【参加レポ】マルチスピーシーズ人類学研究会:ケアの共異体を巡って

座の紹介
Pocket

於:工藤顕太「模倣の性愛――ユカギールと精神分析――」

 工藤顕太の発表は現代人類学の重要文献のひとつと名高い、レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』(2007)を精神分析の観点から批判的に検討するものでした。工藤は精神分析の中でもラカン派精神分析の研究者であり、ウィラースレフが著書の中で援用するラカンの用語に注目します。

 余談ですが、じつを言うと、わたしが今回のマルチスピーシーズ人類学研究会に惹かれたのは事前に「人類学×精神分析」というテーマがあると告知されていたのを目にしたからでした。つまり、筆者はこの工藤の発表が気がかりだったわけです。

 ケアの共異体を問う研究会の中で、ウィラースレフとラカンの知見が交錯するのは、主体と他者とをつなぐ性愛的(セクシュアル)な関わり合いにおいてとなります。

 合原織部が人間種と他種とが共生するうえでの競合という困難があり、濱野千尋が人間と動物とのドメスティックな交流・交合のあり方を示した後で、工藤は種を超えた性愛的な誘惑関係のプロセスに入っていける種間に通じた能力に言及するのです。それはまた、ケアすべき他者の苦悩に巻き込まれていくプロセスへと入っていく能力のことでもあるのかもしれません。

ユカギールのアニミズム的な経験世界は「鏡の回廊」である

 レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』は、シベリアの狩猟民であるユカギールの経験世界のテクスチャー(網目・手触り・質感)を検討した一冊です。おもなテーマとしてはユカギールの生態から、自然界のものには全て魂があるという「アニミズム」の世界認識をアップデートしようという意図もある、そんな野心的な本。

 精神分析に関心のある工藤顕太が本書を批判的に検討しようと動機付けられたのは、ウィラースレフが著書の中で、フロイトやラカンといった精神分析家を取り上げている点に依っていると言っていいでしょう。また、それ以上にウィラースレフが精神分析家を参照せざるを得なかった、ユカギールの経験世界の実質である「鏡の回廊」という “現実の現れ方” が挙げられます。

 ウィラースレフが見たユカギールはまず以て性愛のエージェント(行為者・媒介者)としてでした。とりわけウィラースレフが注目するのは彼らの狩猟の場面です。狩猟においてユカギールのハンターは人間以外の種へと自己を拡張させるのです。それを準備するのが模倣の技法であり、その技法を通して獲物を誘惑します。

 模倣関係を通して獲物を口説き落とすテクニックの内訳は、精神分析における「鏡像」の関係を連想させます。鏡像関係は、ざっくり言うと、自我そのものが鏡のように他者を反映し、他者もまた自我の反映となっているような関係のことです。ユカギールの狩猟では獲物にとっての鏡になることが模倣になり、それによって獲物の鏡像になることで達成されるのです。

 ウィラースレフが「鏡の回廊」と呼ぶのも、そうした鏡像的な対象関係を自明なものとしているユカギールのアニミズム的な生態を指しています。

 

ユカギールのハンターは動物のソウルを誘惑する

 ユカギールが「鏡の回廊」を生きている。そのことはいいでしょう。では、ハンターに誘惑される獲物の方はどのようなエージェントとして認識されているのでしょうか。それを考えるためにユカギールの世界観を押さえてみます。

 ユカギールの世界観には、生者と死者の二つの世界があります。死者の世界は精霊(以降「ソウル」)の世界であり、生者のアイデンティティを保証しもします。つまり一個の人格は生者と死者、双方の世界に一度に属す鏡写しのような二つの次元の合一体(二元合一体:水樹和佳子)なのです。

 また、ユカギールでは人間がそうであるように動物もまた人格を持っていると考えられています。ハンターが狩猟の際に動物を誘惑するのも、そうした人格的な次元を相手にしている。人格は死者の世界の精霊であり、ここでは「ソウル」といった言い方が該当するのです。

 ウィラースレフの著書のタイトルが「ソウル・ハンター」となっているのもこれで明らかになりました。すなわちユカギールのハンターが獲物を殺害するよりも前に、動物のソウルを誘惑する者として把握されているのです。

 ところでユカギールが動物にソウルを認めるのにも資格があります。さもなければ動物への誘惑者たるソウル・ハンターの名称にも実質が伴いでしょう。ウィラースレフの考えでは、そうした資格は動物たちの側が備えている能力によって左右されます

 誘惑される動物たちの能力とは「欲望する主体である」という能力です。ハンターと動物との関係に精神分析の補助線を引くウィラースレフは、欲望を、他者のうちに自らの理想像をイメージする原動力であると理解します。そして、そうである以上そうした動物たちには、人間がそうであるように、ナルシシズム的な自己愛・自体愛が認められるのです。

