映画『ジョーカー』を3つのキーワードから考察する【ネタバレ解説】

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(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
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【キーワード3】妄想

 ここでは映画『ジョーカー』のアーサー・フレックを〈妄想〉をキーワードに検討していきます。

アーサーは自分の妄想から覚醒していくことでジョーカーになっていく

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 映画『ダークナイト』によって示されたジョーカー像を思い出してもわかるように、ジョーカーとは「悪事を働く存在」というよりも、「悪事を唆す存在」でした。ジョーカー自身も悪事に手を染めることこそあれど、それは自分は正義に属していると思い込んでいる人間を、悪へと寝返りを打たせる手段としての行ないとしてのことです。

 そんな誘惑者ジョーカーのやり口は、人間の〈妄想〉を利用します。他人の〈妄想〉を膨らませることによって、不安に陥れる。不安な自分自身を克服するために、行動せざるを得ないと考えるように至り、結果、悪への道を歩み始める。

 考えてみますと、人間が悪事を働くことになるのプロセスは往々にして「妄想的」です。悪役のマッドサイエンティストなどは典型的で、人類のために研究していたのが、いつの間にか現生人類そのものを問題視して、人類滅亡や人類の改造を行おうとしたりします。(たとえば『アメイジング・スパイダーマン』(2012)のコナーズ博士など。)こうした〈妄想〉は『タクシー・ドライバー』の孤独な主人公トラヴィス・ビックルが殺人に及んだプロセスにも見てとることができます。そして映画『ジョーカー』でさえも例外ではなく、煽動されたゴッサムの市民たちの動因でさえも、暴動に至る心的プロセスには地下鉄で殺人を犯したピエロ姿の男と自分たちとの間にある繋がりを妄想してしまっているのです。

 人はみな妄想します。〈妄想〉にも自分に主導権のある妄想とそうでないものがあり、主導権のない妄想だと「これは妄想だ」という意識もないままに妄想してしまい、現実と区別がつかなくなる場合もある。『ジョーカー』で描かれたアーサー・フレックもまた、〈妄想〉を抱えていて、そしてその〈妄想〉に振り回されています。

 ところで、〈妄想〉は一概に悪いものではありません。むしろ「良くなろうとする」運動の一環であることもあります。そうしたポジティブな意味を担う〈妄想〉は、不安定な現実を前にして、安定した現実を模索する手段として位置付けられます。現に映画『ジョーカー』ではいくつかアーサーの〈妄想〉のシーンがありますが、どの〈妄想〉もアーサーが行動するための促進剤になっていることがわかります。

 たとえばマレーの番組を見に行って「君には特別なものを感じる」と言われる〈妄想〉は、アーサーにコメディアンになろうとする行動を起こさせます。あるいは同じアパートの住人であるソフィー・デュモンドとの逢瀬も、アーサーが初舞台に立つための勇気をくれました。加えて、アーサーが地下鉄で3人の男を殺した事件がテレビニュースで報道されているのを見て、〈妄想〉のなかのソフィーは容疑者として話題になっているピエロ男にシンパシーを抱きますが、このこともまた〈妄想〉がアーサーの行為を正当化する「治癒的な妄想」だったと見ることができます。

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 とはいえアーサーの場合は、単に自身の妄想を暴走させていくことで悪事に手を染めたのではありません。むしろそれは現実的な理由からでしたアーサーは地下鉄でリンチを受け、防衛のために発砲します。これは妄想でもなんでもなく、現実的な問題でした。

 ところが、現実的な対応であったとはいえ、殺人である以上、ことはアーサー個人の問題に収まりません。問題は社会的な問題として現実化していきます。この現実化は、一方では妄想的な熱狂でもってゴッサムシティを揺さぶることになりますが、他方ではアーサーの生きる現実を妄想のまどろみから覚醒させていくのです。(死は限りなく現実に肉薄する問題です。アーサーが殺人をきっかけにして妄想のまどろみから目覚めていくプロセスに入っていったことは説得力があります。

 アーサーの現実を支配していた母ペニーの妄想、そしてペニーの妄想に振り回されてきた自分自身の妄想。──それら妄想のまどろみから、アーサーは次第に覚めていくことになるのでした。ようするに、『ジョーカー』では主人公アーサーが自分の妄想を暴走させていくことでジョーカーになっていくのではなくて、その逆に、自分を取り巻く妄想から覚醒していくことでジョーカーになっていくのです。

 

