短歌入門書を5冊読んで文学賞を獲った私が短歌入門の記事を書こう

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こんにちは、ザムザ(@dragmagic123 )です。今回は私が短歌に入門した過程を記事にしました。短歌ってのは五七五七七のあれですね。俳句みたいに季語がいらないやつ。本編に書きましたが、ちょっとしたきっかけがありまして短歌に入門することになったのです。それで短歌歴一ヶ月未満の身で文芸誌に応募して文学賞を獲るに至りましたので、その修得経緯……と言えばいいのか、ささやかながら「短歌入門」の記事を、このように。短歌に関心のある方はぜひ読んでみて〜。

短歌入門書を5冊読んで文学賞を獲った私が短歌入門の記事を書こう

短歌はじめました

なぜに短歌に取り組むことになったのかと言いますと、本年2021年に、私はとある文芸誌の現代詩賞をいただいたのですが、その受賞告知が掲載された号に「短歌賞」の応募告知が載っていたんですよね。
時は一年ほど遡るんですが、私はその雑誌の編集長とお茶をする機会に恵まれました。その際、編集長が著書に目を通したりし、会う前の準備をしたのですが、その準備段階で、どうやら編集長の母親が短歌に凝っているらしいと耳にしたのです。
「ほう…短歌ね。」と思った私は短歌の門外漢。自由詩などは書いてはいたものの、俳句や短歌などの型式のある詩には特に関心を向けてはいなかったのです。しかし、そこはザムザちゃん。ふとしたことを自分のための啓示と解釈する妄想を展開しまして、「これは短歌とのご縁をゲットする好機!」とやる気を出し、入門書に手を伸ばしたのでした。
時を戻して、2021年の1月。どうやら短歌賞の応募〆切は月末とのこと。いきなり作って良い作品は仕上がるまいと考えた私でしたから、思い立ったが吉日と身構え、片手に入門書を手にしつつ、1月3日よりしこしこと実作に手を出していったのです。
結果として作歌開始28日で260首を作り、その中から秀作と思しき作品を選んで応募にこじつけることができました。賞の結果はまだ正式発表されてはいないものの(※)、2ヶ月後の3月に「三次選考を通過した」との知らせが届いたので、そう的外れな短歌じゃなかったのでしょう。
以上の経緯を踏まえまして、少しは「短歌の世界」に足を踏み入れたという自負の下、この記事ではザムザ流の「短歌入門」を綴ってみることとします。筆者自身が「短歌を作るために」実作の数をこなしていった中で糧になったノウハウを紹介する性質上、メインの読者は “短歌を作る人” に設定しています。とはいえ、広く短歌を楽しみたい人にとっても参考になるところもあるはずという自負もありますので、よろしく。
(※後日、受賞の告知がきました。)
 

わたしの通り道 〜短歌入門書の紹介

ここからは筆者であるザムザが短歌業に入門するに当たって手にとった本を紹介していきます。
紹介する本は次の通り。
    • 升野浩一『かんたん短歌の作り方』
    • 土岐秋子『「全然知らない」から始める短歌入門』
    • 穂村弘『はじめての短歌』
    • 岡井隆『今はじめる人のための短歌入門』
    • 本林勝夫『現代短歌』
以上の本の紹介がてら、その本からの学んだこと・気づいたことなどにも触れていきます。そいじゃ、レッツラゴー。

