想いを哲学する:私の現実を肯定する希望への招待|価値・意味・秩序

哲学
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 どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。

 今回ご紹介する『価値・意味・秩序』は哲学書であり、「哲学というものはこれこれこういうものです」と説明する哲学の概論書です。

 しかし多くの哲学書とは異なり、哲学者の名前や小難しい哲学用語がほとんど登場しません。にもかかわらず、本書は哲学者が「哲学が考えるべきこと」を書いた本になっています。

 そして何より、哲学の肯定・享楽・希望を著したものとして楽しめる、「哲学すること」への招待をおこなう誘惑の書なのです。

この記事で取りあげている本
 
この記事に書いてあること
  • 『価値・意味・秩序』は哲学を「私たちの暮らしの中で息づく哲学の営みへと読者を誘うもの」として、難解でややこしい言葉を用いず、日常的な言葉を通して、しかも「哲学が考えるべきこと」を説いた哲学することへの招待・誘惑の書である。
  • 〈想い〉は自分以外の一切の諸事物を「私の現実」のうちに、〈一つこと〉として秩序立てるものであり、私と私が生きる現実を満たし、「現実−私−想い」の三位一体の構図をもたらすことによって「想う私」を特定し、制作する。
  • 哲学の根底には「想いについての思い」がある。〈想い〉はそれ自体が「想うに値するもの」としての価値を帯びている。〈想い〉を通して成就した私の現実を哲学することは、自分が感受してきた価値を研究することであり、それはまた「自分の存在」の肯定を賭けた希望の営みでもある。

 

想いを哲学する:私の現実を肯定する希望への招待|価値・意味・秩序

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哲学者・松永澄夫について

 まずここでは、『価値・意味・秩序』の著者である松永澄夫について見ていきます。

 松永澄夫は哲学者です。1947年生まれの東京大学名誉教授。幼い頃から「学問=理科系」というイメージがあり、中学生になってDNAを知るにあたり、「これからは生化学だ」と確信します。

 進学した大学は数学・物理学・化学を主要に学ぶことになる東京大学の理科1類でした。もともとは生物学への関心もあったことから、自主的に生物の実験や解剖なども学びます。他にも社会学や経済学の授業も受ける。このときに社会の背後にある秩序への興味を覚え、社会の成立に関心をもつことになり、その線から哲学を意識しはじめることになります。

 結局、松永は理学部に進みます。このときの彼は「生化学で40歳までに一つ仕事をしよう、その後哲学をやっても遅くない」と考え、自分の人生において哲学と関わることの確信は疑っていなかったのです。

 ところがどっこい。時代は大学闘争。とてもじゃないが学内で生化学の実験なんてできやしないのです。こうして、松永は文転を決め、哲学科に移ったのでした。

 とはいえ、研究者・松永澄夫の大元の「生命への関心」は続いており、その関心・問題意識は生命を論じたベルクソンの『創造的進化』や、生成のプロセスに重きを置くホワイトヘッドの著作との出会いを彼に引き合わせます。

 またミシェル・アンリとの出会いも松永にとって大きなものでした。「ある重要な一点で自分と同じことを考えている」と感じた松永は、1973年3月、25歳の頃、アンリに会いに行きます。そして意気投合しますが、そんなミシェル・アンリにしても他のどの哲学者がそうであるように「これから先はついていけないというところがある」、と松永は感じたのでした。

 「今まで一人の哲学者に執着したことはありませんね。結局は、自分で考えてゆくしかないですから。」(『哲学の歴史【別巻】』)そう語る松永が考えたかったことは「自我と制度」でした。生命を囲う社会に関心を持った松永にとってはどちらも大問題だったのです。

 「自我と制度」というテーマは、『価値・意味・秩序』のタイトルからもわかるように、松永哲学に長らく通奏してきたものであることがわかります。

 

松永澄夫の哲学観:理解と評価のバランス

ここで、松永澄夫がどういう風に物を考える人・哲学者なのかを、直接に彼の文から見てみることにします。(引用は『価値・意味・秩序』から、適当にピックアップして取りあげます。また一部難読の表記をひらがな表記に直してあります。)

