日記蒐集家の見る夢と人間にとっての永遠:『ひゃくまんつぶの涙』

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 こんにちは、ザムザです。

 

 みなさんは日常のなかで何かに感動することがありますしょうか。

 早起きした日に見る東の空の黎明、暮れていく黄昏。

 はたまた読んだ本、見た映画、ひとから言われた何気ないひと言。

 

 何かに感動できるということはすばらしいことです。

 

 ところで、この〝感動できる〟という能力はひとつの人間らしさの基準であるように思えませんでしょうか?

 逆から言えば、無感動な生活にはどこか人間らしさが欠けているような、そんな感じがあります。

 

 たとえば感動しているときの「この瞬間が永遠に続いてくれればいいのに」という感じ。

 しかし、発想を変えて「永遠はじつはこの瞬間にあるんだ!」と気づいたりすると、そのこと自体が感動的だとわかったりするのです。

 

 今回ご紹介するのは、ひとの感じる永遠について描いた『ひゃくまんつぶの涙』というマンガです。

この記事で取りあげている本

和深ゆあな『ひゃくまんつぶの涙 上』,角川書店,2002


和深ゆあな『ひゃくまんつぶの涙 下』,角川書店,2002

 

この記事に書いてあること

  • 『ひゃくまんつぶの涙』に登場する「日記蒐集家」は人間の魂と存在を「日記」と呼び、それを食らうことで、永遠を生きる。
  • 人間は日記蒐集家の永遠を認められない。なぜなら、ひとつひとつの日記があるということが感動的なのに、彼らはそれを消滅させてしまうのだから。
  • 人間は感動できるという能力によって、たとえ夢から覚めたときのように夢の内容を忘れてしまうのだとしても、日記が永遠であるということに気づくことができる。
  • 人間も日記蒐集家も、〝いつ覚めるとも知れない夢〟であり、その夢はいつ覚めるのかわからないという点で、すべての夢(日記)は永遠の夢である。

日記蒐集家の見る夢と人間にとっての永遠:『ひゃくまんつぶの涙』

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『ひゃくまんつぶの涙』は〝ひとが夢のようである〟と語る

 ひとの一生は夢に例えられることがあります。蝶になった夢を見たのか、それとも蝶が自分を夢見ているのだろうかと考えた「胡蝶の夢」などが有名でしょう。夢はひとの理想のことでもあります。「理想と現実のギャップ」、「夢と現実」、「夢現」。いずれの言葉もひとの人生を語るものです。あるいは、仏教で「悟り」と言うときには諸行無常――この世のなかにあるものは絶えず移ろっているのだから確かなものなどありはしない、という気づきを得ることによって、現もまた夢なのだと〝悟る〟ことです。夢はひとの一生のようなのです。

 なぜ夢の話からはじめたのかというと、今回ご紹介する『ひゃくまんつぶの涙』という作品は〝ひとが夢のようである〟ということを語っているからです。

 さきほど仏教の悟りのことを引きあいに出しましたが、悟りはあくまでもやがては死にゆくひとたちの生きる世のなかに身を置きます。決して永遠の命を求めたりはせず、儚いままでこの世が夢であることに気づくのです。

 『ひゃくまんつぶの涙』では永遠の命を持つ「日記蒐集家」が登場します。日記とはひとの人生のことです。それを蒐集することで生きながらえる彼らは、さながらヴァンパイアのようです。ヴァンパイアは血を吸うだけですが、日記蒐集家は存在までも消してしまいます。

 永遠なんてものがあるにしても、はたして永遠の命を必要とするのでしょうか。人間は、たとえば仏教がそう考えるように、この世が夢であることの儚さのほうにこそ永遠を感じてしまうのではないかしら?――『ひゃくまんつぶの涙』に登場する日記蒐集家は、そんな疑問を思わせてくれるのです。

 『ひゃくまんつぶの涙』の日記蒐集家がどんな生き様を見せてくれるのでしょうか。

 以下に見ていくことにします。

『ひゃくまんつぶの涙』のあらすじ

 昨日までいたはずの友達が次々と消滅していることに気づいた裕(ひろむ)。
 その奇妙な状況に戸惑う裕の前に現れたナゾの男――バーミリオン。彼は裕に言いました。 「お前はグロリアス。人間の命を食らい、その存在さえも抹消してしまう日記蒐集家だ。」
 日記蒐集家は人間の魂と存在を食らうことで、永遠に生きる存在。
 裕はグロリアスに食われた人間の名前だったのです。
 裕として生きはじめていたグロリアスは意識を取り戻します。

