ここまで書いてしまったわたしには「ちゃんと建設すること」に加えて「ちゃんと崩壊すること」というテーマさえ浮かんできてしまっているのですから。

 

 とはいえ、崩壊しないための努力に務めなくては、『建設現場』を読んだ甲斐がありません。

 わたしも、そしてあなたも、自分の建設現場をより快適なものにするために働かねばならないのですから。これは「働かざるものは食うべからず」という話ではありません。そうではなく、むしろ「君死にたもうことなかれ」という話なのです。どうかあなたに生きていて欲しい。そのような坂口恭平という人の現実から贈られたメッセージなのです。

 

_了

関連資料
坂口恭平『建設現場』,みすず書房,2018
 
「考えるな、感じろ!」という言葉がある。最近では「意識に負担を掛けるより、無意識に委ねろ!」なんて言葉もあったりして。この本も脳に負担を掛けて理解に務めるより、読書する体を観察するような案配で文の流れに身を任せるほうがいい。理解力ではなく想像力で楽しむ発見の書。

 

坂口恭平『現実脱出論』,講談社,2014

 

現実脱出を語る本。なんじゃそりゃって思われるかもしれない。そもそも現実からの脱出なのか、現実への脱出なのか。悩ましい。ともあれ誰しもが少なからず脱出したい。そんなことをぽやぽや考えている人にそっと差し出したい、「現実の抜け穴」を探る一冊。
 
坂口恭平『アポロン』,felicity,2018
 
坂口恭平の奏でる音楽を楽しめる一枚。音楽家としての坂口恭平は(場合に拠っては)取っつきにくい小説とは違い、呼吸するように体にすーっと入ってくるやさしさがある。歌われているのは日常の風景。松任谷由実が歌った雨上がりの庭にくちなしの花の香るような、包みこんでくれる音楽たち。

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