A「哲学は、私たちが経験する現実を構成する重要な事柄の位置づけを行う。特に、私たちの経験世界を秩序立てている骨組み概念の系譜を調べる。しかるに、系譜とは順序であり、つながり、派生である。だから哲学は、諸々の事柄間の諸関係を見定め、筋道を明らかにするという、考える作業を必然的に含む。それどころか、実質的にはこの作業が組織だった哲学の営みのかなりの部分を占める。」

B けれども、極めて重要な他面がある。考えることによって推進されるその調査や理解は、骨組み概念を中心とするといえども、細部の間の関係を見ることである。しかるに、哲学は細部の調査から全体へ帰る。全体がそのようにあるということを、自分なりの仕方で呑み込んで受け入れる、そのことを望む。しかるに、全体がどうしてこのようであるかを問題にしても、それは答が出る問題ではないのである。呑み込むとは、理解した上で(あるいは理解できないままであっても、それでも)、むしろ評価することである。(125-126)

C「(実のところ、哲学で最も重要な方法は、何を考察するにせよ、第一に、順序よく漏れなく、ということであり、第二に、そしてこれは順序よく漏れなくという要請が果たされているかの点検の方法としても使えるのだが、考察事柄の重要性をはかる尺度がどのようなものであるかを調べること、かつ、その尺度自身の重要性をはかること、つまりはバランスの取れた適切な価値評価をいつも伴わせることである。)」145−146

D「大事なのは、私たちは静かさの中の思索から行動へ、哲学から生活へ、返るのだということである。哲学的思索そのことが生活に優先する価値をもつと妄想することは、己を発生させ、支えるものを軽んじる嗤うべき態度、転倒であり、独善である。思索が位置づくべき生活では、為すべきさまざまなことがある。それは思索にとっての雑事などでは断じてない。そうして、しばしば「雑事」と言う蔑称のもとで呼ばれることもある事柄、これなしに人の生はなく、思索すべき材料もない。しかるに、雑事がいわゆる雑事でなくなるのはどのようにしてか。私がそこに自己実現の機会を見つける場合なのか。だが、何をもって自己実現と言うのか。実に、人との交わりが一つの秘密をなしている。そして、想いというものの生成のうちにその秘密が明かされる。」154−155

 長い引用になってしまいました。以上に抜き書いたところをAからDへと順に読んでもいいですが、ブロックを「AC/BD」のように区切ることもできます。そしてわかりいいように、引用文のなかの言葉を用いて整理すれば以下のようになるでしょう。

  • AC=哲学は、私たちが経験する世界を秩序立てている諸事物の概念のつながり方を、順序よく漏れなく、さらにはそれを点検する尺度さえも調べつつ、バランスの取れた価値評価の尺度から理解することである。
  • BD=哲学は、私たちが生活する世界を価値づけている諸事物の全体のしあがり方を、思索することを通して自分なりの仕方で呑み込み、さらにはそれを踏まえて行動し、生活することを以て評価することである。

 また、Dの末文にある「想い」という言葉は哲学者・松永澄夫を理解するうえで重要になってきます。

 

〈想い〉の哲学:「現実−私−想い」の三位一体

 ここでは松永澄夫が重くとらえる〈想い〉がどういった言葉なのかを見ていきます。

 松永にとっての〈想い〉とは、現実全体が夢幻のように感じさせる“妄りなもの”という含みもありますが、そうであるばかりではなく、むしろそれを覆すようにして超えでて自分以外の一切の諸事物を「私の現実」のうちに、〈一つこと〉として秩序立てるものなのです。

現実を生きる私は、いつでも或る想いを、その時々でさまざまな想いを抱きつつ生きていた。そうして、これら想いを中心に見ると、あらゆる事柄は(直接に私の生活に響いてこないと見えるものも含めて)自分にさまざまな想いを生じさせる、そういう資格のものとして見えてくる。自分の意に添わぬ現実ゆえにさまざまな負の感情をもつことも多いが、そういう感情をも含めて、私が私であるということを成り立たせているものとして想いがあるのである。さまざまな想いが消えれば私というものもまた消失してしまうのではないか。こうしてみると、さまざまな事柄も、私に想いを生じさせるというそのことだけで価値を有していると見えてくる。」131