「本物の笑い」および「ジョークを考えたんだけど、どうせ君たちは何も理解できないさ」

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 監督トッド・フィリップスは、とあるインタビューで次のように語っています。

あのシーンだけが、彼が唯一純粋に笑っている場面です。この映画には、いくつかの笑い方が登場します。アーサーの苦しみから生まれる笑い、彼が大勢の一員になろうとするときの偽物の笑い――これが僕のお気に入りなんです――、そして最後にアーカム州立病院の部屋で見せるのが、唯一、彼の心からの笑いなんですよ。https://theriver.jp/joker-ending-explained/2/ より

 監督が以上のように語っているのは〈笑い〉や〈正義〉をキーワードに設定してきた本稿にとって無視できません。監督は明らかにアーサーの〈笑い〉には「偽物の笑い」と「本物の笑い」とがあることを示唆しています

 ここで監督が「唯一純粋に笑っている場面」だと語っている映画最後のアーカム州立病院の部屋で見せる〈笑い〉は、映画『ジョーカー』を見るうえで大きなネックとして語られてきました。というのも、この〈笑い〉の読み解きかたによっては、映画のストーリーそのものがジョークだったと考えることができるからです。

 うえの場面の直前には、後のバットマンであるブルース・ウェインの両親がピエロ姿で暴徒化した市民によって殺されるシーンが写されます。ここで殺人に及んでいるピエロの男はアーサー・フレックないしはジョーカーではありません。それから場面は変わって件のアーカム州立病院の部屋になる。ここでジョーカーは心から、純粋に、笑っている

 ジョーカーは言います。 

ジョークを考えたんだけど、どうせ君たちは何も理解できないさ

 ジョーカーの以上の言葉そして〈笑い〉は、観客を大いに動揺させます。なぜなら「どこまでがジョークなのか」がわからないからです。見ようによってはこれまで感情を揺さぶられながら見てきた映画のストーリーそのものをジョークと言っているようにさえ思えてしまうくらいなのですから。何せ相手は「動機なき犯罪・理由なき悪意、すなわち純粋な悪の権化」を誇る、狂ったジョーカーなのです。

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 どこまでがジョークかということについては3つのアイデアがあります。

  1. 観客がこれまで見てきたアーサー・フレックという哀れな男の物語そのものがジョーカーのジョーク
  2. 刑事に追われながらテレビ局へと向かう途中で車に撥ねられた後からのシーンがジョーカーのジョーク
  3. 直前のブルース・ウェインの両親が殺されるシーンがジョーカーのジョーク

 他にもアイデアはあるかと思いますが、ひとまずは以上の3つを出揃わせておきます。

 もっとも衝撃的なのは(1)のアイデアでしょう。何せ『ジョーカー』の作品を楽しんできた観客の感動を裏切ってしまうのですから。たとえ真実味のある説明を出されても、多くの観客にとっては感情的な理由で受け入れ難いジョークです。ただし、このアイデアはおもしろくありません。なぜなら「ジョーカーになっていく物語」であったはずの『ジョーカー』が、ただの「ジョーカーの妄想の物語」になってしまうのですから。

 (2)のアイデアでは、マレー・フランクリンとコメディ番組でのくだりから護送中にパトカーから救出されて暴徒たちに英雄視されるくだりまでと、その後にあるブルース・ウェインが両親を殺されるくだりとの関係が説明できません。前者がジョーカーの妄想だとしても、後者のブルース・ウェインのくだりの繋がりがわかりません。さらに病室で「ジョークを考えた」と言っている理由もわからなくなります。

 (3)のアイデアはジョーカーが何をジョークと呼んでいるかを考えると、もっとも受け入れやすいものです。ジョーカーはマレーの番組のなかで、人生を悲劇と語り、悲劇を喜劇と語り、さらに喜劇こそが人生だと語りました。言い換えれば、人生そのものが悲劇でも喜劇でもありえる「ひとつのジョークである」と語っているのです。こうした理解からすれば、ジョーカーが考えついたジョークは、直前のブルース・ウェインの人生の悲劇のことなのだと考えることができます。

 以降、本稿では(3)の「直前のブルース・ウェインの両親が殺されるシーンがジョーカーのジョーク」の線で記事を進めて行きます。

 

アーサーの確信:「狂っているのは自分ではなく、世界のほうである」

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 さて、トッド・フィリップス監督の発言から考えらえられることはもう一つあります。それは「なぜアーサーは病院のシーンで心から笑うことができたのか」ということです。このことを念頭に置いて、もう一度監督の発言を確認して見ることにしましょう。

