映画『ジョーカー』を3つのキーワードから考察する【ネタバレ解説】

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(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
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映画『ジョーカー』を楽しむ3つのキーワード(ネタバレあり)

 ここでは映画『ジョーカー』楽しむためのキーワードを3つ取りあげます。

(わたしの主観が「幸福感」を感じたポイントには赤い下線が引かれています。)

【キーワード1】笑い

 ここでは映画『ジョーカー』のアーサー・フレックを〈笑い〉をキーワードに検討していきます。

アーサーの〈笑い〉は抑圧を表している

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 映画『ジョーカー』の主人公アーサー・フレックを見ていてまず気づくのは、彼が何かしらの精神疾患を抱えていることです。市の福祉を頼り、ソーシャルワーカーの元へ通い、日記をつけるなどの課題を課され、クスリを処方される。社会のなかで〈生きづらさ〉を抱えて生きる「障害者」なのです。外から見てもわかる症状としては、「当人の意志とは無関係に笑い出してしまうこと」が見てとれます。

 評者のなかにはアーサーの障害を「トゥレット症候群」と見る向きもありますが、映画『ジョーカー』を観るうえでアーサーの障害の名称が何であるかはさして重要ではありません。製作者の側もアーサーの精神医学的な診断名を重視しておらず、むしろ ” 重視しないこと ” を重視しているのですから

 たとえばトッド・フィリップス監督はあるインタビューで次のように語っています。

僕とスコット(・シルバー、共同脚本)、ホアキンは、アーサーが何を抱えているのかという話を一度もしたことがないんです。僕は“アーサーはナルシストでね、これで、こうで”なんて絶対に言いたくなかったし、ホアキンに俳優としてそういうことを調べてほしくもなかった。ただ、“彼は狂っているのだ”と言うだけでした。精神を病んでいるのかどうかさえ分かりません。」

 当のアーサー・フレックを演じたホアキン・フェニックスにしても、パンフレットに所収のインタビューでは以下のように語っています。

トッドからは、ジョーカーの笑い声を痛ましいものにしたいと説明されたんです。笑いを制御できないとはどういうことか、笑いにまつわる精神疾患を抱えた方々の映像を見せてもらって、それは強く印象に残りましたね。ただしトッドが求めたのは、疾患ゆえではなく、深く抑圧された感情が出てこようとする笑い声。

 以上のように、アーサーの笑いは「何らかの疾患として説明されるもの」ではない。しかし、アーサーの障害はアーサーに「笑い」と「妄想」をもたらすらしい。それは確かです。

 また、上に引用したフェニックスの発言のなかにある「疾患ゆえではなく、深く抑圧された感情が出てこようとする笑い声」というくだりは目を引きます。

 アーサーの〈笑い〉は抑圧に由来する。その観点は映画冒頭のアーサーがピエロメイクをする場面に隠された意味を浮かびあがらせることになります。さらにはアーサーが母親から「ハッピー」と呼ばれ、「笑って、楽しそうな顔をしなさい(put on a happy face)」と言われ続けたこともまた、アーサーの軛となっていることをも。──浮かびあがらせることになるのです。

 

アーサーの抑圧(1)「コメディアンになる夢が叶わない現実」

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 アーサーの夢はコメディアンです。コメディアンは人を笑わせることを仕事にします。それに対して、ピエロは笑われることが仕事です。コメディアンは「ピエロ(道化師)」ではありません。

 アーサーはピエロです。

 映画冒頭にアーサーがピエロメイクをしているシーンがあります。笑い顔のメイクを施している最中にアーサーの目からは涙がこぼれる。ここには二重の抑圧を読みとるとができます。一方では「笑わせる側のコメディアン」ではなく「笑われる側のピエロ」にしかなれていないことによる抑圧、他方では母親からの「ハッピー」の愛称と共に繰り返される「笑って、楽しそうな顔をしなさい(put on a happy face)」という言葉の呪縛による抑圧です。