 うえの文に続けて松永は、哲学の思索の根底にあるものは「想いについての思い」なのだと語りますが、さしあたっての疑問は、なぜ「思い」ではなく「想い」なのか、となります。

 

想いについての思い:想う/考える

 

 なぜ「思い」ではなく「想い」なのかを考えるのに、まずは「考える」と比べてみましょう。「考える」こと“ではない”「想い」について見ていきます。

 考えることは何か特定の答えを求めて筋道を探すことです。松永によれば、この路線は西洋近代哲学者デカルトの命題である「我考える、ゆえに我在り(コギト・エルゴ・スム)」、そして彼の著書『方法序説』が示した、「認識する機能に照準が定められた私」と紐付けることができます。(デカルトの命題は一般的には「我思う」ですが、松永は正確な日本語は「我考える」だと考えます。)これは言い換えると、正しい知識を得ることに着眼した論構成、つまりは「認識論」の方向なのです。人間が単に存在することに関して、正しいも正しくないも関係ありません。認識の必要もなしに人は存在してしまうのですから。

考える=特定の答え・対象を探ること

 認識論で要求されるのは一般的・客観的であることに相関した認識主観であって、他の何者でもない個性ある自己ではありません。松永はデカルトの「我考える」の“考える”の部分を、より私であることの実際に合ったかたちで表現し、それが彼の言う「想う」に結ばれたのです

 松永の「何かを想うこと」は、極端に言うと「理知的な思考」というより「情操的な心配」に近いものです。この〈想い〉はまた、それが働くことで私の内実を埋めていく〈〉をもたらします。すなわち、私に想いが起こり立ちぬることで現実のあり様もまた決定するという、「現実−私−想い」の三位一体の構図があるのです。

 哲学的な概念としての〈想う〉の働きを表すのに、松永は「思い」よりも「想い」のほうに相応しさを感じます。この点は〈現実〉に目を向けることでうなずくことができるでしょう。

現実の一つひとつが私と相対するものとしてではなく私自身をつくるような仕方で私に経験され、それらの総体としての現実全体が私にとっては結局は私の存在そのものと重なり合うものと見える」143

 うえに引用した文の後には「私と現実とを一つことにする想いというもの」とあります。すなわち「現実−私−想い」の三位一体の構図からもわかるように、松永が押さえる「特定の現実=私」が出来るには〈想い〉がなければならないのです。この〈想い〉を松永は「想う私」とも表現しています。

想う =特定の私が見つかること

 以上のことを踏まえ、改めて「考える」と「想う」とをまとておきましょう。

  • 考える=特定の答え・対象を探ること
  • 想う =特定の私が見つかること

 

想いについての思い:想う/思う

 

 さて、「現実−私−想い」の三位一体をもたらす〈想い〉とは、「想う私」にとって自己制作的であることがわかります。〈想い〉によって主観と客観は別のものではなくなってしまうのですから。自他の区別および彼我の距離は、〈想い〉を通して相互に包摂されてしまい、あるのはただ諸事物との“近さ”だけ。このような含みを込めるには「思い」よりも「想い」のほうが相応しい

 松永が哲学の思索の根底に「想いについての思い」と書き表すときに、〈想い〉と〈思い〉とを分けているのは「《想う私》について〈想う私〉」の構図を意識しているからです。しかし2つの「想う私」は分離したものではありません。想うに値する何かがあり、想われたものは想う私の現実へと参入し、包摂される。そうした消息があるのですから。

 話が逸れるようですが、哲学の歴史は自らが知らないでいることの自覚(無知の知)に重きが置かれます。別の言葉で言えば、哲学の営みには自分に立ち返る(自己還帰)運動という側面があるのです。たとえば「自己認識」と「自己意識」の違いなどがそうでしょう。自己認識は「自分についての理解」といったベタで日常的な意識活動ですが、自己意識は「現に今意識しているということについての自覚」のことで、単に「何かについての意識」ではなく、「自己についての意識」のこと。哲学者が意識や自己(=私)を問題にする場合には自己認識ではなく、自己意識の観点から思索を進めることが多いです。デカルトの「我考える、ゆえに我在り」にせよ「無知の知」という自己還帰的な自覚の相の系譜にあります。