あのシーンだけが、彼が唯一純粋に笑っている場面です。この映画には、いくつかの笑い方が登場します。アーサーの苦しみから生まれる笑い、彼が大勢の一員になろうとするときの偽物の笑い――これが僕のお気に入りなんです――、そして最後にアーカム州立病院の部屋で見せるのが、唯一、彼の心からの笑いなんですよ。https://theriver.jp/joker-ending-explained/2/ より

 監督の口ぶりでは「偽物の笑い」と「本物の笑い」とがあるようです。偽物の笑いは「アーサーの苦しみから生まれる笑い」、あるいは「彼が大勢の一員になろうとするとき」の笑いが該当するとのこと。こちらは映画『ジョーカー』を見てきた観客にとってはわかりやすい説明です。本稿で確認してきたところから理解するなら、障害ないしは生きづらさとして抱えている、自分では制御できずに笑い出してしまう発作が前者の〈笑い〉のことでしょう。後者のほうはアーサーが最悪だと感じる世間の人の目を意識した愛想笑いもそうでしょうし、または暴徒たちに英雄として祀られたときに見せた血で描いた笑顔のことだと理解できます。

 他方で、本物の笑いのほうは「アーカム州立病院の部屋で見せた笑顔」としか説明されていません

 では、「アーカム州立病院の部屋で見せた笑顔」とは何なのでしょうか?

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 ヒントは〈妄想〉にあります。

 ここで言う〈妄想〉は、ありのままの自分ではない状態、すなわち、アーサーが「偽物の笑い」を見せるときの、苦しみに由来する笑いや愛想笑いを浮かべるときなどがそうです。そこで共通しているのは「自分に主導権がない」ことでしょう。

 妄想に駆られて行動している人は一見して自由であるように見えます。ただし、その自由は「妄想であることさえ度外視すれば」というカッコ付きの自由ではあるのですが。

 映画ラストでのアーカム州立病院の部屋のアーサーはどういった境遇だったかを思い出して見ましょう。そのときのアーサーないしはジョーカーは、母親を殺し、テレビ局でのマレー殺害を経て、ゴッサムシティの暴動の英雄に祀られた後でした。言い換えれば、母親の妄想やそれに基づくマレーへの憧れを断ち切ることによって、自分を縛り付けてきたしがらみから解き放たれた状態にあったのです。そして正義ある価値観を犯罪行為によって転倒した後でさえ、そのことを英雄視する人々に囲まれ、「すべては主観だ」という自身の確信を強める。──その後で、アーカム州立病院の部屋のシーンがあるのでした。

 つまり、アーカム州立病院の部屋の時点では〈妄想〉なのは、アーサーの現実のほうではなくなっていたのです。このときのアーサーは〈妄想〉なのは自分ではなく、世界のほうである。──このような認識を持つようになっていたのでした

 映画序盤に、ソーシャルワーカーと面談を行う場面があります。アーサーが市から受けている福祉支援でした。アーサーはそこで「狂っているの僕か?」と独り言のように漏らします。その言葉には「狂っているのは自分か、それとも世界か」という含みがある。最後のアーカム州立病院の一室の場面は、意図的に序盤の面談のシーンを思い出させる構図になっています。しかも、どちらの場面もアーサーの〈笑い〉からはじまる。明らかに、ここには何らかの対応があります。

 監督の発言を信じれば、序盤の面談での〈笑い〉は「偽物の笑い」で、終盤での病室は「本物の笑い」であることになります。両者の違いを説明するにはアーサーの発した「狂っているのは僕か?」の疑問が役立ちます。すなわち「狂っているのは自分ではなく、世界のほうである」。この確信があるかどうかが両者の〈笑い〉の決定的な違いになっているのです。この確信が有ることで、自分は世界の呪縛から解放されたのでした

 

〈妄想〉から〈構想〉へ:創造性を取り戻してアーサーは心から笑った

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 アーサーにとっての〈妄想〉は、つねに「誰かに踊らされること」と表裏でした「ふつうであれ」という世間の目を気にして、母ペニーの顔色をうかがって、あるいはマレーのに憧れてコメディアンになろうとすることでさえ。それらは後になって誰かの妄想の一部に過ぎなかったことが明らかになります。いずれもアーサーは誰かに踊らされていたのでした。

 アーサーは自ら踊る場面があります。地下鉄で3人を殺害した直後のことです。またはアパートで元同僚のランドルを殺した後もそうでした。どちらも映画『ジョーカー』のなかで特に反芻されることの多い名シーンです。

