映画『ジョーカー』を3つのキーワードから考察する【ネタバレ解説】

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(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
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【キーワード2】正義

  ここでは映画『ジョーカー』のアーサー・フレックを〈正義〉をキーワードに検討していきます。

ゴッサムシティにおける〈生きづらさ〉と〈他者への警戒〉

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 ここでは映画『ジョーカー』を楽しむための手がかりに〈正義〉のキーワードを確認します。

 ジョーカーには「純粋な悪の権化」のイメージがある以上、善悪二元論で言えば善に属する〈正義〉をキーワードにすることは変に思われるかもしれません。しかしここで言うところの〈正義〉は単純な善ではありません。偽善でもあり、独善でもあるような、そんな〈正義〉を指しているのです

 映画『ジョーカー』の舞台になっている「ゴッサムシティ」は政治・経済的に荒廃しています。劇中では街にゴミが溢れかえっているのですが、これはゴミ収集業者が待遇改善を期してストライキを起こし、労働者たちが自主的に仕事を放棄しているためです。また、貧困層のなかには強盗を行う者もいる。別監督の別作品ではありますが、同じ《バットマン》シリーズの映画『バットマン ビギンズ』(2005)で描かれた犯罪都市ゴッサムの予兆は、時系列的には前に位置付けられる『ジョーカー』で描かれたゴッサムシティの実情から容易に見てとることができるでしょう。

 本来、理想的な市民であれば、自身と家族、そして社会全体の福祉のために、自らの振る舞いを調整しなくてはなりません。「福祉」とは ” 生きやすさ ” のことです。「調整」とは ” 治安を維持する ” ことです。ですが、映画『ジョーカー』で描かれているゴッサムシティには規範・制度に由来する〈生きづらさ〉に喘ぐ市民が写されています。そのうえ治安も悪いために、彼らは〈他者への警戒〉をする必要が生じているのでした

 アーサーの身にもアンラッキーが起こります。ソーシャルワーカーに課されてつけている日記があるのですが、そこに「心の病を持つ私にとって最悪なのは世間の目だ。」などと書きつけてもいます。ここには明らかに彼の〈生きづらさ〉が表れています。(この社会福祉もまた予算縮減されることとなり、後に、アーサーへの精神的ケアも打ち切られることになります。)

 さらに映画冒頭で不良少年たちに暴行を受けた後、同僚ランドルから(他の理由もあったのかもしれませんが)護身用にと一丁の銃を渡され、アーサーはそれを本当に ” もしもの時のための護身用に ” 持ち歩くようになります。

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 映画を見ていて興味深いことは、善良なはずのアーサーがもらった銃を肌身離さず持っていたことです。とりわけ、ピエロの仕事で小児病棟にいる子どもたちの前でパフォーマンスをする場面があるのですが、あろうことか、アーサーは踊っている最中に銃が床に落ちてしまい、観客である看護師や子どもたちに銃を見られてしまうのです。(一部の子どもにはウケていましたが。)後から上司に問い詰められたアーサーは「パフォーマンス用の小道具だ」と苦しい弁解をします。常識的に考えて、護身用に銃を持ち歩くにしても、仕事中はロッカーなりにしまっておくでしょう。ところが、アーサーはピエロ衣装であってさえ身を守るための銃を携帯していたのでした。

 小児病棟のシーンから読みとれるのはアーサーの〈他者への警戒〉です。人は不安だからこそ何かに依存します。アーサーは他者ひいては世間というものに対して不安を感じていた。だからこそ彼らから我が身を守ることのできる武器を肌身離さず持っていた。──このような感情を読みとれるのです。

 

殺人者アーサーは「笑われたくない自分」に気づく

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 アーサーは殺人を犯します。──

 小児病棟での失敗を機に解雇され、地下鉄に乗っていたときでした。3人のスーツ姿の男がひとりの女性をナンパしていたのです。男たちは仕事帰りで、酔ってもいました。女性が少し離れた席にいるアーサーのほうを見ます。困っていることを伝えたかったのかもしれません。一見、アーサーは何も行動しないかのようでした。しかし、ここで例の〈笑い〉の発作が出ます。

