【物語法則を使用する】行き詰まった登場人物を救うビヨンドの教え

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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。 今回は小説家・舞城王太郎の小説作品『ジョージ・ジョースター』を楽しみます。が、しかし楽しむのは主に小説の内容ではなく、作中に登場する「ビヨンド」の概念。その概念が物語る “私たちが物語の登場人物っぽくなっていること” に焦点を当てて、《読者の受苦、作者の治癒》の連載記事の続編に類いする記事を企みました。

この記事で取りあげている本

 

この記事に書いてあること
  • 小説家・舞城王太郎の小説『ジョージ・ジョースター』には「ビヨンド」という概念が登場する。それは作者のことであり、ビヨンドを信じることは、自分が “物語の中で語られた存在であること” あるいは “小説の中で書かれた存在” であるといった登場人物としての自己自身を了解することであり、それと同時に自分を支配する作者の視点をもたらすことになる。
  • 「自分自身が語られ・書かれた存在である」といった自己認識は現実の疑わしさを物語る。とはいえ、現実が疑わしくあることは健全なのだ。現実の疑わしさとは「妄想的ではない」ことを示す。今現在の “現実の様相” を揺さぶるかもしれない否定性を帯びた “他者の視点” があることを肯定するのが「懐疑する我」であり、「疑わしい現実」であることなのだ。
  • 「ビヨンド」の概念は使うことができる。人間の実存は物語的であり、人間の生きる世界には物語法則が働いている。ビヨンドを把握することは “登場人物としての自己自身” を物語る作者の視点を得ることであり、作者と共に “作者が配慮すべき物語法則” を使用する視点を得ることでもある。これは自己の物語に対して登場人物が作者と共制作関係に入ることだ。

 

【物語法則を使用する】行き詰まった登場人物を救うビヨンドの教え

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はじめに

 先般、わたしは《読者の受苦、作者の治癒》なる三部構成の連載記事を書いてみました。それは映画『スケアリーストーリーズ』に端を発した関心から書かれたもので、そこでは、おおよそ次のような点を取り上げています。

  • 読者は本の読者であることで、本に書かれた物語から一方的に傷を受けることになる。
  • 読者が物語の登場人物になる本があれば、物語から受ける傷は物語作者によって治癒する。
  • 人が「読者登場人物作者」になるときには〈本〉の概念による世界が生きられている。
  • 読者が作者として本の使用法を問うときには〈神〉を信じるように〈本〉が信じられている。
  • 「読者であるままに一人の登場人物として作者でもあること」が、本に準拠した実存である。

 一方、以上の《読者の受苦、作者の治癒》への関心は別の本へと私を誘惑しました。厳密に言えば、その本に登場するとある概念に。

 その本というのは、小説家・舞城王太郎の『ジョージ・ジョースター』です。

 『ジョージ・ジョースター』──その物語は漫画家・荒木飛呂彦の一連の作品《ジョジョの奇妙な冒険シリーズ》を下敷きにした極めて複雑な造りをしています。内容をしっかりと紹介するにしても、大変な労力がする側にもされる側にも要求されます。なので、ここでは特に、「物語と現実の関係」を扱った連載《読者の受苦、作者の治癒》に関連する部分に絞って紹介することにします。すなわち、私たちが時として “物語の登場人物っぽくなっている事態” についてを小説『ジョージ・ジョースター』における「ビヨンド」の概念に着目する形で検討していきます。

 上に列記した《読者の受苦、作者の治癒》の狙いを踏まえて言えば、ビヨンド概念を把握することは、現実を物語形式を採用しながら生きている私たち自身の “読者っぽさ” や “作者っぽさ” の把握にも繋がるのです。

 

第一部:ビヨンドとは何か

ここでは、「ビヨンド」とは誰のことか、もしくは何であるのかについて検討します。さしあたあっては作者であるようでいるビヨンドですが、登場人物の視点からは「物語を語る作者」のようでいて、読者の視点からすると「小説を書く作者」のようでもある。そうした点を踏まえて「ビヨンド≒作者」との共制作関係になる、「ビヨンドの使い方」を検討します。

登場人物とビヨンド

 物語のメインとなるのは九十九十九(ツクモ・ジューク)と主人公であるジョージ・ジョースターの視点での物語です。この二人がまず1900年にスペインのラ・パルマ島で出会います。そして世界……というよりも世界線を股にかけて「スタンド」や「ウゥンド」などの超常的な力を絡めつつ、時代も世界も、それに宇宙も超えて奇妙な冒険をすることになるのです。

 当記事にとって特に注意を促したいのは九十九十九がしきりに口にする「ビヨンド」という作中概念です。少し長い引用になりますが、次の九十九十九とジョージ・ジョースターとの会話をご覧ください。