 

 グロリアスも元々は人間でした。

 明治の頃か、大正か。弘和は大きな会社を経営する父を持つ御曹司だったのです。
 弘和は結婚相手も決められていて、他人を疑うことを覚え、たやすく心を許さないでいることが大切なのだとの教えを守るニヒルな青年でした。
 あるとき、ひとりの異国の女性――ヴァレリアナと出会い、次第にふたりは親しくなります。
 
しかし、父親も許嫁も、ふたりの仲を許しません。

 ある日、ヴァレリアナは惨殺されてしまいます。

 バーミリオンは絶望に暮れる弘和に近づき、ヴァレリアナとともに日記蒐集家にならないかと誘います。

 かくして、弘和はグロリアス・リリーとなったのでした。

 

 日記蒐集家として生まれ変わり永遠の愛を手に入れたグロリアスとヴァレリアナ。
 日記蒐集家は人間の魂と存在――つまり日記を食らわねばなりません。
 しかし初めて日記(たましい)を蒐集しようとしたヴァレリアナは、人間を庇ってしまいグロリアスの手にかかってしまいます。
 

 結果、心を凍らせてしまったヴァレリアナは人形のように動かなくなってしまったのでした。

『ひゃくまんつぶの涙』を考える(ネタバレあり)

〝人間らしさ〟を捨て切れないグロリアス

 ざっとあらすじを書きました。

 『ひゃくまんつぶの涙』の物語はグロリアスとヴァレリアナの関係がメインになっています。タイトルに引っ掛ければ、このふたりの涙の行方がメインテーマだと言えるでしょう。

 物語の背景は、ヴァレリアナが人形のように動かなくなってしまったので、グロリアスが彼女を目覚めさせるために日記(=魂・人生)を集めているのだとわかります。

 惨殺されてしまったヴァレリアナではありますが、彼女は心やさしい性格でした。他方でグロリアスは人間であったときには家のしがらみもあって自由を感じていませんでした。くわえてヴァレリアナが殺されてしまったことでプッツンしてしまい、人間をやめることを決意します。

 それ以降、バーミリオンとともにグロリアスとヴァレリアナは日記蒐集家として生きはじめ、戦間期の時代に、ひとりで日記蒐集ができずにいたヴァレリアナは、グロリアスによって蒐集されようとしていた人間をかばって植物状態になってしまうのでした。

 グロリアスとヴァレリアナはたしかに日記蒐集家になりました。しかし彼らは人間であることをやめられはしなかったのです。

 『ひゃくまんつぶの涙』の物語の冒頭、グロリアスは裕と入れ替わっていますが、それはグロリアスと裕の容姿が似ていること、そして、それにもかかわらず裕はあまりにお気楽に、つまりは〝人間らしく〟生きていたことへの嫉妬によるものでした。グロリアスは裕を見て「イライラする」と言います。その感情こそが自身の〝人間らしさ〟であることも知らないで。

 のちに、バーミリオンはグロリアスに言います。

「知ってたか? お前はお前の嫌ってる人間と… そう変わらないぜ?」

〝人間らしく〟感動してしまうヴァレリアナ

 他方で、ヴァレリアナが意識を回復するためには多くの日記(魂・人生)が必要でした。

 日記を食べるとき、日記蒐集家は吸収した日記を読み取ることになります。

 日記蒐集家にとってそうしたひとりひとりの日記はあくまでも食べ物なのであって、決して自身が感傷的になる審美的なものなどではありません。

 しかし植物状態だったヴァレリアナにとってグロリアスから与えられる日記は、食べ物である以上に読み物でした。そうしたひとつひとつの日記は、生前の、人間としてのヴァレリアナのやさしさを彼女自身に思い起こさせます。

 

 終盤、意識を取り戻したヴァレリアナは、ひとの人生であり魂である日記を食べることを拒否します。ヴァレリアナは日記のひとつひとつをキラキラしていると言い、ひとが生きるというのはこういうことなのだ、永遠というのはこういうことなのだと言うのです。

 

 日記蒐集家は日記、つまり人間の存在を食べることで永遠を生きています。死ぬことなく、その意味で永遠の生です。しかし ヴァレリアナにとっての永遠はそうではありません。彼女にとっての永遠はひとつひとつの日記(魂の存在)がこの世界に残っていることなのだというのです。日記はたとえそのひとが死んでも世界に留まり、生きているひとに読まれている。そうした世界のありようこそが永遠なのだというのです。それこそがひととして生きることなのだと。ところが日記蒐集家は世界に留まろうとする日記を食べてしまい、消滅させてしまいます。日記蒐集家としてはよくても、ひととしてはそれはダメなのです。

 いったい何がダメだというのでしょうか?