日常言葉で作れてこその短歌である/升野浩一『かんたん短歌の作り方』

升野浩一について私が知っていることはありませんでした。ただ、もともと文芸全般に関心のあった上、古本渉猟を趣味にしていた私でしたので、古書店で『かんたん短歌の作り方』を見つけたときも自然と手に取る運びとなりました。読んでみると升野さんは教祖さまみたいです(間違っていないけど誤解のある言い方)。
超ビギナーを自負する私の当時の短歌の知識は「五七五七七で構成される日本産の文芸ジャンル」といった程度のこと。読んだことのある歌書(短歌についての本のこと)は斎藤茂吉の『斎藤茂吉歌集』と俵万智の『サラダ記念日』だけ。
そんな私に升野本は次のような言葉を与えてくれました。
短歌は内容だけでなく、言葉の微妙な言いまわしが命であり、だれもがその状況をうまく思い浮かべられるような、しっくりくる言葉の並べ方を心掛けなければならない。そのうえ、あらすじ(事実の説明)ではなく、描写(真実の発見)を大切にすること。(引用者による要約)
なるほどなぁ。情景を見させるようにさせるだけでなく、何らかの気づきをもたらすくらいでないと、良質な短歌じゃないんだそうな。娯楽として楽しめるってだけでなく芸術としての批評性を持ち合わせている、みたいな話かしらね。
さらにさらに、短歌というより和歌のイメージとして根付いている「古文」や「文語」を使った古めかしい書き方もする必要がないと言うのです。そうではなく、「日常語」で勝負できなければ、真の歌人とは呼べないとまでおっしゃられる。
これは目から鱗でしたが、同時に疑問も感じました。
日常語で作れてこそが短歌である。──これは日本の詩歌と聞いて古文体を連想してしまう人の解毒にはなります。しかしそれでは、文語の地位はどうなってしまうのだろう?
文語もまた升野が言うところの「言葉の微妙な言いまわし」の一形態じゃないのかしら? だとしたら、それらを「雰囲気がそれっぽくなるだけだから」という理由で突っぱねてしまっていいものなのかしら……。
 

直接的すぎるということは野蛮なこと/土岐秋子『「全然知らない」から始める短歌入門』

土岐秋子のこの本は佐佐木幸綱という人の監修を受けています。この佐佐木さんというのは短歌界では言わずと知れた名家の人で、弘綱、信綱、治綱といった有名人に連なる、いわば血統書つきの歌人です。土岐さんのほうは早稲田大学哲学科出身のお人。
『「全然知らない」から始める短歌入門』では俳句と短歌の違いから始まりました。五七五七七の三十一字が短歌で、俳句は五七五の一七字でさらに季語を入れなければならない。それから──
俳句は「切れ」があり、省略がいる。言い切ってはいけない。余韻を持たせる。短歌の場合は、作者がどう思ったかまで表現しなければならない。(p30を適宜編集)
パッと見て俳句の「切れ」という言葉がわかりにくいですが、「余韻を持たせる」という言葉から説明できます。
文の締め括りに「です・である・だ」といった言い切りの形をとると、表現したい気持ちに対してあまりに直接的なため、想像する余地がない。そこで「切れ」を導入した俳句では「や・かな・けり」となる。こうすることで感動・詠嘆のニュアンスになります。現代語風にすれば「よなぁ・かなぁ・だなぁ」といった具合ですね。
ほら、あれですよ、あれ。「気を持たせる」って言葉があるじゃないですか? 意味ありげな言動をして、相手に期待などを抱かせるってあれですね。俳句でやろうとするのはそれです。五七五っていう短さで最大限の表現をしようとするとそうなるんでしょうな。
短歌では、以上の俳句の「気を持たせる」ではいけない。……らしい。土岐さんいわく「作者がどう思ったかまで表現しなければならない」とのこと。俳句とは違って、 “意味ありげ” ではなく、実際に “意味のある” ということを見せなければならないのだとか。
とはいえ、短歌にもあまりに直接的であることは尊ばれないということは忘れてはいけないみたい。この本では「直接的すぎるということは野蛮で非文化的なこと」とまで言われているのですもの。難しいですね。
 