「端的にズバリ言っておこう。僕は、僕が《シャーロック・ホームズ》で、僕のこの世界の外側に、《アーサー・コナン・ドイル》のような存在がいるのだ、と確信してるんだ。僕が名探偵であると自認しているのと同じくらい強く、はっきりとね。そしてその存在を、僕は《世界を超越した場所で僕を操るもの》、『ビヨンド(BEYOND)』と呼んでいる」
 ツクモジュークは意味不明な台詞を続ける。「で、これまで現在形で話してたけど、全て実際にはもう過去形の話さ。最初に言った通り、僕はもう、名探偵であるとは確信していないんだ。つまり、僕の『ビヨンド』は僕を捨てたんだよ。僕は僕のままだけど、この世界での役割を『ビヨンド』から保証されてるわけではない。この世界で……いや、この物語で、『ビヨンド』が《主人公》に選んだのは、君だよ、ジョージ・ジョースター。これが僕の最後の確信だ」
「つまり僕がシャーロック・ホームズとか、君みたいな名探偵としてこれから活躍していくってこと?
…省略…
「君は、多分『ジョージ・ジョースター』ってタイトルの物語の、ジョージ・ジョースターってキャラを生きるだけだよ」
 何だよ。「普通じゃん。言われなくてもそうするよ」
 するとツクモジュークは真顔に戻って言う。「全然違うよ。……『ビヨンド』を確信することによって、君の冒険は全く様相が異なってくるはずだ。それどころか、僕がこんなふうに言うんだから、君は信じたほうがいい。まずは憶えておくんだ。君は、自分のビヨンドを信じ、自分の運命を乗り越えていかなければならない」

 九十九十九は名探偵です。そして彼を名探偵に定める存在、それが「ビヨンド」。このビヨンドは一見して私たちがふつう「作者」と呼ぶ存在であろうことが想像できます。『ジョージ・ジョースター』の作者、すなわち舞城王太郎のことである、というふうに。しかしこうした事実への確信を物語の読者である私たちが理解することと、物語の登場人物が理解することとは意味合いが違っています。少なくとも九十九十九もジョージ・ジョースターも登場人物としての立場上または権利上の理由で「舞城王太郎」の名前を知ることができません

 

第_部:疑わしき現実

ここでは、脇道に逸れます。飛ばしても問題ないくらいです。ここで言いたいことは「現実に疑いの余地があることは健全なことである」ということです。とはいえ、この脇道に迷い込んだのは「ビヨンド」の概念が有意となる条件が、「自分自身が主人公になっている物語の登場人物になっていること」を受け入れる際の、 “現実の疑わしさ” がキッカケですので、きっと無意味ではないでしょう。

「思う我(コギト)」の現実

 物語の登場人物は「作者に書かれている文字の効果として生じている意味現象である」という事実を想像することはできても、それを自分の身に実際に起こっていることとして確信することは困難です。このことは彼らを読む読者である私たちの事情を思えばわかるでしょう。読者である私たちでさえ、自分たちが物語のなかの存在である可能性を想像することはできますが、実際に世界を体験する生々しさを前にして、その可能性に心底で納得することは難しいのですから。(それを実際に体験しているように生きているとしたら、精神の正常を疑われ、妄想症状にあると言われてもおかしくありません。)

 読者という視点から、現実と虚構という区別を立てることが出来ます。物語を読むとき、読んでいる内容を虚構として、読んでいる自分を現実の側に属するものとして振り分ける。──ですが、実はこうした区別を立てても「これは本当に現実なのか?」の疑いを免れることはできません

 哲学者ルネ・デカルトもまた現実の疑いの余地を突き詰めていき、結果として「我思う、ゆえに我あり」という事実は疑えないという点に落ち着きました。これは自己が自己意識(考えている主体は自分であるという感じ)を通して直覚的に自身の同一性を得ることができるというアイデアです。ところがこれも疑うことができる。言い間違い、記憶違い、さらにはより病的な妄想、遁走、統合失調など、絶対的な根拠であるはずの「思う我(コギト)」を批判する言い分には事欠きません。

 精神分析家のジャック・ラカンは次のようにデカルトの到達点を更新します。

 ラカンは言います。「我あらぬところで我思う、ゆえに我思わぬところに我あり」。これはジークムント・フロイトが発見した「無意識」をデカルトが想定する主体に適用させたアイデアです。わかり良いように「自分が思っている自分」を自我とし、「他人に思われている自分」を無意識と言い換えましょう。自覚している自分が氷山の一角のようにある一方で、水面下には自分が自覚していない無意識の領域がある。そして本当の自分がいるとしたら、むしろ無意識の側に属する自己のほうなのではないか。これが「我あらぬところで我思う、ゆえに我思わぬところに我あり」が意味するところです。

 ──つまるところ、デカルトが「思考によって得られる自覚は立派なものだ」と考えたのに対して、ラカンは「自覚というものは思いの外しょぼいものである」というふうに表現しているのですね。

 

現実への懐疑

 デカルトとラカンの立てた道標を見比べると、本当の自分=本当の現実にたどり着く希望はなさそうです。「これは本当に現実なのか?」という問いにしても、決定不能な問題になるでしょう。これは現実であるという自覚があって、ふとした時に「これは現実ではないかもしれない」などと考えるにしても、正解かどうかを確かめられないのですから。せいぜいホッペをつねるのが関の山です。