 アーサーの抑圧は「夢が叶わない現実」であり、「母親から授けられた呪い」に由来すると仮定してみます。前者の「夢が叶わない現実」における ” 夢 ” は、アーサーの「コメディアンになりたい」という夢のことを指しています。

 きっかけはアーサーの母ペニー・フレックが好きなコメディーショウ番組に出演しているコメディアン、マレー・フランクリンの存在でした。

 フランクリンがテレビ番組で演じるお笑いは「スタンダップコメディ(Stand-Up Comedy)」と呼ばれる、アメリカでのお笑いのスタイル。コメディアンがステージに立ち、観客に向かって直接話しかける一人漫才です。

 アーサーの母ペニー・フレックはマレーが出演するショー番組が好きで、フレック親子は番組が放送されるときにはいつも並んで見ています。

 その昔(いや、これはおそらくアーサーの妄想)、スタジオで観覧する機会があったときに、アーサーはマレーと話をしました。アーサーはマリーから「君には特別なものを感じる」と言われます。それがきっかけでした。以来、アーサーの「なりたいイメージ」はコメディアン・マレーになったのです。(このエピソードが妄想だとすると、スタジオで観覧するというイメージは、アーサーのマレーへの憧れが元々あったからということになるでしょう。となると、ここでわたしが書いた「以来──」という表現は不適となります。いずれにせよ、アーサーはマレーを尊敬していた。この一事は確かです。)

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(アーサーにとってマレー・フランクリンの存在が、母親である(と信じ、慕っていた)ペニーと ” 共に ” 憧れていたことは要チェックです。長いあいだ父親が誰なのかわからないでいたアーサーにとって、母親がまなざす対象には特別な意味が宿るポテンシャルがあります。とりわけフレック家では母・ペニーと息子・アーサーとの関係がそれ以外の人間が(友人・知人・恋人として)立ち入ることもなく暮らしていたことを考えると、母親にべったりなアーサーがマレーを父親をまなざす子どものような想いで慕ったとしても不自然ではありません。それゆえに、ただのテレビ番組に出演するいちコメディアンに過ぎなかったマレー・フランクリンが、アーサーにとっては「不在である父親の代理」つまりは「父親代わり」に準じる存在となっていてもおかしくありません。このことは2つの意味で後のアーサーの苦しみに繋がることになります。ひとつには「父親代わりに慕っていたマレーに裏切られる苦しみ」、もうひとつは「マレーに憧れることが母親の妄想に進んで献身することになっていたことの苦しみ」です。これはアーサーの抑圧の由来である「夢が叶わない現実」と「母親から授けられた呪い」とに重ねることができます。)

 コメディアンの笑いは、観客を笑わせるために「誰かのことを笑うシステム」です。そこでは自分か、それ以外の誰かが笑われることになる。誰かが観客に笑われるピエロにならなければならない。ネックになるのは、笑われる誰かがハッピーな気分でいるとは限らない点です。

 劇中、コメディアンになろうとしたアーサーは、自分のことを特別だと言ってくれたマレーによって笑われてしまいます。(アーサーみたいな無様な奴でも)みんながコメディアンになれる時代だと茶化され、アーサーのコメディアンとしての未熟さを笑われたのです。そのこと自体はコメディアンになるうえでは必ずしも悪いことではありませんが、アーサーにとっては ” とても ” 耐えがたいことだったのです。

 

アーサーの抑圧(2)「母親から授けられた呪い」

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 そもそもアーサーの〈笑い〉そのものは ” 笑えるもの ” ではありません。ここでは先述したアーサーの抑圧における「夢が叶わない現実」と「母親から授けられた呪い」の後者、母ペニーによる息子アーサーへの抑圧に関して見ていきます。

 アーサーは幼少時に、母であるペニーの交際相手から虐待を受けて脳に損傷を負っています。のちにペニーが虚言癖妄想性障害によって精神病院に入った際の記録では、ペニーは「あの子泣かないの、いつもハッピーな笑顔で」と発言している。……そこから推理すれば、「幼いアーサーはペニーの交際相手から暴力を振るわれているあいだも笑っていた」情景が容易に想像できます。