いい短歌とは、生きることに貼りつく短歌/穂村弘『はじめての短歌』

現代日本で短歌に入門しようとすると必ずと言っていいほど「穂村弘」の名前と出会う。私も出会った。2021年1月の、短歌始めっかな〜と思い立ってすぐというタイムリーなタイミングで。千葉県の16号線沿いのブックオフにて。
この『はじめての短歌』だと、昨今の「それって役に立つんですか?」っていう物事の振り分け基準を短歌に向けています。役に立たなければ存在する意味がないとでも言わんばかりの世界観に対して、短歌は反抗するんだぜ?──ってな感じでね。
たとえばインスタ(Instagram)っていうSNSがあります。そこでは「インスタ映えするもの」に人々の関心が集まる流れがある。言い換えると「フォトジェニック(写真映えする)」イメージに人々の選好基準が偏りがちな世界が広がっているわけです。
しかしそんなインスタ的世界観では「カッコいいもの」や「カッコつけたもの」が持て囃され、「カッコ悪いもの」は隅のほうに追いやられてしまう力が働いている、とも見れる。それは「政治的な力」と言ってもいいし、「資本主義の領土」と見てもいい。
短歌は、なんでも「〇〇映え」して商品化させる資本主義の領土化作用への抵抗になる。そのレジスタンス(抵抗勢力)の立脚地になるのが、短歌がそこから生まれいずる人間精神である。 ──そう、この本は檄を飛ばすんですね。
この本の目次には「いい短歌とは、生きることに貼りつく短歌」という一節が見つかります。さっきの資本主義の話と絡ませれば、この “生きること” と “売れること” は違う。「〇〇映え」することが “売れること” に寄りかかることだとすると、 “生きることに貼りつかせる” のが短歌である。
そうなってくると、短歌を作ることは人が生きるうえでの生存戦略とさえ言えそうです。精神を毒されないためという崇高な使命を帯びさえ。なんだか、短歌は一概に趣味の言い方で語るにはもったいない気さえします。じゃあなんだろ。……修行?
 

短歌は紙と鉛筆だけあっても作れない/岡井隆『今はじめる人のための短歌入門』

岡井隆は有名です。​塚本邦雄、寺山修司とともに現代短歌の一時代を築いた御三家の一角。ね? すごそうでしょ?
『今はじめる人のための短歌入門』はすごい本でしたよ。言葉の解像度も高くて、押さえておくべき勘どころにもしっかり目をやってる。素人目ながら、入門書としての情報量が濃縮されているなぁと思いました。
ちょっと箇条書き、やっちゃいます?
  • 同じような感じの言葉ばかりを使うと作品の印象がしょぼくなる
  • 短歌づくりは歌いはじめで予想していた終わりに向かうのではない
  • 語順や言葉遣いや歌う対象を拡大・強調したり縮小・省略、もしくは変型したりするなどの細かな言葉への配慮をおもしろがる
  • 映像を一時停止するのではなく、一瞬間を膨らませることで、歌に情景としての幅をつける
  • T・P・O(時・場所・場面)を組み入れて一首をまとめる
──ね? どれもありがたい教えでしょ?
しかし、同時にむちゃくちゃ厳しい入門書でもあります。たとえばこちらをご覧くださいませ。
短歌をつくることは、紙と鉛筆さえあればできると言うような安直な考え方を肯定してしまったのは、誰なのでしょう。そんな安直な方法は、まったくの嘘だと思います。(p155)
え!? 短歌って紙と鉛筆だけあれば作れるんじゃないのん?! ……ってなりません? ところがどっこい、岡井さんによるとそうじゃないらしい。 
初心の人たちが初心者から抜け出せない理由は、短歌がすきではないらしいってことにある。彼らは他人の作品をよんだり、近代短歌史上の先人たちの歌をよんだり、現代の評判歌集をよんだりして、その味を、舌鼓をうつようにして賞味することがない。つまり短歌が好きではないのだ。(p62を適宜編集)
短歌の初心者のままでいる人はそこまで短歌が好きじゃないんですよ、って言ってるんですよね。これは手厳しい。「好きの横好き」なんて言葉もありますが、本腰入れてやってないから下手なままなんじゃないの〜?って。
それじゃあ岡井さん流の短歌上達のための “好き” の姿勢はどんなものなのか。それを最後に見てみましょう。
好きな歌をいくつも持ち、それを暗誦し、その歌を心のなかへ溶けこませてしまっているからこそ、その歌の語法であるとか、その歌が骨格としてもっている「型」であるとか、  についての知識が、生きた知識となるのでありましょう。わたしは、愛が先にあり、知はおくれてくるという、この鉄則を忘れていたのです。(p66)
ですって。これは短歌に限らず、何事にも通じていそうですよね。好きだから続けていくとおのずとその事のパターンがわかってくる。そのパターンを活かせるようになる。これが初心者から先へ行くということ。──心に刻んでおくことにしましょう。
願わくは、刻んだまま忘れ去ってしまいませんように。。。
 