 睡眠時に見る夢からは醒めることが出来ますが、現実の外部へと覚醒することは出来ません。「私は私である」という一意性は強固に現前を定めていて、「世界は世界である」または「現実は現実である」といった現象に対する眺望は固定されたままでいます。幼少期でも成人期でも、ふだん生きる世界が “目の前に展開する現実以外ではない” のと同様に。このことは現実の確かさを証しするものでもありますが、それと同時に現実の疑わしさの根拠にもなる。覚醒できない夢があったとき、夢であることの確かさは現実でないことの確かさにもなりますし、夢であることの疑わしさが現実でないことの疑わしさにもなるのです

 “現実ではないこと” を確かめられないからと言って、「これは本当に現実なのか?」と疑わずに済むわけではありません。ある種の芸術作品に触れた時にはそうでしょう。それまでの経験してきた世界の意味がブレてしまったりなどして。──ありませんか? そういうの?

 しかし、大抵は現実の疑わしさには気づかないでいられる。

 実際に懐疑の念を抱くかは別にして、現実に疑いの余地があることはむしろ健全なことであるかのようです。

 自覚はデカルトの「我思う」の含みを持ちますが、これはたとえば「無意識」の発見によって確実なものとは呼べなくなりました。自覚と無意識の概念とを繋げるなら、ラカンの「我あらぬところで我思う」を踏まえて「他覚」という言い方ができるでしょう。自覚と他覚、この両者のアイデアを合わせれば、「人間の健全な現実のあり方には、常に現実の疑わしさを潜在させている」ことに頷けるのではないか──と考えてみて、以下、人間の現実の健全さを捉え直してみます。

 直に与えられるデカルトの自覚的な現実があり、その一方で、自分には隠された形で与えられているラカンのアイデアに類いする他覚的な現実がある。ここで言う「現実」には、否応なしに「他者」の観念が混じっています。言い換えれば、自分が見ている物事にはつねに別の側面があり、それを告げ知らせてくれる存在がいて、それこそが他者なのだという観念が。

 自己と他者。差し当たっては、これは「あなたと私」の二者関係のことですが、自覚的であり他覚的でもある現実の成立事情に焦点を当てると、そうした二者関係は「あなたと私」であると共に「私と私」の関係のことでもあります。──この、「あなたへと水平に渡される架け橋」と「私自身に降りていくために垂直に掛けられる梯子」の二者関係を理解するモデルのひとつとして挙げられるが「読書」です。

 

読書と脳と現実と

 人間にとっての現実と読書との関係を考えてみましょう。

 人間の現実を測るひとつの指標として、人間の脳の働きという観点があります。

 ワシントン大学動的認知研究所のJeffrey M. Zacksジェフリー・ザックス)らの研究に、物語を読んでいるときの脳の内部を調べたものがあります。研究の結果、「人間の脳がどのように自己意識を構築するのか」に関しての物語の役割が明らかになりました。それによると、読んでいる物語の中で登場人物が移動すると、脳の側頭葉の方向定位と空間認識に関連する領域が活性化したのです。また、登場人物が何か道具を使った場合にもやはり脳の前頭葉の人体の動作に関連する領域が活性化したのでした。さらに登場人物の意思決定、目標策定する場面では、順序に関する知識や意図的・計画的な行動の構築に深く関わる脳の前頭前皮質の領域が活性化したのです。

 心理学者ケヴィン・ダットンは以上の研究結果を踏まえて、「想像することと現実に実行することは、脳内では同じらしい」と語ります(※)。

 Nicholas Carrニコラス・カー)の論文“ The Dreams of Readers ”(2011)では、読書は脳の基盤に新しい神経回路を作り出すものだと言われています。脳の神経回路が作られることは、人間の現実が書き換えられることでもあります。そうした効果の内には「他人の内面に対してより敏感になる」ことも含まれているのだとも語られています。なぜなら、読書は文字を介して見ようとする──見えないものを想像することを自然におこなう行為なのですから。

 以上のカーの論文をまとめる形でダットンは次のような的確な言い回しをしています。

吸血鬼に咬まれずに吸血鬼になる──言いかえればより感情移入(共感)しやすくなる。本を読むことで、普段インターネットやネットが提供する矢継ぎ早なバーチャルワールドに没頭している時とは違う見方をするようになる。

 ケヴィン・ダットンが『サイコパス秘められた能力』で紹介した人間の脳と読書との関係は、現実というものを考える上で示唆するところがあります。

 読者は “想像すること” を通して物語の内容を追体験し、現実と出会う。言い換えれば、他者へと開かれる。虚構を通して、現実を変容させることになる。──こうした読者の体験からは、物語というバーチャルワールド(仮想世界)が、人間の想像作用を介して、アクチュアルワールド(現実世界)と地続きであるかのような印象を抱けるでしょう。

