【参加レポ】マルチスピーシーズ人類学研究会:ケアの共異体を巡って

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※以下、人名への敬称は省略させていただきます。

於:第29回マルチスピーシーズ人類学研究会

 以下では、ざっくりと発表者各位の発表を通しで書いてみます。わたしが考えていたことを適宜挿入していきながらの紹介となりますので、紹介する議論に多少のノイズ(記事冒頭の文で紹介した筆者の関心のこと)がありますことをご了承ください。

於:近藤祉秋「『人間以上のケア』に向けて」

 研究会はまず近藤祉秋による「『人間以上のケア』に向けて」から始まりました。近藤は今回のマルチスピーシーズ人類学研究会の提題者とのことで、彼以降に発表を行う人は彼の取り決めた方針に基づいて各自の発表内容を考えた模様。

 近藤の関心は「ケアの共異体」、さらに「共異体」が「共同体」とどのような仕方で違っているのかという点にありました。共異体はhybrid communitiesを訳したものです。

“hybrid communities”の概念は、ドミニク・レステルやチャールズ・ステパノフなどによる使用歴があるとのことですが、当記事ではそうした概念の歴史には触れておりません。

傷ついた惑星をケアするディープエコロジスト……でいいのか?

 近藤祉秋は「ケア」という概念に触れ、現在の自然環境の全体=惑星が傷ついているという現在の惑星全体の状況を、ただ癒せ(ケアすれ)ばいいのだろうかと問いかけます。傷ついた惑星をケアする。それではディープエコロジストと同じなのではないか、と。

 ディープエコロジストとは、人間をそれ以外の生物種と同列に位置付けることで、人間が生命種として特権的な位置を占めているのではないと考える立場のことです。その立場からすれば環境破壊や他の生物種に対して支配的な振る舞いをする人間は否定されることになります。

 

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』と異種間の共生のテーマ

 「ディープエコロジスト」と聞いて、わたしはつい先日鑑賞したばかりの映画のことを思い出しました。その映画は『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019)でした。

 『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の中ではモナークという地球規模の組織が登場します。怪獣の研究および管理を行なっている組織ですが、映画の中では人類にとって危険なはずの怪獣を殺さずに生かし、そしてどうにか人類のために利用できやしないかといったことを追求しているのです。

 組織名である「monarch」という英語も「王・君主・主権者」といった意味の言葉であり、怪獣たちを(自然環境と同様に)統治しようします。モナークが具体的に何をやっているのかということは公然の秘密となっていて、危険な怪獣に関する情報をろくに明かそうとしない彼らは、人民からも、各国からも、そして国際連合からさえも批判を受けています。

 モナークに対して環境テロリストの存在があります。環境テロリストたちはモナークが管理する怪獣たちを目覚めさせ、主に人間界に対して政治的な意図から破壊活動を行うのです。

 他方で環境テロリストに拉致されたモナークの研究者は、政治的な意図ではなくディープエコロジスト的な立場から一種の環境テロとして怪獣たちの解放を意図し、モナークの組織に協力するのでした。怪獣が跋扈する世界こそ地球がみずからを癒す(ケアする)道なのだと考えて。

 『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』のストーリーは、人類のために活動するモナークとそれに政治的な意図から反発する環境テロリスト、そして全自然の保護に取り憑かれたディープエコロジストの三すくみで展開することになります。そして作品のテーマは「共生」なのです

 ようするに人間界に属する者たちと自然界に属する怪獣とがいて、人間の側が自然に対して主従関係を構えようとすると結局うまく行かない。――といったテーマを描いているのです。その上で『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は異種間および多種間の共生の可能性について描いたものだと見ることができます。

 

異なりを含んでいる種の集いが共異体(ただし個別の種や個体の有限性は要配慮)

 近藤祉秋は『Lexicon 現代人類学』の中の「ケア」の項目を引きます。そこで紹介されている医療人類学者の浮ヶ谷幸代の説によれば、ケアの行いは次のように説明ができるというのです。

 ケアとは、苦悩する他者へとまなざしを向けて、救いの手を差し伸べる行為であるばかりではなく、ケアする側がケアされようとしている苦悩する他者との関係性に巻き込まれていき、みずからもまた苦悩することなのだ。

 上のケアの定義を真に受けるとすればエコロジストになることは良いにしても、あまりにディープなエコロジー思想に与することで自然界における人類の(妥当な)位置さえも危うくなってしまいます。当たり前なことですが、自然が有限であるように、人類もまた有限なのです。

 近藤が、ディープエコロジストっぽさがあるという点で「ケア」という言葉と距離を取ろうとすることも、人類の “種” としての有限性を配慮しようとする観点からなのでしょう。ここで「共生」の視点が浮かびます。

 共生とは「共に生きること」です。共に生きる同種の集まりは共同体のことですね。しかし近藤の発表は「『人間以上のケア』に向けて」という題が語っているように「人間以上のケア」を指向します。人間以上。それは人間種だけではなく、種としての異なりを含み込んで(混んで?)いるような種の集いが意識されているのです。さしあたってはそれこそが「共異体」の輪郭だと受け止めることができます。