 グロリアスもヴァレリアナの考えに賛同することになりますが、ヴァレリアナが考えたことと日記蒐集家の生きかたとをわけるものがあるとすればなんなのでしょうか。裕もまたそうでしたが、『ひゃくまんつぶの涙』に登場する人間はグロリアス(弘和)を除いて日記蒐集家が人間の存在を消し去ってしまうことに反発します。
 日記蒐集家と人間とでわけられるとすれば、そこにはどんな基準があるのでしょう?

 おそらく、その基準は〝感動できるか、どうか〟にあります。

 〝心が動かされる〟と言ってもいいでしょうが、日記がたんなる食べ物以上の価値を持ってしまうことは、人間がひとのひとつひとつの人生に感動してしまうという事情によるのです。

「ひゃくまんつぶの涙」という価値あるもの

 以上を踏まえると、ひゃくまんつぶの涙」というタイトルは日記蒐集家になったふたりの人間が単なる食べ物だったはずのものに目撃した価値のことなのでしょう。なにせ涙は〝言葉にならないもの〟を表す最たるものです。ひとは言葉にならないものに打たれることで、涙を流します。『ひゃくまんつぶの涙』は、人間であった頃に亡くしてしまったものに日記蒐集家になってから改めて気づく物語である――そういうふうに言えると思います。

まとめ

 ひと言で言えば、「永遠の夢」。『ひゃくまんつぶの涙』はわたしに永遠とは何なのだろうということを思わせてくれました。けれども、それはいつ覚めるとも知れぬ夢でもある、というのがキモなのです。いつ覚めるとも知れぬ永遠の夢は、わたしたちのことです

 『ひゃくまんつぶの涙』では、ひとが死んでもなお世界に残るものを「日記」と呼びます。わたしたち人間の魂であり、人生であり、存在そのものとして、物に、大地に、空気に、そして世界に残るもの。日記蒐集家はそれに触れることができます。しかし人間ではない彼らはそれに感動することができません。人間だけが日記に感動できるのです。

 感動できるという人間の能力は偉大です。その能力を持つ人間にとって永遠の命はむしろ非人間的なのであって、人間的な永遠というものがあるとすれば、いつ覚めるとも知れぬ夢を通してはじめて感じることができるのではないでしょうか。

 たとえば、人間が日記蒐集家のように世界に浮かぶ日記に触れることができるのだとしたら、人間は永遠を感じて感動することができるかもしれません。しかし、ここにはひとつのパラドックスがあります。すなわち、世界に空気のように満ちる日記に人間的な意味で感動するためには、非人間的な永遠を生きる日記蒐集家の世界に足を踏み入れなければならないというパラドックスが。

 まるで夢のようです。夢は目覚めてしまえばあっという間に忘れられてしまいます。ちなみに、『ひゃくまんつぶの涙』では日記蒐集家もまた夢のような存在だと示唆されています。彼らは日記を食べることを拒否し、日記蒐集家としての存在を維持できなくなると、誰からも忘れられてしまう。けれどもそれは消滅なのではなくて、人間としての存在へと覚めていく。日記蒐集家の消滅は、そんな転生のようなかたちを取るのです。

 人間からも日記蒐集家からも忘れられているので、日記蒐集家としての消滅が人間への転生であることは『ひゃくまんつぶの涙』の読者しか知らないのです。しかも日記蒐集家が消滅させた日記は、日記蒐集家の転生とともに世界に戻るようだ、とさえ示唆されています。このことは日記蒐集家でさえも人間と同様に〝ひとつの夢〟なのだと暗示されているように読むことができるのです。

 いつ覚めるとも知れない。だからこそ夢は永遠になる。永遠の夢は人間のことでもあり、日記蒐集家のこともであり、そして読者のことでもある。

 『ひゃくまんつぶの涙』という仕掛けに、読者はどんな〝永遠〟を見るのか――それは読者の感動次第でしょう。

_了

参考資料

和深ゆあな『ひゃくまんつぶの涙 上』,角川書店,2002


和深ゆあな『ひゃくまんつぶの涙 下』,角川書店,2002

 

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