(※私たちは「私」ではあっても「脳」ではありません。 “想像したもの” と “現実にあるもの” が違っていることを私たちは知っています。ダットンはザックスの論文の神経画像で示された結果から想像と現実とが脳内では同じであることを述べたものの、それはひとつの仮説であり、解釈に過ぎません。ザックスの実験にせよ、鵜呑みにするわけにはいきません。人類全体で典型的な脳が共有されているのではなく、私たちは別個に脳を持っています。人間の認知や行動には脳の作用が働いているものの、その脳は私たちの日々の認知や行動によって変化します。加えて、ザックスが行った実験に参加した被験者に誰が選ばれたのかも重要です。ふだん本を読む習慣がある人の脳では想像することと現実に実行することとが同じだったとしても、読書習慣のない人では同じ結果にならない可能性もあります。むろん妥当な研究であることも十分に考えられますが。──この記事で私はダットンその他の「人間の脳と読書とに関する仮説」を援用してはいますが、それはあくまで“おもしろそう”だからであり、 “真実だから” ではありません。)

 

疑わしき現実の健全さ

 

 読書が他人の内面への感度を高めてくれる。この点を踏まえて、先ほど挙げた「デカルトの自覚」と「ラカンの他覚」に目を向けてみます。

 デカルトは正しい知識を獲得するための“人間の認識しようとする作用”にフォーカスを合わせている。ラカンはそれを茶化して“事物を映す鏡である認識主体には必ず背面があること”を示唆し、無意識な、無自覚な領域があることをデカルトの観点へと差し向けたのでした。

 無自覚な領域とは、自分でありながらも自分ではない自分自身”です。これは普段遣いの言い方では他人から見られた自分となります。いわば、自分の知らない自分。それもまた「自分が見ている物事には常に別の側面があり、それを告げ知らせてくれる存在」としての一個の他者です。──自己もまた一個の他者である、というわけです。

 読書が高めてくれるという“他人の内面への感度”の正体は、単純に言えば「想像力」のこととなります。そして、自覚的な現実と他覚的な現実との間にある溝を超えるという想像作用を確かめたならば、知的作用に重きを置いたデカルトの「我思う」をアップデートする、想像作用を軸にした「我思う」を見出せるのではないでしょうか

 以上の想像作用を軸にした「思う私」を踏まえると、「現実に疑いの余地があることはむしろ健全なことである」という話は次のようにまとめられます。

 現実は「思う我」をモデルにして構成されている。とはいえ、目の前の現実が間違いであることを判断できる“別現実である可能性”を告げ知らせる他者もまた存在している。この他者の存在もしくは他者性を認めるための条件が「現実に疑いの余地があること」なのである。そして、こうした他者が存在しないと、自分の正しさを盲信する妄想的で宗教的な現実が立ち現れる。妄想は自らを頑なにし他人を立ち入れない。宗教は教条的で異教としての他者を追放する。だからこそ、現実に疑いの余地があることのほうが健全なのである。疑いの余地があれば、他の現実に脅かされるのではないかと過敏にならなくても済む。常に自分が否定されるのではないかと怯えながら生きることは惨めであり、病的である(とはいうものの、妄想が悪なのではない。)。この病的である状態を「妄想的」であるとするならば、疑いの余地が十分に取れた健全な状態は「想像的」である。

(上のまとめから、テストの点が取れる「ガリ勉くん」よりも本を読んで感動する「文学少女ちゃん」の方が“よい”と言うことができるでしょう。とはいえ、それも文学少女ちゃんが自分の感動を絶対的なものとして奉ったりしなければ、というカッコ付きではありますが。)

 

舞城王太郎≠ビヨンド

 ジョージ・ジョースターは九十九十九から「ビヨンド」の概念を教わります。それは小説『ジョージ・ジョースター』の登場人物である彼らにとっては小説を書いている作者・舞城王太郎のことだというふうに理解できます。先に確認したところでは、登場人物は権利上の都合で“自分たちを書いている存在”を知り得ないこと、さらには知ったとしても “自分たちが書かれていること” を確信できないだろうことを、読者の現実感覚とのアナロジーから考えたのでした。

 ですが、ここではビヨンドと作者・舞城王太郎とが必ずしも一致しないという点に触れてみましょう。まず、『ジョージ・ジョースター』の中では、小説の登場人物は作者が舞城王太郎であることを知りません。だからこそ「ビヨンド」という概念を持ってくるのですね。

 また、「ビヨンド」のことが語られる際には「小説の作者」のイメージで解説されることにも注意しておきましょう。たとえば九十九十九はジョージ・ジョースターに対して次のようにレクチャーしています。

「君は、多分『ジョージ・ジョースター』ってタイトルの物語の、ジョージ・ジョースターってキャラを生きるだけだよ」
 何だよ。「普通じゃん。言われなくてもそうするよ」

