オフの声と女の視線の浸蝕機能|インディア・ソング/女の館

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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。

今回はマルグリット・デュラスの『インディア・ソング/女の館』を取りあげています。

〈インディア・ソング〉も〈女の館〉も、どちらもデュラス自身によって映画化された脚本です。

前者は《オフの声》という映画技法で知られています。

後者は女の視線が持つ《浸蝕機能》を表現として、底深い作品になっています。

紹介する方法としては、作中のストーリーを取りあげるというのではなく、作品に接することで気づかされる偶感を語る方法を取らせていただきます。

 

この記事で取りあげている本

 

この記事に書いてあること
  • 『インディア・ソング/女の館』はマルグリット・デュラス自身が映画化した2作品の脚本が収録されている。
  • 〈インディア・ソング〉では声なき声である《オフの声》を、スクリーンを暗くし、映画を盲目にすることで表現する。私たちの身体では思考できず映画の身体で可能な思考を開く。
  • 〈女の館〉では男の存在を締め出して女だけになった館を訪れたセールスマンが、《女の視線の浸蝕機能》によって男性性のふくらみをしぼまされる。男性性と女性性を表現した作品。

 

オフの声と女の視線の浸蝕機能|インディア・ソング/女の館

 これはマルグリット・デュラスの『インディア・ソング/女の館』読んだ偶感だ。

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インディア・ソング:オフの声

 この本に書かれていることを語ろうとすると、評者は〈インディア・ソング〉において顕著な《》の操作に注目したくなる。同じ関心から《記憶》もそうだ。とくに《オフの声》と呼ばれるもの。マルセル・プルーストが発見した間欠的に吹き出す情感を伴った記憶、それを映画的な体験として表現する試みである。

 記憶。

 デュラスは記憶に関して次のように語っている。

完全に覚えているものも、完全に忘れているものもいない。

 一方には過去の記憶があり、他方に想起する現在がある。ただし、現在と過去の間には随意的にはならない関係領域があり、その領域は“記憶”よりもむしろ“忘却”と呼ぶほうが相応しい。《オフの声》という技法は間欠的に浮かび上がってくる記憶(=図)を成り立たせる忘却(=地)を取り上げることを目指す。

 映画『インディア・ソング』においては2種の音楽と共に異なる位相の時間が、物語られる昔時の出来事(=記憶)と物語っている今時の自分(=想起)として映され、そして“過去に属する声”と“現在に属する声”との交差点ないしは隙間として上映される、“映画の時間”において忘却は立ち上がることになる。《オフの声》は声と声との隙間に見出される声なき声なのだ。

 以上の《記憶》と《忘却》に関するアイデアを踏まえれば、デュラスが語る次の言葉を読み解くことはそう難しくない。

人はある事件を経験しているとき、それを知らないでいる。それから、記憶によって、何が起こったのかがわかると思いこむ。そこから残ったことで目に見えるものは、余分なもの、外見です。

 事件のあった出来事往時の声があり、その出来事のことをわかったと思いこむ声がある。これらの声はいわば《オンの声》だ。目に見えるものでありながら、経験した出来事の外見でしかなく、本質的な目に見えないものからすると余分なものとなる。それに対して《オフの声》では目に見える声を生み出すごとに新たな意味を語り出し、経験した出来事の意味の“程度を理解させる”のではなく、“深度に気づかせる”。言い換えれば、“思いこませる”のではなく“思いしらせる”ことになるのだ。

 通常なら、物語には《オンの声》の語りだけがあり、そちらがメインとなる。過去か現在かの2つでしかない。しかしデュラスが重きを置くのは《オフの声》なのだ。過去と現在があり、そのどちらともをまなす超時間的な今がある。──そのことの映像化。

 デュラスは1981年の「デュラス映画祭」での公開討論上において「イメージ不信」を公言した。このことをデュラスの作品を翻訳する田中倫郎は「意識と無意識とを往き来する心の深い動きは、言語映像化することにくらべると、フィルム映像化がはるかに困難なことを言いたかったのだろう」と見ている。

 言語映像化とは小説のことだ。小説について、たとえば千葉雅也は『増補版 勉強の哲学』で次のように述べている。

小説的に世界を捉える。特定の価値観から「裁く」ような発想で世界を見るのではなく、小説では、人のやることは両義的、多義的であると考えて、解釈の交差点としての「ただの出来事」を記述している。

 小説には作者がいて、その作者が特定の価値観から裁く形で書いてしまうとよくなくなる。これが小説。デュラスは意識と無意識をめぐる心の動きを描こうとする。この狙いからすると小説によってなされる言語映像化は都合がいい。なぜなら、言語そのものが映像に対して中立的な距離を取れるからだ。映像化に当たって“見ること”の手前に“読むこと”のフェイズが挿入される。ここにあっては、心の動きは視覚情報が見え過ぎていないことによって、返ってよく見させてもらえるということが起こる。よく見えることの内にはデュラスが描きたい《目に見えないもの》も含まれる(ことが期待されるし、実際に期待できる。プルーストはそれを実現したことによって文学史に名を残した)。