 上記のような哲学の事情を思いつつ話を元の路線に戻しますと、松永が哲学の思索の根底に「想いについての思い」を見取ることにも、哲学における自己を意識すること・自覚することの系譜”を見ることができるのです。

 以上を踏まえて〈想い〉と〈思い〉とのニュアンスの違いを確認することにします。

 わたしは「想いについての思い」を「《想う私》について〈想う私〉」とリライトしました。前者の《想う私》は松永がもともとこだわっていた〈想う〉だと了解しますと、ここでの二重山括弧の《想う私》は既に成立している「現実−私−想い」の三位一体となるでしょう。そして後者の山括弧の〈想う私〉はそうした三位一体の《想う私》から出発するかたちで想っているのです。

 押さえておくべきは前者の《想う私》が“おのずから”生じているということです。つまり自然的で、日常的で、ベタなのです。それに対して、後者の〈想う私〉が“みずから”思索することを選ぶところに特徴があります。こちらは主体的で、意志的で、メタなのです。

(しばしば哲学者の素養の有無をあたりまえでありきたりなことに「驚嘆の念(タウマゼイン:希:θαυμάζειν、thaumazein)」を抱けるかいなかが挙げられます。すなわち、「人はなぜ死ぬのか」「この世はなぜ有るのか」「自分はいったい何なのか」などは、どれも自明なことですが、深刻に考え込み、思い悩んでしまう人もいて、そうした人種が「哲学病(中島義道が大森荘蔵に診断された病名)」などと呼ばれたりするのです。)

 まとめます。キーになっているのは「自覚」です。「想いについての思い」はすでに“無自覚に”出来上がっている《想う私》に向けて、“自覚的に”「想いについて想う」ことが、〈想い〉ではなく〈思い〉という言葉を選ばせたのです。松永自身は「「想い」を想いつつ哲学の思索に組み込まれるものだから、「想う」と区別して「思う」と表記する。」と述べており、「自覚的/無自覚」といった説明をしていませんが、表記上の重複以上のものとなる説明として明確にする際には有効な補助線になることでしょう。

 

〈想い〉が哲学になるとき

 哲学概論として書かれた『価値・意味・秩序』のはしがきにおいて、松永澄夫は同書を「私たちの暮らしの中で息づく哲学の営みへと読者を誘うもの」だと説明しています。ここではそうした哲学することへの誘惑の企てに関して、〈想い〉の概念を踏まえて見ていきます。

〈想い〉から見る哲学史

 まず、松永の哲学史へのまなざしに目を向けます。哲学史への態度は、そのまま哲学者という存在への態度になります。暮らしの中で息づく哲学の営みに重きをおく松永自身が、哲学史およびそこで登場する哲学者たちにどのように向き合うのか。それは松永が哲学せざるを得なかった想いを見ることでもあるのです。

 松永は『哲学の歴史【別巻】』において自身の哲学史への態度を表明しており、哲学史上に登場する哲学者たちの概念をお勉強するタイプの哲学史観を挙げたあとに、次のように自らの哲学史観を語っています。

私の考える哲学史は、そういう概念史・問題史ではなくて、それぞれの哲学者・思想家が、どういう状況で誰に向かって書いたのか、そこが描かれているものなのです。」126

 松永が押さえようとする個々の哲学者が「どういう状況で誰に向かって書いたのか」といった視点が肝心です。言い換えれば、それは「人間の暮らしの中で息づくもの」のことであり、現実ならびに私の成立の鍵となる〈想い〉が大切になるのです。

 本稿ですでに取りあげたデカルトの「我考える、ゆえに我在り」というテーマを再び検討してみましょう。そこでの“我考える”はデカルトの祖国であるフランスの言葉だと「パンセ(penser)」の表記になります。当初、本邦への翻訳では「思惟する」と訳され、人間の認識能力にまつわる言葉として使用されました。ですので、もともとデカルトが「パンセ」という言葉で目論んでいたところでは、「正しい知識とは何か」を問う“科学的であらんとする視点”には貢献するところ大であっても、感情生活を営む人間の心の風景を表現するには力不足となってしまうのです。

