【参加レポ】マルチスピーシーズ人類学研究会:ケアの共異体を巡って

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研究会の後で:ケアの過程へ ~ぼんやりとした自己のために

 最後に、第29回マルチスピーシーズ人類学研究会に参加するわたしの念頭にあった関心が、参加後にどのような理解を得ることになったのかを記しておきます。その関心というのは、〈生きづらさ〉や「マイノリティの共同体」のあり方に適用できるケアの概念を、どのような仕方にアップデートできるのかという点です。

 以下で書かれるのは、わたしなりに受け取ったところを事前の関心と擦り合わせたものになります。

〈生きづらさ〉を抱えるマイノリティに目配せを

 わたしたちは誰もが程度の差こそあれ、〈生きづらさ〉を感じます。

 その点では誰もがマイノリティです。

 さて、誰かをケアすることが他人の〈生きづらさ〉に巻き込まれることになるのなら、誰かにケアされることは誰かを自分の〈生きづらさ〉に巻き込んでしまうことでもあります

 しかし、誰もが自分の〈生きづらさ〉に閉じこもり続けるだけでいるのなら、ケアが必要な自分以外の他人もまた生きづらいままでいることになります。それはまた翻って、自分自身にとっても生きづらいままだということにもなるでしょう。つまり、状況が良くなりようがないのですね。

 この点に「ケアという行い」の重要性があります。

 人が誰かをケアするとき、相手の〈生きづらさ〉を深追いすることになり、または、自分の〈生きづらさ〉から目移りしている状態に陥ることがあります。深追いも目移りもほどほどにしなくてはいけません。なぜなら自分自身にもまたケアが必要な〈生きづらさ〉があるのですから。それゆえ必要なことは、他人の〈生きづらさ〉にも自分の〈生きづらさ〉にも目配せをすることとなるでしょう。そのことによって、他人に差し伸べる手は、同時に、自分自身にも差し出されていることでもあると気付くことができるのですから。

 

〈生きづらさ〉はケアの行いを介して変性する

 誰もが異なった〈生きづらさ〉を抱えています。そうした異なりが「自己」というものです。諸々の自己には異なった来歴、欲望、情念があり、それらを大雑把に「自己一般」として表面的な次元で束ねてしまえば排除と迫害に繋がることになります。

 ただし、そうした〈生きづらさ〉は、ある特定の場を共有したことによる(ひとつの結果としての)都度つどの状態が断面的に実現することを伴った連続体の一断面でもあります。それぞれの自己がそれぞれの〈生きづらさ〉に直面するということは、現状を実現するまでのプロセスが連続する中でのひとつの断面として発現したものとなります。そのような過程の連続する現場には単一の自己だけが蟠っているということはなく、様々な自己が各々の来歴・欲望・情念を絡ませた「ひしめき」としてあります。ひしめきの場において〈生きづらさ〉も、それを抱えた「自己」も位置しているのです

 ひとつの場の共有・関係の重ね合わせのプロセスを通して実現されたことによる〈生きづらさ〉──そのように考えると、ケアすることを介して他者の〈生きづらさ〉へと関与し、それに巻き込まれてしまうことはひとつの希望であるようにも思えてきます。なぜなら、別の〈生きづらさ〉に気づき、それに巻き込まれることで、自分の〈生きづらさ〉との別な付き合い方にも気づくことができる可能性があるからです。いや、気づくというよりも、〈生きづらさ〉そのものが変性してしまうと言った方がいいでしょう。不断のプロセスがあり、瞬間瞬間にはその都度の断面的な実現がある。これが時と場合によって「生きづらさ」と呼ばれる。このことはまた、実現される状態が成立する条件でさえ不断なる変化にさらされていることでもあります。

 根深く見える〈生きづらさ〉にもそれが成立する条件があり、その条件となるプロセスへはケアの行いを通して介入することができる。この介入が「他人へのケア」であって、そのケアを通して自分は他人の〈生きづらさ〉へと巻き込まれるものの、しかしこの “巻き込まれ” はまた、別面では「自分へのケア」にも通じているようなケアにもなるのです。他者の〈生きづらさ〉に巻き込まれることで、自分自身が直面している〈生きづらさ〉の意味合いが変わってしまうといった事情によって。