 ところが、映像作品によって《目に見えないもの》を表現するとなると勝手が違う。映像作品は言語作品よりも見え過ぎる。過視的なのだ。カメラを向けるというシステムが既に視聴者へと視点を与えてしまう。そうした視点があることによって、通常の作品では評価される“映像に入り込むこと”が、《オフの声》を取り上げようとする作品にとってはネックになる。

 デュラスが「イメージ不信」に陥った理由は、映像だと「何が起こったのかがわかると思いこむ」ことがあまりにたやすいからだ。この思いこみを促してしまう装置がカメラとフィルム、視点と映像となる。デュラスの試みとその達成は、こうした意味での視聴覚的イメージに間隙を作り出したことである。

 常に既に視聴覚的なイメージを伴う映画体験から映像を取り上げ、音声の効果を増幅させる。それによって視覚と聴覚とのイメージに開きができ、間隙が生成されることになる。この間隙において響くのが《オフの声》であり、私たちの通常の思考を超えた思考が展開されることになる。(それはどのような体験なのか。この記事ではその内実を深堀りすることはしない。しかし直下で取り上げるドゥルーズの『シネマ2』や福尾匠の『眼がスクリーンになるとき』が参考になる。)

 映画『インディア・ソング』における《オフの声》の実践を、デュラス自身は『デュラス、映画を語る』の中で次のように語っている。「映像が不在なときでさえも、みつめ、眼を止める、スクリーンがつねにある。」そう、あの映画で鑑賞者がまなざすことになる間隙は“何も見えない真っ黒な画面”なのだ。そして暗いスクリーンをまなざすときでさえ、視覚は見ることを欲する、スクリーンを、透視でもするような具合で。

 『シネマ2』の中でドゥルーズは「映画が生み出すのは、思考において思考されないものとして、われわれが頭蓋の背後にかかえている『未知の身体』の発生、まだ視覚をのがれている可視的なものの誕生なのである」と語っている。

 いわく、映画では(私たちの身体の)「思考における思考不可能な何か」を達成できるという。構成された《映画の身体》にあっては可能な思考。映画のそのような身体性をまなざすことで体験できる体験。そうした映画の実践として、ドゥルーズはデュラスの作品に注目したのだ。

 ──などと、〈インディア・ソング〉を語ろうとすればなる。

 

女の館:女の視線の浸蝕機能

 〈女の館〉の方はどうか。こちらも〈インディア・ソング〉と同様に映画化されている。1972年の映画。『インディア・ソング/女の館』の本に収録されているのはシナリオだ。さしあたって、この作品で目を引くのは映像的な仕掛けではなく、むしろ言語的に描かれた男女観のほうだ。

 物語に登場する人物はほとんどが女だ。第一にそこが重要である。しかし男が重要ではないというのではない。女4人が暮らす館を訪れるセールスマン、これが男性で、この男の視点が向ける女たちへのまなざしもまた、〈女の館〉を楽しむ上では重要になる。

  とはいえ、〈女の館〉における男から女へのまなざしはいわゆるセクシーなものではない。つまりスケベなものなのではないのだ。しかし性的であることは間違いない。──では、どのように性的であるのか?

 デュラスが想定しているセールスマンは生活のために働く労働者の中でも最下層に位置付けられる。なぜなら、労働者であれば沈黙することが許されているが、セールスマンはその権利を所有していないから。セールスマンは経営者の手先として経営者を模倣し、扱う品物を自慢して己れの品位を失う。──そんな張り子のごとき存在として〈女の館〉唯一と言っていい男は定められている

 女の館を訪れたサラリーマンの営業はうまくいかない。

女性たちからの反応は皆無。彼のほうは、怒ってはいない。《空気が抜けて》、ぺちゃんこになっている。自分自身の生涯の宿命を前にしているみたいに、彼女たちの前にいる。

 上に引用した箇所では、男が自信喪失している様を「《空気が抜けて》、ぺしゃんこになっている」と表している。ここでぺしゃんこになっているものは“男性性”と言っていい。言い換えれば、男性性が“ふくらむもの”としてイメージされているのだ。さながら男性器がもっこりとやわらかく張り出すものであるように。

 では、女の方はどうか。彼女たちの“女性性”はどのようにイメージされているのだろう。

 先に取り上げたサラリーマンを送り出す場面に、次のような文がある。

女性たちは、また放心状態に陥り、返事をしない。男が出てゆくのを眺めている。この女性たちは、相手かまわずの受け入れ装置みたいなものだ。なんでも受け取り、呑みこんでしまう──庭の光景、男の光景、焚火の光景、等々。《事物》が一つ一つ彼女たちの沈黙のなかに落ちて積み重なってゆく。底なしの井戸。

 女の方は「相手かまわずの受け入れ装置みたいなもの」とされ、「なんでも受け取り、呑みこんでしまう」という。彼女たちの沈黙をデュラスは「絶対的沈黙」とも「肉体的沈黙」とも言い表しているが、それはつまるところ水場なのだ。上に引用した文で言えば「底なしの井戸」なのである。