 アーサーの〈笑い〉によって女性は別の車両に逃げることができました。その代わりに3人組みの男たちは標的をアーサーに定めます。そして、暴行、暴行。このときにアーサーが構えたのが護身用に身につけていた銃だったのです。

 ──アーサーは自分を笑い、暴力を振るう他者を、ためらいなく、間違いなく、殺害したのです

 直後、劇中でももっとも優美なホアキン・フェニックスのアドリブによるアーサーのダンスシーンがあります。

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 この場面の流れとしては、地下鉄駅で3人の男を殺したことに気が動転したアーサーが、公園のトイレに閉じこもる、というものでした。そしてアーサーは踊り出すことになるのですが、これは「人を殺してしまって気が触れる」のとは違っています。むしろアーサーは「本当の自分の手触りを感じた」のです。

 アーサーはこれまで人から笑われてきました。自分から笑うときにはわざとらしく、発作で笑うときには不気味な様子で。どちらも本当におかしくて笑ったのではありません。人を笑わせるコメディアンになりたくとも、現実には人に笑われる役目のピエロでしかなかった。挙句、憧れのコメディアン・マレーに自分のコメディアンとして立った初舞台を笑いのネタにされ、マジギレする始末。どうやらアーサーは「笑う才能」はあっても「笑われる才能」は持ち合わせていなかったのです

 ようするに、アーサーは本当は人に笑われたいわけではなかったのです。

 地下鉄での殺人は、アーサーにとって「本当は他人に笑われたくない自分」に気づくキッカケになったのでした。ですから逃げ込んだトイレのなかでもアーサーは情緒不安定にあたふたするのではなく、優雅なダンスを踊ったのです。その心境は、抑圧された人生に一条の光を見た思いだったことでしょう。少なくとも、観客はこのシーンからアーサーに対して哀れみを覚えることはありません。

 

悪を取締るために整備された法は「誰かを疎外する根拠」にもなる

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 地下鉄発砲事件の後、ゴッサムの社会ではにわかに〈正義〉が語られはじめます。

 ピエロメイクの男が地下鉄の駅構内で大企業であるトーマス・ウェインの会社の社員を殺害した。このことを受けてトーマスは、地下鉄発砲事件の犯人に向けて「仮面に隠れることしかできない無様なピエロ」と揶揄。拡大する格差の富裕な側に与するトーマスは、貧富にあえぐ市民からの反感を買います。市民からすれば大企業で安定した暮らしをしている(ように見える)人間が殺されたことはスカッとすることだったのです。次第に、殺人ピエロはトーマスに仇なす貧民の側のヒーローとして祀られていきます。

 一方で、市民の暮らしを抑圧する象徴であり、面識もない自社の社員を殺されて憤るトーマス・ウェインの〈正義〉がある。他方には、自分たちの暮らしを抑圧するウェイン産業の社員が殺されてザマアミロと言わんばかりの市民の〈正義〉がある。こうした立場ごとによって立ち現れてくる「正義(感)」は、悪事に対して後出し的に起こり出てくることがわかります。

 以上の〈正義〉の消息から見えてくるのは「正義には理由が必要である」ということです。それに対して、悪には理由は要りません。悪には理由はいらないが、〈正義〉には理由が必要である。なぜなら、〈正義〉は悪を取締る役目を帯びることで〈正義〉たりえるのですから。 

 たとえば〈正義〉の例として警察をイメージしてみましょう。警察が必要な場合には、ある状況下において「悪いことをする人が現れる可能性」がなければいけません。しかし悪いことが起きそうもなければ警察は必要ない。必要とされない場合の警察は、むしろ、悪を罰することを許された権威的な集団・暴力の可能性を秘めた不穏な連中とさえ思える。つまり「警察=正義」の必要性ならびに正当性は悪の存在に寄りかかっているのです。