 通常、作者は小説の中に登場しない、ということになっています。とはいえ小説を読む読者からすると、小説の地の文で語る三人称小説で書かれた作品であれば物語の語り手が作者である、と言うことはできるでしょう。あるいは見方によっては視点人物を設定して語らせている点では、一人称も二人称も含めて、すべての語りを「作者の声」として読むこともできます。ところが、ここで発見されている作者を“小説を書いている作者本人”と一致させていいのかは自明ではありません。言い換えると、「物語を語る作者」と「小説を書く作者」は同じ人物ということにしていいのか、ということです(ここで物語というのは語り/語られる登場人物に関係する物語内容のことを、小説というのは書く/書かれる文章表現に関係する表現外観のことを指しています。)。この点を問題視すると、小説の中に登場できる作者はいかなる意味でも前者・物語を語る作者なのであって、後者・小説を書く作者は登場することはできないのです。なので、たとえ小説の登場人物が自分たちを書いている存在が「舞城王太郎」と知っているにしても、それは作中作者という登場人物としての作者・舞城王太郎である、ということになります。

 再び「ビヨンド」に目を向けましょう。

 小説『ジョージ・ジョースター』に作者は登場しません。ですが、作者と重ねられる存在を示唆する概念としてビヨンドは語られます。ビヨンドは登場人物なのではなく、物語の中に不在の何(者)かを示唆する。それは現実世界を生きる人が「神(GOD)」という言葉で想定しているようなものだとも言えるかもしれません。しかし他方で、『ジョージ・ジョースター』を読んでいる読者にとってそうした何(者)かを「舞城王太郎」のことだと同定することができます。この点で登場人物と読者の視点は非対称的です。読者からすればビヨンドが舞城王太郎であるという事実が見えているのに対して、登場人物からは見えていないのですから。また、九十九十九がジョージ・ジョースターにビヨンドのことを伝えるためにそれを「神」と呼ばなかったことも重要です。

 

作者≒ビヨンド

 なぜ「神」ではなく「ビヨンド」なのでしょうか。それに関しては、さきほど引用した続きに当たる次の一節を再確認してみましょう。

 何だよ。「普通じゃん。言われなくてもそうするよ」
 するとツクモジュークは真顔に戻って言う。「全然違うよ。……『ビヨンド』を確信することによって、君の冒険は全く様相が異なってくるはずだ。それどころか、僕がこんなふうに言うんだから、君は信じたほうがいい。まずは憶えておくんだ。君は、自分のビヨンドを信じ、自分の運命を乗り越えていかなければならない」

 上に引用した文章は九十九十九がジョージ・ジョースターに対してビヨンドの概念をレクチャーしている場面です。ジョージが小説『ジョージ・ジョースター』というタイトルの物語のキャラなのだ、九十九十九はそう言っています。しかしこれはある意味では当たり前な話でしょう。「わたし」という一人称の言葉の意味を理解できるならば、自分の人生が決して自分以外の人生ではないという事実から、自分の名前を冠した物語の主役が自分だというイメージを、一種の比喩として理解することができます。──ところが、九十九十九はそのような“普通”の意味でビヨンドを語っているのではないらしいのです。

 九十九十九が語っていることは読者からすれば「小説の中の登場人物が自分が登場している小説があることを考えている」ことになります。彼らにとって自分たちを書いている存在がいるとすれば神(GOD)のようでもあります。がしかし、それは神(GOD)なのでもない。そのことは読者がよくわかっているはずです。作者・舞城王太郎が神(GOD)なのではなく「小説を書く作者」に過ぎないことを。なので、むしろビヨンドは神(GOD)ではなく作者の観念に等しいのです。そして作者は万能ではなく、せいぜい、万能であるかのように振る舞うことができるだけなのです。

 さて、物語の登場人物であるジョージ・ジョースターが自分の名前を冠した物語『ジョージ・ジョースター』の主人公なのである。──このことは九十九十九が「自分のビヨンド信じ、自分の運命を乗り越えていかなければならない」と語るところの「自分のビヨンド」が、「『ジョージ・ジョースター』の作者」であることを理解させてくれます。

 ストーリーが進み、ジョージ・ジョースターは真剣にビヨンドと向き合う必要が生じます。そのときジョージが考えるのは「ビヨンドの使い方」でした。

 考えろ。ビヨンドを信じるということはどういうことだ?
 俺を主人公にして物語を描いている作者がいるということだ。
 じゃあとっとと俺を助けてくれよ!と思うけど、それができない理由を俺は知っている。九十九十九がいなくなってひとりぼっちだった俺はたくさん小説を読んだから判るのだ。物語の筋というものには文脈があって、理屈が通らないこと、唐突で不自然なことは起こらない。
 文脈を作らなければならない。
 ビヨンドは存在する。だから十五年前に九十九十九は来た。俺がビヨンドを信じてるわけでもなかったのに来たのは、……こう考えよう、俺にビヨンドの存在を信じさせるためなのだ、と。それと同時に、俺にビヨンドの使い方を教えるためなのだ、と。

