【エレミヤ書説の検討】なぜ時計は11時11分なのか?|ジョーカー

画の紹介
(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
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 こんにちは、ザムザ(@dragmagic123 )です。

 今回は映画『ジョーカー』の紹介……というほどの紹介はしてなくて、劇中の小ネタのひとつを取りあげる記事です。

 というのもわたしはすでにトッド・フィリップス監督作品の映画『ジョーカー』の紹介記事を書いてしまっています。

 そのためのリサーチを半月ほどしていたのですが、調べているとわたしが映画を見たときには気づかなかったことに気づいている人がいて、熱心に考察されているのがちらほら見つかりました。

 今回はそのうちのひとつ、映画『ジョーカー』の劇中において、映る時計の秒針がどれも「11時11分」を示している点をつっつきます。

※英語で読みたいかたはこちらをどうぞ↓

この記事で取りあげている画
トッド・フィリップス『ジョーカー』,ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズ,2019
この記事に書いてあること
  • 映画『ジョーカー』に出てくる時計は、なぜかすべて11時11分を指している。その理由には諸説あるが、もっとも信憑性が高いのは旧約聖書のなかのエレミヤ書である。11:11の節を見ると主(=神)とジョーカーのイメージを重ねることができる。
  • 性格や人生など、預言者エレミヤとアーサー・フレックは通じるところがある。どちらも〈形式的なもの〉の形骸化に対して、〈こころ〉および〈主観〉に還ることを唱える。それによりエレミヤは宗教を人格化し、アーサーはジョーカーとして何が正義かを自分で決める。
  • エレミヤには宗教があり、ジョーカーにはない。「人はそもそも悪である」と考えるジョーカーにとって善人は悪へ解放する必要がある。ゆえに両者は違う。他方でエレミヤは〈新しい契約〉を説いた人物でもある。このことはジョーカーが預言者である可能性を示唆する。

 

 

【エレミヤ書説の検討】なぜ時計は11時11分なのか?|ジョーカー

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映画『ジョーカー』の紹介

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 ここではまず映画『ジョーカー』のあらすじを確認します。引用は映画紹介サイト『MIHOシネマ』から、ネタバレなしの紹介記事からの引用です。

舞台は、バットマンがその活動を開始する以前のゴッサム・シティ。アーサー・フレックは、街の片隅で大道芸人として生きる冴えない男。そんな彼を支えていたのは、母が幼少期よりアーサーに言い続けた、「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という言葉。母の願いを叶えようと、常にピエロの扮装で笑顔を携え必死に生きてきたアーサー。しかし、そんなアーサーに世界は優しくなかった。アーサーを恫喝しては金を奪い取っていく若者達。それでも必死に前を向いて生きてきたアーサーだったが、とうとうそんなアーサーの心を折る出来事が起こる。こうして、アーサーはその後バットマンの最大の敵となる『ジョーカー』へと変貌していくのだった。(mihocinamaより)

 ※ネタバレありのあらすじはこちら

 また、『ジョーカー』についてザムザ(@dragmagic123はすでに次の記事を書いていますので、よろしければチェックしてみてください。

 映画『ジョーカー』は監督トッド・フィリップス、俳優ホアキン・フェニックス共に、「観客を考えさせる映画」であるようにとの想いが込められた作品です。上の記事はザムザ(@dragmagic123 )が「考えさせられたこと」をまとめたものになっています。

 

映画『ジョーカー』のなかの「11時11分」が意味するもの

 映画『ジョーカー』を見ていて、気づく人は気づく謎のひとつに、劇中の時計の秒針がどれも11:11、つまり「11時11分」を指しているというのがあります。以下、一部で話題になっている「11:11」の謎について、主にユダヤ・キリスト教圏の文化のシンボルとして理解し、その線から点検していきます。

11:11=エレミヤ書の一節を意味する?

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 諸説あるようで、アーサーがソーシャルワーカー(精神科医)と面談をしている場面で見つかることから、面談を定時に受けている几帳面な性格を表している説などもあるようです。もっとも説得力のある説には、旧約聖書のエレミヤ書のことを暗示している、という見方があります。(たとえばYouTubeには「Joker: Explained: Why All Of The Clocks In The Movie Are Set To 11:11 | FILM FAN THEORY」などの解説動画があります。)

 ためしに、エレミヤ書の11:11に当たる箇所を見てみましょう。

それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれからのがれることはできない。彼らはわたしに叫ぶだろうが、わたしは彼らに聞かない。

(新改訳版・日本聖書刊行会)