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 まず〈正義〉があって、その後に悪がやってくるのではない。はじめに悪がある。悪に対抗した〈正義〉が、悪を定義し、人々を取締るために法(ルール)を整備する

 しかし、悪(ルール違反)を取締るための法には二重の不安が付きまといます。悪が登場することへの不安と、自分が悪になることへの不安です。どちらの不安も人を神経質にさせ、その社会のなかで快適に過ごすための条件を整備しはします。その逆に、条件に適わない人に〈生きづらさ〉をもたらすことにもなりかねません。さらに他人から「ルール違反を犯すヤツではないか」と疑われる基準にもなりかねず、自分を疑ってくる〈他者への警戒〉に繋がることにもなりかねないのです

 アーサーが彼の日記に「心の病を持つ私にとって最悪なのは世間の目だ。」と書いていたことを思い出しましょう。ふつうであれ」と言う世間の目は、悪を取締る正義に由来します。映画冒頭にアーサーが流した涙は、彼の生きる現実が悲劇的であることの象徴でもあります。すなわち、誰かの正義感に基づいた法はアーサーにとって「自分自身を悲劇のなかの人物として閉じ込める檻」になるのです。

 そもそもアーサーが「障害者である」ことも法のキツさを物語っています。なぜなら、障害とは ” 社会との障害 ” だからです。問題は社会との関係で、その社会には法が整備されている。ゲームにルールがあるように。そのゲームのなかのルールがある種のプレイヤーを疎外する根拠になっている。──これが「障害者である」ことの内実です

 アーサーが直面する法のキツさには、法に属するはずの刑事からももたらされています。ピエロ姿で働いていたことを知る刑事はアーサーに対して、持病を証明するカードのことを指して「笑うのも演出か?」と茶化すのです。カードには「笑うのは、病気です。許して。」と書いてあり、持病を他人に伝えることで「社会のふつうさ」に包摂されるためのアイテムだったはず。それを法の守り手が茶化す。ヒドい話です。

 

アーサーからジョーカーへ:〈みんなの正義〉から〈自分の正義〉へ

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 映画『ジョーカー』はアーサーという善良ないち市民がジョーカーに ” なっていく ” ストーリーです。その必然として、観客はアーサーの姿を追いかけることになります。

 アーサーの身には「物語の冒頭」からひとつひとつ、自らの悲劇的な生い立ちが発覚することへと通じる出来事が度重なります。暴行、失職、公的支援の打ち切り、自衛による殺人、信じていた人たちの裏切り……etc.。確実に、少しずつ、狂っていく。転落と言ってもいいでしょう。しかしアーサーが「ジョーカーになる」ことは単に転落していった先に待ち受けている事態ではありません

 制度上、市民を守る立場にある警察は「正義」の側に属すはずです。しかしそれは一応の正義でしかなく、まるっきりの善ではありません。たとえば、地下鉄発砲事件の件でアーサーを問い詰める2人組の刑事が、(たとえ容疑者を煽るレトリックであったとは言っても)障害者を証明するカードを指して「笑うのも演出か?」と言うのはカケラほどの善も感じさせません。

 アーサーへの心ない言葉からもわかるように、警察のやり口にせよ、ゴッサムシティの人間から善人を見つけるのは困難です。さながら、人間の本性はもともと悪でしかなく、辛うじて法の存在が善の形を人にまとわせているとでも言うように。とはいえ、法による抑圧を経てようやく成立する善は、偽善的でしかありません

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 他方で、偽善は偽善でも善として振るまうなら善である、と考えることもできます。「偽善も善のうちである」というわけです。しかしそこでは常に、人は「欺かれている」ことにもなってしまう。そう言ってしまうのは強すぎるにしても、「欺かれてしまう人」が出てきてしまうことは法が法であることの必然でしょう。正義が正義であるにせよ、この事情は変わりません。

 「みんなの正義」が法として機能していることが建前だとしても、本音の部分には「自分の正義」があります。法はみんなの正義であると同時に自分にとっては誰かの正義です。自分の正義にマッチするものだとは限りません。構造的に、人が法に従うときには偽善となってしまうことも十分余地あることなのです。

 では、たとえ善とは呼び難くとも、偽善ではない在り方はどのようなものになるのでしょうか

 アーサーはマレーの番組に出演します。とあるバーのステージに上がってネタを披露した映像を、マレーが自身の番組のなかで紹介したことが出演のきっかけでした。とはいえ、マレーによるアーサーの芸の紹介は好意的なものではありません。

 番組出演の直前に地下鉄での殺人に続き、アーサーは長いあいだ独りよがりな妄想でアーサーを支配し続けてきた母ペニーと、銃の件で警察に偽の証言をした元同僚のランドルを立て続けに殺害します。しかし、以上の連続殺人にも拘らず、アーサーの気分は晴れやかなものでした。マレーの番組への出演はこの直後だったのです。

 アーサーはマレーの番組に出演する際に、自分のことは「ジョーカー」と紹介してくれと伝えます。これはマレーがアーサーの芸を茶化すために用いた「ジョーカー(うざいヤツ)」に由来しています。(言ったマレー当人はそれを忘れている模様。)ただしアーサーが自称する「ジョーカー」の言葉には「うざいヤツ」ではなく「冗談屋」といったニュアンスが込められていました。日本語にすれば「ジョークを言う人」、程度の意味です。

 番組でアーサーことジョーカーはネタ帳にストックしていたネタを披露しますが、それは手帳を見ながらでの発表となりました。マレーはその手帳を見なくちゃできないのかと問い、ジョーカーの無様な芸を茶化して笑いを取ります。それを受けてジョーカーはネタ帳から目を上げ、今度は事実をネタにしゃべりはじめたのでした。地下鉄発砲事件の犯人として。

 

そしてジョーカーは語る:「悲劇も喜劇も、すべては自分次第、すべては主観だ。」

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 本当のことであろうとなかろうと、ジョーカーが言った内容は放送的にありえない暴言です。最初こそマレーも観客も冗談だと思いますが、だんだん笑えなくなってきます。ついにマレーは言います。「それが面白い話か?

 それに対してジョーカーは、おおよそ次のようなことを言います。

※記憶と検索を頼りに書いたものなので、実際のセリフとは多少異なっていることをご了承ください。)

マレー、外の世界を見たことがあるか? 僕たちがどんな暮らしをしているのか知っているのか? 僕は何も信じない。僕にはもう失うものはない。傷つける者もいない。自分を偽るのは疲れた。悲劇も喜劇も、すべては自分次第、すべては主観だ。だが今わかった。僕の人生は喜劇だ。ずっと思っていた。人生は悲劇だって。だが、すべては主観なんだ。自分で自分を認めればいい。喜劇は主観だ。善悪も主観で決めればいい。社会もそうだ。善悪を主観で決めている。だから自分で決めればいい。笑えるか、笑えないか。ぼくが言いたいのは難しいってことさ。ずっとハッピーでいるというのは。

 僕が歩道で死んでいても、みんなは踏みつけて通りすぎるだけだろう。この世界は誰も他人のことを気にかけない。社会に見捨てられたんだ。ゴミみたいに。みんなが最低なわけじゃない。でもあんたは最低だ。この番組に僕を呼んだ。笑いものにするために。すべての事件は「最低」だからやった。社会に見捨てられ、ゴミ同然に扱われた男の気持ちが分かるか?

つまらない冗談だ、その話にオチはあるのか?

心を病んだ孤独な男を欺くとどうなるか。報いを受けろ!