 アーサーは地下鉄発砲事件の犯人として、ある種、人々を踊らせる「インフルエンサー」としての地位を得ていきます。他方で、誰かの〈正義〉や〈妄想〉に踊らされてきた自分自身を覚醒させてもきました。地下鉄での最初の殺人では「誰かに笑われたくない自分」に気づきますし、母親やランドルを殺したときでさえ、アーサーは解放感のなかにいました。自分を蝕んでいた〈妄想〉の解毒と言ってもいいでしょう。

(悪のインフルエンサーとしてのジョーカーに関しては岡田斗司夫による解説動画があります。)

 アーサー自身の〈妄想〉も、アーサーを踊らせるものでした。マレーの番組を観覧したことや隣人であるソフィーとの関係を思えば、アーサーは自身の〈妄想〉によって行動を促されることになっています。つまり、踊らされていたのです。それに対してアーサーが自ら踊るときにはある種の解放があります。

 妄想に駆られて行動している人は一見して自由であるように見えます。ただし、その自由は「妄想であることさえ度外視すれば」というカッコ付きの自由なのでした。ところがアーサーが踊るときには、このカッコを解体し、次のように書き換えているのです。すなわち「妄想であることさえも度外視することなく自由である」──と。

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 映画『ジョーカー』は「ジョーカーの物語」ではなく「ジョーカーになっていく物語」なのでした。すなわちアーサーからジョーカーになる過程を描いた映画です。これを「踊らされる者」から「踊らせる者」になっていくプロセスと理解しましょう。人を踊らせる者とは、むろん、「インフルエンサー」のことです。

 インフルエンサーは人に影響を与える存在である前に、影響を受けない存在です。アーサーがそうであるように、あるいは『ジョーカー』という映画がそうであるように、インフルエンサー自体にも「妄想かどうか」の疑惑があります。しかしインフルエンサーにとってその疑惑はただ不安であるというのではありません。むしろ、「妄想かどうか」は卓越したインフルエンサーであることの条件と言っていいでしょう。なぜなら人は不安だからこそ何かに、深くどっぷりと依存してしまうのですから

 依存から解放されていく過程は、アーサーがジョーカーになっていく過程へと重ねられます。世間の目や他人の都合、つまりは〈妄想〉から解放されることがジョーカーになるうえでの大きなネックだったのでした。

 以上を踏まえて、アーサーの「本物の笑い」の理由を考えてみます。

 アーカム州立病院の部屋の直前。後にバットマンになる(はずの)ブルース・ウェインが、ひとりのピエロ姿の暴徒に両親を殺されてしまいます。(興味深いことに『バットマン ビギンズ』では極めて痛ましい事件だったウェイン夫妻の死も、『ジョーカー』ではさほど感動がありません。)その後に、監督が言うところの「唯一、彼の心からの笑い」のシーンになるのです。

 それまでのアーサーが、「自分の現実が妄想かどうか」で苦しんでいたのに対して、ラストのアーカム州立病院の一室で笑っているときには、むしろ自分で妄想して、その妄想の内容を楽しんでいるのです。すなわち、直前に写された「ブルース・ウェインの両親が殺される場面」はアーサーの妄想で、その妄想に対してアーサーは心から笑っている、というふうに。

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 アーサーが苦しみそこから抜け出そうとした〈妄想〉と区別をするために言葉を分ければ、「構想」が相応しいでしょう。それまで〈妄想〉に苦しんでいたアーサーは、ジョーカーへの翻心を通して〈構想〉することができるようになったのだ、と。

 〈妄想〉になくて〈構想〉にはあるもの。それが主導権です。〈妄想〉では自分に主導権はなく、巻き込まれ事故に合うようにして行動させられてしまいます。つまりは踊らされてしまうのです。しかし〈構想〉には自分に主導権があります。眠る前に明日の予定を練るようなもので、自分のことを自分で決めている自主的な感覚があるのです。これが〈構想〉です。

 また、〈構想〉には創造性があります。たとえば、人は夢を見ますが、夢を見ていても「自分がやっている感覚」はありません。夢が夢であることに関して、人は主導権を持ちません。しかし制作には作者として作品に自主的に関わっているという「自分がやっている感覚」があります。「夢を見ること」にはなくて「制作すること」にはある。それが創造性です。