 引用した文の「主=わたし」と「彼ら」との関係は、どこかジョーカーのキャラクターを匂わせるものになっています。ジョーカーを「悪のインフルエンサー」と語る評者(※)もいますが、「彼らに聞かない」すなわち「彼らに耳を貸さない」態度というのも、人々に影響を与えはするものの自分自身は彼らの影響を受けない「インフルエンサー」と同じです。何より、ジョーカーは「わざわい」をゴッサムシティにもたらすので、「悪のインフルエンサー」であり、「悪の先導者」であるという指摘にはうなずけるでしょう

(※『岡田斗司夫ゼミ10月13日号 特集・映画『ジョーカー』ネタバレ解説~あなたの隣にJOKERはいるかもしれない』)

 

エレミヤとは何者か? 〜人生

 映画『ジョーカー』で登場する「11:11」(11時11分の時刻が、「エレミヤ書の一節を暗示するものである」という理解をもう少し深めてみましょう。ここでは主に「エレミヤが何者なのか」を確認します。

 エレミヤは神の国・イスラエルの後期の記述預言者たちのなかで、もっとも偉大な人物だとされています。エルサレムの北の郊外アナトテの祭司ヒルキヤの子として生まれ、ヨシヤ王の治世13年(紀元前626年)において預言者に命じられます。

 エレミヤは生涯結婚しませんでした。祭司の家の出でありながら職業的宗教階級に属さず、比較的自由な立場で預言活動を行っていたのです。

 18年に宗教改革(申命記改革)があり、エレミヤは賛同するものの、この改革運動は失敗に終わり、彼は失望します。さらにヨシヤ王の死後に政情は混乱し、親バビロニア派親エジプト派の争いが勃発。エレミヤはバビロニヤとの平和を保つために降伏も仕方がないと唱えますが、人々からは理解されません。彼は「神殿説教」(7・26章)で政治家や宗教家たちの無能を責めています。

 結局イスラエルはバビロニヤに攻められ、王も指導者もバビロンの捕囚となります(バビロン捕囚)。

 イスラエルに留まったエレミヤは祖国再建のために奔走するものの、親エジプト派によってエジプトへ強制連行されてしまい、連行されたエジプトの地で殉教したのでした。

 

エレミヤとは何者か? 〜性格

 エレミヤの人生は波乱万丈たるものでした。しかしそれは彼がみずから選んだのではありません。むしろ、エレミヤは小心で、おだやかな性格の持ち主だった(らしい)のです。ここまで読むと映画『ジョーカー』のアーサー・フレックを連想させられます。アーサーは「小心で、おだやかな性格の持ち主」でした。しかし彼が立たされた境遇は彼自身が選んだのではありません。

 ところが、エレミヤは神から授けられた使命への責任感のために、険しい道のりを歩むことになったのです。

 審判の預言者アモス服従の預言者イザヤ、そして特に愛の預言者ホセアからの影響を強く受けたエレミヤが語ったことは、直接的には徹底した審判への預言でしたが、実態としては神の教えに背き堕落した民への悔悛を促すものでした

 エレミヤの預言の特徴は次のようにまとめられています。

エレミヤの預言の特徴のひとつは、神殿や祭儀の形式的な宗教よりも、〈こころの宗教〉を力説したところにある(17:10).すなわち、心にきざみつける、真実な〈新しい契約〉の思想は(31:32,34)、聖書の信仰を一段と深め、さらに発展せしめる重要な礎石となっている.エレミヤにおいて、聖書の信仰は、人格宗教としての色彩を強めえた.

『聖書辞典』・新教出版社編

 

ジョーカーとエレミヤの共通点:〈形式的なもの〉の形骸化

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 エレミヤの預言の特徴が「神殿や祭儀の形式的な宗教よりも、〈こころの宗教〉を力説したところにあるというのは、映画『ジョーカー』を容易に連想させます。

 『ジョーカー』の舞台であるゴッサムシティの情勢は、あらゆる〈形式的なもの〉が正常に機能しなくなっています。ゴミ収集業者のストライキによって街中にゴミが溢れている様子が象徴しているように治安の悪さ、暮らしの貧しさ、心のゆとりのなさがゴッサムシティには蔓延しているのです。

 ゴッサムシティで破綻している〈形式的なもの〉を、「正義」や「道徳」、あるいは「」と呼んでもいいでしょう。快適な市民生活を送るための条件と言うべきものが、どれも「形骸化」してしまっているのです。

 『ジョーカー』の舞台であるゴッサムシティでは〈形式的なもの〉が形骸化している。──エレミヤが〈こころの宗教〉を唱えた理由も、イスラエルにおける〈形式的なもの〉の形骸化に由来する。ここには関連が見て取れます。

 

ジョーカーとエレミヤの共通点:〈主観≒こころ〉に還る

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 掃き溜めのごときゴッサムの街で、「アーサー・フレックがジョーカーになっていく物語」──それが映画『ジョーカー』でした。(どの時点でアーサーがジョーカーになったのかは見る人によって変わってくるでしょうが、)アーサーがジョーカーになった際にマレーのテレビ番組において次の言葉を語ります。