いのちの一秒・美の印象・真の象徴/本林勝夫『現代短歌』

この本はもしかすると私が読んだ短歌修行のテキストのなかでもっともマイナーな部類かもしれません。
著者に関する情報も表紙にある「共立女子大学教授」であることしかわかりませんし、学燈文庫という文庫シリーズも耳馴染みしない。発売日が1966年でむちゃんこ古い。それでいて私が買った日にちも2017年の5月3日の火曜日。私が買った短歌入門書の中でも一番古い。
とはいえ、歌人ビギナーの私にとってこの本ほどじっくり読み込んだ本もありません。なにせ明治・大正・昭和と、日本の短歌史をなぞりながら、評価された短歌の何が評価されてきたのかを教えてくれているんですもの。なんなるありがたい全255ページだろうか!
名歌とされる歌の由縁を知れるのいいですが、短歌史に名前を刻んだ名人が、どういうふうに短歌というものを考えていたのかにも触れてくれているのがありがたいです。
たとえば『一握の砂』で知られる石川啄木は短歌の五七五七七の長さを次のように語っていたのだとか。
「人は歌の形は小さくて不便だといふが、おれは小さいから却って便利だと思ってゐる。」といい、「一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒」を愛惜するのに「手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。」(「一利己主義者と友人との対話」)とも語っている。(p82)
はたまた、ご存知日本語を切り開いた国民的小説家夏目漱石のマブダチで野球大好きマンで「歌よみに与ふる書」なんていう後進の育成のための理論書を書いたりもしている自身日本文学史に名を刻むほどの大歌人でもある正岡子規に関しては、こうです。
子規は俳句や歌、また文章のうえでも写実・写生ということをやかましく主張した。つまり、対象をありのままに客観的にとらえるということで、彼はこれを西洋画の技法から学びとったのである。しかし美でも醜でも、何でもかまわずに写生しようとしたわけではない。自分が美と感じたものの印象をできるだけ忠実に、また客観的に写し出そうとしたのである。(p91)
もう一つ、北原白秋。この人の言っていたことともなると、もはや初心者には到底理解不可能な次元を語っています。
「真の芸術の絶対境はその写生から出てもっと高い、もっと深い、もっと幽かな、真の象徴に入って初めてその神機が生き気品が動く。さうして彼と我、客と主の両体が、真の円融、真の一如の状態に合して初めて言語を絶した天来の霊妙音を鳴り澄ますのである。」(p143)
いずれの短歌思想、いや芸術哲学も、短歌に一生を賭したからこそ示せる気迫があります。パッと目を通しただけで理解できるものではありません。しかし不可解であり、大いなる謎であるからこそ、短歌の門前に立つものへと強く短歌の道へ誘惑する求心力がある。とは言えないでしょうか?
 

短歌入門一歩前へ!

そういうわけで、某文芸誌の短歌賞の応募作品を作りつつ、以上のお勉強をしてきたのです。応募時点では260首を作りましたが、応募期日を過ぎてからも作り続けまして、この記事を投稿する2021年6月30日の時点では断続的にではあるもののこれまで876首を書いています。
短歌入門を始めてから半年を過ぎ、作歌数も三桁になったし、こうして短歌入門?記事を書いてしまった私ザムザですので、短歌入門一歩手前から一歩前に踏み出してるってことでいいよね!
そうは言ってみたものの、自分がいっぱしの歌詠み・歌人になれたなぁという実感もとくになく、淡々と思いついたら形にしている日々……。
 
のなかで!
 
以下ではザムザ流の短歌の作り方を綴ってみようと思います。

ザムザ流短歌入門

 

まず、短歌は言葉を使いますね。言葉の芸術である。この認識から出発しましょう。そこでは古文や現代文も、古語や雅語、日常語なども同じものです。助詞の「てにをは」、オノマトペ、ひいては文法だってそう。
人が言葉を使うときには自分がいて、言葉があります。言葉の使用者がいて、言葉の使用感がある。基本的にこの二つのどっちかから短歌は始まります。
自分から始まる短歌は「自分が独特の気分に見舞われている事態」にフォーカスが向けられています。自分の今現在の居心地とか臨場感といったものから、短歌が始動する。これが「言葉の使用者都合からの作歌」になります。
言葉から始まる短歌は「言葉が興味深い印象を醸し出しそうな気配」にフォーカスが向いています。言葉の実験的な並べ方によって得られる効果を追求する。これが「言葉の使用感目当ての作歌」です。
 