 では、感情生活を営む人間の心の風景をつかむことができる表現とはなんでしょう。たとえば詩人の言葉に「情想思量(日夏耿之介)」なる言葉が「感情的、思想的に、いろいろと思いを巡らせること」といった意味を持っているのを知ると、なかなか相応しくも思われますが、もっと穏当で日常的な言葉があります。それが〈考える〉とも毛色の違った〈思い・想い〉という言葉です。

 

〈想い〉と「物思う人間」

 〈思い・想い〉は松永澄夫の哲学を考えるうえで鍵となる言葉です。松永自身が哲学を「想いについての思い」だと述べているくらいなのですから。そこには生きた「物思う人間」を押さえようとする姿勢があります。単に先人の思想を体良くまとめたものを暗記するタイプの哲学史ではなく、時代状況や社会風俗、精神生活や日常生活、また当該哲学者・思想家がどのような人たちによって受容されてきたかなどの事柄を押さえながら、物思う人間としての哲学者・思想家を立体的に把握しようとする類いの哲学史を学ぶことが大切なのだ。これが松永澄夫の哲学観なのです。

 「物思う人間」を重視する松永は、「どういう状況で誰に向かって書いたのか」が哲学史を読む際には肝心なのだと述べました。これはデカルトの「パンセ」がそうであったようにある学説には実効的な領域があり、それと同時に限界があることを示唆してもいます。また、他面では、「物思う人間」がつねに何らかの価値観に基づきながら〈想い〉を露わにしていることも物語っているのです。

 本稿ではすでに〈想う〉を「特定の私が見つかること」だと確認しました。特定の私とはまた特定の現実のことでもあります。それは〈想い〉によって固有な存在を形成した結果です。ここでも、種々の〈想い〉によって結晶化された存在はその固有性によって特定の価値を帯びてしまいます。言わずもがな、「特定」「固有性」「結晶化」などの語彙は、不定で無名で無価値なもの“ではない”ことを表現する言葉です。

 興味深い話があります。松永澄夫の哲学論文集『哲学史を読む』のあとがきに、フランスへとミシェル・アンリに会ったときのことが書かれています。アンリは松永に「自分の哲学史的な位置について説明しようとした」と書かれているのですが、その件に関する報告は「それはともかく」とあっさりお仕舞いにします。代わりに(さも、そちらのほうが重要事であるかのごとく)アンリと食事したこと、夜の街でドア・ノッカーを叩いて回る悪ふざけをして笑いあったこと、もしくはそのときに感じていた「微かにそよいでいた空気」などの叙情的な事柄を殊更に強調するのです。このことが「哲学史を読む」と題する本のあとがきで書かれていることが、おもしろい。なぜなら、ここでは敬愛するミシェル・アンリが話した哲学談義よりかは、彼と過ごしたときの松永自身の〈想い〉に力点が置かれているのですから。

 ──ここには「価値の感受の場面」が記されています。このようなスタンスは、抽象的な学説に出会うことよりかは具体的な〈想い〉との出会いによって満たされた私の現実に重きをおく「松永哲学のあり方」を物語っているように思われるのです。

 

〈想い〉と「存在」の概念または哲学者の享楽

 〈想い〉と価値の感受の問題について、松永は以下のようなかたちで書いています

そもそも、何かを想うこと、これは感受性の問題だが、更に明示的に言えば、価値の感受の問題である。そうして、それは或る仕方での存在の生成でもあるのである。私が何か想うとは、それが想うに値するからである。そして、その感受は「私」を満たし私の現実をつくり、想われた何かも私のうちに参入する。ところが、すると、想いがいわゆる空想的事柄に留まる場合でも、その事柄は何らかの存在性を獲得する、獲得していたのである。想い、感受、価値、私、想われたものは一つになって固有な存在を形成するそれは「意味的な存在」だと言いたければ行ってもよいが、「存在」という概念の最も深みにあるものだと私は言う。」151(※元の文の強調点は青文字で示した。)

