映画『ジョーカー』を3つのキーワードから考察する【ネタバレ解説】

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(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
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映画『ジョーカー』への導入

 ここでは映画『ジョーカー』の内容を紹介する前に、ジョーカーというキャラクター・トッド・フィリップス監督の作家性・キャラクター「ジョーカー」にとって今回の映画『ジョーカー』とはどのような位置付けになるのかを見ていきます。最後にあらすじを置くことで「ジョーカーになっていく物語」の内容への導入とさせていただきます。

ジョーカーの人物像:定義できない謎の人物

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 まず、ジョーカーとは誰なのかを押さえておきます。

 ジョーカーはアメリカンコミックス(以下.アメコミ)の《バットマン》シリーズに登場する悪役(ヴィラン Villain)のキャラクターです。その悪役ぶりには人を魅了するところがあり、「理由なき悪」「純粋な悪意」などというイメージと共に、アメコミ界に確固たる地位を獲得しています。

 とりわけ『ジョーカー』を観に行く人の多くはクリストファー・ノーラン監督による『ダークナイト』(2008)の影響が大きくあるでしょう。『ダークナイト』でヒース・レジャーの演じるジョーカーはカリスマ的なヴィランとして名高いです。ヒース版ジョーカーの自身が悪に手を染めるに至った理由をいっさい明かさない姿は、何か悲劇的な出来事があったから犯行に及んでいるといったあらゆる共感を受け付けず、ジョーカーのジョーカーたる由縁──理由なき悪・純粋な悪意──を雄弁に物語っていたのでした

 たとえば『バットマン:アーカム・アサイラム』(1989)のなかで、登場人物である精神科医がジョーカーを次のように評しています。

彼は与えられる情報を際限なく受け入れて、その都度新しい人格を創造している。だから時によって道化師にも殺人鬼にもなる。これを異常と診断すべきかどうかも分からない

 悪人であることは確かだけれど、既成の法では正常な精神状態と認められなければ裁くことができない。しかし、ジョーカーには精神に異常がある。だからこそアサイラム(アーカム精神病院)に入れられるのですが、ジョーカーを診る精神科医も、引用したセリフの通り、お手上げなのです。

 あるいは『ジョーカー』で実際にアーサー・フレック/ジョーカーを演じたホアキン・フェニックスは次のように語っています。

フィクションですし、精神科医が「こういうタイプですね」と判断できない人物にしたかった。」(パンフレットより)

 続く発言でフェニックスはジョーカーを演じているなかで「役者としては恐ろしいですよ、人物を定義する確かな瞬間がないわけだから」とも述べています。

 ジョーカーという人物像が、何か固定的な価値基準から判断されるものではないことがわかります。社会の法にせよ、役者が判断する役柄にせよ、いずれも相対的な基準にすぎません。ジョーカーはそれらの基準からは定義できない絶対的なナニカとしてあり、つねに大きな謎として君臨しているのです。理由がなく、純粋であるというのはそういうことなのです。

 ジョーカーに関して、パンフレットには次のような文章があります。アメコミ翻訳家・秋友克也によるものです。

ジョーカーとは何者か?それは……笑いとは、恐怖とは、狂気とは、そして悪とは何かを問う事に他ならない

 つまり、ジョーカーというキャラクターは謎であり、容易に理解や納得をさせてはくれない、わたしたちへの問いそのものなのです。同時に、謎であるからこそわたしたちを強く惹きつける存在でもあるのです。

 

破壊的で不謹慎なコメディとしての映画『ジョーカー』

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 2005年の『バットマン ビギンズ』にはじまる、クリストファー・ノーランによる《バットマン》シリーズは2作目である『ダークナイト』によって、ヴィラン「ジョーカー」の存在を世界大に広めました。ジョーカーに魅せられた人は多く、アメコミ作品の悪役としてランキングを作れば必ず上位にランクインするほどです。ノーラン作品以前にも人気はあったものの、21世紀以降のジョーカー人気に火をつけたのは『ダークナイト』の貢献は計り知れないでしょう。

 2019年。そのジョーカーが単独で登場する映画が公開されました。トッド・フィリップス監督による『ジョーカー』です。

 トッド・フィリップス監督はコメディ映画のイメージが大きい映画作家です。《ハングオーバー》シリーズ(2009-2013)の抱腹絶倒のおかしさをご存知の方も多いでしょう。今回、そのコメディ映画監督が超極悪人・ジョーカーを主人公にした〈重く・暗く・苦しい〉映画『ジョーカー』を製作したのです。

 とはいえコメディ映画を撮っていた実績と『ジョーカー』のような重たいテーマを描く作品は別の次元にあるわけではありません。パンフレットに掲載されたインタビューでフィリップス監督はコメディの本質を次のように語っています。

僕がコメディを作ってきたのは、コメディの本質が破壊的かつ不謹慎なものだから。

 続く箇所でフィリップスは、現代は破壊的で不謹慎なコメディ作品を作ることが難しくなっていることを語り、誰かを笑わせようとすることが誰かの怒りに繋がると分析し、もはや、笑えることが笑えないわけです。」とも語っているほど。

 そんなフィリップスにとってコミックス映画は「新たな不謹慎の可能性」を感じさせる領域だったのです。以上を踏まえるとトッド・フィリップスの作家性は「不謹慎な表現を通して真実を伝えようとする態度」にあると理解できます。

 以上を踏まえれば、映画『ジョーカー』を「破壊的で不謹慎なコメディ作品」として理解することができるでしょう。なにせ『ジョーカー』は、アメコミの実写映画化もしくはヴィランの実写映画化の流れとしての「ファン向け・大衆受け」を狙った娯楽作品としての「コミックス映画」の伝統を大きく裏切る作品だったからです。