 アーサーが心から笑えたのも、さながら制作案を練るようにして「ブルース・ウェインの両親が殺される場面」を〈構想〉したからなのですここには創造性があります。それから、アーサーは、いやジョーカーは自身の〈構想〉に基づいて行動を起こすのです。とはいえ、これから何が起きるのかは、映画『ジョーカー』の外側の出来事なのですが。

 

3つのキーワードまとめ:Joker がThat’s lifeとSmileする

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 ここまで検討してきた〈笑い〉〈正義〉〈妄想〉──3つのキーワードをおさらいします。

 【笑い】アーサーの〈笑い〉は彼の障害ないしは〈生きづらさ〉を物語ると共に「抑圧された現実」を暗示しています。アーサーは人を笑わせるコメディアンを目指しますが、人に笑われることしかできません。しかし、アーサーは笑われたいわけではありませんでした。

 【正義】アーサーは殺人を犯します。事件をきっかけにしてゴッサムシティには貧富それぞれの〈正義〉が表面化する。どの正義も、アーサーに馴染むものではありませんでした。自分の正義と向き合う外なかったのです。そしてアーサーはジョーカーとなり「すべては主観だ」と語るのです。

 【妄想】「ジョーカーになっていく物語」である映画『ジョーカー』では、主人公であるアーサーが〈妄想〉を暴走させることによってではなく、自分を取り巻く妄想から覚醒していくことによってジョーカーになっていきます。そして「狂っているのは世界のほうである」という確信を得るのでした。

 以上のまとめを踏まえつつ、劇中歌であるところの ” Smile ” と ” That’s life ” の言い方を絡ませれば、映画『ジョーカー』の紹介は「Joker : That’s life,and smile.」といった形で表現できるでしょう。すなわち「冗談を言う人が「これが人生さ」と笑う」作品に。

 

まとめ:あなたはあなたの「内なるジョーカー」を

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 ここまで映画『ジョーカー』を紹介してきました。この記事ではあえて3つのキーワードを設定して映画およびジョーカーというキャラクターを検討し、『ジョーカー』が描く「ジョーカーになっていく物語」が考えさせてくれることをまとめたのです。

 こうして文章にするあいだには様々な記事を目にすることがあります。そうした記事のなかには「ジョーカーをわかった気になるな」とか「これが真相だ」とか「間違った考察はやめろ」などの意見も見つかりました。しかし、映画『ジョーカー』は少なからず、ジョーカーに感情移入させられ、そのことによって自身の「内なるジョーカー」を発見させられる映画なのです

 監督のトッド・フィリップスは、あるインタビューで観客それぞれが発見する「映画の真実」を楽しんでいると語っています。あるいは、アーサーを演じたホアキン・フェニックスは、パンフレットに掲載のインタビューのなかで映画を見ていて「なるほど、そういう理由でジョーカーになるんだな」と思えるでしょうが、「それはその人にとっての「アーサーがジョーカーになる理由」です」と語ってもいます。

 フェニックスは「小さくとも誰かの考えを促すメッセージを入れたい」と語ってもいますが、映画『ジョーカー』が「沈黙していられなくさせる力」を持っていることはたしかなのです。それはアーサー・フレックがジョーカーになっていく過程で創造性を獲得していったように、観客は映画『ジョーカー』によって刺激を受け、自身の創造性を「内なるジョーカー」という形で発見してしまうのです

 どの正義も正義であるように、どの真相も真相たりえます。どの現実だって現実でなかった試しはないのですから。妄想でない余地を度外視しさえすれば、どの妄想も真実です。どの考察でさえ、それによってリアリティを感じる人はいる。彼らを間違いだと疎外することは、それこそ観客の「内なるジョーカー」を逆撫でることにもなりかねません。

 自身「ジョーカー」になっていったアーサーも「すべては主観だ」と言って、悲劇を喜劇へと様変わりさせてしまう主観のポテンシャルを語っていました。この発言は自身の「唯一の主観」を肯定するだけではなく、「他のどの主観」さえも肯定する発言だったはずです。そしてそれは劇中の思想であることを飛び出して、観客の現実にも及びます。

 観客は映画を見ることで少なからず「メッセージを発見すること」を期待するものです。その点で『ジョーカー』を見る行為は「自分自身のジョーカー」と出会うことが賭けられていると言っていいでしょう。

 この記事もまた、ひとりの観客が出会った「映画の真実」であり、「アーサーがジョーカーになる理由」であり、そしてひとつの「内なるジョーカー」との発見でした。

 願わくは、この記事が誰かの「内なるジョーカー」にも届きますように。

_了

 

参考資料
 
 

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