1992年9月号の『海燕』のなかに「実生活に犠牲を要求しない思想はない」という文章が載っています。文芸評論家の山崎行太郎による文章です。
それは批評文でした。
批評文を読むおもしろさは、ある作品をダシにして評者が何を言わんとしているのかに触れることにあります。それは「感覚の生理」とも言えるでしょう。何かに触れて何かを書かざるを得なかった、生理的とも言える感覚から立ち現れてくる声――それが批評です。
「実生活に犠牲を要求しない思想はない」のタイトルの上に企画名なのか「〈読書月録〉」と書いてあるので、文芸時評のようなものなのでしょう。
今回はそんな批評文、「実生活に犠牲を要求しない思想はない」をご紹介します。
- 中上健次は物語作家としての谷崎潤一郎に憧れていたものの、自己の強い中上は物語作家であることと私小説作家であることのあいだで揺れていた。
- 物語とは真理を発見することである。しかし男(意識)には女という巨大な多様性(自然)は永遠に理解できない。物語とは、男が女に負けることである。
- 文学に理論は必要である。その代わり、理論は徹底的に血肉化されなければならない。理論を血肉化するということは、その理論のために生活を犠牲にすることである。
【文の紹介】「実生活に犠牲を要求しない思想はない」【文学と理論】
中上健次の時代と彼の危機的状況を象徴した『軽蔑』
80年代は中上健次や柄谷行人の時代だった、と山崎はいいます。かつて三島由紀夫や大江健三郎の時代があったように、80年代は中上健次の時代なのだ、と。
1992年の当時、中上健次は2月に癌による入院、手術を受け、闘病中でした。
中上健次の新作小説『軽蔑』はそうした流れのなかで発表されました。山崎はこの小説を、危機的な状況にある中上健次を象徴した記念碑的な作品だと位置づけます。
中上健次の『軽蔑』から谷崎潤一郎的世界を思う
山崎の読みによれば『軽蔑』は中上健次の熊野を舞台にした自伝的な作品(『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』)とは違っています。『軽蔑』が持つ自伝的な中上の文学性とは違った方向として山崎が挙げるのは、「谷崎潤一郎的な世界」もしくは「谷崎的晩年」でした。
中上自身も意識する谷崎潤一郎。谷崎は徹底的な芸術主義者で、生活を捨てた、反社会的な文学者です。山崎いわく「谷崎的世界」とは小説ではなく物語へのこだわりに要点があります。
ニーチェは『善悪の彼岸』のなかで「真理は女である」と語りました。山崎はそれを「男(意識)には女という巨大な多様性(自然)は、永遠に理解できない」と言い換えます。女を永遠に理解できない谷崎は理解することをやめ、「女=真理」の前にひざまずく伴侶として生きたのだ、と。
谷崎が拝跪しているのは実際の女性のことではありません。彼はいわば芸術の女神(ミューズ)に自己を捧げているのです。それが芸術主義者であるということなのであって、反社会的な谷崎的世界なのです。
中上健次は谷崎潤一郎的世界に居続けることはできない
とはいえ、山崎の見立てでは中上健次の世界は「私小説的な世界」です。谷崎があくまでも物語にこだわるのだとすれば、中上がこだわっているのは私小説なのです。
山崎は中上の証言として次の発言を引用します。
おれは最初の出発点で、自分のへそのところに私小説という核を後生大事に持ってる人間なんだ。
山崎は中上健次的世界を「私小説的世界」だと言い換えたうえで、次のように、中上が谷崎的世界に居続けることができない理由を語るのです。
中上健次は谷崎的物語の世界に安住するにはあまりにも「自己」に対する関心が強すぎる作家なのだ。
『軽蔑』が描いているのは「男が女に負ける」ことである
『軽蔑』は恋愛小説です。歌舞伎町のトップレス・ダンサー「真知子」とチンピラの遊び人「カズさん」との恋愛・駆け落ち・結婚・死というプロセスを含んだ物語となります。
山崎は次のように断言します。
無論、この小説の中心は真知子という「女」であって、中上健次の目的も「女」を描くことにあった。
『軽蔑』におけるトップレス・ダンサー真知子の行動はまさに不可解です。「鏡の上の踊り子は、たとえば手を伸ばせば届く距離にいても、現実の女ではない。」「それを承知で鏡の境界をこえてくる勇気があるなら、来ればいい。」カズさんは境界を越え、そして死にます。
山崎は、『軽蔑』という作品を通して、次の文言を発見します。
「物語とは、男(意識)が女(自然)に負けることである。」
中上健次も『軽蔑』という作品において女に立ち向かいました。そして近代的な〈小説〉という秩序を制定しようとした結果、反近代的な物語という現実を、意に反して描いてしまったのだ。――そのように山崎は評すのです。
大岡玲のメタフィクション小説『ヒ・ノ・マ・ル』
大岡玲の小説『ヒ・ノ・マ・ル』は、主人公の幻想が作り出した物語です。なので物語の登場人物たちは主人公が幻想のなかに召喚した人物だということになります。物語の舞台は崩壊し、すべてが登場人物たちとともに消えていくのです。
『ヒ・ノ・マ・ル』は小説論的なニュアンスもあります。古典的な小説の名前が多く登場し、そしてその元ネタについても主人公が把握しているのです。メタフィクションですね。
そうした小説世界が描くのは現実を再現するリアリティではなく、現実がまず物語的であることを踏まえた、物語を再現するリアリティであるという形になります。
現実が物語であることについて
補足として「現実が物語であるという状況」を山崎の記述を参考にして解説します。
- わたしたちが生きている世界は「ナマの現実」ではなく、「情報」に変換することで受け取ることのできる「言語の世界」である。
- 情報・言語の世界はナマの世界ではないという点で非現実的な「物語の世界」である。
- 物語の世界を生きているわたしたちは、ネットやSNSなどのメディアを通して得られる情報からリアリティを取得している。
以上から言えるのは、「現実/虚構」の図のなかでは、わたしたちはいつも虚構の側に立たされることになるということです。言い換えれば、わたしたちにとっての根本的な現実感覚が、情報や言葉、そして物語によって出来上がったスクリーン(遮蔽幕)に過ぎないのだということなのです。
理論先行型の2つのあり方:理論が交換可能かどうか
中上健次と大岡玲の二人の作家を並べてみて、山崎はどちらともが「理論先行型の作家」であることを結論します。ただし、二人は作品での理論的実践において違っているのだと見立てます。
中上の場合は理論家でありながら、その理論では御することのできない過剰な肉体を持っていて、そのために作品が理論を破綻させてしまう。しかし大岡の理論はあくまでも教養であることに留まり、作品と衝突することがないのです。山崎はそれを「理論そのものにドラマがない」と評します。
山崎は大岡の理論を「物差」だとも述べます。物差はいつでも交換可能です。しかし物差も本来は測ることを通して己れを測られるはず。つまり交換可能な物差などはないはずなのです。
山崎は理論家・中上健次を称賛します。大岡の物差(=理論)はまだ理論が交換可能なのです。しかし中上の物差は肉体そのものに癒着しています。つまり時すでに遅しで、取り替えが利かなくなっているのです。
中上健次の負った「甚大な犠牲」:物語作家と私小説作家のあいだ
中上健次は理論によって自己を眠らせることになった
中上の理論は彼に物語作家であることを要求します。しかし他方で、彼の肉体のほうでは中上健次の私小説的な人生を書かせようとするのです。そこに山崎は中上の負っている「甚大な犠牲」を認めます。
中上は次のような発言をしています。
ぼくは、秋幸をこれまで意図的に自分の中で眠らせていた。それが起きだしてきた。それを書きたい。
秋幸は中上の自伝的な小説の主人公の名前です。これまで秋幸という自己を眠らせてきたというのは、谷崎的晩年を目指して作家生活を営んできた中上の作家性を暗示しています。
谷崎的世界への憧れによって抑圧されてきた中上的世界
物差としての理論を持って書くことは巨大な多様性としての物語を書くことです。しかし私小説は巨大な多様性とは相反します。中上の犠牲は、理論によって自己(=秋幸)を眠らせてきたことに由来します。
再び、中上の発言を引用します。
おれは最初の出発点で、自分のへそのところに私小説という核を後生大事に持ってる人間なんだ。
要するに、谷崎的世界への憧れによって抑圧されてきた中上的世界、すなわち理論によって抑圧されてきた自己の所在を、中上は〝秋幸が起きだしてきた〟という言い方でもって語っていたのです。物語作家であっては描けないものを、私小説作家であらんとすることで描く。それが中上の情念なのでした。
結論:「文学に理論は必要ないという人もいるが僕は必ずしもそうは思わない」
山崎は2人の作家を並べて「文学に理論は必要ではない、とは言えない」といった見解を述べます。ただし、理論的であるからには徹底的なければならない、というカッコつきですが。すなわち理論を持つことは誰にでも出来る。難しいのは理論を血肉化することなのである、と表明するのです。
理論を血肉化するということは、言い換えると、その理論のために生活を犠牲にすることが出来るかどうか、という話です。これは谷崎潤一郎が永遠に理解できない巨大な多様性(=女)を追うために生活を犠牲にしたことにも通じます。あるいは中上健次が秋幸を眠らせたことにさえも通じるでしょう。
以上の山崎の結論は以下のように書きつけることができます。
これは思想と人生の話でさえあります。「実生活に犠牲を要求しない思想はない」のです。
_了
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