 「私が何かを想うとは、それが想うに値するからである。」〈想い〉には“それが想われるに値する”という価値が伴っている、そう述べられています。〈想い〉自体が価値の根拠になっているこうした理解から、話は「意味」それから「存在」の概念のほうへと向かっています。

 ここで松永の哲学史観を再び確認します。松永は、物思う人間としての哲学者・思想家を立体的に把握しようとするために、どういう状況で誰に向かって書いたのかを都度つど押さえていくことが哲学史を学ぶうえで肝心なのだと考えたのでした。そうしたスタンスは直前に引用した文にある「存在」の概念と呼応します。

 松永が描いている「存在」ないしは「存在性」は〈想い〉ありきのものです。〈想い〉が風立ちぬるごとく、想う私と想われるものとを現し、それが一個の現実になる。存在の存在性がありうるとすれば、この場面において実在する。〈想い〉に価値付けられ、意味付けられ、そして一個の現実の秩序のうちに組み込まれたものが、存在を獲得す

 哲学史を学ぶことにおいても事情は変わりません。特定の哲学者がどういった状況でどのような相手に向かって考えていたのか。そこで思考された問いは、情に彩られた一つの〈想い〉です。そうした想いを想うこと(想いについての思い)によって、ある種の感情移入をする。そうすることで他者の想いも我が事として(あたかも依代として〈想い〉に憑依されるかのように)存在性を獲得することになる。これが、哲学をしてきた者たちの想いを学ぶことの意義です。

 以上のように哲学史をとらえる観点からすれば、人が哲学史を語ることは「自分が懸想してきた哲学者との一体化の歴史」を語ることと言えます。さらに言えば、「私たちの暮らしの中で息づく哲学の営みへと読者を誘うもの」として企てられた哲学概論書『価値・意味・秩序』でみずからの〈想う私〉を描くことは、「自身が想いを通して感受してきた価値の研究」を表現することとなるでしょう。

 『価値・意味・秩序』に書かれているのは哲学者・松永澄夫の、哲学者であることの当事者研究だと言えます。「想いについての思い」を哲学の本拠とする彼のスタイルは、まさに自分自身が私の現実を生きることの当事者性と向きあうことなのですから。そしてそこには中途で止めることのできない享楽性がある。松永が言葉を用いることで〈想い〉によって編成されるリアリティの解像度を上げていくプロセスには、その営みを悦ぶ感受性が透けて見えます。

 

存在を肯定することが哲学することの希望である

ここでは、ここまで見てきた『価値・意味・秩序』の特に第3章で語られたことの総括を記します。主に〈想う〉というキーワードを介してうかがえる哲学の根底にある「想いについての思い」の価値、そして種々の〈想い〉のうち、とりわけ「人への想い」が重要となる点について確認します。

哲学することへの誘惑

 松永が哲学の思索の根底にあるものを「想いについての思い」だと言うときには、それもまた〈想い〉である分、哲学をすること自体にも肯定的な価値の感受が含まれていることを暗に示しています。ある箇所では「現実を自分が生きている現実として受け止め、肯定しようとすることへの希望」が哲学の根底にはある、とも語っているのですから。

 とりわけ、難しそうな観念的な言葉ではなく、「思い・想い」といった、暮らしのなかで自然にまぎれこむ日常的な言葉を用いている様などは、哲学の営みが身近に潜んでいて、そしてそれを想うことの愉しさが何か尋常ではない、異常な感受性であるわけ“ではない”ことを物語っています。

 『価値・意味・秩序』は誘惑の書です。哲学者の当事者性を描き、そして日常の場面で誰もが使用している〈想い〉という言葉によって、私の現実を満たしているものの消息を論じています。そうした、自分を取り巻くものを慈しむ営みが哲学だという事実をうかがわせることで、読者は哲学者であらんとすることの方へ誘惑されるのです。

 おそらく、本書を通して、「我考える、ゆえに我在り」というよく知られた“ザ・哲学”のテーゼは「我想う、ゆえに我在り」へと書き換えられることになるでしょう。難しく言えば、認識論から存在論へ。砕いて言えば、一般的な正しさを求める態度から、固有の在り様を求めることの方へと。前者の方は素人には切迫する気配は希薄ですが、後者は誰にでも切迫するものです。