 デュラスの女性は寡黙だ。〈女の館〉において女たちが焚火をする場面があるが、この場面について、もしもそこにいるのが男二人だったとしたら一言も口をきかない状態を続けることは想像できないだろうと、デュラスは述べている。

 私たちは男性よりも女性の方がおしゃべりだというイメージを持つ。それこそ“井戸端会議”などをするのは女の方だろう、と考えることにさほど抵抗がない。ところがデュラスでは、いや特に〈女の館〉ではそう“ではないのだ。

 このことは先ほど触れた男性性と対比させることができる。〈女の館〉において男性性を示唆する言葉として目に付くのは「言説」と「品位」だ。どちらも男性器のように“ふくらめる”こと、あるいは“大きくする”ことによって権力性を帯びる。それらは沈黙よりかは語りの有り様に類いする。たとえ沈黙しているにしても“父の威厳”のように饒舌な効力を有したものとなる。──こうした男性性をここでは《膨らむ品位》といった表現で表すことにしよう。

 男性性と対比させて浮かび上がる〈女の館〉で展開されている女性性を示唆する言葉には“井戸”、それも「底なしの井戸」と「沈黙」とがある。男性性が持つ語りの性質を、女性性は黙らせる。黙らされた語りは効力を失い、空気が抜けてぺしゃんこになった張り子となって、沈んでしまう。──こうした女性性を《沈める井戸》という表現で表すことにする。

 たとえばセールスマンが館を歩く場面として次のものがある。

 男が前に進み、向きを変える。彼は今池の前へと進んでいる。池の前へ進む後ろ姿。そして彼が池をみつける

 池。

 男の背中から張りがなくなってゆく──突然の恐怖。

 これ以上女の館の奥深く進んではならないと彼は感じているようだ。これではならない、侵犯すべからざる一種の限界に到達したように見える。彼は歩き出す。池を離れる。

 一見、セールスマンが何にビビっているのかは明らかではない。しかしここで男がさまよい歩いている館が《女の館》であることを思い起こすと、男の目の前に現れた「池」は《膨らむ品位》である男性性を無効にし、沈黙させ、削除してしまう女性性──《沈める井戸》だとわかる。男がたどり着いた水際は自身の“ふくらみ”を保たせる境界だったのだ。セールスマンは《女の館》を訪れることで自身を成り立たせていた男性的な要素を破壊されるが、その最後の決定的な一線を表す表象として池およびその水際があるのである。

 ところでこの《女の館》には夫であり父である家主がいた。しかしこれは作品の構造的な理由から締め出されている。構造的な理由とは男性的で父性的な気配を断つためだ。それがあるだけで女たち、ひいては《女の館》は「相手かまわずの受け入れ装置」ではなくなってしまう。

 先述の通り、セールスマンは権力的で責任のある、いわゆる男性的な規範からすれば不能(インポテンツ)の存在である。このセールスマンに対して、男性的な男であればイラつくことになり、〈女の館〉における家の中に入ってきたセールスマンとの長いやりとりが成り立たなくなる。

 デュラスは「男性の視線/女性の視線」の対比と合わせて、サラリーマンの《女の館》での(破壊的であり治癒的でもある)体験を次のように説明する。

どんな男でもセールスマンを前にして苛立ちを覚えただろうと私は思う。しかもそれは、セールスマンが家に入ってくるとすぐ、いきなり追い払ったりすることをしない最良のケースにおいてしかりなのだ。なぜなら、男ならセールスマンの口上を聞いたであろう。そして、男性の視線というのは、ある言説を、それが無効にされ、黙らされ、削除されてしまう場所へ埋めるあの浸蝕機能──女性の視線がもっている機能をまだ見いだしていないからである。

 「浸蝕機能」──デュラスは、「相手かまわずの受け入れ装置」や「底なしの井戸」、「池」などと述べてきたところを「女性の視線」の持つ機能としてそのように言い表すのだ。

 男性の視線が持っていない「浸蝕機能」。それがどのようなものなのかはひとまず謎である。しかし、〈女の館〉が描いている性的な事柄のひとつに、さまざまな品位に関する言説に囚われた男性の(不自然なものである)神経症を破壊する女性の自然さが挙げられる。神経症的な判断に苦しむ男と本能的行動をとる女。この出会いにおいて、セールスマンは女に浸蝕されることで内側から男性的規範を破壊される(これがもしかしたら治癒にもなるかもしれないが、作中に定かには示されてはいない)。

 以上のような点で、〈女の館〉は性的なのだ。

 

まとめ

 現実に食傷している、苦しんでいる者にとって、マルグリット・デュラスが語り聞かせてくれる世界は救いだ。失望する世界のなかで希望を模索する、そのことを促す。《オフの声》にせよ《女の視線の浸蝕機能》にせよ、普通生きている世界体験を別様に変えてしまう“かもしれない”力がある。心の動きは意識と無意識とを往き来する。自己が日々に現と夢とを往き来するように。デュラスの作品が指向するのは、心にとっての意識と無意識との蝶番部なのだ──と述べてみたい。

_了

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