【銀色夏生】微笑みながら消えていくものを求めて|+中島みゆき

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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。 。山笑いだす深緑の候も過ぎ越しつつも、風雨と湿気に気の滅入る日々が続いています。暑いなら涼感のある本が読みたい! そんな次第で、今回は詩人・銀色夏生の『微笑みながら消えていく』を取りあげて、タイトルにもなっている「微笑みながら消えていくもの」に風を感じてみる記事になっています。

この記事で取りあげている本
 

【銀色夏生】微笑みながら消えていくものを求めて|+中島みゆき

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『微笑みながら消えていく』のあとがき

同人誌のようだ。写真とポエム、情景と叙情。帯には「写真詩集」とある。「風景のようにきれいで静かな本」を作りたかった作者は、これの制作を「自由帳」に喩えている。あるいはパッチワークと言ってもいい。写真が貼られ、言葉が張られ。そうして寄せ集められたものにはそこはかとない詩情がうかがえる。

言葉は、心を心へ伝えるもの」で、「心は、矛盾していたり混沌としていたりあやふやだったり」する。と、あとがきには。取り留めなく、取り留めないままに、自己を表現するのが心で、その手立てが言葉なのである

この本のあとがきはとてもいい。そのまま引き写してしまいたくなる。ひとつの心が言葉に打たれて詩人になる。その、「詩人になってしまったこと」の覚悟が綴られているのだ。みずからが力づけられている“あれらのもの”。不可解なその “あれら” を画きたい、という心が表明されていて。とてもいい。

 

中島みゆき/命の別名

以上の詩人・銀色夏生の告白したところでは、それ自体は言葉にまとまってはくれない心というものを他所の心へうつし伝えるのが言葉である、という。ここでは銀色夏生のアイデアを発着点とし、歌人・中島みゆきのある楽曲──「命の別名」に向けて文を発送し、出発させる。

覚えられない言葉と命につく名前

中島みゆきは歌手で、卓越した才能を誇る大人物なのだが、ここでは「命の別名」の楽曲を書いたという情報を押さえればいい。事の肝心は歌詞にある。下に、すべてではなく全体の本質部と目される箇所を抜き出しておく。

知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある

[……]

命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

※中島みゆき「命の別名」(『わたしの子供になりなさい』収録)

さしあたっては、中島みゆきの書き歌った〈最後まで覚えられない言葉がある〉と〈命に付く名前が「心」である〉という二点が、ここではおもしろい。銀色夏生は言葉を心から心への渡し舟のようにとらえつつ、同時に心を言葉にはまとまりきらないでいるものして画いていた。二人とも、言葉以前にあるものに言葉を与えようとしている。そこに据えるのが「心」なのだ。

言葉の形にまとまってくれないものに言葉を与えることは矛盾だ。言葉はすべてを言語化することで有意にする。それ以外のものがあることを言葉で語ろうとするのはナンセンスである。しかし、言葉以前あるいは言葉にならないものを表現することの意味は払底してしまうことはない。むしろ「心の豊かさ」などというポジティブな価値を与えられてさえいる。そのような〈言葉にはまとまらないもの〉を表すときには、一種の表徴として言葉が使用されている。たとえば「心」の語で言葉以前にあるものを表そうとすれば、正確には「心というもの」とするのが相応しい。

 

言葉を覚えて心はふくらむ

興味深いことに、「〜というもの」の表記自体はWEBライティング業界では好まれない。慎重に避けられていると言っていい。WEB記事においてはわかりやすさが重視されるからだ。わかりやすさの内訳には見やすさ・読みやすさ・理解しやすさが含まれている。網羅的であっても窮屈であってはならず、抽象的であっても曖昧であってはならず、論理的であっても難解であってはならず。つまり、書かれたのであれば伝わりえなければならない。理解こそが共感であり、共感こそが行動に繋がるという発想なのだ。──とはいえ、たやすく理解できない語りえぬものがあることも確かだ。

語りえぬものの代表格は「命」である。生命の価値だけは否定することはできない。生命は単に授かるものでしかなく、「授け-授けられる」ことの営みとは別次元にある。そのために生命についての語りは超越者としての「神」を語るにも類いし、しばしば宗教的な調子を帯びることになる。人はそれを語らざるを得ない。