 また、妄想症状のあったペニーが、幼いアーサーの痛ましい〈笑い〉を「ハッピーなもの」だと了解していた可能性も捨てきれません。ペニーが曲解したアーサーの〈笑い〉を彼女自身の妄想に組み込んでいたとすれば、アーサーの〈笑い〉はよりいっそう悲痛な調子を帯びることになるでしょう。

 ペニーの妄想にアーサーが組み込まれていた可能性に関しては、彼女が、かつて自身が給仕していた大富豪の実業家トーマス・ウェインとの繋がりを語る際に信憑性が高まります。映画のなかでは真偽はボカされるものの、ペニーにとって、アーサーの存在がトーマス・ウェインとの繋がりを保証するものであったことは確かです。

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 アーサーの人生が順風満帆なものでなかったことは、公共福祉の保障を受け、クスリを飲み、「笑うのは、病気です。許して。」と書かれたカードを持ち歩いていることから窺えます。にも拘らず、アーサーは母親からの言葉──「笑って、楽しそうな顔をしなさい(put on a happy face)」──を信じ、ひたむきに生きようとする。ですが、この取り組みはうまく行っているようには見えません。

 映画ではピエロ姿で仕事をしている最中にワルガキ集団から袋叩きにされますし、バスで前の席の子どもを笑わせようとするとその子の母親から不気味がられます。何より、映画のはじまりがピエロメイクをしながらの涙です。この涙はアーサーの「抑圧された感情の在り処」を雄弁に物語っています。

 アーサーは母ペニーから掛けられた〈呪い〉──「笑って、楽しそうな顔をしなさい(put on a happy face)」──によって、現実に対して ” ひたむきになるように ” 仕向けられています。辛くても我慢して、生活を続けていく。さながら障害者が健常者向きの社会のなかに「ふつうであれ」というスティグマ(烙印)を押されながらも入っていかざるを得なくなっているように。

 事実、アーサーに掛けられた〈呪い〉は洗脳に比類するものでした。この〈呪い〉によってアーサーが生きる現実には数々の〈生きづらさ〉が生じている、と考えることは不自然ではありません。

 しばしば精神的な〈病い〉は「我慢は身体に毒」の教えが語るように、慢性的なストレスに基づいて症状が現れることがあります。アーサーの症状である涙もしくは〈笑い〉もまた、彼が強いられ耐え忍んでいる現実が「アーサー自身に相応しくないものであること」を暗示していたと見ても気狂いではないでしょう。

 だからこそアーサーの〈笑い〉は(ホアキンがインタビューで語っている言葉を借りれば)「深く抑圧された感情が出てこようとする笑い声」になるのです。

(アーサーの〈笑い〉をアーサーの出自の不幸と見ることは簡単ですが、後にジョーカーとして覚醒することを考えると、アーサーの〈笑い〉をひとつの才能として捉えることもできます。アーサーの不随意な〈笑い〉が「自分自身を笑うもの」なのだとすれば、それは強いられた苦難をしのぶ過酷な状況下で(A)「従順に従うだけ」だったり、(B)「反抗して犯罪に走ったり」する自己の在り方とは違ったリアリティを発見する能力になることも考えられるのです。上に挙げた2つの自己の在り方の例はどちらも悲劇的です。どちらも笑いがない。ですが、自分自身を笑うことのできる能力は(A)(B)のどちらの境遇であれ、喜劇化してしまうポテンシャルがあります。また、通常の〈笑い〉であれば、人は ” みずから ” 笑おうとすれば誰かを笑わなければいけません。しかし ” おのずから ” 笑うときにはその誰かは必要ではなくなります。このときの〈笑い〉には自分自身、自分の境遇、ひいては現実認識そのものを変えてしまう力があるのです。言い換えれば、目の前の悲惨な現実を笑えるのかどうか。──この二者択一にあっては、ハッピーなのはもちろん笑えているほうになる。つまり悲劇ではなく喜劇のほう、ですね。ですから、(みずからではなしに)おのずから笑うことのできるアーサーの体質は、むしろ才能だとうなずくこともできるのです。)

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