 上に引用した場面で、ジョージ・ジョースターは絶体絶命の状況に陥り、神頼みならぬ作者頼みをしています。しかしジョージは同時に、作者頼みにはやり方があることを考えるのです。この点から、九十九十九が語って聞かせた「ビヨンドを信じるということ」の意味が検討されます。ビヨンドを信じることが神(GOD)を信じるのと違うというのもこの点にあり、それは「おーい神さま~」といった具合に神に呼びかけて願いを叶えてもらうこととの違いだとも言えるでしょう。神(GOD)は祈ったり願ったりする対象でこそあれ、決して使うものではありません。ところがビヨンドは使うことができるのです。

 

ビヨンドを使う

 ジョージ・ジョースターはビヨンドを使おうとします。具体的には、「来るべき事態のための理屈をつくり自然なプロットの展開にすること」、つまり、「物語の文脈を整えること」なのでした。そして、登場人物であるジョージがこうした点を配慮しようするときには、自分が書かれた『ジョージ・ジョースター』の〈物語=小説〉の生成に関わろうとしています。言い換えれば、ジョージがビヨンドを心配するときには「登場人物が自分が登場する物語の制作に積極的に関与しようとしている」のです。そのような態度を取る登場人物は、作者の書く〈物語=小説〉の中の登場人物であるばかりではなく、作者と共に物語=小説を作る「共制作者」であるとも言えましょう。

 多くの〈物語=小説〉の制作においても、登場人物は作者と共制作的であると言えます。すなわち、作者が登場人物に対して一方的に操作するというのではなく、書くことを通して登場人物の認知や行動からフィードバックを得ながら書き進めるといったことは、作者の側からすれば意識するかどうかでうなずくことができる共制作関係となっているのですから。とはいえ、これは登場人物の側からするとまったく存在しないか、したとしても登場人物が自分が作者によって書かれている事実を従容するといった形による“受動的なもの”であるに過ぎません。あるいは、登場人物が積極的に共制作関係をとることもできるのですが、《物語を語る作者/小説を書く作者》の区別でいうところの「物語を語る作者」にしか関われないのです。自分を語る声に関わろうとする物語、その一つのあり方としてたとえば登場人物と「作中作者」との会話といった形があります。これはしかし何より読者をシラけさせるご都合主義の展開になりかねません。小説を一種の詐術だとすれば、読者は種明かしされたくて本を読むわけではないでしょう。

 問題なのは「物語を語る作者」に対して登場人物が直接対峙することです。直接的な関係を持ってしまうと台無しになりかねない。ここで「ビヨンド」の概念が活きてきます。ビヨンドの概念は作者そのものを名指ししているわけではありません。一つの説明として、ビヨンドとは、〈不可知かつ不在でもある作者がいるからこそ可能になる世界〉と〈その世界に潜在している小説的な法則〉を指すものです。登場人物がビヨンドの概念を確信することで間接的に「物語を語る作者」との関係へと開かれることになる。作中作者は不在のまま、いや、むしろ不在であるからこそに活きる法則概念が「ビヨンド」なのです

 ビヨンドの概念を介することで、登場人物が積極的に〈物語=小説〉の作者との共制作関係になる。ここにはまた「物語を生きる努力をしている登場人物」と「小説を書く努力をしている作者」との図式が見当たります。内部では登場人物が物語を作ろうとし、外部からは作者が小説を作ろうとする。こうした関係において、「ビヨンド」の概念は登場人物と「物語を語る作者」のみならず、「小説を書く作者」に対しても積極的な関係を結ぶことができるのです。

 

第二部:ビヨンドの使い方

ここでは、「ビヨンド」概念の効用についてを検討します。自然法則や道徳法則とも違った、物語法則を取り上げ、ビヨンドの概念を物語法則に訴求させるものとしてその効用を見ていきます。そして「読者-登場人物-作者」の図式を適用する可能性、その上で、人が登場人物として作者と共制作関係に入ることの意義を考え、楽しみます。

ビヨンドの効用

 「ビヨンド」の概念はどのような効用をもたらすものでしょうか。

 たとえば哲学者プラトンの「イデア論」はひとつの概念です。イデア論とは人は洞窟の中に縛られていて、天井に映った外の光によって投影された事物の影を見ているに過ぎず、事物そのものをまなざすことはできない、というアイデアです。この概念を把握することで、人は、世界をイデアが投影された影絵の世界、つまりは「仮象の世界」としてまなざすことができるようになります。このことは単にひとつの妄想が加えられるだけではありません。より根本的な意味で世界が膨らむことに関係します。世界の膨らみとは、人が生きる上で直面する諸々の現象──恋愛、芸術、政治、社会、人生、他者、そして自己──などの意味へと開かれることです。たとえば気持ちよさであったり、おもしろさであったり、役に立つかであったりといった対象を経験することの意味をもたらすために、概念をひとつ把握することは、暗記課題のひとつを覚えること以上に効用があるのです。

 小説『ジョージ・ジョースター』における「ビヨンド」の概念では、物語の登場人物の立場からすると、この世界が現実ではない可能性への懐疑をもたらすものです。さながらプラトンのイデア論のように。しかしまた、ビヨンドの概念は現実をより深く確信するための契機にもなります