 そして、マレーを銃殺。このくだりは公開生放送の状態でしたので、ゴッサムシティ中のテレビで放送されます。時代は1980年代。マーティン・スコセッシ監督の映画『キング・オブ・コメディ』(1982)でのコメディ番組の熱狂を見ればわかるように、その影響力たるや相当のものです。

(ちなみに『キング・オブ・コメディ』にはコメディアン志望の妄想家が主役として登場しますが、彼を演じたのはロバート・デニーロ、すなわち『ジョーカー』での売れっ子コメディアン=マレー・フランクリンを演じた俳優であることは押さえておくといいでしょう。)

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 ジョーカーであるアーサーは捕まり、パトカーで運ばれます。そして街は暴動で溢れかえっている。これはアーサーが起こした地下鉄発砲事件が発端となったものでした。トーマス・ウェインが自社の社員をピエロ姿の男に殺されたことに対して、「仮面に隠れることしかできない不様なピエロ」と述べたことが市民の怒りを買ったのです。これが延焼し、市長選に出馬するトーマス・ウェインのみならず、他の富裕層にまで怒りの矛先を向けはじめた果ての、ゴッサムシティの有様でした。

(選挙と孤独な男による殺人というモチーフは、マーティン・スコセッシ監督・ロバート・デ・ニーロ主演の映画『タクシー・ドライバー』(1976)を彷彿とさせます。こうした引用・参照の織物であることは、映画『ジョーカー』のおもしろさのひとつである「ジョークであること」にも掛かってきます。)

 パトカーで運ばれながら、アーサーは街の暴動を見て笑います。アーサーの瞳に、法は脆くも崩れていました。みんなの正義として個人の正義を抑圧し善を偽善としてお仕着せる法。アーサーが法や正義や善でさえも「主観が判別したものに過ぎない」と痛感した直後のことです。あえて、善とも偽善とも違った表現を用いて、妄想的な正義感に駆られた暴徒たちの ” 欺かれていない姿 ” を言い表せば「独善」の語が相応しいでしょう。

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 偽ることもなく、欺くこともない善の形は、アーサーの到達した「悲劇も喜劇も、すべては自分次第、すべては主観だ」というアイデアからすれば、独善的なものになります。独善の態度からすれば、法は偽善の温床であり、正義は善の体現であるよりも独善の表明になる

 偽善の正義より独善の正義を。映画『ダークナイト』を覚えている観客になじみのジョーカーでは、「誰かの正義」を参照することよりも「自分の正義」と向き合うことを勧める「誘惑者としてのジョーカー」であるはずです。独善の正義は他人を欺くものではなく、自分を解放するものである、と語るように

 ジョーカーはまた人生は喜劇だと言った後で、「喜劇は主観だ。善悪も主観で決めればいい。」と続けました。ここで言われている〈主観〉の概念には、映画『ジョーカー』にとって象徴的な楽曲のひとつであるチャップリン作曲の ” Smile ” の歌詞が聞こえるようでさえあります。

 ” Smile ” の曲で歌われているのは、「人生が泣くか笑うかのどちらかでしかないのなら、笑ったほうがいい」というメッセージです。ジョーカーはマレーの番組のなかで、人生は悲劇か喜劇かと語り、それを左右するのは〈主観〉なのだと続けます。これはチャップリンの言葉として知られている「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。(Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.)」を別口から語ったものと見ることができます。すなわち、チャップリンが「寄りか引きか」で語ったところを、ジョーカーは「態度の向き」で語るのです。

 これまでの自分の人生は悲劇だと思い込んでいたけれど、それは他人の取り決めた観点(法・常識・普通)から判定された評価でしかなかった。客観とされるものによって押し着せられた価値観でしかなかった。

 そうした押し着せの価値観に窒息させられてしまうことを免れて、ジョーカーは自分自身の〈主観〉に立ち返ります。愛していた母親も、信じていた憧れのコメディアンも亡き者にし、そうした一連の手続きを経ることによって、ジョーカーは自らの〈独善〉を発見することができ、自身の現実を肯定することができたのでした。

 とはいえジョーカーがなるのは他の市民のような暴徒ではありません。そうではなく、蛇の姿でエバを唆した堕天使ルシファーのように、生命や平和をおびやかす「破壊者」であるよりも、むしろ道徳観念をそそのかす「誘惑者」になるのです。あなたが従事しているその〈法〉は、その〈正義〉は、その〈偽善〉は間違っている──と唆す誘惑者として

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