 映画『ジョーカー』は、ジョーカーというキャラクターがそうであるように、愉快犯的に「コミックス映画」の伝統を逸脱します。「ジョーカー」というコミックス映画の装いにも拘らず、現実社会を思わせる、リアリティのある悲劇的な世界を描いてみせ、そのうえで、その現実的なフィクション世界を笑ってみせるのです。これはまさに、トッド・フィリップス監督が挑戦した「新たな不謹慎の可能性」を体現した映画ではないでしょうか。

 

キャラクター「ジョーカー」にとっての映画『ジョーカー』

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 映画『ジョーカー』は「純粋な悪の権化」であるキャラクター・ジョーカーを主人公にします。あるキャラクターが主人公として描かれることは、ある物語の中心に置かれることです。わたしたちは物語に接するときに「登場人物への感情移入ができるかどうか」によっておもしろさを判断します。言い換えれば、『ジョーカー』の映画は、容易に感情移入できないはずの純粋な悪の権化であるジョーカーを、感情移入することのできるキャラクターに落とし込もうとする作品として鑑賞できてしまえるのです

 たとえば、2019年に公開された『天気の子』。新海誠監督はあの映画で「トラウマでキャラクターが駆動される物語にはしない」というコンセプトを掲げました。何か当人にとって特別な体験があり、その経験がキャラクターの「行動の理由」になるといった物語の類型。そうした類型的 ” ではない ” 物語を模索していたのでした。

 ようするに、『ジョーカー』は『天気の子』と逆なのです。

 ジョーカーというキャラクターには犯罪の動機となる行動する理由──トラウマがない。たとえば『ダークナイト』において、ヒース・レジャーが扮するジョーカーは自らの裂けた口の由来を、語るたびに毎回違った理由を語ります。つまりジョーカー自身に何か決定的な体験(=トラウマ)があったことを明かさない。それどころか、そんなトラウマがあるという人々の期待を嘲笑っているのです。

 しかし、映画『ジョーカー』ではジョーカーに「ジョーカーになった理由」を与えてしまうのです。

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 ジョーカーがジョーカーになった理由は、本来、ジョーカーにとってはトラウマであるはず。しかし彼自身のトラウマはキャラクター「ジョーカー」にとっては嘲笑い、デマカセで茶化す対象でこそあっても、明らかされるモノではなかったはずなのです。にも拘らず、映画『ジョーカー』はそのブラックボックスである特異点を描こうとするのです。

 『ジョーカー』の映画が叩かれるのもその点にあります。ジョーカーが愛されていた理由のひとつには、明らかに動機なき犯罪・理由なき悪意、すなわち純粋な悪の権化としての「絶対的な悪のカリスマ」のイメージが大きかったのですから。映画『ジョーカー』がヴィラン・ジョーカーを1個の冴えない(非モテ!)人間として描いたことは、1部のファンにとっては耐えがたいものだったのでしょう。

 しかし監督のトッド・フィリップスはパンフレットにあるインタビューで次のように語っています。

僕が惹かれたのは、ジョーカーの物語ではなく、ジョーカーに “なっていく” 物語。僕達のジョーカーは、世界を炎上させることが目的ではありません。

 「ジョーカーの物語」ではなく「アーサーがジョーカーになっていく物語」を目指した。ふたつはどのように違うのでしょうか。

 原作の《バットマン》コミックスにおいて(諸説ありますが)、ジョーカーは硫酸に落ちて顔や髪が変化することで、現在知られたピエロメイクのジョーカーの姿になります。しかしこの設定は現実的ではありません。現実的でない限り、ジョーカーはアメリカン・コミックスのなかの神話的な人物のひとりに過ぎないのです。現実的でなければ、究極のところで鑑賞者は身につまされることができません。

 「全てを現実的に描きたかった」とも語る監督は、空想的な設定によって出来た「ジョーカー」というキャラクターを用いて映画を作るのではなく、「ジョーカー」というキャラクターがどのような現実的な設定のなかで成立するのかを模索したのです。

 当然、現実的な設定のもとで描かれた一個の人間であるアーサー・フレックは「傷を負うことのある人間」でもある。そのアーサーが何かしらの出来事を経てジョーカーになる。その出来事はトラウマと言っていいでしょう。それが映画『ジョーカー』が描いていることです。

 ようするに、映画『ジョーカー』という作品はキャラクター「ジョーカー」にとって、現実的な形で与えられた ” ひとつのトラウマ ” でもあるのです

 

映画『ジョーカー』のあらすじ

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 ここで、あらすじを確認します。引用は映画紹介サイト『MIHOシネマ』から、ネタバレなしの紹介記事からの引用です。

舞台は、バットマンがその活動を開始する以前のゴッサム・シティ。アーサー・フレックは、街の片隅で大道芸人として生きる冴えない男。そんな彼を支えていたのは、母が幼少期よりアーサーに言い続けた、「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という言葉。母の願いを叶えようと、常にピエロの扮装で笑顔を携え必死に生きてきたアーサー。しかし、そんなアーサーに世界は優しくなかった。アーサーを恫喝しては金を奪い取っていく若者達。それでも必死に前を向いて生きてきたアーサーだったが、とうとうそんなアーサーの心を折る出来事が起こる。こうして、アーサーはその後バットマンの最大の敵となる『ジョーカー』へと変貌していくのだった。(mihocinamaより)

 ※ネタバレありのあらすじはこちら

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