気分主体で作る

注意しておきたいのは、「自分と言葉」という区別を立ててはいるものの、どちらも肝心なのは〈気分〉だということです。たとえば春の午後の陽、夏の早朝の庭、秋の夕暮の鳥、冬の夜空の星──そうした風景を目の当たりにして感じいるその気分を「言葉にしたらどうなるだろう?」と考えはじめること。これが入り口です。
私が作った短歌を例に見てみます。どちらも出来不出来を別にして、ある独特の気分を主体にして歌を作っている。言葉はその気分を表現するための触媒と化していると言っていいでしょう。
下駄履いてカランコロンの夕方に何処を行こうか何処へ行けるか
あっけなくチリとホコリの人生だ散って掃かれて舞ってドロン
どちらも寂しさに似た情感から出発していて、乾いた印象をかもしています。この短歌から受け取る印象があるように、この短歌を作りはじめた気分がある。それが上の二作を作り始めるきっかけになっているわけです。
 

言葉主体で作る

言葉という区別のほうを見てみましょう。物事は体験であるばかりでなく、言葉の意味であるという面もあります。世界が言葉の意味に換言されている視座に立てば、自分の気分から出発するだけでなく、言葉の選び方・並べ方次第で思いがけない気持ち・気分が引き出せることにも気づけます。
再び拙作を例にしてみることにします。
打たれても打たれるほどに出る釘のでしゃばるほどにその身さびなむ
希望とは愛することをさせることそんな相手が理由(ワケ)になること
《打たれても》では「出る釘は打たれる」ということわざ(正確には「出る杭」)を短歌のリズムに乗せてみたらどうなるだろうと思い、作りました。《希望とは》のほうは、希望を定義するという関心から言葉を集めて並べてみました。
どちらにも「この言葉から書き始めたらどんな短歌の形ができて、そこからどんな気分を味わえるのだろう」という好奇心が始動因にあります。
 

五七五七七という名の砥石

以上の〈気分〉を表現するうえで短歌が優れているのは、短歌には五七五七七の「型」があるという点です。音の数として耳馴染みも良いばかりでなく、気持ちや気分を表現の形として研ぐために、三十一字の型は都合が良いのですね。
ようするに砥石です。短歌の五七五七七の型は砥石として、歌詠み人の気分を研いでくれるのです。
むろん、短歌の型を活かせるのかどうかは、知識やセンスだけでなく、経験に培われた “勘の働き” にも掛かってくるでしょうが。
 

短歌つづけています

短歌の何がおもしろいの? そう人に聞かれて答えに詰まったことがありました。今でもうまく答えられる気がしません。ただ、この記事で紹介した入門書にも書かれていたように、短歌にはやりがいがあります。そのやりがいの正体もやっぱりよくわかっていません。そのことをわかるために、というわけでもないでしょうが、私ザムザはまたしても一首捻ったりしています。
わかりづらい喩えで恐縮ですが、これは便意に似ています。身体生理的な便意が尾籠なものであるとすれば、精神生理的なものは芸術的なものになってしまうのではないでしょうか。その便意に排泄の手段を当てがってやらねば精神衛生上よろしくない。短歌は、そうした精神生理上の便意を排泄するいち手段として有効なのではないかと思います。
これが短歌のやりがいであり、おもしろさなのではないかしら。……とは言ったものの、これで納得してくれる人は多くないんだろうなぁ〜なんてことを思いつつ、この記事はここで終わりです。ここまで読んでくれたあなたへ。短歌、ぜひ作ってみてくださいませ。
_了

関連資料

升野浩一『かんたん短歌の作り方』,筑摩書房,2014

土岐秋子『「全然知らない」から始める短歌入門』,日東書院本社,2008

穂村弘『はじめての短歌』,河出書房新社,2016

岡井隆『今はじめる人のための短歌入門』,KADOKAWA,2013

本林勝夫『現代短歌』,学燈社,1966

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