 

〈生きづらさ〉の変性はぼんやりとなされる

 自身とは異なるあり方に自己が能動的に巻き込まれることによって、潜在的な感性の回路が開発される。このことは、ケアが他者の〈生きづらさ〉に巻き込まれることと関連します。というのも、ケア=配慮を通して、他人事である〈生きづらさ〉が潜在的に自分事とも繋がっている、いや、繋がってしまったことに気づけるからです。

 他者の〈生きづらさ〉が、ケアを介さず単に他人事でしかなかったとしたら、憐れみや憐憫、はたまた同情こそすれども、それはあくまでも自分の可能性とは別個のものとして認識されるでしょう。しかし他者の〈生きづらさ〉すなわち他己に巻き込まれ、変性をこうむれば、その変性の一事を取って自己の〈生きづらさ〉が自己一般の潜在的な次元に関わるものだと感得できます。

 ようするに、ケアの行いを介することによって、自分の可能性とは別個のもの “ではないもの” として他者の〈生きづらさ〉を包摂することができるのです。そして他己に巻き込まれ、その〈生きづらさ〉を包摂するとき、自己はすでに変性していることになる。なぜなら、似て非なるもの同士が出会っている場ができているのだから。そのものが一個の変化、変性です。

 以上のような自己の変性劇は、諸自己の間での重心を個々の主体からそれぞれの過程へと移動させています。この変性劇における肝心な点は、諸自己が「等しくなく、等しくなくもない」でいるといった「ぼんやりと(misty)したあり方」に注目している点だ。すなわち、はっきり(clear)していると不都合な現実があり、むしろそうしたぼんやりとした現実の中にこそ各主体を成り立たせている秘密があるのではないのか、ということがうかがえるのです。

 おそらく、わたしたちは、たとえマイノリティの共同体に与することになるにしても、単純に「マイノリティである」という認識であってはいけないのです。なぜなら、それはマジョリティの側がマイノリティに対して行うのと同じ分断に加担してしまうことになってしまうから。そうではなくて、「マイノリティでなくもない」自分であることこそ、マイノリティになる可能性を生きるわたしたちの〈生きづらさ〉を変性させうる潜在性へと配慮したあり方になるのではないでしょうか。別の言葉で言えば、主体から過程へ、〈はっきり〉から〈ぼんやり〉へというのは、そういった境界の曖昧であるような風景への指向を呼び込むのではないでしょうか。

まとめ:認識論から存在論へ

 この記事でしばしば登場した「傷ついた存在をケアするときには、自分も傷を負うことになる。そのため、ケアとは単なる痛みの除去にはならず、痛み分けを伴うのだ」という観点は、わたしたちにとって “潜在的なもの” です。それはまた「否応なしにそうなる他はない」といった次元があることを示唆しするものです。

 こうしたアイデアは「自分の興味関心から対象に接する」といった《認識論》のあり方とは異なる、《存在論》の消息を物語っています。

 認識論では「相手をどうするか」の姿勢が取られ、どこかで自分(たち)への同化いった含みがあります。たとえば「みんなと一緒」と言うときの “みんな” には異質な何者かは含まれていない。それに対して存在論の姿勢では「相手とどうなるか」の姿勢があり、自分(たち)とは異なる存在との共生が賭けられているのです。このことは当記事で紹介した5人の研究者の発表からうかがい知れるでしょう。共異体のあり方を模索するプロセスで取りあげられた動物、人間、自然が負った痛手とそれに対するケアの試みがそうです。

 《認識論》から《存在論》へというアイデアは「棲み分け」から「痛み分け」へという言葉を言い換えたものでもあります。それらや、〈生きづらさ〉の話題も含めて、「マルチスピーシーズ人類学研究会」での発表中に出てきた言い方ではなく、筆者であるザムザが書きつけたものです。また、この記事でまとめた内容が発表者各位の主張したところとぴったり重なることの保証はありません。文責はザムザにありますことをお断りしておきます。

_了

本記事で言及のあった資料

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