授かりものとしての生命を身に宿してしまった生命体は(人の施した序列に下等であるほどに)生きること自体に夢中になる。人間には言葉があるので、そうした授かりものにも名前を付ける。中島みゆきが描いた〈命に付く名前が「心」である〉には、命あるものに当てて言葉を用いる人間の姿があり、そうして命を名付けた心が言葉にはまとまらない “ふくらみ” を持つことを示唆する(あるいは「言葉を用いる人間の姿」なしに命に名前がつく情景を読むこともできる)。ふくらみとは「最後まで覚えられない言葉」だ。「命」とそれに名付いた「心」の名状とが、たかだか覚えられる程度のふくらみなのではない。だからこそ、語りえぬものである「命」は尊く、命を言い表した「心」もまた、その価値が語りえぬものに値するのである。

「記性」とも表されるように、記憶はさながら白紙に文字を記しでもするように物事を銘記し、覚える。知らない言葉を覚えていくなかで、人は成長し、大人に近づいていく。人は言葉を使用する文法的で言語的な「認知的存在」でもあるが、同様に感情的で衝動的な「情動的存在」でもある。前者が意識的で、後者を無意識として位置付けるのであれば、「無意識は言語のように構造化されている」(ラカン)とも言われるように、衝動や感情が起こる心の領分でさえ言語的でないということはない。言語と感情は「言葉を覚える」ことのうちに相関している

 

微笑みながら消えていくもの

銀色夏生のほうに戻る。まず、上では断片的な紹介しか書いていなかった『微笑みながら消えていく』のあとがきを以下にまとめる。それを参照しながら、中島みゆきのアイデアへと発送し、出発していた文を受取り、到着させることにしよう。

    • 言葉は、それぞれが矛盾していたり混沌としていたりあやふやだったりする心を、他の心へ伝えるものである。
    • 心をこめて詩を書ける理由の一つは、読んだ人達が感動してくれるからで、その感動への感謝があるからである。
    • 心をこめて詩を書けるもう一つの理由は時間や場所や状況や理由といったものから自由な気持ちを画きたいからである。
    • 私たちは私たちが力づけられるに価する何かよくわからない大きなものに力づけられていて、詩を書くことはその力の表現なのである。

詩人は言葉と向きあう。詩人である銀色夏生の仕事は「私たちが力づけられている何かよくわからない大きなもの」を言葉を通して表現することに関わっている。それらに触れられることもまた〈言葉〉と言えるなら、中島みゆきが「覚えられない言葉」と表したところにも納得がいく。それらの言葉は覚えきることができない。しかし同時に(私たちを力づけるものによって)覚えさせられてしまってもいる。

詩作には想起の気配が付きまとう。ある表現が「しっくりくる」とき、作者はなぜその表現がしっくりくるとわかるのか。銀色夏生が「ずっと小さい頃からの遠い気持ち」と書きとめているように、それはすでに告げ知らされているからだ。知識を記憶しているのとは違い、詩人が表現しようとする記憶は覚えているということができずに、ただ思い出すことしかできない記憶でいる。ゆえに、詩人は詩想に憑かれたときには想起の態勢をとることになるのだ。

中島みゆきの「命の別名」の歌詞からは、「覚えられない言葉」に隠された意味の厳選は〈命〉だ。命が名付くと〈心〉になる。そして銀色夏生が『微笑みながら消えていく』で語るところでは〈心〉はそれ自体では矛盾し混沌としていてまとまりがない。しかし〈言葉〉を媒介にすると他なる心へと〈想い〉を開通させることができる。不如意に伝わってしまう想いは「力づける力」と同類だ。命が名付き心となる際に心を息吹かせる言葉は、想いの、風のような行き来に似て、人を力づけながらも、微笑みながら消えていく風景が自然と浮かびくる。──この、微笑みながら消えていくものにどうしようもなく惹かれてしまうのが詩人なのである。

 

まとめ

銀色夏生の『微笑みながら消えていく』。「写真詩集」と謳われているこの本には、詩人の紡いだ言葉と撮影した写真とが寄せ集められています。この記事では特にあとがきに注目して、銀色夏生が本書に込めた心を読みました。また、補助線としてシンガーソングライター・中島みゆきの「命の別名」の歌詞を参照したのです。まず命があり、命につく名前が心であり、心は矛盾や混沌に満ちていて、心どうしを結ぶ通路となるのが言葉であり、そこを往き来するのが想いである。──この風であるにも似た想いこそが「微笑みながら消えていくもの」で、それがこの本の涼感なのです。

_了

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