 

ユカギールの経験世界では実践のうちに別次元同士が同時に立ち現れる

 動物のソウルを誘惑するハンターですが、完全に動物の欲望の対象に同一化してしまうのではありません。ハンターはハンターとしてのアイデンティティを保ち続けなければならないのです。さもないと自らのソウルが動物のソウルに魅入られてしまい、死者の国へと連れ去られてしまうからです。

 動物を誘惑するハンターは、さながらナンパ師のようです。相手に惚れて、恋していかのように近づきつつも恋人だというわけでもない。ナンパ師はあくまでも誘惑者なのであり、恋人ではない。つまり恋人でもなく、恋人でなくもない。そんな曖昧な立場にいるのです。そしてもしもナンパした相手に惚れて(落とされて)しまったなら、ナンパ師としては死を意味することになる。

 ナンパ師のあり方に触れた後ではユカギールのハンターのあり方がわかりよくなるのではないでしょうか。ハンターは模倣者であり、誘惑者であり、そして殺意を抱いた狩猟者です。動物の欲望の対象として見せかけの同一化をしてみせこそすれど、あくまでも獲物とは非対称的な関係を保ちつつ、自らの殺意に準じなくてはなりません。決して動物への愛に殉じてはいけない、そんなゲームをするのですから。

 ようするに、同じであることと似ていることとを混同しないでいること――このモラルを、ソウル・ハンターたる者、守らなければならないのです。

 以上のことを踏まえて、ユカギールの経験世界をもう一度確認してみましょう。

 ユカギールが生きる世界では、自己と他者、生者と死者、そして人間と動物の世界がそうであるように二つの次元が前提になっています。おもしろいのは二つの次元の間にあるはずの境界が簡単に行き来のできる、踏み越え可能なものになっている点です。たとえば生者と死者と言うと「今生の別れ」とも言うほどに別な存在ですが、ユカギールの経験世界ではひとつの実践のうちに別物であるはずの次元が同時に立ち現れます。そうしたブレのある現実感覚を支えているのがソウルの世界なのです。

 

キーワード

  • 欲望:他者のうちに自らの理想像をイメージする能力
  • アニミズム:互いに異なった時間軸にあるものが、ある実践の下、ある場において、それらが別物であるままに、異なる時間が同時に立ち現れることを認める世界像。

 

総括:ケアの共異体――あるいは変容する諸自己の痛み分け

 共異体。すなわち、異種と人間の共生が実現した「ハイブリッド・コミュニティ」。――そうした前提を踏まえれば、共同体はあくまでも同種で構成されるコミュニティとして理解できるでしょう。しかし今回のマルチスピーシーズ人類学研究会では、なんと言っても異種と人間のハイブリッドなコミュニティ、そのような共異体の可能性について検討するものだったのでした。

 以下では、ここまでの五人の発表をさらっとおさらいしてみることにします。それから、わたしがつかんだ「ケアの共異体」について書き印します。

五人の発表まとめ

 近藤祉秋の発表では、果たして単純に「ケア」でいいのだろうかという点が問われました。ケアという行いには苦悩する者に手を差し伸べることであると共に、他者の苦悩に巻き込まれることでもあります。異種との共生に応じるということは否応無しに、異種の苦悩への配慮が伴うことになる、というわけですね。

 山田祥子の発表では、地域に伏流する人間によって暗渠化された川が、人間と異種との関係をつなぐインターフェースになる可能性が指摘されました。また、そうした自然との/へのインターフェースを見直すことによって自分たちが生活している時空間の意味を賦活させ、自分たちと共生しているものへの感性を活性化することができるといった活動を紹介したのでした。

 合原織部の発表では、農村の猿害を紹介しつつ、ただ人間の苦悩にばかり目をやるのではなくサルの苦悩の方にも思いを馳せます。その農村ではサルへの畏れの感情を培う伝承がありました。その伝承がネックとなり猿害対策が取れずにいる。しかしそうした伝承はサルとの共生感覚の根拠にもなっています。この点から、共異体のあり方には「痛み分け」の視点が組み込まれることに気づかされるのです。

 濱野千尋(濱野ちひろ)の発表では、より親密な関係にある異種との関係に注目します。すなわち人間とイヌとの性愛関係です。動物たちの性愛を認知する動物性愛者の証言から、動物とのドメスティックな関係の中で「生をまるごと」肯定するための配慮のあり方をうかがいます。むろん、そうした配慮は異種の生態へと巻き込まれていくことでもあり、互いに何かしらの痛み分けがあることが前提になっています。

