こんにちは、ザムザです。
今回は坂口恭平の「駆け込み訴え」という文をご紹介します。
坂口恭平は躁鬱で苦しむ傍ら、創作活動も行ないます。
その活動はあまりに多角的で風変わりであるため、ほとんど記述不可能と言っても過言ではありません。
なぜなら、坂口恭平の創作活動は社会生活と一致しているため、思いつくままに行動し、思いついた自分になっていくので、肩書きだけで正体をつかもうとしてもうまくいかないのです。
そんな坂口恭平を特集した《ユリイカ》の巻頭に掲載されている文章が「駆け込み訴え」です。
「駆け込み訴え」には坂口の生活のことが書かれています。
「死にたい」という想いと「書くこと」という行いとが密接につながっている、そんな生活と創作の風景が。
とても素敵な文章だと感じましたので、今回ご紹介させていただくことにしました。
紹介の仕方は本の内容について書くというよりも、翻案の形に近いものになっています。
坂口恭平「駆け込み訴え」『ユリイカ 2016年1月臨時増刊号◎総特集=坂口恭平』,青土社,2015,p8-11
- 坂口恭平の〈自分〉は死にたかったから書いたのではなく、書きたかったから死にたかった
- 坂口恭平の〈自分〉は「死にたくなる」という表現を通して、自分自身に「書くこと」を促していた
- 〈自分〉が「何を孕んでいるか」は書いてみなければわからない。だからこそ、坂口恭平は書くのである
【坂口恭平の創作実践】「駆け込み訴え」を読む【なぜ書くのか】
坂口恭平「駆け込み訴え」の翻案
以下は、わたしが坂口恭平の書いた「駆け込み訴え」の文章を下敷きにして書いた文章になります。いわば翻案です。元の文と同じものではありませんし、まったく違うものでもありません。
「駆け込み訴え」と似て非なる文章ですが、坂口恭平が生きる現場の風景を写しました。
「なぜ書くのか」と考えるよりも、書く
「なぜ書くのか」と始まる文章だった。
書きたいから書くのではないのか。そうかもしれない。
しかし問題はそうシンプルではない。厄介なことに。
死にたくなることがある。
自分がひどく無価値なものに思えて仕方がなく、そう思えて仕方がないので生きていることにも嫌気が差す始末。ああ、死にたい。
精神科に通い、お伺いを立てて病名を拝命して胸を撫で下ろすことはできる。ああ、自分は病気だったんだ、それなら仕方がない。
しかし問題は解決していない。撫で下ろした胸は一種の承認欲求に過ぎない。
坂口恭平もまた、死にたくなる。
自分で自分を殺そうとしたくもなる。彼には書く。「なぜ書くのか」などと考えている暇も惜しんで、書く。
余裕がないのだ。余裕というのは、自分が生きていることの余裕だ。
余裕のない坂口恭平はMacBookで文を書き、文が書けなければ紙に絵を描く。次から次に。
書く機械になり、内戦に備える
書きはじめる。頭の中には何もない。自分が空っぽでビビる。だから考えずに書くことになる。
書けないから書く。変なことを言っているかもしれないが、そういうことなのだ。
書く行為だけがある。あたかも書く機械であるかのように。
何を書くかを考える頭もなしに、書く行為をおこなう体がある。それだけであるように。
戦争が起きている。
戦地はここだ。勝手にそうなっているのだから、どうしようもない。
どうしようもないが、頭の回転は凄まじく、その活動の全てを自分自身への攻撃に捧げる。
放置しても事態は好転しそうもない。自分の中で内戦が起きている。
内戦が続けば領土は荒廃する。
死にたいという想いに任せていれば、自分の中は荒んでいく。
だからこそ戦地を文字の上にズラす。攻撃は文字の上に展開する。自分も他人も攻撃しない。
自分の内側から外側へと戦地を移す。外へ、外へ、外へ。
書きたかったから死にたかった
必要なのは、速度だ。
自分に追いつかれぬように、手を動かして自分を動かす。
書けなかった自分が、書いた自分になっている。書くことを通して決死の跳躍を果たしたのだ。
ここが確かに自分の現実で、自分はここで、確かに跳んだのだ。
いつの間にか、相当の分量ができている。
読み返すと、まるで自分が書いた文だと思えない。
なんというヨソヨソしさだろうか。自分が自分へ書きわたしたバトンであるはずが。「おまえは大丈夫だ」と未来へ託した置き手紙であるがはずが。
まるで他人の書いた文じゃないか。
書けたものは仕方がない。
見直そう。産みの苦しみから出てきた作品だ。
そう、「産みの苦しみ」だったのだ。
自分は死にたかったから書いたのではなく、書きたかったから死にたかったのだ。
どうやら、今回も逃げ切れたらしい。死にたい自分から、書きたい自分から、逃げ切れたのだ。
坂口恭平「駆け込み訴え」を読む
ここでは坂口恭平が「駆け込み訴え」に書いた実践を外側から解読します。