 

キーワード

  • 共異体:人類とは異なる種を含んだ多−異種的な共同体の集い
  • ケア:苦悩する他者へと手を差し伸べることで苦悩に巻き込まれていくこと
  • 共生:他なる多くの種と共に生きること
  • 有限:それぞれの種の活動リソースには限りがある

 

於:山田祥子「見えない川を語り演じる」

 山田祥子は東京にある桃園川と人間との関わり合いに関する発表をしました。

 桃園川は東京の杉並区から中野区にかけて流れる川です。1961年に都市計画のために下水用とされ、1965年には暗渠化がなされます。

 それから以降の桃園川と人間との関係がどう展開したかを人類学的な関心からまなざすこと──それが山田の関心でした。

 そして今回の研究会のテーマの線から言えば、人間と川との共生に関するものだと言えます。人間の川に対するケアを通して見えてくる人間と川との共異体的なあり方を検討する。それが山田の発表が置かれたコンテクストだったのでした。

人新世・人間中心主義・傷ついたランドスケープ

 キーワードとして挙げられるのは「人新世」です。人新世とはある種の地質年代の名称で、人間の意識的・無意識的な活動の結果として影響および痕跡を与えることになった自然環境の全体を指す地質的な年代のことを表す言葉です。

 人類の時代としての人新世には二つの視点があり、一つは人間中心主義で、もう一つは傷ついたランドスケープ(風景)です。

 人間中心主義とは言葉の通り人間を中心に置いて物事を考える立場のことを指します。先に挙げた『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の映画から言えば、怪獣を人類のために利用しようと企てた「モナーク」のことです。

 傷ついたランドスケープは「傷ついた惑星」と同様に、人間が中心となった種々の活動によって加工され変形された風景のことです。それは人間の暮らしの事情から名付けられ、工事され、地下に沈められることになった桃園川という川の歴史そのもののことだと考えていいでしょう。

 

桃園川=異種間をつなぐインターフェース

 山田祥子の発表は、人新世時代の人と自然の関わり合いを、桃園川と周辺住民の取り組みを通して考えるというものでした。

 桃園川にはカッパの伝説がありました。その伝説は人が川と付き合っていく物語で、一方には人間が暮らすがあり、他方にはカッパの暮らす世界がある。二つの世界をつなぐものこそが川なのであって、ようするに川は異質な世界に棲まうもの(異種)同士が出会う境界、つまりはインターフェースなのでした

 先に述べたように、現在の桃園川は暗渠化されていて、人々の生活のランドスケープの中から不可視化されています。しかし2017年から失われたランドスケープである桃園川への鎮魂およびケアの企画が立ち上がったのです。(この経緯についてはここでは触れません。)

 桃園川の鎮魂・ケアは市民劇の方途が取られることになりました。市民劇の内容は伝説の存在であるカッパによる創世神話でした。そこに人間の生活が入ってきて、河川の汚染を招き、カッパによる逆襲が始まる。そのときに人間はどうするのか。――これがおおよそのあらすじです。

 

人新世的なクロノトープを語ることで異種と共生している時空間に気づく

 山田祥子は人新世以降の人間活動として市民劇の活動を理解するために、「クロノトープ(時空間)」の概念を参照します。

 クロノトープと書くとつかみにくいですが「時空間」ならイメージできるでしょう。ミハイル・バフチンの言葉で、出来事や物語の展開パターンがある具体的な時間と空間によって規定されている状況を指す言葉です。人新世という状況が人類と自然との密接な関わり合いによって堆積していったことを思えば、クロノトープという時空間のつかみ方も納得できるのではないでしょうか。

 山田が市民劇の取り組みを検討するためにクロノトープを引くのは、人新世的な状況を寓意的に語り直すことで、人新世的な時空間に対して批判的に捉えることができるのではないかと指摘するためでした。生活環境に埋もれた、自明であるがゆえに不可視なもの。それが実は、自然とのつながりを保証するインターフェースとしての機能を持っている自明性と意外性とを接続するインターフェースが見えるような時空間を再設定するための活動として、市民劇を位置づけることができるのではないか。――そのような形で以て。

 異質な存在(異種)であるカッパの人間に対する抗議を受けた後の人間の活動を演じることで、演者も鑑賞者も、環境の中での人間の位置に距離を取った視点をつかむことができる。そして自分たちが現にどのような異種と共生しているのかということに思いを馳せることができる。――そういった人新世的な時空間から(仮言的にも)目を離して他種の生活に気づき、改めて自分たちの時空間をつかみ直すことができるのですね。

 

キーワード

  • 人新世:人間の活動が刻まれた自然環境の全体を表す地質年代の名称
  • インターフェース:別々のもの同士をつなぐ媒介項
  • クロノトープ:出来事や物語の生成パターンを規定する時空間的な状況

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