 まず〈想い〉があって、それからその想いをあらためて辿りなおす想いがある。これは、私を満たしたものを確かめる営みです。〈想い〉が価値である以上、その価値の在り処を確認しようとする営みには私を満たしたものを肯定しようとする態度が読み取れる。──このときの「想いについての思い」こそ、哲学の正体なのです

 

他者と関わることのヤバさ

 最後に、松永が〈想い〉の類いでも特に重要であるような想いをもたらすものとして「他の誰かとの関わり(他者の存在)」を挙げていることに触れます。松永は次のように他者の重みを語ります。

想いの訪れを司っているのは、そうして私というものに中身を与えるものとは、他の誰かとの関わりではないのかということがありはしないか。庭の木立、花壇、風、光、そういうものが、私の想いが染み入り染め上げることで現実と化す、ただの無機的事実に留まらず私の生の現実へと変貌するそのことが、同じ木立や花などが他の人(々)の想いに浸されていることを養分としている。そして、私はその人(々)と向き合う。そして、人と向き合うからには、人は独り居の思索から己を連れださないわけにはゆかない。」154

 思索は人をひとりにさせます。そしてその向かう先に待つものは自分の想いと既存の言葉が嵌まり合った「自分の言葉」の獲得であり、「自分の存在」の確認であり、肯定である。これが松永澄夫が描く哲学が希望であるということの理由です。しかし、風景に自分の想いが浸透するという際の、その〈想い〉の訪れを司り、私に中身を贈り与えてくれるものは、他の誰か・他の人々(他者)である、とも語っている。そのことはどういった理由が考えられるのでしょう。

 ここでの他者を了解する手立てはさまざまあるでしょうが、わたしは以下のように書くことにします。

 「鏡像段階」「ミラーリング」「自我理想」などの観念的な言葉だって役に立つかもしれません。それらの言葉を使わないでも、ようするに「人は他の人を“他人である”というだけでは向き合っていない」ということだと納得できます。松永が示唆した「存在」の概念を踏まえれば、自分が関わっている他人はその“近さ”において、すでに自分の存在の中身になってしまっている、つまりは他人と関わってしまった以上、その他人事は自分事でなくもないのです

 そして他の人との関わりが物との関わりよりも〈想い〉として偉大なのは、人が「自分についての思い」を決定することが、往々にして他人との関わりに左右されるからです。「人間の悩みがすべて対人関係に由来する」(アドラー)と言われるのも、自分の自分自身へのメタな態度決定が他人との関係で構成されるから。──こうした事情は「物への想い」よりも「人への想い」のほうがヤバいことを納得させます。ひいては、「想いについての思い」の抱き手としてある種メタな言葉を探る哲学者にとっても、他人に紐付けられた〈想い〉に接することが、自分の存在の中身となる〈想い〉としての重要度はヤバい、そういう仕方でうなずくことができるでしょう。

(ここで締め括った他者の重要性に関しては、別様に、より解像度の高い説明がありえますが、本稿では上の仕方での説明で考察を留めておくことにします。)

 

まとめ

以上、『価値・意味・秩序』を特に第3章に焦点を当ててご紹介してきました。〈想い〉についてさらっとまとめられたらいいなと目論んでいたところ、やや長くなってしまったことをご容赦ください。この本は哲学することへと招待・誘惑する造りになっていて、その本を紹介する当記事もまた一種の誘惑をしていることになるのですが、いかがでしたでしょうか。ひとまず、わたしが誘惑された結果が、この記事である、という次第です。

_了

参考資料
 

 

中央公論新社編集部『哲学の歴史 別巻』,中央公論新社,2008

 

松永澄夫『哲学史を読む 〈1〉』,東信堂,2008

 

廣松渉『哲学入門一歩前』,講談社,1988

 

中島義道『生きるのが困難な人々へ 孤独について』,文藝春秋,2008

 

日夏耿之介『日夏耿之介詩集』,思潮社,1976

 

岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』,ダイヤモンド社,2013

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