 【第_部:疑わしき現実】において、「現実に疑いの余地があることはむしろ健全なことである」といったことを確認しました。疑わしきは異常ではなく、むしろ正常である。現実を不安定にするものを肯定し、否定されることもありながら、アイロニカルな他者を受け入れ、以前より深い現実への確信を得る。こうした、より深い確信をうながす懐疑を助産する概念のひとつとして「ビヨンド」の概念もあるのです

 「ビヨンド」の概念の効用を考えるために、小説『ジョージ・ジョースター』の登場人物であるジョージ・ジョースターの振る舞いを見てみましょう。ジョージがビヨンドを確信することによって洞見したのは、一方で自分が物語の中の登場人物である可能性の発見、つまりは「自己の虚構化」です。他方では、この虚構化は「法則の実在化」を助産するものでもあります。

 小説の中では、あたかも自分が書かれている小説を仮定することで、登場人物としての自分が直面している問題を克服するための展開を模索するのですが、ここでは模索を実践するために “これから語られるべき物語” の法則までもが仮定されています。こうした二重の仮定の内訳は、ゲームとそのルールの仮定です。ゲームはルールの効果として現れている、こうした確信のもとに、ジョージは来るべき物語の展開に必要な文脈を作るのでした。

 注意しておきたいのは、ビヨンドの概念がうながすことが、 “自分を登場人物にした小説を書いている作者が実在しているのではない” ということです。そうではなくて、ビヨンドという概念の把握がうながすのは、“あたかもそうであるかのように振る舞うための連鎖的な行為要請の基準がある”ということなのです

 

登場人物の実現法則

 ようするに、登場人物である自分を語っている作者がいるとしたら、それが書かれている小説があって、それを読むことになる読者がいるといった、一連の概念群──たとえば本、読者、作者、小説の作法──がセットとして立ち上がってくる世界観が表現可能になります。こうした世界観を表現するために「自己の虚構化」と「法則の実在化」という二重の仮定がおこなわれ、そのことによって目の前の現実を別様なものとして確信することができるのです。

 物語世界の中では、「ビヨンド」の概念を確信することによって現実では起こりそうもない出来事をもたらします。何せ実際に登場人物を読んでいる読者がいるわけですし、読者の側からすればそれを書いている作者もいるとわかっているわけですから。

 とはいえ、ビヨンド及びそれに類いする概念を把握することの効用は、小説『ジョージ・ジョースター』を読む現実世界の読者にとっても他人事ではありません。人は出来事を物語の形式として理解するので、人が物語的であることを免れるのは難しく、物語的であるならば小説的でもあり、小説的であれば「読者-登場人物-作者」の図式にも効用があります

 「読者-登場人物-作者」の図式が有効であれば、その連関のもとで、人は読者にも登場人物にも作者にもなれます。また、ビヨンドを信じることは  “物語には唐突で不自然なことは起こらないこと” の了解であって、それと共に  “物語の筋というものの理屈が通るために文脈を作らねばならないこと” への了解でもあります。これは現実の人生の中で経験されることで言うと、 “宝くじに当選したければくじを買え” であり、 “夢を叶えたければそうなるように行動せよ” ということでしょう。こうした言い方の裏にはある種の実現法則がありますが、これは自然法則とは違っています。

 言うなれば、道徳法則です。この道徳法則があるからこそ、人はその法則から要請される一連の行為への自由が与えられます。道徳法則と同様に、物語もまた登場人物に対して始まりと終わり、そして達成課題を与えることによって、その目的を果たすための一連の行為に対する自由が与えられます。逆を言えば、何らかの法則抜きにはある行為に対して自由であったかどうかも判断できないのです。

 たとえばある物語の登場人物の日常生活があり、あるとき、その日常が脅かされるとすると、その人物が平和な日常を取り戻そうと闘うのは、その登場人物にとっての自分が自由でいられる根拠が “日常生活が守られている” という道徳法則が実効的であることが踏まえられています。この意味で、自由とは道徳法則があることの根拠になっていて、道徳法則は自由であることの根拠になっているのです。

 

物語法則と登場人物の作者化

 物語の登場人物がビヨンドの概念を把握することは、作者が踏まえねばならない事情を配慮することへと登場人物の態度をうながすのでした。作者の事情とは自然法則でもなく、はたまた道徳法則とも違います。用語の適当を期せば「物語法則」でしょうか。

(道徳法則と同様に、物語法則もまた自由の観念の成立を担っているものとして語れるでしょう。なぜなら物語法則に照らされることによって登場人物はプロットをエピソードとして享受できるのですから。登場人物の時間も経験も自由も、この法則如何によって決まります。)

 登場人物が作者が踏まえるべき物語法則を配慮しようとするとき、その登場人物は自分自身のことを書いている作者の視点を持っている、それは登場人物としての自分を俯瞰する作者になることでもあり、と同時に物語世界に存在しているという意味で、半ば登場人物でありながら半ば作者にもなっています。これはひとつの作者化です。

 登場人物が作者の視点に立ち、その上でみずからの来るべき展開を模索する。これは俗に言われる “小説を書いている作者が登場人物になりきる” のとも少し違った、 “登場人物が小説を書いている作者になりきる” といった事態に当たるでしょう。この事態は物語の登場人物にのみ起こるのではありません。現実を生きる人間にも該当するのです。

 というのも、理解の形式にせよ実存の様式にせよ人間は物語的ですので、実生活上でストーリーの消費者であったり、制作者であったりすることはあります。神(GOD)による創世神話のストーリーであれば、被造物としての自己自身と創造者としての神(GOD)の図式があり、資本社会におけるサクセスストーリーであれば消費者としての自己自身と企業家としての自己自身などがそうです。「読者-登場人物-作者」の図式で言えば、前者が〈読者-登場人物〉の相に当たり、後者が〈作者-登場人物〉の相に当たります。視線の質としては《ベタ(虫瞰)/メタ(鳥瞰)》の対比として語ることができるでしょう。

 現実を生きる人間がビヨンドの概念を把握するときの効用は、ベタな自分の立ち位置へのメタな視点の獲得となります。ただしこのメタ視点の獲得というのは単に内在的な視点を超えでることを意味しません。そうではなく、内在的であるままに、そのことのうちに別様な現実を見いだせる視点の移動ができるということです。

 

ビヨンドの効用

 

 ジョージ・ジョースターが作者の視点を「小説を書く作者」と共有することになろうとも、ジョージは小説の外に抜け出すことはありませんでした。あくまでもジョージ・ジョースターは『ジョージ・ジョースター』という小説に内在し続けるのです。そのようにして、視線を持つ者が “内在し続けている” ということが肝心です。登場人物が “自分が登場する物語” に属するように、人間は “自分が実存する現実” に属している

 内在、内在。

 ですので、ビヨンドの概念の効用を語るのも「視点が行き来できる可動性の獲得」、とした方が的確かもしれません。同じ現実の中で自然法則に注意を傾けるときもあれば、道徳法則の方に注意を傾けるときもあるように、物語法則を意識することもある。あるいは、それら法則を踏まえて活動している他の人たちへと視点を移すこともできます。そのような事情から、ジョージ・ジョースターがそうであったように、あたかも自分の物語が書かれている小説を想像し、その小説の登場人物として、自分が書かれた小説の読者への配慮であったり、作者が守るべき作法であったりがあたかも存在するかのように、自分が属する物語的な現実の中で振る舞うこともできるのです。

 ビヨンドは実在しない。しかし、実在させる努力をすることはできる。実在することになる形式を作るための努力は、作業であり、段取りであり、手順であり、はたまた習慣化などといった、自己啓発的な調子させ帯びることになるでしょう。なぜなら「どのような視点から自分が生きる物語を選ぶのか」という問いは、自分はどんな生き方をすればいいのだろうかといった問いと否応なしに似てしまうのですから

 ジョージが自らの信念で以て来るべき展開を求めたように、物語的である人間は “そうなりたいかどうか” は別にして、常に、 “自分がそうなること”へと加担しています。物語の筋に文脈があるように、現実を生きる人間自身もまた文脈を敷いている。ジョージが「文脈を作らなければならない」と気づいたのは、ビヨンドの存在を確信したからでした。確信することによって「ビヨンドの使い方」を思考することができ、その上で来るべき展開のための文脈を作れたのです。

 物語的な現実を生きる私たちもジョージ・ジョースターと同様です。ビヨンドの概念を把握し、確信することができたなら、私たちは自分が登場人物になった物語を語る作者あるいは小説を書いている作者の事情を想像することができるのですから。把握することで自分自身を支配する物語法則を認知でき、作者の視点から展開を調整できる概念。そのような点で、「ビヨンド」は使える概念なのです。

 

まとめ 

いかがでしたでしょうか。この記事では、小説『ジョージ・ジョースター』における「ビヨンド」の概念を検討しました。

はじめに自分が「自分の名前のタイトルがついた小説の登場人物だとしたら」という仮定で生きられるような、疑わしい現実を取りあげ、現実に疑いの余地があることの健全さを確認しました。次に、そうした疑わしい現実を生きる人間の実存には物語的な形式があることを踏まえつつ、ビヨンドの概念が「読者-登場人物-作者」の図式で生きられる現実があることを教示する効用があることを取り上げたのでした。そして、ビヨンドの概念を把握し確信することは、物語的な実存である私たち人間にとって、世界の物語法則に配慮した生き方を可能にするのです。以上の点を踏まえて、ビヨンド概念を実装すること有益であると結論しました。

全体として、『ジョージ・ジョースター』の作品の魅力というよりも、『ジョージ・ジョースター』に登場する「ビヨンド」の概念を楽しむ内容になりました。おそらく、この記事に効用があるとすれば、ビヨンドを実在させようとする楽しみを聞けることでしょう。ぜひ、あなたもご自分のビヨンドを発見し、使ってみてください。

_了

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