自分が避けるべき絶望:死んだように生きる・生きながら死んでいる
上に書いた「駆け込み訴え」の翻案文で、わたしは、「死にたかったから書いたのではなく、書きたかったから死にたかった」と書きました。
これは坂口恭平の「駆け込み訴え」のな文章の内容とは少々違っています。
しかし、わたしが読む限り、それは「駆け込み訴え」を誤解したアイデアではありません。
思えば、生きることは死ぬことの言い換えです。
「生を生きる」と「死を死ぬ」は同じ事態を語っています。
生きていなければ死ぬこともできません。死んでいるからこそ生きることができもするのです。
以上は一般的な話ですが、人が生きる場面は一般的なものではありません。
問題は、(決して一般的ではない)自分自身の人生を生きる場面にあるのです。
自分の人生では「死んだように生きる・生きながら死んでいる」という事態━━それが、自分が避けるべき絶望。
遺書を書く:死ぬためではなく、自分を死なせないために
たとえば坂口恭平は「死にたくなる」ときのことを「自分がもしかして、目には見えないが、何かを孕んでいたのかもしれない」と振り返ります。
何かを孕む自分は、その何かを自分自身に産み出させようとする。━━そのことが坂口恭平の「死にたくなる」の正体なのではないでしょうか。
おそらく坂口恭平の生の現場では、自分が孕む何かを産み出せないことがもっとも避けるべき事態になっているのです。
人生の事実ではなく、自分の現実として「生を生きる/死を死ぬ」ことができなければならない。人生の問題をそのように考えるなら、坂口恭平の文章の書き出しになった「なぜ書くのか」の問いは「なぜ生きるのか」の問いと重ねることができます。
問いは「書くこと」によってしか答えられない。坂口恭平にとって「書くこと」は「なぜ書くのか」という問いの原因でもあり、同時に、問いへの答えでもあるのです。
坂口恭平の創作は「遺書を書く」ことに似ているのかもしれません。
自分を死なせないために書き、書いたものを自分が読み、自分が死にたくなっていたのは「産みの苦しみ」だったのだと納得する。納得ある人生を送るために、未来の自分へと「今を苦しみ抜く自分」を書き遺す。しかし死ぬためではなく、自分を死なせないために。そんな、遺書を書いているように、坂口恭平は書くのです。
書くこと:自分の「生/死」を「生きる/死ぬ」こと
坂口恭平は「自分を死なせないために」書いたあとで哲学者ドゥルーズの名前を出します。
ドゥルーズは自殺しました。坂口恭平はドゥルーズを「自ら選んだ自殺なのだから、絶望ではない」と述べます。なのでドゥルーズの自殺を、坂口恭平は否定しません。
肝心なのは絶望するのではなく、自ら選ぶこと。死ぬことではなく、書くこと━━ようするに、自分の「生/死」を「生きる/死ぬ」ことなのです。
わたしは坂口恭平が「死にたかったから書いたのではなく、書きたかったから死にたかった」のだと書きました。
生きることは死につつあることでもあるため、死ぬことと生きることまったくの別物ではありません。
ですから、死につつある生の只中で死にたくなることは「生きようとしている自分がいる」ことでもあるのです。
自分は「死にたくなる」という表現を通して、自分自身に「書くこと」を促す。
なぜなら、自分が孕んでいる何かを表現しなければ、「生きようとしている自分」が生きたことにはならないから。
しかし、厄介なのは、自分が「何を孕んでいるか」は書いてみなければわからないことです。さながら、人生の意味が実際に生きてみないことにはわからないように。だからこそ、坂口恭平は書くのです。
まとめ
ここまで坂口恭平の「駆け込み訴え」について書いてきました。前半の翻案は坂口恭平の実践を内側から書いたもので、後半の読解は実践の外側から読み解いたものです。当記事で読んだところでは、彼は自分が生きられていないからこそ死にたくなるのでした。坂口恭平は自分の死にたさに追われるようにして書き、結果として自分自身を生きることに成功しているのです。
最後に坂口恭平の書いた「駆け込み訴え」の末文を引用します。そこには、坂口恭平にとって「書くこと」が「死ぬこと」との緊張のうちに行われる実践であることが読み取れるのです。
わたしはどうにかしのいでいる。死ぬことなく。死にたくないといまは思っている。どうにかこのまま逃げ切ってほしい。
_了
坂口恭平『独立国家のつくりかた』,講談社,2012
坂口恭平『現実脱出論』,講談社,2014
坂口恭平『家族の哲学』,毎日新聞出版社,2015
坂口恭平『ユリイカ 2016年1月臨時増刊号◎総特集=坂口恭平』,青土社,2015
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