僕は何も信じない。僕にはもう失うものはない。傷つける者もいない。自分を偽るのは疲れた。悲劇も喜劇も、すべては自分次第、すべては主観だ。だが今わかった。僕の人生は喜劇だ。ずっと思っていた。人生は悲劇だって。だが、すべては主観なんだ。自分で自分を認めればいい。喜劇は主観だ。善悪も主観で決めればいい。社会もそうだ。善悪を主観で決めている。だから自分で決めればいい。笑えるか、笑えないか。

(筆者の記憶と検索によるものなので、実際のセリフの内容と多少違っています)

 こう言ってよければ、アーサーの主張は「主観に還れ」となるでしょう。主観とはもちろん、〈こころ〉のことです。エレミヤが〈形式的なもの〉が形骸化したなかで〈こころの宗教〉を唱えたことと重ねられませんでしょうか。

 〈かたちの宗教〉から〈こころの宗教〉へ。そう唱えることで信仰の姿勢を人格的なものへと変えようとした。──これがエレミヤです。

 それに対してアーサー、いえジョーカーは「善悪も主観で決めればいい」と唱え、〈みんなの正義〉もしくは〈誰かの正義〉から転じて〈自分の正義〉へと向き直ってみせるのです。

 

社会学者・宮台真司によるジョーカー評:堕天使ジョーカー

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 映画『ジョーカー』のパンフレットに社会学者・宮台真司による映画評が載っています。タイトルは《天使が堕天使になる時──ジョーカー誕生譚──》そこで書かれていることは、おおよそ以下のようになります。

ジョーカーが依拠している人間観は「人はそもそも悪である」というもの。そもそもが悪なので、「善であろうとする人」というものは意味がわからず、不気味で、説明されるべき異常な存在である。この異常事態をふつうにしているのが社会(のシステム)であり、社会はじつは幻想に過ぎない。そうした幻想によってしか実現しない善を頼ろうとすることはどこかで無理がくる。ジョーカーはそのような幻想の善を信じて傷つく者を救おうとする。

 ジョーカーは一面では善良な人々を悪の道に誘い込む『聖書』における堕天使サタンに等しい存在でありながらも、他面ではさながらヒーローのようにして、幻想を信じて傷つく人々を救っている。──この認識は言い得て妙です。

 

ジョーカーとエレミヤの違い:預言者ジョーカー

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 幻想を信じて傷つく人々を救うジョーカー。とはいえ、映画『ジョーカー』におけるジョーカーは殺人を犯します。「11時11分」が象徴するところからジョーカーと預言者エレミヤとの関連を考えると、ジョーカーとエレミヤの生き方はあまりにかけ離れているように見えます。最後にこの違いを押さえておきましょう。

 ジョーカーは「人はそもそも悪である」という考えです。しかしエレミヤは「人は善だが悪に染まりやすい」という立場にあります。ですので両者の〈救い〉のあり方は違ってくるのです。ジョーカーでは人はそもそもが悪なのだから、善人であろうとすることは身体に悪い。だから治療する。ですがエレミヤの場合だと悪人である状態こそが人には不健康で治療を要すると考えるのです

 エレミヤは〈こころの宗教〉を語りました。エレミヤが説いたのは「形骸化した宗教」ではない信仰の模索です。ジョーカーにとって、宗教という選択肢はありません。エレミヤの〈こころ〉は〈神〉に通じていても、ジョーカーの〈主観〉は繋がりを持たない。だからこそ、「形骸化した宗教」を救おうとするエレミヤと「形骸化した社会」を救おうとするジョーカーは違ってしまうのです。

 ですが、「11:11」を劇中で置くことによって人々に〈新しい契約〉を説いたエレミヤを連想させることは、ジョーカーもまた人々に〈新しい契約〉をもたらす存在なのだと暗示していると見ることもできます。さながら「預言者ジョーカー」とでも呼ぶようにして。もしもそんな〈新しい契約〉が映画『ジョーカー』から読み取れるとしても、それは鑑賞者それぞれの課題です。なので、〈新しい契約〉に関する言及はしません。本稿はここで打ち止め。

 

まとめ:映画『ジョーカー』は預言する

 映画『ジョーカー』はいくつかの観客を食ったようなジョークの数々があります。今回取りあげた「11時11分」もそんなジョークの一種でした。いや、ジョークじゃないのかも。いずれにしても熱心な観客を不思議がらせるギミックではあります。本稿では聖書のなかのエレミヤ書を暗示する線で考察し、「預言者ジョーカー」の影を発見しました。映画『ジョーカー』が預言映画かもしれない。だとすれば、いったい何を預言しているのか。──まだまだ楽しめる映画です。

_了

参考資料
 

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