 工藤顕太の発表では、シベリアの狩猟民であるユカギールの経験世界に迫ったウィラースレフの議論を検討しました。ユカギールでのハンターと動物との関係が性愛的である点が強調されます。ハンターは動物のソウルを誘惑します。そして動物の本性であるソウルはハンターに(口説き)落とされる。こうした性愛的な誘惑関係の肝になっているのが模倣なのでした。種差の壁は、ある種の実践を通して乗り越えていけるものなのだ──そんな共生への希望を思わせてくれます。

 

共異体とは「棲み分け」ではなく「痛み分け」である

 「ケアの共異体」をテーマにしたマルチスピーシーズ人類学研究会に出席して、わたしは共同体と共異体の違いを次のように考えるようになりました。

 まず、ケアとは何か。発表者たちはその言葉を「癒す」「お世話」「支え」などという意味合いで用いていました。わたし自身も「配慮」や「気配り」などというケアの意味合いを思ったりなどしていましたが、同時にケアの実践への態度によって、共同体へか、それとも共異体へかに分岐することになるのではないだろうかとも考えさせられたのでした。

 ようするに、一言に「配慮する」と言っても、異種に対する二つの態度があるからです。それというのは「棲み分け」と「痛み分け」。

 棲み分けは言ってしまえばカースト毎の分断です。種ごとの話で言うなら、それぞれの生態ごとでよろしくやっていればいいのだというふうに、同種だけで寄り合い、異種は異種どうしで集まって暮らしていればいいというわけです。さながら教室内に「オタクな連中」と「ヤンキーな連中」、「アニメの話題で盛り上がる連中」と「恋バナで盛り上がる連中」といった分断が存在するかのように。これが(辞書的な意味ではなく、この記事で提出する言葉の理解として)「共同体」のあり方になります。

 他方で「痛み分け」は種ごとの違いに目配せをしつつ、それぞれの種の有限性に根差した事情を持ち寄って “妥当な線” を探ることになります。そこにはある種の事情に融通した一方的な談話はありえず、どの種にとっても「うまくやっていくこと」が目指されるのです。さながら精神障害者が自らの症状と折り合いをつけようとするかのように。これが同種のみに閉じない異種への/との配慮です。これが共異体のあり方なのです。

 ――ひとまずは、以上のようにまとめられることと思います。

 

人間以上のケアとは諸自己の変容のプロセスへの配慮である

 どの種にも欲望があることを前提にしなければなりません。どの種も、そしてどの個体にも欲望を持つ自己があることを。ただしそれらは単独で自己を持ち得ているのではなく、環境との連続性において実現されているのです。注意すべきは環境との連続性の中には非連続的であるかのような自己も実現されていて、そうした自己は「有限的」で、同時に「可傷的」でもあります

 どの種にも、どの個体にも、ある「自己愛という名の結界」があります。とはいえ諸自己の絡まり合いの中にあっては、自己は変容をこうむることを避けられないのも本当です。さながら「ケアすること」が苦悩する者の苦悩に巻き込まれていくことでもあるように。そういった異なる者たちと共にある中で自己が「異種の間で変容すること」を拒んでしまうとなれば共異体は実現しません。そんなことをしようものなら、自己を変容せしめるかもしれない異分子に怯える暮らしをすることになるでしょう。そして、そうした自己愛に立て篭もることによって「安定した状態でい続けることに執着してしまう危険性」を孕むことになるのが共同体のあり方なのです。

 以上を踏まえれば、共異体という観点から見えてくることは、ケアが異種への配慮を通した痛み分けをするプロセスへと入っていくことなのだと理解できます。

 また、以上で示した理解は、今回の研究会の主催である近藤の「人間以上のケア」をわたしなりに理解した形でもあります。つまり「人間以上のケア」とは、人間 “である” ことではなく人間 “になる” こと──そのようなプロセス面への配慮を異種との間にも広げていくことなのです。あるいは配慮すべき自己というものは異種間において成立する関係のことである、とも言えるでしょう。このとき、自己が絡まり合う場はひとつです。しかしその一所(一緒?)にこそ、多くの関係(多-関係)がひしめくことになる。いわば、この「ひしめき」こそがケアの対象になるのですね。

 「〜になる」というプロセスは人間だけでなく、動物にも非生物にもあります。そこには絶えずひとつの空間内における「多-時間軸」の成立があり、ひとつひとつの時間軸は別々のものですが、ある種の実践によってそれらが同時に同じ場で成立している。これがアニミズムの感覚であり、どの異種らとであるにしても、彼らとの共生を立ち上げる土台となる感性なのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました