自分を躾ける上で心掛けたい融和と暴力【自己実現と自己超越】

啓発書
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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。今回は加藤ゑみ子の『自分を躾ける』を読みました。参考文献とかそういうのが付いていない類いの自己啓発本っぽいんですが、「自己実現」やら「自己超越」の文句と「しつけ」というキーワードとの兼ね合いがおもしろかったので、記事にしました。

この記事で取りあげている本
 

自分を躾ける上で心掛けたい融和と暴力【自己実現と自己超越】

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読解:躾けと社交性による自己超越

読んでみると「知らない人と会話ができないというのは、大人ではありません。」(254)など書かれていて、なかなかに笑わせてもらえる。社交性大事です、というわけ。そらそーだ。

タイトルに『自分を躾ける』とあるように、自分、自分、自分と打ち出している。そうした自分を美しく高めることの肝心カナメに社交性が置かれるとなると、自然とそこには他人も相当の位置を占めることになる。

たとえば、あとがきには次のような文章がある。

「美しく、幸せであることを目的に多くの人たちが自己実現を目指してきた時代から、それらとともに、いかに自分なりに人の役に立っていけるのかを考える新しい時代が始まっています。自己超越の時代です。他の人の幸せを支援して、いつでも何かの役に立てる自分になるとしたら、自己実現と自己超越は、同じものと言えるでしょう。」

自分、自分、自分と語ってきたことの表裏には他人、他人、他人もまた隠然と語られる。──その理由には以上のような自己実現と自己超越とを一致させる思想があったわけだ。

ここで言われている自己実現は「自分の幸せを支援する指向性」だとすると、自己超越は「他人の幸せを支援する指向性」だと考えられる。

ようするに、自分を超越することとは自分の生活の営みのなかに自然と他人への配慮が伴っていること、その美しさだ──というのだ。

だから「偏見があってはいけない」と説得しながら、それとは対極にありそうな「自分、自分、自分」(ひとが自分を意識するときほど偏っていることってなくね?)という自分偏重の嫌いさえある著者の主張にも納得がいく。

というのも、自己が超越されてしまえばそれは他者に開かれることなのだから。その点で社交性が(たとえそれが儀礼的で表層的であろうとも)自己と他者との国境線を取り払わせるといった融和のロジックにもツジツマが合う。

 

誤読:自他の間にある暴力を忘れない

しかしながら──ここから批判めいたことを書かせてもらうと、「自分を躾ける」ことの究極がある種の審美的な〈自己と他者との一致〉という認識の是非に行きつくならば、そこでは存在することの暴力性が看過されてしまうだろう。

私たちが意識しようとしまいと振る舞ってしまっている暴力というものがある。たとえば「他人に迷惑をかけていない人はいない」といった言い方で語られることだ。本来は互いに迷惑をかけあうのが私たちであるとすると、躾けによって自他の間に起こる摩擦をなくしてしまうことは不自然である。

ようするに、自分を躾けることが「他人に迷惑をかけてはいけません」を原理にするならば、そこでは「他人に迷惑をかけないではいられない」という実質があたかも無かったかのように処せられてしまうのだ

肝心なことは、私たちが自己実現とやらを目指すにしても自己超越とやらを心掛けるにしても、そこでは関係を取り結ぶに当たって、自分以外への暴力が働かずにはいられない事実を忘れないことだろう。(※2020年に人類が直面した「感染」をめぐる私たちの距離感意識は「現に存在していること」の暴力を際立たせてくれる。)

〈自己と他者との一致〉は幻想であって、〈自己と他者との不一致〉が現実なのだから。……そうなると、まずは自分という名の偏見を肯定することから始めたほうがいいのではないかしら。そうでなければ現実世界の肯定なんてできそうにないもの。

 

まとめ

ここまでのところで加藤ゑみ子の『自分を躾ける』の一部を紹介し、それに対する批判点を取りあげました。偏見はよくないと言いつつも「自分、自分、自分…」と書いている様子はどこかおかしくもあるものの、しかし躾けにせよ社交にせよ、はたまた自己実現や自己超越にせよ、「〈自分〉の使い方」が問われています。いかにしてこの〈自分〉を使うのか。関心のある方はぜひ読んでみてください。

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